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私は最近科学と非科学についての違いがわからなくて困っています。
そもそも科学というのはどういう事を言うのでしょうか?科学技術が進歩していることでしょうか?
先日土着の民族の事を読んだのですが、そこには土着の民族というのは非科学である。なぜなら、非科学というのは本や参考書があるわけではなく、見て経験をして学ぶものだと書かれていました。
非科学というのは、いわゆるこういう事を言うのでしょうか??

私の説明はおそらく皆さんに伝わらないと思いますが、もし理解できなければこれを無視して、皆様の意見を聞かせてください。

宜しくお願いします。

A 回答 (8件)

piyoco123さんの回答は、イギリス系思想家の考え方を、非常に分かりやすく的確に表現したものです。

すばらしすぎる。ただの「一般人」とは思えませんね。

さて、カール・ポパー(piyoco123さんご指摘のような議論の代表者)から、ぼろくそに言われまくれ、全体主義者とまで勘違いされているドイツ系弁証法家としても、これは何か発言しないわけにはいかないでしょう。

ドイツ系思想家の特徴として、体系的整合性を重視する傾向があります。体系的な方法論で作り出された学問だけが学問的、もしくは、科学的(wissenschaftlich)だという風に考える傾向が主流にあり(ヘーゲル、マルクスなど)、イギリス人の経験論のように、物事をいくつもの構成要素に分解したり、それぞれの事象がカバーするポイントを列挙したりする思考様式は、学問的なものではないとして、嫌われます。そういう物事の捉え方だと、複雑なシステムの有機的運動は説明できなくなる、というのが弁証法家の発想なのです。(本来、アナログに出来ているものを、無理やりデジタルに理解するようなものですからね)なお、先ほどから体系的という言葉を使っていますが、体系とは原語ではズィステーム、つまり、英語のシステムです。

また、ドイツ系哲学では、他人の書いた著作を読んで、その本の著者の思考の流れを追体験することをも経験と呼びます。ただし、ヘーゲルの場合は厳密に、現実社会で生きているなかでの体験と、他人の著作を読んで思考過程を追体験する経験を、ErfahrungとEmpirieという別の単語で使い分けます。他人の思考の追体験と同様に重視されるのは、一人の心の中で二つの意見が動いている場合で、これは他人と議論をしているのと同等だと考えます。真理とは一般に、概念と現実が一致している状態とされ、概念はひとつの哲学体系の中で自らの位置を占め、学問全体の一部であるとされます。非科学的なものとは一般に、物事のあるべき自然の姿(=現実)が概念に一致していないことを意味します。ここには、自然法思想の最後の残滓があるのです。(うーむ、いかにもアドルノ的な文章だ)

この傾向はマルクスにおいても同じなのですが、弁証法家の中には、他人の思考を追体験するという要素を引き継いで、それを実存主義的にまとめあげたキルケゴールのような人もいます。この人が他の実存主義者とまったく異なる点は、まさにこの、他人の思考の追体験という要素です。「君は、今、幸せ者かもしれない。でも、どんな幸せ者でも、不幸者に転落してしまう可能性があるんだ。それを、いまから僕がみせてあげよう」という感じの人です。この人の指摘がずばり当てはまってしまうような思考様式の人は、まさに概念と現実が一致している不幸者への転落者なのです。

さらには、キルケゴール研究からスタートしたアドルノにいたると、体系的であることは逆に批判の対象となり、それでも他人の思考の追体験という原理は変わらず、彼の文章を読むときは、イギリス式のように、物事を要素に分解したり、物事の要素を列挙したりする思考様式は完全に捨て去る必要があることには変わりません。ヘーゲルの場合は、過去の哲学史や当時の自然科学の全てを飲み込むような巨大体系を作ろうとした傾向が強かったのに対し、自然科学の発達や大学での学問の細分化に伴い、ヘーゲル的な巨大体系は、時代にフィットしなくなっていきます。それでも、アドルノの文章は、結構ワンパターンで、完成された巨大体系こそ作らないものの、せつな的な体系化の要素が概念の絡み合いの中で生まれて消える姿を見ることができます。こういう説明をすると、なんのことかさっぱり分からないと言われそうだし、弁証法は難しいとか詭弁だとかいう人もいるのですが、慣れてしまえばなんでもなく、ダンスを踊っている程度のものです。

