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ラッパ節は日露戦争の戦勝気分に溢れた明治38年以降、大流行したそうです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hokugen/DODOno/rappa … 
これによると結構、辛辣な歌詞が並んでいて、こんな唄を歌える時代があったのは意外です。よく当局が黙認していましたね。こういう自由な空気は何時頃まで続きましたか。転換点となった事件や法律を挙げることができますか。戦前には陰鬱な暗い印象しかありません。

もう一つ質問です。「今なる時計は八時半」とありますが、この刻限には、どんな意味がありましたか。下級兵士の門限にでもなっていましたか。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

大東亜戦争(昭和16年より以前)に突入するまでは自由でしたよ



討匪行…ゲリラ討伐の旅という意味だが、内容はどう解釈しても逃避行
戦友…一緒に戦った戦友が死んだことに泣く物語。叙事詩・村長の一部

これ以外にも別れのブルースは兵隊の間で大流行してます。何れも戦争に突入後に規制対象になりましたが、兵隊が全員で歌ってしまいますので逮捕は不能でした。
 淡路のりこさんが死ぬまで何度も語られたのは慰問で特攻隊基地に行った時、歌謡ショー中に出撃命令が下ってしまいまして、特攻隊員の要望で『別れのブルース』を歌ったそうです。彼らは生の歌が聴けて喜んで出て行ったそうです。今生の別れ最後の女性の声が人気歌手の当局規制曲。彼女が晩年までこの曲を歌い続けたのはこの死んで行った特攻隊員の御霊に奉げるためだったそうです。

ラッパ節、「嫌じゃありませんか軍隊は」、「可愛いスーちゃん」などは小唄という兵隊が自分の心情を歌ったものです。

「今なる時計は八時半」は9時の門限を指します。
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この回答へのお礼

>>大東亜戦争(昭和16年より以前)に突入するまでは自由
まぁまぁ余裕がある間は、さして干渉がましいことをいわれなかったということでしょうか。弾圧によって空気を締め上げたのは無謀な戦であることを理性としては弁えていた証拠みたいに思えます。

政治史や外交史も然る事ながら、正しい歴史を知るには庶民史というのも疎かにはできないものだと思いました。
「八時半」の件は9時の予鈴だと分かりました。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/02/17 09:10

>ラッパ節は~結構、辛辣な歌詞が並んでいて、こんな唄を歌える時代があったのは意外です。



 確かに明治期は、自由というか大らかな時代だったようで、たとえば明治10年(1877年)、西南戦争当時に流行った「いっちく、たっちく」の歌詞は「♪いっちくたっちく、竹橋の赤いシャッポの兵隊さん、なに食うお芋食う、サツマ芋食ってプッププー」というものでした。その他時代不詳ですが「♪いやじゃありませんか軍隊は‥」(軍隊小唄)、「♪御国のためとは言いながら人の嫌がる軍隊へ‥」(初年兵哀歌)、「一つとせ人のいやがる軍隊へ志願で出てくる馬鹿もある‥」(数え唄)などなどありますし、明治期の有名な軍歌「雪の進軍」(永井建子)の歌詞「♪命捧げて出てきた身ゆえ死ぬる覚悟で突喊すれど武運つたなく討死せねば義理に絡めた恤兵真綿そろりそろりと頸締めかかるどうせ生かして還さぬつもり」などもかなり辛らつではないでしょうか。

>こういう自由な空気は何時頃まで続きましたか。転換点となった事件や法律を挙げることができますか。

 昭和11年の二・二六事件、つづく国民精神総動員と布石になる事件や風潮が育まれ、そうして転換点は、やはり昭和13年(1938年)の国家総動員法公布ではないか、とおもいます。つまり支那事変で南京攻略を果たした後も国民政府を屈服させられなかった、という事実が統制時代を招いたということです。

 軍歌の観点から申しますと、少なくとも満洲事変当時はまだ、それほど窮屈な感じがありません。たとえば「守れ満蒙の生命線」の「♪第一線に花と咲くヤング日本の男児あり」という歌詞なんか大正モダンの名残が、また「討匪行」には「♪いななく声も絶え果てて倒れし馬のたてがみを形見と今は別れ来ぬ」とか「敵にはあれど遺骸に花を手向けて懇ろに興安嶺よいざさらば」など、歌詞にヒューマニズムが感じられます。

 ただし、太平洋戦争当時でさえ巷では「♪見よ東條のはげ頭‥」(「愛国行進曲」の替え歌)とか、「♪金鵄上がって十五銭~ああ一億は皆困る」(「紀元二千六○○年」の替え歌)と密かに唄っていたそうです。

>「今なる時計は八時半」とありますが、この刻限には、どんな意味がありましたか。

 休日における歩兵外出の帰営時限を指します。夏季は午後八時でした。外出範囲は衛戍条令に基づき、例えば歩兵は所属連隊の警備区域内に限るとされ、騎兵は外出範囲の規定がなく帰営時間も午前0時までという兵科による特徴がありました。


 ※資料=『兵隊たちの陸軍史』 伊藤桂一(番町書房)、『戦争文学全集 別巻』(毎日新聞社)、『グラフィックカラー昭和史 6 太平洋戦史 前期』(研秀出版)

 
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この回答へのお礼

二・二六事件、国民精神総動員運動、国家総動員法公布という流れでしたか。「国民精神総動員運動」は言葉としても、この度初めて知りました。生齧りですが二・二六事件の時代背景が少し分かっていたので、これがキーワードになり暗い時代へと変化していく因果関係が少し掴めました。

誰もが勝てないと思っていて、誰もが勝てると発言するのは不可解ですが、今も基本構造は変わらんなぁと、思います。内部告発というものが少しずつ出始めてはいるようですが。

歩兵や騎兵など所属によって門限に違いがあったのは承知しました。
有り難うございました。これまでのお答で十分ですが寄稿の準備をされている方があっては、いけないので午前中は締め切らないでおきます。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/02/17 09:12

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