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現代芸術の一分野で、模写主義とでも言うのでしょうか?どういう呼び名や分類意識があるのかわかりませんが、なにか日常的なそれ自体は無価値なものを精密に模写するという例があります。有名なところではお札などですが、ある日付の新聞全面を何年もかかって模写しつくすとか。これって、その「印刷物」が背後に持っている価値というものを唯物的に暴いてみせるということじゃないでしょうか?つまり、唯物的には無価値だよと。紙幣が価値を放つのは、あくまで人間意識の想像性によるのだと。
また、こういう作品も見ました。「この文字」という「文字」作品なのですが、表象と被表象?が同じという構図です。もっとさかのぼれば「インク」という方がより正確なのでしょうが、一応意味レヴェルでとどめておけば「文字」という文字あるいは「言葉」とか「声」という人間の発生した音波など。
これらの回帰的表現というものは、なにか特別な意味内容を持っているのだと思っています。これらにもっと注目が集まらないのは変だという気がするのです。なぜ、表象物そのものが持つ物質性を省みることがあまりに少ないのでしょうか?もし、それらが人々の意識に一般的になれば、いたずらに虚飾や流行虚栄に走るのではなく、もっと本質を意識できる機会も多く、反省のやつつしみが多い社会になれるような気がします。

A 回答 (9件)

 私としては常に思うこととは違うことをご論説されているようであり、なお且つ、私の常のことば観念とは異なる遣い方(例えば「唯物的」ということば)と、凝縮した表現からの、難しい内容と文章の理解のために一応、これは誤植かなと、《人間の発生(は、発声)した音波など》確認します。

そして《の(は削除)》や《つつしみ(は、慎み)》。と確認させていただきます。
 理解できないことに容喙することはあまりに無謀ではありますが、敢て所感の述べて、苛められることを危惧しております。
 
 私としては被表象なる対象体(客体存在)を通常の、wakefull意識においてまで眼前においていられる人が、そういう意識存在は稀なことだなと、通常は存じております。
 つまり人は表象と模写の意識でしか、意識(客体を持つ意識)してきていない。意識としては。太古創造の原点というものがあって、原初の意識はどうであったか。それはやはり模写と表象で始まってはいまいか。
 「回帰的表現」ということばは自己矛盾を内包していまいか。
 人間の論理や感性での、その他の用具での表現いうのはみな「回帰的」であろうとして、決して「回帰」にはなりえない。そして「表現」とは常に原初への「回帰」を志向していて、初めて成立している。
 のではないかな、と愚考するものであります。
 人間の文明を創ってきたと錯覚しているこの「表象と模写」の主役の
《人間の論理、知性、そして感性など、その他の用具》というものの、自己の分際と能力、実際の力と、その依拠について、或る者がが主となっていない、そして自覚できないでいることが、人間の歴史と文明を混迷させているのではないだろうか。
 
 私達んは今、被表象が見えない状況になっているのかな、と感じます。そして、「表象と模写」の世界だけで、考え、感じ、関係し、対応し、生活し、生まれ、育ち、死んで行く。自己も他人も。そして他人のそれに立ち会って。
 《被表象》はどこにいったのか。どこで対面できるのか。
 どうか、ご質問者様、そしてご訪問の皆様のお教えを乞うしだいでもあります。
 
 
 

 
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この回答へのお礼

悪文誤植なんでもありで、すみませんでした。
それにもかかわらず、おこたえありがとうございます。

たいへん根本的な事を改めて気づかせていただいた気がします。物々交換でさえ、表象作用というか一種の比喩であって、直接ではないんでしょうね。それが回答者様の言う、原初ということに近いとしても、同一ではない。結局「直接」交信なんてはじめからないのかもしれません。しかし、たとえば有価証券などというものの「印刷物」に含まれている背後の意識と、印刷物「そのもの」との間にある断絶か共同作業かというものに意識を集中することは決して無駄ではないのではないかと。なぜ3つの子供なら「なんでこの紙切れがお金になるの?」とか「お金ってなんで物が買えるの?」とかいう意識を振り返れること。それが大事なのではないかと。

お礼日時:2008/01/27 23:07

 ANo.4ですが、様々なご回答を読むだけでたいへんですね。


 三つの子どもと紙、そして紙幣。
 創造がされて、まぁ普通は宇宙が始まって。同時に認識や表象があったのか、コインの裏表が創造と表象であろうか。
 表象の世界でしかない、領域には被表象は浸透していても、存在はしていやしない。創造というのが表象という作用(作業)ではないですか。唯一の意識の表象がこの宇宙の始まりと、宇宙でしょう。
 その表象の中の客体的そんざいとしての、主格意識が各々表彰をまた、為している。そしてまたそれをいろんな形で外に表している。
 そういうものを全部取っ払わないと、被表象は存在していない。
 客体のない、意識だけの意識に一致することがそれでしょう。
 介在のメディア(媒体)は存在してはならない。
 私が勉強しているのは烏賊のURLです。

