痔になりやすい生活習慣とは?

昭和16(1941)年12月、日本はアメリカ、イギリス、オランダに戦争を仕掛けました。日本はイギリスとオランダとの戦闘には圧倒的に強かったけれどもアメリカにはやられました。そもそも日本は、なぜアメリカに戦争を仕掛けたのでしょうか。

当時、日本は鉱物資源が不足しており、殊に石油の需給は逼迫していました。そのため、オランダ領東インド(現、インドネシア)から石油を輸入したかったのですが、オランダ政府が対日供給に消極的でした。そのため政府と統帥部は、武力を行使して当地方を支配下に置く方針だったのです。

しかし、それならば、オランダにのみ戦争を仕掛ければ良いはずで、アメリカとイギリスにも同時に戦争を仕掛けた理由が分かりません。

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A 回答 (10件)

#7です。



>北朝鮮の軍艦が対馬海峡や津軽海峡を航行したら、マスコミと国民は大騒ぎになるでしょう。しかし、だからと言って、日本政府は北朝鮮に抗議できるでしょうか。まして日本の軍隊(自衛隊)が北朝鮮の軍艦の航行を妨害できるでしょうか。その軍艦を攻撃できるでしょうか。両海峡とも国際海峡なのです。日本に危害を加えない限りは、我々は北朝鮮の軍艦を見物するほかないのです。

>蘭印(オランダ領東インド)の資源を積んだ日本の商船がフィリピンやマレーの近海を航行する際には日本海軍の軍艦が護衛しますが、その場合も、フィリピンの米軍もマレーの英軍も手が出せません。公海だからです。日本の軍艦を見物するほかないのです。

現代の方が例えとして分かり易かったと判断した私が間違っていました。例えとして出した、現代の、国連や国連安保理がその機能を如何なく発揮し、国際公法も遵守され仮に違反した場合には国際司法裁判所で裁かれる「平和な」時代と当時とでは、時代背景も国際関係も全く異なるのです。例として不適切なものを提示してしまい、申し訳ありませんでした。

確かに、現代であれば、質問者様の様に「日本の軍艦を見物するほかない」という結論に至ることに対して異議を差し挟む余地は全くありません。しかし、当時、既に日独伊三国軍事同盟(枢軸国)vs.ABCD包囲網(連合国)という国際関係上の対立の構図は出来上がっていました。ただ、そうした中でも「日米諒解案」はデリケートな国際関係の間隙を抜ってできた産物と言えましょう。

それを機能不全にしたのが松岡や近衛達であることは昨日ご説明した通りですが、さらにそれを追い討ちにかけるように決定的にした動きドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)とアメリカの対独参戦及び対ソ援助の開始で、これによってもうアメリカは日本に対して宥和策に出ないと「腹を括った」わけです。

昨日書き落としてしまったことがあります。細かいことですが、もう少しこの後の日米関係をみていく上で重要ですのでお付き合い下さい。

アメリカの対独参戦の後、7月25日、アメリカが在米日本資産の凍結令を公布。7月28日、日本軍が南部仏印に進駐。8月1日、アメリカは直ちに対抗措置として対日石油禁輸に出る。これはもう今のアメリカの北朝鮮に対する制裁措置どころの話ではありません。既に日本は軍隊を南部仏印に進駐させており、南部仏印で軍事衝突の可能性がある。フランスには当時ナチスの傀儡のペタン率いるヴィシー政権とは別に、ロンドンにド・ゴールの亡命政府があり、フランス国内ではナチスに対する地下でのレジスタンスに必死という時代で、連合国側は当然ヴィシー政権を認めていませんから、これは連合国側領土に対する進駐と同様と映るでしょう。

アメリカの対日石油禁輸とは、要するに資源のない日本にとって艦隊や商戦を動かせる燃料の補給を断つ意味がありますから、それでも強引に日本の商船と護衛の艦隊をオランダ領東インドに差し向ければ、今度はアメリカは自衛のためという口実で日本の商船と護衛の艦隊を沈めにかかるでしょう。公海を航行していようと何だろうと最早関係ないわけです。

なぜ自衛目的でアメリカは日本の商船と護衛の艦隊を沈めることが認められるのか――。その理由は、当時、既に遠く大西洋で、アメリカからはイギリスへの援助物資を満載した輸送船が多数就航していました。各船団には駆逐艦の護衛がついており、これをコンボイと呼んでいました。もし輸送船団がドイツ潜水艦に攻撃されれば、護衛の駆逐艦と潜水艦は戦闘状態に入り、それは米独戦争の開始ということになります。アメリカは、そうした戦闘を「自衛権の発動」とみなしていたのです。全く同じことが太平洋にも当てはまるからです。

この回答への補足

>当時、既に遠く大西洋で、アメリカからはイギリスへの援助物資を満載した輸送船が多数就航していました。各船団には駆逐艦の護衛がついており、これをコンボイと呼んでいました。もし輸送船団がドイツ潜水艦に攻撃されれば、護衛の駆逐艦と潜水艦は戦闘状態に入り、それは米独戦争の開始ということになります。アメリカは、そうした戦闘を「自衛権の発動」とみなしていたのです。

アメリカは非常に身勝手です。当時、英独は(国際法上)正式の戦争状態にありました。この場合、戦争に巻き込まれたくなければアメリカは中立を守らなければならないのです。にも拘わらずアメリカはイギリスに軍事物資を援助しました。アメリカは中立を放棄したわけです。このアメリカに対してドイツは攻撃する権利があったのです(アメリカの輸送船団のみならず米本土を攻撃しても良い)・・

>もし輸送船団がドイツ潜水艦に攻撃されれば、護衛の駆逐艦と潜水艦は戦闘状態に入り、それは米独戦争の開始ということになります。

大西洋でアメリカ輸送船団がドイツ潜水艦の攻撃を受け、護衛の駆逐艦が潜水艦に報復攻撃を加えるという場面は実際、頻繁に発生しました。アメリカ軍民の犠牲者も出ました。その都度アメリカのマスコミも報道しました。しかし、アメリカの世論の多数は、依然として欧州戦争への参戦に消極的でした。ドイツとの本格的な戦争に反対だったのです。だからルーズベルト政権は対独宣戦布告できなかったのです。