文字や本を持たない土着民族についてですが、レベルは低くとも学問への入り口に立っていたり、学問的な要素を多少は持っているというのが、弁証法的な考え方です。たとえば、どんなに文明のレベルが低くても、人間であれば、火を使うことはするでしょう。そうすると、「火」は「暖かさ」と結びつけられる現象であり、火をおこすには、ほかの「可燃物」から火を移すとか、「火打ち石」を使うとかする必要がある、くらいのことは知っているでしょう。すると、ここにはすでに学問の芽があり、火と暖かさと可燃物と火打ち石の関係が理解されており、これをいつでも必要に応じて実行に移せる人間においては、概念と事実が一致しているので、そこには何がしかの真理があります。これは決っして非科学的な現象ではありません。

また、弁証法家は、宗教や美術もまた科学の一形態であって、内容的には哲学と同じものであり、表現形式が違うに過ぎないと考える傾向があるため、過去の時代的制約による過ちを含んだものであっても、それがきっかけとなって人間が何かを考えさせられるのであれば、それもまた、学問の一部である、と考えます。

一般的な哲学史を言えば、マルクスが共産主義理論を作った際に、ヘーゲル研究からスタートしたため、イギリス人から見ると、ヘーゲルはマルクスの先行者にして全体主義者に見えるのです。しかし、これは正しいヘーゲル理解とは言いがたく、ヘーゲルとマルクスの間には、越えられない断絶があります。一番大きな違いは、ヘーゲルが伝統的な自然法思想を完成させ、人間本性と自然は同じものであるとする思想の最後を飾っているのに対し、マルクスの世代になると自然法のような虚構性の高い思想は忘れられ、社会哲学の分野も実証主義的傾向が強くなっていることだと思います。ヘーゲルが生き返ってマルクスの本を読んだら仰天し、「ギリシャのイデア論から現代に至るまでの最も重要な哲学・法学原理である自然法を理解していないとは、到底、法学部卒業とは思えない」と言うことでしょう。
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広義の意味で「科学」とは,


「事象と理解との間に一対一の対応付けを行うこと」
です.
これにより,「人文科学」と言う意味が成立するようになります.

これを普遍的な一対一対応にするには,検証などの手段が必要で,
そうすることにより科学は「自己修正機能」を獲得します.

即ち,「科学」(正しくは「科学的手法」)とは,思考法のひとつです.
それを自然界の現象に当てはめたものが「自然科学」であり,
それを記述する体系として「物理学」が,そしてたまたまそれを記述する手段として「数学」が使われています.

土着民族の例ですと,
「何かの加工などの結果,得られる成果」について一対一の対応付けを行ったのではなく,
「これはこうするものだと教えられる」からであると思われます.
しかしもしかしたら,その記事は,「科学」に基いて得られた「技術」を利用していないから,
「非科学」だと称しているだけかも知れません.
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NO3の回答の補足にお答えいたします。



>私の質問の際に書いた非科学(民族の事)はまったく違うということでしょうか?
いいえ、当たらずとも遠からずだと思います。


>土着の民族というのは非科学である。なぜなら、非科学というのは本や参考書があるわけではなく、見て経験をして学ぶものだ…

あえて、あらを捜せば、科学にだって、見て、経験をして学ぶという要素はいくらでもあると思います。経験という言葉は、漠然としすぎて、どうとでも解釈できますし。それに、本や参考書がなければそれが非科学かというと、そうでもないです。逆に、禅とか、宮本武蔵の武術とか、参考書はたしかにあるけど、ではそれらが科学かというと、とてもそういうわけにはいかないですし。

まあでも、ここで「見て経験をして学ぶ」というのは、職人の徒弟が、親方について、近くで見て、理屈ぬきで「こうやるものか」というのを学ぶようなイメージがあるのでしょう。職人の技の継承が、「親方について、その技を、呼吸とともに習得するのでなければ身につけることはできない」という前近代の考え方は、これは科学ではないです。しかし、「親方のわざは、基本的には参考書を作って、ビデオで撮影したものを勉強すれば、独学も可能だ」と考えれば、これは科学的です。実際は、ある技術の継承は、その何割かは科学で、何割かは非科学的だというふうに、両者が混じっているでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とても容易には答えがでない議題だと思います。まだまだ、人の意見を取り入れて自分は科学とはこう思うというものがあまりないので、さらなる勉強を通して日々考えていかなければいけないと感じました。
とにかく、回答者さんの回答はとてもためになりました。有難うございました。

お礼日時:2008/02/03 23:30

簡単に言うと、一つ目は誰でも再現できること。


沸騰したお湯の温度は誰が測っても100度です。
しかし、ペットボトルの水に「ありがとう」と書いて貼っても、
おいしいと感じる人とそうでない人がいます。
前者は科学、後者は非科学です。
土着の民族の経験則も手順を踏んでいないので非科学です。

