俗曲の一つに「かんちろりん」があり、手元の二番の歌詞は次の通りです。

下にいろ下にいろと あの行列はサ
大阪でサ カンチロリン
大阪でサ 難波でサ
木村長門守の 上使上使

「木村長門守の 上使上使」は何を意味していますか。「行列」という語から判断して木村長門守自身が使者なのだと考えます。その場合、誰の何の用件で何処へ出向く途中だと想定されますか。恐らく何かしら虚実入り混じった有名な話が伝わっているのだと思います。
よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

他の歌詞を見ないと断言できませんが、木村長門守重成が慶長19年大坂冬の陣の和平交渉に、徳川家康の陣所に上使ととして赴く行列を言うものと思います。


この交渉で誓書の家康の血判が薄くて分からぬと、再度目の前で家康に血判を押させたとの話があり、その勇気をたたえられています。
ただ残念ながら、上使も血判も伝説で事実ではありません。
和平の上使は京極高次の母常光院、二位の局等で長門守ではありません。
夏の陣で長門守が壮烈な戦死を遂げた事から、このような伝説が生まれたと言われています。
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この回答へのお礼

お蔭様で、よく分かりました。一種の判官贔屓なのですね。
個人としての印象ですが、この何十年かの極端な経済至上主義以前の日本人は敗者への眼差しが温かかったように思います。
常光院、二位の局は記憶しておきます。

有り難うございました。このお答で十分ですが、寄稿の準備をされている方があっては、いけないので午前中は締め切らないでおきます。またの機会にもよろしくお願いします。
なお、手元の歌詞の一番は大久保彦左衛門の名があるものの、特に故事に触れているとは思えませんでした。

お礼日時:2008/02/17 07:41

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Q中国四〇〇〇年の虚実

岡田英弘先生の本を読んだのですが、中国大陸では歴史上何度も大きな人口の変動があり、古代の中華民族と現代の中国人は別物であると言う大変興味深い話だったのですが、岡田先生の学説は歴史学会では殆ど賛同者もおらず、少数意見のひとつらしいとWikiにも説明されておりました。
私的には内容は結構納得し得るように思うのですが、何故学会からは受け入れられないのでしょうか?四〇〇〇年の虚実は具体性があると思うのですが。

Aベストアンサー

根拠がない部分が多いんですね。

たとえば、人口の変動が多々あったとありますが、これも現在ではDNAの分析からそのようなことは否定されています。
それにただでさえ、日本が目の敵にしてるような国ですから、けなすわけではありませんが、岡田先生のような中国批判の学説も多々あることは確かです。
ですが、この学説の多くは根も葉もないものが多く、中には、単なる民族批判で日本を持ち上げてるとしかとらえれないようなものもあります。

こういった方々の意見の中には本当のこともあるんでしょうけど、今日の世界情勢を見てもわかるとおり、中国と日本の関係は決して良好とは言えず、自分の反中感情から中国の粗さがししてるを研究者もいるくらいです。

こういったことで真実が埋もれてしまうのは大変残念なことです。
歴史学会はこういった感情で歴史を判断してはいけないということになってるんで、こういった発表が冷たくあしらわれてることもあります。
単なる反中感情からこういった論文を支持するのは、ただのアホですが、ただ純粋に歴史を研究してる人からしたら良い迷惑以外の何物でもないのが現実ですね。

根拠がない部分が多いんですね。

たとえば、人口の変動が多々あったとありますが、これも現在ではDNAの分析からそのようなことは否定されています。
それにただでさえ、日本が目の敵にしてるような国ですから、けなすわけではありませんが、岡田先生のような中国批判の学説も多々あることは確かです。
ですが、この学説の多くは根も葉もないものが多く、中には、単なる民族批判で日本を持ち上げてるとしかとらえれないようなものもあります。

こういった方々の意見の中には本当のこともあるんでしょうけど、今日...続きを読む

Q明智惟任日向守光秀などの「○○守」の命名者など

明智惟任日向守光秀、羽柴筑前守秀吉など「○○守」という名前(正確には、官職の名称でしょうか)がありますが、戦国時代においては、この名前は誰が命名したのでしょうか。

