戦国時代、使者の武士が先方の殿様(XXさん)に会ったときの挨拶の文言の一部分ですが、次の三つのうちで良いと思われるのはどれでヘンなのはどれでしょうか。
 また、もっといい言い方があれば教えてください。

1.「XX様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」

2.「XX様のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じまする」

3.「XX様の拝顔の栄に浴し恐悦至極に存じまする」

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A 回答 (3件)

こんにちは。



むむぅ・・これまた随分と難しい問題ですね。
やはり時代劇などで耳慣れているものが自然に響きますが、実際のところはさてどのようなものであったのやら。
時代劇を作る際には脚本家や時代考証の方々が頭を捻って色々と考えているのでしょうし、可能な限りは残されているものに準じるように努めているのでしょうから結局は耳慣れた感じのものが妥当ということにもなりそうです。
しかし以前質問者さんも仰っていたように「話し言葉」の史料などというものはまあ限られているでしょうし、時代考証を長くやられている方のご苦労が綴られたものを読んだことがありますが、「ドラマ」ということが前提としてある以上通らない意見が沢山あって悩みの種でもあるそうです。
それに一口に「戦国時代の殿様への使者」と申しましても様々なシチュエーションがあるでしょうし、特に戦国時代の殿様は由緒ある家柄から成り上がりものまで多種ある訳ですから色々と事情も違ってきたのではないでしょうか。
無論例え成り上がりもの相手だったとしてもあからさまに変えるようなこともないかもしれませんが、使者やそれを遣わす側にしてみましたらやはり長く守護を務めてきたような家柄のところへ赴く場合などは、それなりにきちんとしないといけないような気持ちが働いていたのではないかなどとも想像致します。
結局答えのようなものは導き出せませんが、「戦国の大名クラスへの使者」ということで個人的には3は少々硬過ぎる(?)ように思えなくもありません。
締まらない意見ですみません。

先日はちょうど同じようなタイミングでということになったようで、思わず「おっと」とパソコンの前で言ってしまいました(笑)
質問者さんのご意見が「なるほど」と納得のいくものでしたのにそのことに触れるのを忘れていたことに気が付き、もう一度と思いましたが締め切りに間に合いませんでした。
最近はまたそんなことも多く、以前の「自称○○」に関するご質問にも及ばずながら参加しようと試みたものの見事間に合いませんでした(私があれをお見かけしたのがタイミング的にかなり遅かったというだけなのですが・・(笑))。
それはともかく先日の件での貴重なお話色々と勉強になりました。
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この回答へのお礼

こんばんは。どうもどうも。
 1.は文法上ヘンなような気がするんですが、学がないもので質問させてもらいました。2.は決まりきったやつです。「拝顔」を使うなら3.かとおもったんですがね。
自称○○関連です(笑)、識者さんに聞いてからと思って質問させてもらいました。
 墓の件、夢中になって回答してしまいました。質問者さんが早くクローズしたのでビックリしました。もうちょっとモミモミしたかったんですが。みんな一時金で個人墓を立てたのは知っていましたが、そこから先は自信なしです。
 加勢していただけそうなところ早じまいしてすみません。
 サムライの話し言葉は本当にどうだったのか調べるのは難しいですね。
 歌舞伎や浄瑠璃などの台本は昔の話言葉で出ているんでしょうが、長年変化がなく独特の節が付いてしまって、江戸時代の一般人の話し言葉とは大分ちがうんじゃないかなと思います。
 ただ、最近の若い時代劇作家のセリフには違和感を感じます。

お礼日時:2008/01/28 19:50

#2です。



>識者さんに聞いてからと思って質問させてもらいました。
左様でしたか・・それなのに思い切り「一般人」がしゃしゃり出てすみません。
どうも前回の件で少々不完全燃焼だったことが尾を引いていた為に、「つい」という不純な動機だったかもしれません(笑)
1は確かに私も少しばかり引っ掛からなくも無かったのですが、質問者さんほどのお方に下手にご指摘申し上げて結局はこちらが赤っ恥ということは避けたかったもので・・(苦笑)
「3は・・」と申し上げたのも「江戸時代」ではなく「戦国時代」ということでしたので、そのようなイメージを持ったに過ぎません。
そんなこんなで本当にお邪魔致しました。
それにしてもご実家にあのかたちのものがあるというのは羨ましいお話です。
まだ身体がそれなりに丈夫であった時分に随分とその手のものを探し歩いたこともあるのですが、地域差というものがあるものなのかあまり良い例を見つけられなかった思い出があります。
もしそれ以前に質問者さんのご意見を伺っていて、兵隊さんとの関連性を考慮することが出来ていたなら成果は違っていたかもしれませんね。
少々残念な気も致しますが、また調べる機会も訪れるかもしれませんのでその時は是非参考にさせて頂きたいと思います。
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この回答へのお礼