二つ目に、反証の可能性があること。
例えば、「沸騰した水はいかなる時も100度である」という説を発表したとして、
「気圧によっては室温でも沸騰するよ」という反証が出た場合に「沸騰水は100度」説は捨てられます。
だから、「沸騰水100度」説は正しくないのですが科学です。
一方、「人間は神が造った」という説は証明しようが無いので科学ではありません。

もう一点、「ニセ科学」というものがあります。
「マイナスイオン」「波動水」「テレビのダイエット法」等は一番たちが悪くて、
科学の専門用語と作為的なインチキ実験で嘘を信じ込ませようとするものです。

最後に、別に「科学」と「非科学」に善悪はありません。
悪いのは「ニセ科学」と、「科学」「非科学」お互いが境界を越えることです。
例えば、ガリレオが地動説を唱えたために宗教家に迫害されたり、
もしくは、宗教を「非科学的」とののしったりすることはあってはならないことです。
また、最近のテレビなどの無責任なインチキ情報の垂れ流しはニセ科学の流布に当たるので、
やってはいけないことです。
それらを区別する目を養うのは現代人にとって必須の事柄です。
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アトランティスや古代文明に興味があるものです。

竹内均さん(故人)創刊の雑誌ニュートンを読んでみてはいかがでしょうか?
聖書にでてくるモーゼの十戒。海が割れて、対岸まで歩いて渡ったお話。実は、古代の大地震のとき、津波がおきたら、映画のシーンのようなことが起こりうる、ということを、竹内均さんが本に書いていました。

参考URL:http://www.newtonpress.co.jp/
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ある命題があったとします。

それが科学的か否かは、その命題の是非を、1)自由に議論できる環境があり、2)理路整然と検証できること。3)その検証の過程は、筋道だっていて、誰でも、その筋道を追うことによって理解ができること。
これだけの条件があれば、その命題は、その範囲内で科学的だと言えると思います。
たとえば、「神は存在する」という命題が、「存在しないという奴らは魔女狩りにして燃やす」とか、「私がトランス状態にあった時にたしかに神をみた」というのは、それぞれ1)と2)3)の条件を満たしていないので、科学的とは言えません。
「火星人は存在するか」という命題が、「私が夜道を歩いていた時、彼らに連れ去られた。本当です」というのは、3)の条件を満たしていないので、科学的ではないです。しかし、「宇宙探査機が火星に行った結果、そういう生命体を発見した」というのであれば、2)3)を満たし、科学的です。

他の例として、ユークリッド幾何学があります。ユークリッドの公理の中に、(煩雑さを避けるため簡単な言い方をしますが、)「2つの直線が平行でなかったら、必ずどこか1点で交わる。平行だったら交わらない」という公理があります。それは長い間、誰が見ても自明なことで、十分に科学的な前提だとされていました。でも、19世紀にある数学者が、「これは証明も何もされていない。この公理は必ずしも正しくない」と言いました。これをきっかけに「非ユークリッド数学」というものができましたが、それを、数千年の間、なんの検証もされずにずっと「自明なことだ」と思われてきたのは、実は非科学的な態度だったといえます。数学ほど論理だけで検証が可能という意味で科学性の高いものは滅多になくても、こういう非科学性が混じっていることがあると言えましょう。
だから、「科学」と名前がつけば、その分野が100%科学というのでもないです。
概して、「自然科学>社会科学>人文科学」という順番で、科学性が高いと言えましょう。社会科学の中では、「経済学>法律学>社会学>政治学>心理学」という順番になると思います。つまり、科学性が低い分野というのは、どうしても、「万人に検証が十分に可能」と言えないものを前提にしなければやっていけない、というところがあります。たとえば、「景気には波がある」(経済学)とか、「人間の行動原理の底には性欲がある」(心理学・フロイト)とか、そういうのは、人々の直感に訴えた説得力をたよりにしている部分が多いので。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
回答者さんの科学か否かということをお答えして頂きましたが、例えば日常的に科学と非科学を例に例えるとしたら、何だと思いますか

考えているのですが、見つかりません。

また、私の質問の際に書いた非科学(民族の事)はまったく違うということでしょうか?
宜しくお願いします。

補足日時:2008/01/31 09:16
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科学と非科学の違いの大きな要素の一つに


反証可能性があるか、ないかの違いがあります。
科学の理論は、その理論と矛盾する現象、観察結果や実験結果が生じた場合、
破棄なり訂正される(反証可能である)理論体系である、ということが必要条件になっています。
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科学というのは、経験における発見、経験による検証という要素を含みますから、


非科学に関する、その定義は、おかしいですね。
経験に論理性と体系を足せば、立派な科学です。
文字を書く能力があれば、もはや科学になりそうだと思いますが。
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