また、ドラマなどを見る限りでは例えば筑前守秀吉が筑前を統治したことなど一度もないように見えますが、「○○守」という名前を名乗っていることと実際にその「○○」の国を統治したかどうかあるいはその「○○」の国から金や物を納めさせたかどうかとは、戦国時代には、何の関係もないのでしょうか。

Aベストアンサー

前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ官位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。


しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国時代にはただの箔となっています。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代以降ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。
しかし、それは大名クラスの話で、守職でも結構な人数が僭称しています(北条家臣団なんかは守職が山ほどいます。でも大名以外は任官していません。僭称です)。

織田信長を例に挙げますが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです。

・・・以下は取ってつけたようなものなので、かぶるところがありますがご了承を。

さて、誰がつけていたかというのをまとめると
1.勝手に名乗る
2.先祖が勝手に名乗ったものをそのまま使う
3.朝廷からもらう

もちろん本来的には3が正しいものです(正式任官となります)。
しかし、戦国時代以降3はほとんどなく、その多くは1,2、つまり僭称です。
なお、明智光秀の日向守については正式任官、羽柴の筑前守についても正式任官となります。
しかし、これは1575年の話で、それ以前になのっていたものは僭称となります(滝川一益は左近将監をなのっていたがおそらく僭称)。織田家については、京に上洛するなど、政治の中心地にいたから正式任官がいるわけでして、非常に「例外的」です。織田家については3でして、信長が朝廷に依頼して、家臣に官職を与えてもらったのです。

なお、僭称は江戸時代になると余計にひどくなり、守が人気のある国は5人くらいいるなどざらでした。

ただし、No1の方がいっているように「知行地と関係のない官位を名乗るのを禁止した」というわけでもなく、理由なんてほとんどなしに官職の名乗りは通されていました(実際にはその土地にかかわりがあるからという理由が必要だったのですが、そんなものはほとんど嘘を書いても通ったようです)。
例外的に「大名藩が丸ごと治めていて、かつその大名藩が名乗っている官職(前田の加賀守など)」については、禁止していました(それと同姓同守もまずいので差し止められました)。
また、これを行っているのは幕府です。本来的には守は朝廷が任官させるのですが、この時代は幕府が、名乗らせるかどうかを決めています。


統治したとか関係あるかというのは、戦国時代においてもほとんど関係ないです。えらそうに聞こえるから適当になのっていたようなものでして、あくまで「箔」なのです(そのため戦国時代以降において、名乗る=任官ではありません)。

まえに出ていた質問ですが、江戸時代の官職についてはこちらで詳しく述べられています。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2222395

参考URL:http://www.ymg.urban.ne.jp/home/kenf/zassou/zassou-nobunagakansyoku.htm

前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついで...続きを読む

Q羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味

歴史の中で出てくる名前に「〇〇守」などといったものを目にするのですが、この役職は誰から与えられたもので、その根拠は何なのでしょうか。また、その役職を与えられた者にとっての職務とは何なのでしょうか。

Aベストアンサー

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。

それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。

平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。

しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。

国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。

臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。

上総守は信長の自称ですが、最後には、正二位右大臣になりますが、これは、天下人となった信長が、朝廷から引き出した正式の官職です。信長はまた、自分の部下の武将にも、朝廷に意向を伝えて、様様な官職に任官させます。例えば、羽柴秀吉は、従五位の筑前守です。羽柴筑前守は、これは朝廷の与えた正式な官職です。

秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。

戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。

家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。

「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。

これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。

江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。
 

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期...続きを読む

Q守名乗り(○○守)について

平戸藩主(松浦家)は代々「肥前守」を名乗っていますが、国持ち大名でない大名でも、領地の存する国の守を名乗ることはできたのでしょうか?

Aベストアンサー

幕府との関係や由緒などによっては可能でした。

Q柳沢出羽守と松平出羽守の両立は武家名乗り?本物は?