(1)万が一、バシー海峡で日米両軍の戦闘が発生しても、それは局地的な紛争に終り、日米の全面戦争に発展する可能性は低い。
(2)仮に全面戦争になるとしても、アメリカが日本に第一発を発射するか、または宣戦布告するかのいずれかのケースが発端となります。つまり日本は、国際社会の場で、「日米戦は日本の自衛戦争である」と主張できる明確な根拠を確保できる。アメリカと戦争するにしても、アメリカ側に第一発を打たせるべきです。

補足日時:2008/02/24 13:53
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#9です。



まず、昨日私の書いた回答を補足説明することから始めます。ABCD包囲網が存在するということは、アメリカとオランダとの間に既に同盟関係が存在していることを意味します。また、フランスもナチスに占領されていたとはいえ、ロンドンにド・ゴールの亡命政府があり、連合国側はこちらを正式なフランス政府と認めていましたから、フランスも事実上連合国側にあったわけです。但し正確に連合国という名称になったのはルーズヴェルトが連合国宣言(Declaration by United Nations)を発した1941年12月だそうですから(下記参照)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88% …
フランスは連合国側ではないと言われるかもしれませんが、これは単なる名称の問題であって、事実上は連合国側にいて枢軸国側ではない、ということを明らかにしておきます。

こうした情勢の中で、1941年7月28日、日本軍が南部仏印に進駐したことは、当然のことながら後の連合国の母体となるABCD包囲網にとって連合国側への領土への侵攻であることを意味します。日本側の目的は、当然、オランダ領東インドを伺い、その資源(石油、ゴム、錫、ニッケル等)を獲得するための海上輸送を陸からバックアップすることにあった行為であると言えます。海上輸送を安全に行うためにはもちろんこれだけでは不十分で、そのためには米国領フィリピンの占領が必要となります。事実、後の1942年1月、日本軍はマニラを占領し、その後、4月にバタアン半島、5月にコレヒドール島の米軍を降伏させ、まもなく在フィリピンの全軍を降伏に追い込みます(フィリピンの歴史―下記参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3% …

さて、時間の針を逆に戻して、1941年8月1日、アメリカはこの日本軍の南部仏印進駐に対する対抗措置として対日石油禁輸に踏み切ったのは昨日も書いた通りです。つまり、アメリカは日本の艦隊や商船を動かす燃料の補給を断とうとしたわけです。

こうした情勢の下、もし日本がオランダのみに宣戦布告したら、果たしてアメリカ、イギリスは黙っているでしょうか。もしそのまま沈黙を守って日蘭戦争が始まったなら、アメリカ、イギリス、特にアメリカは同盟のよしみで必ず助太刀に来るのは当然です。そうでなければ、アメリカが対日石油禁輸措置に出た意味がなくなってしまうからです。アメリカ1国で対日石油禁輸措置を行っても、オランダ領東インドを日本に奪われてしまったのでは、そこから石油等が日本に輸送されることとなってしまうため、それでは元も子もなくなってしまうからです。

そこで出てくるのが、アメリカ得意の論法、質問者様が「非常に身勝手」と非難されている「自衛権の発動」です。より正確に言えば「自衛権の拡大解釈」です。

昨日は私の頭の中だけで書いたつもりになっていましたが、要は大西洋で行われていた「自衛権の発動」のロジックが太平洋でも出てくるということを書いたつもりでいましたが、よく読んで見ると書いていませんでした。大西洋と太平洋とでは、登場人物は異なりますが、その関係はまさしく相似形を呈しています。大西洋の登場人物(左側)を太平洋(右側)ではこう読み替えて下さい。
「ドイツ軍の潜水艦」→「英米蘭連合の海軍、またはアメリカ単独の海軍」
「アメリカからイギリスへ援助物資を満載した輸送船と駆逐艦の護衛(コンボイ)」→「オランダ領東インドから日本へ資源を運搬する日本の商船と日本軍の護衛艦」

ではこういう関係になると、大西洋でアメリカが「自衛権の発動」としてドイツの潜水艦に報復攻撃を加えたことが、今度は日本が「自衛権の発動」として英米蘭連合の海軍、またはアメリカ単独の海軍に対して報復攻撃できるではないか、と思われますが、いかがでしょう?その答えは既に質問者様自らこうお書きになっています。

>このアメリカに対してドイツは攻撃する権利があったのです(アメリカの輸送船団のみならず米本土を攻撃しても良い)

普通、「自衛権」というと、現代の日本では他国から侵略を受けた場合のみ発動される、いわゆる「専守防衛」という概念を想定しがちですが、満州事変でも日中戦争でも第二次大戦でも、当時は全て「自衛権の発動」あるいは「自衛のための戦い」として自国が戦争を行うためのロジックとして使用されています。満州を守るために中国に侵攻する戦争など、例はいくらでもあります。現代の我々から見れば、これはもう「自衛権の拡大解釈」としか言いようがないのではないかと思われます。もっともアメリカは今でも「自衛権の拡大解釈」として「テロとの戦い」のためアフガンやイラクを攻撃したと言えなくもありませんが、それは今回の質問から逸脱しますのでこの辺で止めて置くことにします。