>それにしてもご実家にあのかたちのものがあるというのは羨ましいお話です。
・・・誤解、誤解。私の実家の菩提寺の墓地の、実家の墓のそばの、他人の墓地の先祖代々墓にくっついて、とんがった兵隊さんの墓がある・・・ということです。
 大体、墓石というのは高いモンで、とくに昔の方が高かったように思います。外国産の石がない、手彫り・・・ということで。
 だから、もらった弔慰金を投入して立てたんだということを聞いています。
 また年甲斐もなくバトルしてます。
 昔の会話文の史料がない・・・だから難しいですね。
 

お礼日時:2008/01/29 20:03

2がもっとも一般的ではないでしょうか。


グーグルで検索すると2はいっぱいヒットしました。
1はゼロで、3はひとつだけでした。
ただ3の場合は、拝顔に「ご」がついていました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そういう調べ方があるんですね。参考になりました。

お礼日時:2008/01/28 19:51

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Q戦国時代の挨拶の口上

質問させてください。

戦国時代、武将が他の武将に挨拶に訪れた際に口上があると思うのですが(例えば誰かの使いであるなど)、それの例をあげておられるようなサイトはないでしょうか。探したのですがさっぱりみつかりませんでした…
もしないようなら、そういうシーンのある小説などをご教授願えればと思います。

Aベストアンサー

新田次郎の「武田信玄」とか、津本陽の「下天は夢」などにはふんだんにそうした場面が出てきますが。いずれにせよ、戦国時代の「会話」が記録されている信頼できる史料というのは存在しない筈ですので、作家が想像したものになります。

昨年のNHK大河ドラマ「風林火山」で、武田晴信の家老の甘利虎泰が村上義清と秘密裏に会うシーンがありました。私が見て、妥当な時代考証と思われましたので記しておきます。(多少アレンジしました)

村上「村上周防守である」
甘利「それがし、武田大膳大夫が家来、甘利備前守でござる。村上様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」

ポイントは

1. 「村上義清」「武田晴信」「甘利虎泰」などという「本名」は使わず、「官途名」を名乗ります。

2.村上義清の官途名「周防守」は朝廷・幕府から許可を得た正式のものか分りませんが、武田晴信は朝廷と幕府に献金して「大膳大夫」の官途名を正式に得ています。

3. 甘利虎泰は、武田家の重臣として、主君の武田信虎(晴信の父)から「備前守」という官途名を名乗ることを許されていましたので、武田家の中でも、対外的にも、「甘利備前守」と名乗り、呼ばれます。

戦国時代の武士の場合、例えば「馬場美濃守」という「苗字と官途名(通称)」だけが伝わり、本名は不明、あるいは複数伝わっている例が珍しくありません。

武田信玄・勝頼に仕えて「名臣」とうたわれ、長篠の合戦で壮絶な討ち死にを遂げた馬場美濃守は、本名は「信春」「信房」の二つが伝わっています。当時の史料には「馬場美濃守」としか書いてありませんので、本名はどっちが正しいのか良く分からないのです。

これを
「村上義清さまにお目にかかり恐悦至極でございます。それがし、武田晴信の家臣、甘利虎泰にござる」
などとやってしまいますと、一気にウソ臭い会話になってしまいますので気をつけてください。

映画やドラマなどでは、上記の「ウソ臭いパターン」の会話が行われて興醒めなことが多いのですが、去年の大河ドラマ「風林火山」ではきちんと時代考証されていました。

新田次郎の「武田信玄」とか、津本陽の「下天は夢」などにはふんだんにそうした場面が出てきますが。いずれにせよ、戦国時代の「会話」が記録されている信頼できる史料というのは存在しない筈ですので、作家が想像したものになります。

昨年のNHK大河ドラマ「風林火山」で、武田晴信の家老の甘利虎泰が村上義清と秘密裏に会うシーンがありました。私が見て、妥当な時代考証と思われましたので記しておきます。(多少アレンジしました)