勉強になっております。語句など知識に間違いがあれば遠慮なくそれもご指摘下さい。最適な用語を学びたいと思っています。

1.出羽守の官職を持つ、公家がいたのでしょうか。

2.出羽守に限らず、○○守、○○介など武家と官名が重複する官職を持つ公家がいたのいたのでしょうか。

3.江戸時代の武家官位は員外官とありますが、同時に、それは官職ではなく、官名だけだとあります。そういう名前だけものを員外官というのでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D

禁中並武家諸法度で決められてからの名乗りに代わる言葉、「武家官位」などという後世の歴史用語でない、他の言葉がありませんか。法度では何かしらの言葉で表現されているはずですが、武家の官名なのでしょうか。「名乗り」は公式用語ではないように思うのですか。
ちなみに名乗りとは位階も含まれるのですよね。すると、

4.言葉遣いに苦慮される人は多いと思うのですが、
官名と言えば「○○守」などを指す言葉として歴史話が通じるのでしょうか。律令制の地方官の官名に限った用語はないのでしょうか。

5.武士の間では、官名を、どのように呼んでいたのでしょうか。会話としては「そちの名乗りはなんじゃ」と言っていたのでしょうか。幕政上の公式では「そちの官職はなんじゃ」でしょうか。
幕府と朝廷では公式には何という言葉で事務処理されていたのでしょうか。


6.柳沢出羽守も、松平出羽守も、勅許を得ているはずですから、

(先のリンクより)
「そのまま官途名として認められた位記・口宣案」については、いくらでも発給できたということになりますよね。朝廷側の名簿はなんというのですか。やはり武家専用の別の名簿ですか。やりたい放題の名簿。


8.しかしながら、将軍の官位、例えば、正二位、内大臣、右近衛大将、征夷大将軍は、官名だけでは、ありませんよね。しかし松平出羽守は武家官位で名前だけ。朝廷的に、本物と偽物が混在しているということになりませんか。大名は本物で、幕臣陪臣は「武家官位」。ひょっとして、幕末の小栗上野介はもちろん名前だけの武家官位だが、高家旗本の吉良上野介は、朝廷からもらった本物だったから、高家と言えるのであって、実力のある官位だったとか?



9.素人ながら「武家の官位」の上下には敬意を感じぜずにおられなかったのですが、それが「武家官位」であれば、朝廷的には、本来の物とは別の名ばかりの代物だったわけですか。その権威が武士社会では有効だったということでしょうか。
柳沢出羽守と松平出羽守の重複問題は、官職の重複自体には、何の問題もなかったということですよね。幕政上、区別できなくなるというだけのことですよね。
公家の方にも出羽守がいるとすれば、公家では○○守の官名の重複は許されませんよね。律令国に一人ですからね。


部分的で結構ですので宜しくお願いします。

勉強になっております。語句など知識に間違いがあれば遠慮なくそれもご指摘下さい。最適な用語を学びたいと思っています。

1.出羽守の官職を持つ、公家がいたのでしょうか。

2.出羽守に限らず、○○守、○○介など武家と官名が重複する官職を持つ公家がいたのいたのでしょうか。

3.江戸時代の武家官位は員外官とありますが、同時に、それは官職ではなく、官名だけだとあります。そういう名前だけものを員外官というのでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D

禁中...続きを読む

Aベストアンサー

こちらの質問の回答では隠居では官位は返上するそうです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1099827.html

隠居は家督を譲る事ですので官位は返上したと考えるべきだと思います、
家康の源氏長者を譲らなかったのは源氏長者は官位ではありませんし、
無官の大御所では大御所の命と将軍命の2通りの指示を家臣にした際
将軍がワシが将軍だと反抗した時の為に源氏長者は残したのだと思います。
将軍でも源氏で源氏長者は私だから源氏長者として命令すると。

徳川光圀は隠居の翌日、新たに官職を貰っています。
極めて珍しいケースだと思います。
尾張光友、紀州頼宣、紀州光貞は死去より前に隠居していますが
隠居後に官職は貰っていません。
光圀の位階が継続していたかはわかりません。
理由は
隠居後の中納言は水戸家の家格合わせで綱吉の働きかけがあったか
勤皇の光圀なので朝廷の発案と言ったところでしょうか?


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