話を元に戻して、このように「自衛権の拡大解釈」が戦闘行為を合目的化することが可能になるとすれば、もし日本が「自衛権の発動」として英米蘭連合の海軍、またはアメリカ単独の海軍に対して報復攻撃すれば、今度は英米蘭連合なりアメリカも「自衛権の発動」として再報復攻撃することもロジックとしては可能になるわけです。こうして今度はアメリカがオランダ領東インドから日本へ資源を運搬する日本の商船と日本軍の護衛艦を攻撃するわけです。これは詭弁でも何でもなく、歴史上の事実です。質問者様が大変いいヒントを下さいました。バシー海峡(↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B7% …
を調べてみたところ、このような記述を見つけました。
「山本七平は著作『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』にて、大東亜戦争おける日本の敗北が決定付けられた要因をミッドウェーの戦いやガダルカナル攻防戦に求めず、「輸送実績を重視せず、輸送しようとしたという判断のみで評価するようになった」という点より、1944年以降、この海峡で輸送船が連合国軍の艦船によって、ほぼ100%沈没させられた事件を上げている。
後に小説家となる柴田錬三郎が乗り組んでいた輸送船が撃沈され、7時間に渡り漂流する経験をした地点としても知られる。」
つまり、先程書いた、1942年5月の日本軍による在フィリピンの全軍降伏以降、1944年までは、フィリピンは日本に占領されていた(実際には日本の軍政期は1943年までで、同年、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国という日本の傀儡政府が建国された)ため、安全にオランダ領東インドから日本へ資源を運搬することが可能だったわけですが、それも1944年までであったというわけです。1944年というのは、米軍がレイテ沖海戦を経てレイテ島上陸を果たした年です。
>大西洋でアメリカ輸送船団がドイツ潜水艦の攻撃を受け、護衛の駆逐艦が潜水艦に報復攻撃を加えるという場面は実際、頻繁に発生しました。アメリカ軍民の犠牲者も出ました。その都度アメリカのマスコミも報道しました。しかし、アメリカの世論の多数は、依然として欧州戦争への参戦に消極的でした。ドイツとの本格的な戦争に反対だったのです。だからルーズベルト政権は対独宣戦布告できなかったのです。

おっしゃる通り、確かにアメリカの直接の対独宣戦布告は1941年12月11日、つまり真珠湾攻撃後のことであり、ドイツ潜水艦(Uボート)の攻撃を契機に行われたものではありません。しかしながら、1940年にはイギリスの孤軍奮闘が伝わるとアメリカ世論も対英支援へと傾き、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻の結果、同年11月にルーズヴェルトの三選が決まるや、すぐさま対英軍需援助が発表され、やがて「武器供与法」として成文化され、イギリスやソ連に対する援助が行われています(下記参照)。
http://www17.ocn.ne.jp/~senshi/eidokukoukusen1.h …
つまり既に1941年11月の段階でアメリカはイギリスやソ連に対する援助という形で「間接的に」対独戦に参戦していたと言えます。
>万が一、バシー海峡で日米両軍の戦闘が発生しても、それは局地的な紛争に終り、日米の全面戦争に発展する可能性は低い。

それは一連のフィリピンでの日米での戦闘、つまり日本軍のマニラ占領(1942年1月)、にバタアン半島占領(同年4月)、コレヒドール島占領及び在フィリピン米軍降伏(同年5月)を単に「局地的な紛争」と評価するか、それともマッカーサーをして“I shall return.”と言わしめ、後のミッドウェー海戦敗北への伏線と評価するかで、大きく見方が変わってくることでしょう。

>日本は、国際社会の場で、「日米戦は日本の自衛戦争である」と主張できる明確な根拠を確保できる。

それは不可能です。まず先程も書いたように「自衛権の拡大解釈」が自国の戦闘行為を合目的化する概念になってしまっていることと、1931(昭和6)年の満州事変勃発と翌1932年のリットン調査団の報告書を受け、1933年、国際連盟で同報告書が承認されるやこれを不服としてその場で国際連盟から脱退してしまった日本は、既に国際社会に対して自国の主張をアピールする場を失っています。

この回答への補足

>こうした情勢の下、もし日本がオランダのみに宣戦布告したら、果たしてアメリカ、イギリスは黙っているでしょうか。もしそのまま沈黙を守って日蘭戦争が始まったなら、アメリカ、イギリス、特にアメリカは同盟のよしみで必ず助太刀に来るのは当然です。

私は日蘭開戦後、アメリカが直ちに対日参戦するとは必ずしも思いません。米英蘭が同盟関係だったにせよ、それは日独伊の同盟関係に比べれば、その緊密度は弱いものでした。日独伊三国同盟条約には、もしアメリカがドイツに宣戦したら日本は直ちにアメリカに宣戦するという『自動参戦条項』がありましたが、米英蘭の同盟関係はそれほど強力なものではなかったはずです。

ですから、ハル・ノートを突き付けられた直後の昭和16(1941)年12月1日、日本は御前会議で対米英蘭開戦の国家意思を決めましたが、私は、ここは対蘭宣戦布告に留め、米英については、戦争を売られたら受けて立つと決めるべきだったと考えます。これが一億の民を擁する日本の安全保障を担う国家指導者(統帥部、行政府)に求められる冷静沈着な判断です。

>ルーズヴェルトの三選が決まるや、すぐさま対英軍需援助が発表され、やがて「武器供与法」として成文化され、イギリスやソ連に対する援助が行われています。

その通りです。しかしイギリスへの武器援助は、ルーズヴェルトの三選の前から活発に行われていました。アメリカ国民は、武器の援助は良いけれど、アメリカの参戦には反対でした。第一次世界大戦終結から未だ20年しか経っていないのに、また息子達を戦場へ出さなければならないのか・・と。

補足日時:2008/02/26 00:44
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:53

オランダのみを攻撃する、という戦略はあり得ません。



なぜなら、もし首尾よくインドネシアを占領できたとしても、英米が参戦してきたらたちまち補給路を断たれ、窮地に追い込まれるからです。

この戦略が成り立つためには英米が絶対に参戦してこない、という確信が必要です。

じっさい、当時のアメリカ国民は反戦主義に傾いていたようですが、日本はそこを読み違えたのだと思います。
いまのように世界情勢がパッとわかる時代ではないですし、軍部は驕りのために、情報収集に力を入れようとしていなかった感があります。

この回答への補足

>軍部は驕りのために、情報収集に力を入れようとしていなかった感があります。

軍も外務省も、諜報態勢は弱体であり、情報分析能力も高くなかったと思います。

補足日時:2008/02/26 12:04
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:56

>オランダ領の資源が欲しければ、相手国をオランダに絞って戦争すべき



戦略的には全くおっしゃる通りです。実は私も最近偶然読んだ下記のサイト(オンライン書籍)に書かれていたことで、ようやく日米開戦の経緯が分かった次第です。それは、橋本惠氏の『イワクロ.COM~岩畔豪雄(いわくろひでお)と日米諒解案~』(↓)です。
http://www.iwakuro.com/index.html

