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「尊氏東上の報に接し、天皇の比叡山行幸の策を進言して採用せられなかった時の楠公の心情……」

これは昭和16年8月28日、日本側で野村大使らと共に「日米諒解案」を纏め上げ日米国交修復を目指した陸軍省軍事課長・岩畔大佐が万策尽きて南部仏印へ転出する際の心境を綴ったものの引用ですが、楠公こと楠木正成(↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8% …
が後醍醐天皇を行幸しようとした先は比叡山ではなく吉野山だと78歳の父が言い張るのです。上記Wikipediaのページにはそれに関する記述は全くありませんでした。

どなたか歴史に詳しい方、教えて下さい。できれば前後の事情なども併せて解説して頂けますと、78歳の父も納得すると思われます。どうぞよろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html
太平記では 正成兵庫に下向の事
で、坊門が反対しているようです。

新田を切って、尊氏を受け入れよ
この献策の話は、梅松論
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/baishouron.html
『梅松論』44
- 楠木正成のこと -
での話でした。

比叡山行幸
太平記の世界では、「楠公が献策したが、建前を重視する 公家のために入れられず、だが、結局 比叡山に行幸した」という、一種 楠公バンザイ物語になっています。

一度破れた勢力が西方から戻ってきて、現在の神戸のあたりまで復帰してきた・・・・と、当時の人間が思うことはこれはもう 平家物語。
じゃぁ 西方から戻ってきた連中(平家であり、尊氏)は、正当な権力(源氏であり、新田であり、朝廷側)が勝つのが当たり前。
ならば、楠公が献策したというのは、歴史的には、楠公バンザイのためのフィクションのような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。詳しく調べて頂きましたことと、大変分かりやすいご解説を行って頂きましたことに対しまして、厚くお礼申し上げます。

些少ですがポイントを贈呈させて頂きますので、ご査収下さいます様お願い申し上げます。

また何かございましたら、その節はどうぞよろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2008/02/09 22:06

http://www.iwakuro.com/chapter_4/chapter_4-5.html
ここが出典でしょうか?

確かに 他で見ても、献策は比叡山ですね。
新田切りの足利との講和は、記憶違いかな?

比叡山行幸に関しては、

京を捨ててることは、名分を捨てることだ
と、後醍醐に一喝されたと記憶しております。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。

>ここが出典でしょうか?

さすが、ご炯眼ですね。まさしくその通りです。

>確かに 他で見ても、献策は比叡山ですね。

>比叡山行幸に関しては、
>京を捨ててることは、名分を捨てることだ
>と、後醍醐に一喝されたと記憶しております。

そうなのですか。ではやはり楠木正成は後醍醐天皇に対して比叡山行幸を進言していたのですね。それはどういったシチュエーションでの進言なのかまで教えて頂けますと幸甚です。

お礼日時:2008/02/08 22:45

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D% …

楠公が献策したのは、比叡山行幸ではなく、新田を切って、足利に付けというものです。

尊氏、九州より東上
楠公の献策
湊川で楠公討ち死に
尊氏、京都占領、後醍醐と新田義貞比叡山へ
新田義貞を北陸へ、後醍醐京都へ
後醍醐、隙を見て吉野へ・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>楠公が献策したのは、比叡山行幸ではなく、新田を切って、足利に付けというものです。

確かにおっしゃる通りのことはWikipediaの楠木正成のページに記載がありました。また、ご紹介頂いた後醍醐天皇のページにも、
「足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが」とあり、これはどう読んでも「天皇の比叡山行幸の策を進言して採用せられなかった」という事実とは異なるような気が致します。

岩畔大佐の勘違いでしょうか?

お礼日時:2008/02/08 22:40

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