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/
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この回答へのお礼

表彰しか存在していないという気がしますね。
債務とか債権その他の幻想的なもの。
しかし、それにすがるしか人生なくなっているのでしょうかね。

お礼日時:2008/02/02 18:08

ANo.1です。



ここはフォーラムの場ではありません。

またあなたが云われるような『「あ、幻想があっちこっちにある」という意識で日常を送ってもいいのではないかと』という意識は誰もが少なからず抱いていることです。

地球上の一人一人が、俗に云う「only oneであると同時にone of them」という意識を持って、ご自身並びにあなたの接する人々の潜在意識への変革と蓄積への貢献をされる事を期待します。
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ANo.1です。



それで一体あなたの質問は何なのでしょうか?

刹那的な思考を循環(ループ)しているだけのようですが。いかがですか?

とにかく我々人類は前に進む以外にないのです。
あなたが云われる「それらが人々の意識に一般的になれば」ということが本当に実現できた時でも、前向きにそれに向っていくのです。

過去の著名な或いは名も無い先人達の中でも、それに気が付いていながら何もして来なかった。
これからも、批判を論じることは出来ても具体的な方途(術)を示せない。否、三歳児でも解るような実践偉業の偉大さの前に屈してしまう。

これでは、語る資格も無いから思考を循環してしまうのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

「価値」というものの幻想性に気づかないで生きている人々、社会の動きが恐ろしいからです。それほど、たとえば「紙幣」に代表される価値観の幻想性に無頓着であっていいんだろうかと?もちろん、無頓着だからこそ社会がまわって人々が暮らすに足る世界が出来上がるということもあるでしょうが、やはり、万物の霊長はその根本を省みることをしてみてもいいんじゃないかと、芸術として一握りの人間が問題提議するような状況でなく、「あ、幻想があっちこっちにある」という意識で日常を送ってもいいのではないかと、そんな気がするだけです。

お礼日時:2008/01/27 23:13

「モノ(物質)」はあくまでも「モノ(物質)」であり、それ単独では意味を成さず、人の「意識」に入り込んで初めて「価値」を持つ、というこうとではないでしょうか?



例えば、例に挙がってるお札。
これなんかは、良い例だとおもいます。
公的機関が発行した正式な「お札」は、「お金」として「価値」を持ちます。
しかし、芸術家が模写した「お札」は、どんなに精密でも所詮「紙に描いた絵」以上の価値はありません。(もちろん、芸術作品として「価格」が付くこともありますが)
つまり、物質的にはまったく同じであっても、人間の意識下では雲泥の差があると言うことでしょう。

しょせん、この世の全ては「主観的」でしかないのでは?と思っています。
(そもそも、「価値・無価値」を判断する「価値判断」自体が人間の主観的)
もちろん、「主観」の連続体としての「客観」は存在するかもしれませんが。
まぁ、一種の「観念論」的立場ですが。
(そういえば、「唯物論」と「観念論」は対立する概念でしたね)

まぁ、一口に芸術家と言っても色んなタイプの人が居るわけで、、、。
中には、問題意識を持って警告的意味を込めて創作する人から、自分の内面に沈殿して自分の欲望のままに表現する人まで様々でしょう。

参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

人間の意識というのは、どうやって社会性(幻想性を媒介にしている)をもつことができるのか、逆に幻想を基礎として意識が出来上がっているのか、いろいろわかりません。

芸術にはいろいろこだわりがあっていろいろ方法論があると思いますが、なにか「芸術の芸術」的な分野が「お札模写」とか「この文字」という文字系の表現にあるのではないかと感じるしだいです。「お札」は芸術論を超えた人間意識論といってもいいかもしれません。

こういうことはいろいろあって、「インク」というものがわからないでものを書いている、消化ということを知らないでものを食べている、生殖ということを知らないで性行為をする、その流れを芸術でも継承していいのかという疑問です。芸術だけでなく、一般人の日常性においてもです。

お礼日時:2008/01/27 23:18

NO3llamaですが、どうしても絵を描く側の意見として


作家が魅力的だと思う造形を無視できないという観念を
作家は特に有しているという観点を捨てさることが出来ません。
それは、あなたが現代美術作品にはすべて意味があるのではないか?
という偏執狂的ともいえるこだわりに似ています。
作家は、自分の作品で社会を変革できるとかそういうこ大それた
ことを常に思い描いて作品を生み出しているわけではなく、もっと
不真面目でいて真面目でいい加減で厳密な世界だというのが
私の接した美術でした。その自由な世界に私は常に憧れていたのです。
お腹が空いたからご飯を食べたいと思うように、芸術的人間は
何かを表現したいと強く思ったから、自分のその欲求を満たすため
制作している方が多いといえるのではないかと思います。
たまたまその作家がこれだ!選んだ表現がそれだったという
ので私は十分納得できる理由なのです。いろいろ難しい解釈を
あれこれしないでもね。

作家が「わたしがグッとくる表現は○○だったそれ以外に特に
意味はない。」と受け止めることはできませんか?