まずオランダ領の資源(石油、ゴム、錫、ニッケル等)を運搬するには、当然のことながら、資源を載せた船舶が太平洋を航行しなければなりません。また、その船舶が安全に航行するためには、日本の海軍が護衛する必要があります。つまりそれは太平洋に日本の軍隊が展開することを意味します。

ただ、地図をご覧頂ければお分かりになりますが、その航路の傍にはフィリピンがあります。ここは当時アメリカの植民地でした。上述のサイトでは、第三章「日米諒解案の全貌」の「1.ワシントンに着任して」の「―悠長な話―」に詳しいことが書かれていますので、一部引用します。

「ABCD包囲網により戦略物資の輸入を絞られた日本では、石油を始めとした戦略物資の備蓄が日々確実に減少していた。
 「このままでは、今に、艦隊も動かせなくなる」
 そんな心配がまことしやかに囁かれ、軍部は水面下で南方資源地帯への進出を計画していた。
 「必要は全てを正当化する」
 日本にとってそれはもはや是非の問題ではなくなっていた。いかなる事態にも即応するのが軍人の本分である以上、それは当然のことでもあった。しかし、日本が資源を求めて南下すれば事態はさらに悪化する。何故なら、それはアメリカが自他共に認めるアジアにおける唯一の聖域、フィリピンを脅かすことになるからである。」

アメリカ側の視点に立って考えてみて下さい。自国の植民地であるフィリピン近海に日本の軍隊が展開するのを指をくわえて黙って見ていられるものでしょうか。当然何らかの軍事衝突が生じる危険性を感じるのではないでしょうか。現代風に言えば、北朝鮮の軍艦が対馬海峡を航行したら、日本政府や国民は黙っていられるでしょうか?

また、上記の説明にもありますが、既にアメリカはイギリス、中国、オランダと共にABCD包囲網により対日戦略物資の輸出を絞っていました。(Aはアメリカ、DはDutchつまりオランダです)。ただ、アメリカが日本に対する石油の全面禁輸措置に踏み込むのは昭和16年8月1日ですから、まだ完全にストップさせていたわけではありません。例えて言えば、日本、アメリカ、ロシア、中国、韓国の5ヶ国で北朝鮮に対する重油輸出を核の完全無力化がなされるまで輸出量を極端に制限しようという対北朝鮮政策のようなものが行われていた、とご説明すれば、理解し易いのではないでしょうか。なお、これは現実の話ではなく、あくまで例え話です。

ところで、このサイトに出てくる「日米諒解案」というのをご存知ですか?これは昭和16年4月22日、つまりハル・ノートが出されるより前にできた「たたき台」だったのですが、この内容はそもそも下記の契機で出てきたのを引用するとこうなります。
「神父(注:昭和15年11月25日に来日した、ウォルシュとドラウトの2人のアメリカ人神父のこと)達の呈示したシナリオはこうである――。
 日中戦争は既に泥沼化し、日本の陸軍も疲労困憊(こんぱい)している。日本が中国大陸から撤兵することを条件として、アメリカは日本と中国の和平交渉を斡旋しようというのである。まず、日中両国の停戦を実現し、日米中3ヵ国間で包括的な取り決めを行い、日本軍は中国本土から撤収、以後の中国市場の開拓は日米共同してこれを行おうというのである。
 もちろん、日本への資源輸出制限は即刻解除し、その上で対日借款を行い、大陸開発のための資金まで用意しようというのである。不況に苦しむ日本にとって申し分ない話であった。一方、欧州諸国と比べてアジア進出に出遅れていたアメリカにとっても、この話は十分にメリットがあった。
 しかし、アメリカにはもっと重大な関心事があった。アメリカにとって最も肝心だったのは日米間の緊張緩和そのものだった。ヨーロッパではナチスドイツが世界の盟主の座をうかがう勢いを示している。アメリカにとって、ヨーロッパをこのまま放置しておくことはできなかった。この頃既に対独参戦をある程度決意していたルーズベルトにとって、唯一の気掛かりは日本だった。日独伊三国軍事同盟が存在する今、日米関係をこのままにして対独戦を開始すれば、アメリカは太平洋と大西洋の両方から挟撃されかねない。アメリカ指導部にはそれだけの危険を冒す覚悟はまだなかった。
 相手がドイツ1国でも反戦運動が高まっているというのに、同時に日本をも相手にする両面作戦で国民の賛同が得られるなどとは誰も思っていなかったからである。太平洋に脅威がある限り、ヨーロッパ救援には向かえない。ルーズベルトにとって、太平洋に平和を確立することが焦眉の急だったのだ。
 他方、イギリスもアメリカ以上に太平洋の安定化を願っていた。日本の脅威が除かれない限り、アメリカがヨーロッパ戦線へ参入してくることは考えられなかった。」(第二章「風雲急を告げる日米関係」「3.シナリオ」「―申し分ない提案―」より)

最終的な「日米諒解案」では、日本が欲する石油、ゴム、錫、ニッケル等の輸入をアメリカが協力、支持することや、日本の満州国占領をアメリカが認めることなど、日本にとってかなり有利な案でした(第三章「日米諒解案の全貌」「2.「諒解案」策定に着手」「【日米諒解案全文】及び「3.これがその主要内容」より)。

ですから、もしこの「たたき台」を基に予定通り昭和16年5月にホノルルで日米首脳会談が行われていたなら、質問者様が言われる「オランダに絞って戦争する」ことさえなく、日本は正々堂々とオランダ領の資源を輸入することが可能だったわけです。

実はこの「日米諒解案」、当時訪欧中の外相・松岡洋右を除き、閣議では近衛首相以下陸海軍首脳も全員賛成だったのです。せっかくのこの好機を握り潰してしまったのが、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンとの友誼を重んじた松岡外相と外務省であり(第四章「挫折、そして日米開戦」「1.三国軍事同盟と松岡洋右」より)、また、松岡の暴走を食い止めることができなかった首相・近衛文麿の優柔不断さでした(同)。

そして、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻→アメリカの対独参戦とソ連への援助決定→近衛の日米首脳会談開催申し出とアメリカ側の拒否→ハル・ノートの提出→日本側、これを最後通牒と受け止める→真珠湾奇襲へと、歴史の歯車は日本にとって不利に不利にと回っていってしまったわけです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>北朝鮮の軍艦が対馬海峡を航行したら、日本政府や国民は黙っていられるでしょうか?