村上「村上周防守である」
甘利「それがし、武田大膳大夫が家来、甘...続きを読む

Q戦国武将が戦いの前にする「名乗り?」文句について

時代劇などで「やあやあ我こそは~」という名乗りのような文句をいう場面がありますが、あれをなんと言うのか、どのような内容のことをいうのか知りたいのです。詳しい方よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「名乗り」でよいと思います。
楠木正成や足利尊氏の活躍した、太平記の時代までは行われ、自分の姓名や家系などを大音声で敵味方に知らしめてから戦に入ります。
名乗りを上げている間は矢を打ってはいけないしきたりでしたが、元寇はそんなことは知りませんから、名乗りの間に日本の武士はばたばたと討ち取られ、戦国時代に集団戦に移行すると廃れてしまいました。

Q上様、殿様、お屋形(?)さま

戦国時代を中心とした時代(あるいはその前後)、領主である人や
大名である人を呼ぶ時の呼称が色々あるように思います。

実際はどうだったのかは知りませんが、大河ドラマなど、織田信長は
相手によって「殿」とか「上様」など時期にもよりますが、色々な呼ばれ方をしています。

こういう呼称について、深い意味分けはあるのでしょうか?
お詳しい方がいらっしゃいましたら、どうか教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

お屋形さま
室町時代幕府に貢献あった守護大名に「屋形号」を与えました。  管領の細川氏などです。  お相伴衆と呼ばれ名誉職でした。  白傘袋(宮中に参内の時使用)などがNo.2さんの通り許されました。  本来は一代限りでしたが、実際は相続されました。
応仁の乱以降戦国時代になると、お相伴衆はふえました。  朝倉、今川、大友、武田、北条、毛利氏などありました。  謙信も生まれの長尾家は守護代でしたが、将軍より守護を許されました。  50金を献上すれば屋形号を許されたと言われています。  
信長の織田氏は尾張の守護代のはしくれでしたので、お屋形さまとは呼ばれませんでした。  信長は尾張を掌握しても、権威など無視して申請もしません。  天下人になり、上様と呼ばれるのを望んだわけです。
殿様
武士の世界では大名のような、領地の支配者が殿様でした。  しかし尊称、敬称は時代が進むにつれ、同様価値が下がります。  小領主でも殿様になり、江戸時代徳川の家来では、旗本以上が殿様と呼ばれ、御家人以下はそう呼べないしきたりでした。  旗本と御家人の境はそう明確ではないが、稲垣史生氏によると禄200石以上が旗本の目安であるという。  このほか知行取り(一応領地持ち)か、蔵米取り(米で給与を貰う)で分けるとか、お目見え以上、以下で分けるとかあるが、奉行所の与力(200石)は殿様と呼ばれるので、この辺が妥当でしょう。
上様は普通は天下を掌握した人の称号です。  織田信長は完全ではありませんが、中央で天下に号令する前ですから天下人でしょう。  

お屋形さま
室町時代幕府に貢献あった守護大名に「屋形号」を与えました。  管領の細川氏などです。  お相伴衆と呼ばれ名誉職でした。  白傘袋(宮中に参内の時使用)などがNo.2さんの通り許されました。  本来は一代限りでしたが、実際は相続されました。
応仁の乱以降戦国時代になると、お相伴衆はふえました。  朝倉、今川、大友、武田、北条、毛利氏などありました。  謙信も生まれの長尾家は守護代でしたが、将軍より守護を許されました。  50金を献上すれば屋形号を許されたと言われて...続きを読む

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q織田「上総介」信長について

「上総介」は正式に得たものですか、それとも自称ですか。
また、いつ頃から使い出したのでしょうか。
また、上野や常陸ではなく上総としたのには理由があるのでしょうか。

どの点でも結構ですからご存知のところを教えてください。

Aベストアンサー

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する)、根拠は不明です。弾正忠、備後守までの中継ぎということ、本家筋の織田家(守護代)は大和守、伊勢守を通称していること、などから、(1)受領系統の名前が穏当(当時の風潮としても受領名のほうが人気が高かった)、(2)備後、大和、伊勢クラスの国とつりあいをとった(上総、大和、伊勢は上国で守が従五位上、介が正六位下――ただし信長は最初知らずに守を名乗っていたので宗家並みのつもりだったのかもしれない――、備後は大国で守が従五位上)、などの理由によるものではないでしょうか。ちなみに上野、常陸も上国です。

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する...続きを読む

Q武士の言葉遣い

時代劇を見ていると、ある程度身分ある武士はいわゆる武家言葉でしゃべっています。
一方、奉行所の同心や下級の御家人、浪人者などは町民と同じ江戸っ子口調が多いです。
時代劇の考証が正しいのかがまず疑問ですが、実際の江戸時代でも階級によって武士の言葉遣いは違ったのでしょうか?
その場合どのくらいの身分で分かれていたのでしょうか?
時代劇の金さんや鬼平みたいに、身分が高くても個人的好みで江戸っ子口調の人もいたんでしょうか?