出来ないのだったらあなたは私から見ると不幸です。
知識というフィルターを通してからではないと作品が見られない
のではないかと思ってしまうからです。
こう考えてはいかがでしょう。作品を通してあなたが感じたことは、
書籍で批評家が残した言葉や美術館のキャプションには書かれて
いないことですが、あなたにしてみれば大事な大事な言葉だとは思い
ませんか?
だから作家が残した言葉はあくまでも作品そのものなのです。
私たちに100%理解できるかも知れないし、出来ないかもしれない。
作品を通して私たちと違う言語で話しかけているようなものでも
しかしそれでも良いではないかと。

作品制作は全くもって無意味な行為なのですが、無意味だからこそ
意味を求め納得したい心を強く刺激しているのかもしれませんよ。
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この回答へのお礼

わかります。
芸術表現は精神の開放作業であるべきだと思います。私のこだわりとして、もちろんほかの種類の索引群も興味ありますが、この種の「表現って何?」というような自己反省?的作品には、やはり「芸術の芸術」的なひとつ超えたものがあるのではないかと思ってしまうのです。それだけに、それらの作品の前では何10分も動けなくなってしまうのです。

もちろん個人の趣向に過ぎないわけですが。
芸術や社会の意味を問うことを必ずしも第一位と置かない考えも十分ありえると思います。

お礼日時:2008/01/27 23:10

この模様が綺麗だなと思って写した場合もありますし、記号は意味の


伝達と装飾の二面性があるため意味ばかりが先行した解釈は作品を
誤解する可能性を含みます。
一度真剣に絵を描いてみてはどうでしょうか?意味だけではなく
その先のことを意識する機会になると思うのですが?
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この回答へのお礼

芸術と記号性はたしかに一般的には同化できないものです。それを無理にやったのが現代芸術のこの系譜です。が、問題提議的だという点で避けて通るべきではないと感じます。
実践は大事でしょうね。そうしないと空論的になる可能性がありますから。ただ、どうも違和感を覚えるのは、芸術好きな人も、あまりこの「根本的意味論」というものを追及しようとしていないという点があります。

お礼日時:2008/01/27 11:50

すぐれた描画技術以外に、これらが描画されたことから有益なメッセージを汲み取れば、お金とは機能であり、その価値は額面にあるのではなく機能性にあると観る事、新聞の価値は日々のニュースや記事よりも、公的に発言する自由があるという有効な事実を見ること、の二点を私は見ました。


これらの二点は、軋轢をなくして、穏やかで、活力のある生活を取り戻すのに役立つと思います。
人は、関係に縛られるものではなく、関係を建設する資質を持っているものだからです。(関係の規模は問いません)
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この回答へのお礼

おっしゃることに同意いたします。
あくまでも、物々交換とか瓦版じゃやっていられません。
しかし、現代はあまりにも人間の欲望が肥大化してしまい、物質情報の洪水が発生してしまっている。それは安全に豊かに生きるために必要悪であるかもしれないが、人々の意識さえも混濁してしまっているのではと。
回答者さんのように前向きな感覚をお持ちになれるのは、そういう現代にあってオアシスのようなものです。
が、もし、印刷物の「無意味」さみたいなものを一般的にできれば、さらに温泉がそこらじゅうに湧かないだろうかと。

お礼日時:2008/01/27 11:47

あなたが云われるとおり、印刷することも模写なのです。


価値や情報の表現をユニークに伝える手段ですね。

本質を見極める事が重要だと解っていても、その術を知らないというのが実情でしょうか。

とはいえ、概念だけでは何ものへも影響を与えないですし、また媒体表現された文字や音声・映像でそれを伝えることが難しい事は良くお解りだと思います。

人間として如何に動き、語り、人々に感動を与える人生を由としたいものです。
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この回答へのお礼

術というものはいりません。ただ沈思黙考できればなにかがわかってきます。そんな難しいことじゃないし、逆に3つの子供の方がよく理解できることだと思います。要は、なにか世間の動きに完全に同化してしまって本質をあまりに意識しなくなってしまったことをほうっておいてもいいのかな?という感じです。
媒体の限界よりも、人々の姿勢ですね。以下に動き語り人々に感動を与えるかという課題にも不可欠なのではと考えています。

お礼日時:2008/01/27 11:44

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