北朝鮮の軍艦が対馬海峡や津軽海峡を航行したら、マスコミと国民は大騒ぎになるでしょう。しかし、だからと言って、日本政府は北朝鮮に抗議できるでしょうか。まして日本の軍隊(自衛隊)が北朝鮮の軍艦の航行を妨害できるでしょうか。その軍艦を攻撃できるでしょうか。両海峡とも国際海峡なのです。日本に危害を加えない限りは、我々は北朝鮮の軍艦を見物するほかないのです。

蘭印(オランダ領東インド)の資源を積んだ日本の商船がフィリピンやマレーの近海を航行する際には日本海軍の軍艦が護衛しますが、その場合も、フィリピンの米軍もマレーの英軍も手が出せません。公海だからです。日本の軍艦を見物するほかないのです。

補足日時:2008/02/23 18:55
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リットン調査団からハル・ノートまでの長い経緯の裏には、19世紀後半南北戦争で、アジアの覇権争いに出遅れたアメリカの戦略があると読む人もいます。


南北戦争を終結し、人種問題を国内で解決する流れがあったアメリカで、ヨーロッパのようにアジアに自国領土を求める植民地化ともいえる政策には、人種問題に敏感なアメリカは大手を振って参加できなかったはずです。
アメリカがしかけたシナリオに、欧州も乗り、日本はその最後の幕(真珠湾という暴走と、アメリカの参戦への大儀名文の付与)を自分で開いてしまったのだと思います。

現在北朝鮮問題でも、同じことをしようとしていると指摘する書物もあります。
北朝鮮には資源はありませんが、韓国が反米&新北政策を90年代後半からとるようになり、北朝鮮の核実験を支持するなど、アメリカはもう韓国を西側とはみなしていません。朝鮮有事の際のアメリカの指令権(統制権、現在アメリカが合法的に韓国軍を動かせる)を、韓国に委譲し、在韓米軍の多くを撤退させようと、双方で交渉をもっています。

歴史的にみても中国は朝鮮半島になにかあったら軍を進めるでしょうが(国境防備という名目で)、韓国に米軍がいなくなった中で朝鮮半島に火がついたとき、日本が買うであろう軍事関連の費用は、米国にうまみがあるとのことです。
たとえば、北朝鮮は1000kmクラスの射程距離のミサイルを200発はもっているらしいです。1艦1500億円とも言われるイージスは一度に10コのミサイルを同時に狙え、現在5艦(でしたでしょうか)ありますが、連射できるにしてもまだイージスを買うでしょうし、それ以外にも庁から省にあがった防衛省は、有事を理由に軍備を増やすでしょう。
このビジネスでのうまみを米国は考えていないわけはないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:55

太平洋戦争(第二次世界大戦の一局面で太平洋上で日本と連合軍との間で行われた戦争)が勃発した経緯については、


(1) 日本がアジアの近隣諸外国に対して行った侵略・植民地化を目的にして起こした戦争だった、とする見方と、
(2) いや逆にアジアを欧米諸国の植民地支配から解放し、自立した共存共栄のブロック経済圏(大東亜共栄圏)の建設をしようとする構想に基づいた戦争だった、とする見方、
(3) 更にABCD包囲網(1941(昭和16)年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限につき当時の日本が付けた名称で、アメリカ (America)、英国 (Britain)、中華民国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字を並べたもの)によって日本が圧迫され、これを 打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとする自衛戦としての見方等があるようです。

直接的には、前の回答者の皆さんが言われる通り、上記3のABCD包囲網が引き金になったと思われますが、戦争に至るには、当然多くの伏線があると思います。後世の人はもっと他の道があったのじゃないか、と色々言うでしょうが、その時代の空気が戦争に駆り立てたのでしょうね。政治家もマスコミも機能せず、国民も大きな歴史のうねりに抗する程強くはなかったでしょうから、その時代としては不可避だったのかもしれません。

日清・日露の2回の戦争で思いがけず大国を相次いで撃破し、すっかり自信を得ていた日本は、昭和初年から大陸に触手を伸ばし、太平洋戦争前は日中戦争(1937年~1945年)で中国(当時は「中華民国」と称していた)と交戦していました。有史以来外国に攻められても敗れたことがなかった(唯一、侵略の危機にあった「元寇」の時も「神風」(台風)が吹き、侵略軍を危機一髪で防ぐことが出来た)日本国民は、敗れる怖さ、退くことを知らず、前進するのみでした。

そのような折、オランダとの抗争とほぼ同時期に、アメリカ、イギリスも日本に対して中国からの撤兵を求め、アメリカは戦争継続に必要な石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめたため、追い詰められた日本はついに自ら戦端を開く決心をしたのです。
ABCDの各国は、既にドイツ・イタリアに対すると同様、日本に対しても彼らの国益に基づき共闘体制を組んでおり、否応なく、彼ら全体と戦わざるを得なかったのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

>ABCDの各国は、既にドイツ・イタリアに対すると同様、日本に対しても彼らの国益に基づき共闘体制を組んでおり、否応なく、彼ら全体と戦わざるを得なかったのだと思います。

それにしても、次のような疑問が頭を離れません。
(1)オランダにだけ戦争を仕掛けるという私の案は、ABCDの共闘体制に楔を打ちこむ意味では、戦略における常套的な考え方と思います。グッドアイデアです。
(2)アメリカもイギリスも、日本の軍事行動に警戒はしても、日本に戦争を仕掛けると決まった訳ではない。なぜ自ら米英戦を求めたのか。
(3)結果として対米英戦が避けられないとしても、なぜ自分から手を出したのか、なぜ相手に(米英に)先に手を出させなかったのか。
(4)最大の疑問は、なぜ、日米開戦劈頭にハワイ攻撃を行ったのか、です。私にはバカバカしい作戦としか思えません。

お礼日時:2008/02/23 01:59

『軍事板常見問題』から


http://mltr.ganriki.net/index02.html
「第二次大戦 アジア・太平洋方面FAQ」より
http://mltr.ganriki.net/faq08c.html#00832c
【質問】日本は,なぜ不合理としか思えないアメリカとの戦争を選択したのか?
http://mltr.ganriki.net/faq08h15.html#07379
【回答】それが最も生き残れる確立が高いと信じたから.
 以下,ナイ教授の文章を引用.