Aベストアンサー

西郷さんは自分のことを「オイは~」と言いますね。これは薩摩方言です。
また真偽は別にして龍馬が切られたとき暗殺者は「こなくそ」と伊予方言で叫んだと言われます。
つまり、武士というのは普段の生活では武家言葉を話さないんです。

武家言葉で話すのは武士同士があらたまって話す場合です。武家言葉というのは半ば人工的な言語で
日本中から集まった武士がお互いに意思疎通するためのものです。

と云う訳で江戸住まいの侍は普段は江戸の言葉を使いました。国元の侍は普段お国ことばで
話しました。ですから同じ藩の藩士でも言葉遣いや訛りが違うこともあったようです。

江戸住まいの侍が江戸言葉でしゃべったと言っても「べらんめえ」とは限りません。
高級武家は比較的、山の手風の上品な言葉遣いをしていたようです。
その言葉が基本になって後の標準語が作られています。

なお同心というのは本来足軽です。本当の意味の武士ではありません。ですから町人がお金を積んで
自分の息子を同心の養子にして同心の跡継ぎにすえるといったことも普通にあったようです。
仕事上普段から町人と接触していましたし、町人出身の場合もありましたから下町言葉を使っても
おかしくはありません。

それと、当時遊ぶと言えば吉原ですが、ああいった場所では武家言葉を使うとモテないのだそうです。
江戸の男たちは女にモテることばかり考えていましたから、くだけた武家でしたら
普段から町人言葉を話しているほうが自然のように思います。

西郷さんは自分のことを「オイは~」と言いますね。これは薩摩方言です。
また真偽は別にして龍馬が切られたとき暗殺者は「こなくそ」と伊予方言で叫んだと言われます。
つまり、武士というのは普段の生活では武家言葉を話さないんです。

武家言葉で話すのは武士同士があらたまって話す場合です。武家言葉というのは半ば人工的な言語で
日本中から集まった武士がお互いに意思疎通するためのものです。

と云う訳で江戸住まいの侍は普段は江戸の言葉を使いました。国元の侍は普段お国ことばで
話しました。ですか...続きを読む

Q拘らず・関わらず??

すみません。以前から気になっていたので正しい答えを教えていただけないでしょうか。

「かかわらず」という言葉の漢字変換なのですが,
例えば

 雨が降ったにも「かかわらず」,彼は傘を差さずにやってきた。

というような文の場合,正しいのは「関わらず」「拘らず」どちらでしょうか。

国語辞典で調べてみたのですが,よく分からなくて(+_+)
すみませんがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。それも「かかわる」でなく「かかる」です。「人命に係(かか)る問題」「係(かか)り結び」など。前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合(常用漢字の基準では)「係わる」でなく「かかわる」です。

結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。

漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的(「関わらない」「係わらない」)にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。

ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。念のため。

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい...続きを読む

Q電話をかける、の「かける」の漢字は?

なんとなく気になったことなのですが、
会社の報告書で、「電話をかける」の「かける」を「掛ける」と表記したところ、
「架ける」が正しいとの指摘を受けました。
人に電話をかけることを「架電(かでん)」というそうなのですが、
辞書でもそのような言葉がなかったので、どうなのか気になりました。
「架ける」で正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

手持ちの辞書によると
「掛ける」には、「機械などにその作用を行なわせる」という意味があるようです。
「架ける」は、「高い所にかけ渡す」ということらしいです。

高い所に張ってある電線を通して声を相手の所までかけ渡す、というイメージを優先すると「架ける」。
電話という機械を使用する、というイメージですと「掛ける」ということになるのかもしれません。
結局どちらでもいいのではないかと思います。
個人的には「架ける」の方が夢がありそうに思えますが、感覚的にはちょっと古い感じもします。

将来的に電線が地下に埋まったりすれば、電話会社も今使っているらしい「架ける」ではなくて「掛ける」の方を採用するかもしれませんね。

Qご尊顔を拝しまして

「ご尊顔を拝しまして」と言う敬語があると聞きましたが、どんな意味でしょうか?
使い方としては、たとえばどのような時に使うのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

言葉のまんまですよ。
「尊い人の顔を見ることができて」という意味で、位の低い人が上の人(例えば王様のような格差、あるいはそれくらい尊敬してるような人)に対して、面会できた喜びを表す言葉です。
「ご尊顔を拝しまして恐悦至極に存じます」なんて感じです。

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。


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