 日本の視点からすれば,日本が戦争に向かうことは完全に非合理というわけではなかった.というのも,日本の見るところでは,それは最も悪くない選択肢だったのである,
 もしドイツがイギリスを破り,奇襲攻撃を受けてアメリカの世論が揺らげば,交渉による和平の道もありえた.
 根拠薄弱な日本の指導者のムードを,塚田攻陸軍参謀次長は次のように表現している.

「全般に,開戦の場合の見通しは明るくない.平和的解決の道はないかと,皆が考えている.
『心配するな,たとえ戦争が長引いても全ての責任を取る』
と言える者は,どこにもいない.
 他方,現状維持は不可能である.
したがって,不可避的に,開戦やむなしという結論に達するのである」

 もとより,日本には中国と東南アジアでの侵略を改めると言う選択肢はあった.
 だが,それは拡張主義的,好戦的な見解を取る軍部の指導者たちには考えられないことであった.
 かくして1941年12月7日に日本は真珠湾を攻撃したのである.
 ※ 真珠湾攻撃は日本時間では12月8日
 まぁ・・日本らしいと言えば日本らしいかも知れない.
 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
・・・・・・・・・・・・・・・(引用終了)
同HPの回答集を見ると当時の日本には「清水の舞台から飛び降りる」、「一矢報いる」といった情緒的発送があり、本来必要な合理的判断が欠如していたと思える戦略が、蔓延していたように思えます。

なお、ハル・ノートは交渉のためのたたき台に過ぎず、これを「最終通告」と判断したのは日本側です。「ハル・ノートで追い詰められたから…」は所詮、えげつないまでも合理的判断が求められる国際戦略で、「戦略の失敗」から学ぶことのできない情緒的判断で、だだをこねているに過ぎないようにも思えます。
(心情的に納得できないということと、歴史を学ぶこととは別物という意味です)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>当時の日本には「清水の舞台から飛び降りる」、「一矢報いる」といった情緒的発送があり、本来必要な合理的判断が欠如していたと思える戦略が、蔓延していたように思えます。

同感です。山本五十六連合艦隊司令長官の「開戦劈頭、敵主力艦隊を撃破して米国民の士気を阻喪」せしめれば日本側に有利な形で講和交渉できるとの考え方は当に、合理的思考力欠如の典型と見えます。

お礼日時:2008/02/24 14:32

日本が戦争を決めた理由はハルノートですね。

ハルノートの条件は酷く、
これを出されたらどんな国でも武器を持って戦うだろうと言うものです。
日本が戦争を仕掛けたのではなく、アメリカがそうなる様に仕向けたんです。

因みに、アメリカ側がなぜハルノートを出したかというと、
まだ戦争を終わらせたくなかったからです。ではなぜ戦争を終わらせたくなかったと言うと、
原子爆弾の威力を黄色い猿に実験したかったからです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB% …

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。

文章力に欠けるため、意図するところが充分に表現できませんでした。私の知りたいのは戦略論です。一国を相手にするより三国を相手にする方が何につけリスクが大きくなります。

オランダ領の資源が欲しければ、相手国をオランダに絞って戦争すべきですが、最初から三国を相手にした戦略的な意味が分からないのです。

もちろん、オランダ領を攻撃すればアメリカもイギリスも対日戦に「参戦する可能性」はありました。しかし、「参戦しない可能性」もあったのです。米英が参戦すれば応戦せざるを得ないですが、なぜ自分の方から対米英戦を求めたのでしょうか。

補足日時:2008/02/22 20:58
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 11:59

国防の為です。



白人による植民地争いが激化し、有色人差別が現在より顕著だった時代です。
当時、独立を維持していた有色人国家は日本を含めて数国のみ。
白人国家は搾取対象として日本をずっと視野に入れていました。
ロシアなどが特にそうです。
現在、日本は第二次世界大戦敗戦国として勝利国である連合国の言い分を押し付けられている状態ですが、
大東亜戦争は間違い無く日本にとって国家の存亡をかけた防衛戦争です。
日本が「米英に戦争を仕掛けた」のではなく、「米英に戦わざるを得ない状況に追い込まれた」んです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 12:00

ABCD包囲網とか、聞いたことはありませんか?


資源の供給を渋ったのは、オランダだけではありませんよ。

アメリカ (America)、英国 (Britain)、中華民国 (China)、オランダ (Dutch)。

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。

文章力に欠けるため、意図するところが充分に表現できませんでした。私の知りたいのは戦略論です。一国を相手にするより三国を相手にする方が何につけリスクが大きくなります。

オランダ領の資源が欲しければ、相手国をオランダに絞って戦争すべきですが、最初から三国を相手にした戦略的な意味が分からないのです。

もちろん、オランダ領を攻撃すればアメリカもイギリスも対日戦に「参戦する可能性」はありました。しかし、「参戦しない可能性」もあったのです。米英が参戦すれば応戦せざるを得ないですが、なぜ自分の方から対米英戦を求めたのでしょうか。

補足日時:2008/02/22 21:01
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 12:00

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Q70年前の日本は、なぜ戦争を決断したのでしょうか?

お世話になります。

戦争は、外交手段の一つの方法でしかも最後の方法です。それでも、70年前に日本は世界大戦を決断しました。

(この世界大戦に至る序章として中国東北部の植民地化があったと考えます。この植民地化は、日本の勝手な解釈で「欧米列強のマネであることが権利」で錯覚していた様子です。この意味では、日本を含め中国を占領した国家は中国に謝罪は必要です。)

その延長で、連合国との全面戦争は開始されましたが、

●技術的
●生産力
●資源力
●人員力

から見ても、圧倒的に不利であったはずです。合理的に考えれば、国力の差は戦力に比例するはずですよね。

でも、70年前の日本は、なぜ戦争を決断したのでしょうか?その時の日本は、戦争をしなければならない 進退窮まる理由 があったのでしょうか?でも、敗戦は必定です。

Aベストアンサー

マクロ経済の観点から考察する対米開戦はまさに無謀の一言、一例を挙げれば一般会計と臨時軍事費に占める直接軍事費の割合が脅威の75.7%、これは対米開戦直前の数字ですが、当時の日本は日中戦争以来まさに食うや食わずで戦争を継続していた事がこの点に於いて明らか。
冷戦構造下のソビエト連邦が、アメリカとの軍拡競争で経済が破綻した際の同比率が50%強ですから、戦争突入以前の直接軍事費が70%を超える事の異常さが御理解頂けるかと思います。

更にはGDP比換算で1(日本):20(アメリカ)、質問者様が仰る通り近代戦は国家としての総力戦でありまさに大人と子供の喧嘩、そう形容するしかない戦争でした。

>70年前の日本は、なぜ戦争を決断したのでしょうか?

以上述べた前提はいかに当時の軍部主導下にあっても、大国アメリカとの戦争を想定した場合当然客観的判断材料として顧みられたはずであるが、では何故当時の大日本帝国首脳が対米開戦を決意したのか、その原因はそれこそ無数にあると思われますが、私なりの結論としては以下の2点。

1.本来日本の意図は対中権益の確保、本命である日中戦争を継続する為の石油・粗鋼の多くをアメリカに頼っており、その供給をストップされ且つ日本の対米資産凍結、更にはイギリス・オランダがそれに同調して所謂ABCD包囲網が構築された事で追い詰められていた事。

2.日露戦争の悪しき前例、即ち交戦期間2年程度を互角の戦いに持ち込み、ナチスドイツの欧州での勝利を希望的観測で織り込み、総力戦・消耗戦になる以前に仲介国を待つという戦略が可能であると甘く判断していた事。

但しドイツがソ連との不毛な戦争に突入した事で日本の思惑は大きく外れ、しかもアメリカの戦時経済が本格的に稼働しはじめた為、太平洋戦争開戦1年を過ぎた頃から国力相応の差が出始め、皆様御承知の通りの結果に終わってしまいましたが。

マクロ経済の観点から考察する対米開戦はまさに無謀の一言、一例を挙げれば一般会計と臨時軍事費に占める直接軍事費の割合が脅威の75.7%、これは対米開戦直前の数字ですが、当時の日本は日中戦争以来まさに食うや食わずで戦争を継続していた事がこの点に於いて明らか。
冷戦構造下のソビエト連邦が、アメリカとの軍拡競争で経済が破綻した際の同比率が50%強ですから、戦争突入以前の直接軍事費が70%を超える事の異常さが御理解頂けるかと思います。

更にはGDP比換算で1(日本):20(アメリカ)...続きを読む

Qアメリカは日本になぜ原爆を落としたのでしょうか

先日、テレビで広島に落とした原爆と長崎に落とした原爆では、種類が違うということを聞きました。
私はなぜ違うのだろうと疑問を感じました。

早く戦争を終わらせるためという理由だけでしたら、同じ種類の原爆でいいんじゃないかなと思ったのです。
アメリカが日本に原爆を落としたのは、実験の意味もあるのでしょうか?

だけど、実験で何十万という人間が死んでしまうわけですから、アメリカが実験でそのようなことをするのかなとも思います。

すみませんが、お教えいただけましたら助かります。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

質問の主旨は↓でよいのでしょうか。

>アメリカが日本に原爆を落としたのは、実験の意味もあるのでしょうか?

回答:そうです。

原爆使用の目的は↓です。

1:原爆(2種類)の効果を、実際の都市や人間で確かめ、データをとる事。
2:他国に使用可能な核保有国であることを示し、戦後の国際関係で優位に立つ為。

1についてですが、上記の目的を満たす為に、投下する都市は↓のような経緯で選ばれています。

A:周囲を山に囲まれた直径3マイル以上の市街地を持つ都市。
アメリカは、↑の条件をより満たす為に、広島への空襲を停止して建築物を保存し、人口を集中させました。

B:警告無しの使用の決定
トルーマン大統領は、自分が設置した暫定委員会で、原爆の使用は「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で行われるべきだと語り、そのように決定しています。
(開発に携わった科学者は、無警告の原爆投下に反対しています。)


この質問は過去にも何度か出ており、警告については、連合軍は爆撃前にビラをまいて避難を呼びかけていたという意見がありますが、それには【広島】と【小倉】は入っていません。(画像参照)

実は、小倉は広島と同じ理由で選ばれていましたが、爆撃機が航路を誤って、長崎に落してしまいました。
長崎の投下地点の真上には、日本に始めて建設された「教会」がありました。
(アメリカはこの事を隠していますが)


アメリカの原爆の使用について、日本が降伏をしなかったからだという意見もありますが、それは間違いです。

当時の日本は条件さえ合えば降伏(というか講和)をするつもりでした。
しかし、アメリカは曖昧な降伏条件(国体の護持、天皇制の維持等が保証されていない)を出すことで、日本が降伏できないようにして、原爆を使用する準備をしました。
(降伏条件の起草段階では天皇制の維持が含まれていましたが、トルーマンはこの部分を変更しています。)

ただ、これについてはいつまでも戦争を続けていると、ソ連が参戦してしまい、戦後処理についてソ連に発言力を与えることとなり、タイミングが難しい作戦でした。(実際そうなりました)

日本は↑のような条件が不明な状態で降伏した場合、国が消滅する事もありえるので、安易に降伏はでいませんでした。
更に、降伏後に天皇が処刑された場合、国民や軍部が政府の意向に関係なく戦闘を行う場合もありえます。
そのような内戦になった場合、中ソが介入して朝鮮やドイツのような分断国家になり、冷戦の最前線になってしまう事も考えられます。

以上から、敗戦後の外交や政治まで考えれば、安易に降伏できる状態ではありませんでした。
そもそも、原爆の使用自体が、民間人の虐殺という国際法違反であり、日本が降伏しないことを理由に正当化するのは間違いです。


原爆の使用について、東京裁判で糾弾されていたという意見もありますが、それは誤りです。
原爆については、日本の弁護についたアメリカ人(ブレイクニー氏)が語っていますが、その目的は↓を指摘することで「裁判自体の無効」を訴えるもので「原爆の使用そのもの」を糾弾するものではありません。

【戦争は国家の行為であり、戦争指導者であっても個人に責任は発生しない。
なので、日本の戦争指導者が個人として責任を追及されているのは間違っている。
日本人が「個人」として裁かれるなら、原爆の使用を決定した者も裁かれるべきである。】

それに、彼の意見は、↓の動画では、裁判所の意向に拠って却下されています。

【A級戦犯は冤罪】(動画:東京裁判の映像)
http://www.youtube.com/watch?v=sDTJVZheUwo


この類の質問ではよく言われることですが、戦争は政治であり、外交の一手段です。
である以上、国家間の約束や契約である条約は守る必要があります。
戦争では【国際法】がそれにあたります。
そして、【法】である以上、一国の【都合】や【政治的判断】とやらで解釈や判決が変えられるべきではありません。
勝てば何をしても不問になるなら、国際法は無意味になります。


ご質問の主旨とは外れますが、
対立する意見の者を「ネトウヨ」と呼んで、「歴史の一部」だけを取り出して、「事実」を歪曲したり、印象操作、誤解、させるのは愚の骨頂である。ということを書き加えさせて頂きます。



>だけど、実験で何十万という人間が死んでしまうわけですから、アメリカが実験でそのようなことをするのかなとも思います。

質問者様は、WW2が人種差別との戦争であると言われている事をご存じないのでしょうか。
またアメリカ国内の人種差別を知らないのでしょうか。

アメリカには1964年までジム・クロウ法という、黒人は白人と同じ公共施設を使用できないという内容の法律がありました。
こんな法律があるくらいなので、民間でもそれぞれ専用の店があり、トイレも分離されていました。

徴兵されたアメリカの黒人兵は、
【何故我々が、白人と戦っている日本人と戦争をしなければならないんだ】
と言っています。
(アメリカ軍内では、戦闘では黒人がまず先に出され、枢軸軍に応戦させて位置を調べてから、砲撃をしています。)

黒人だけでなく、日系人(アメリカ国籍)も差別の対象でした。

【第442連隊戦闘団(アメリカ日系人部隊)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3
(アメリカ政府は、アメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。)

同じアメリカ人同士ですらこの有様なので、日本人への扱いは更に酷いものでした。

【大東亜戦争における米軍の残虐行為】(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=g6MmpEuGipQ

質問の主旨は↓でよいのでしょうか。

>アメリカが日本に原爆を落としたのは、実験の意味もあるのでしょうか?

回答:そうです。

原爆使用の目的は↓です。

1:原爆(2種類)の効果を、実際の都市や人間で確かめ、データをとる事。
2:他国に使用可能な核保有国であることを示し、戦後の国際関係で優位に立つ為。

1についてですが、上記の目的を満たす為に、投下する都市は↓のような経緯で選ばれています。

A:周囲を山に囲まれた直径3マイル以上の市街地を持つ都市。
アメリカは、↑の条件をより満たす為...続きを読む

Q日本とアメリカが戦争したきっかけは?

日本とアメリカが第二次世界大戦時戦争したきっかけはなんだったのでしょう?

Aベストアンサー

日本の中にもアメリカとは戦争したくないと言う声は少なくなかったのです。しかし、石油などの資源をアメリカに押さえられてしまい、これを打開しなければいけませんでした。

 当時、日本は「日独伊防共協定」を結んでおり、さらにドイツはソ連と「独ソ不可侵条約」を結びました。そこで、日本は日独伊の関係をさらに強化し、同時に、そこにソ連も加えて4カ国の同盟関係を作れば、アメリカも容易には攻撃できず、経済制裁の解除もしやすいと考え、「日独伊三国(軍事)同盟」を結成しました。だが、この軍事同盟に参加したことでアメリカは日本をヒットラー政権と同列に位置づけ、さらに日本への警戒心を強くしました。
 その後、日本は早期の4カ国同盟の結成を目指し、ドイツ側と調整を行っていました。ドイツは当初はこの同盟に(少なくとも表面上は)積極的でしたが、この頃になるとドイツはソ連侵攻の準備を始めていたので、(当然ですが)調整は上手くいきませんでした。なかなか動かないドイツに対してしびれを切らした日本は、ソ連と「日ソ中立条約」を締結し、残るイタリアとソ連との軍事同盟、そして新たなる4カ国での軍事同盟の再結成の準備に入りました。しかし、そんな思いも虚しく、中立条約締結の2ヶ月後には独ソ戦が開始されました。この時になって、初めて日本はドイツの真意を知りました。
 この結果、日本は大した後ろ盾もなくアメリカとの経済制裁の解除の交渉に臨まなければいけませんでした。その後、紆余曲折を経て、最終的に真珠湾攻撃となりました。

簡単に言えば、アメリカが日本に対して経済制裁を行い、これを解除しようと日本側はさらなる軍事同盟の強化・拡大という道を取ったものの、外交能力の甘さから自分の首を絞める結果になりました。

 余談になりますが、ドイツから見れば日本はドイツのじゃまばかりしたことになります。ドイツにとって「独ソ不可侵条約」は東側のフランスなどとの戦争を有利にするために、一時的に結んだ条約です(最初から、いつかは破ることを考えていました)。一方、ソ連側もいつかはドイツが破って攻めてくると考えていましたが、対日戦略のことを考えて条約を結び、戦力を東側に集めました。それを、ドイツが対ソ戦の準備を始めた頃に、日本が「日ソ中立条約」を締結してソ連の東側の脅威を消したために、東側に集中していたソ連の軍隊の大部分を西側に持ってくることができ、ドイツは当初の計画よりも、苦戦することになりました。
 さらに、当時アメリカは対独戦の大義名分もなく、国内の世論もヨーロッパの戦乱にアメリカが参戦すべきではないという声が多く、参戦できないでいました。そこに、ドイツとの軍事同盟を結んでる日本がアメリカに参戦してきたことで、アメリカは対独戦の大義名分を得ることになりました。

ついでに、ときどきヒットラーは軍事的なもので政権を取ったと勘違いをしている人がいますが、ヒットラーは選挙で徐々に自分達の議席を増やし、国会でヒットラー独裁政権のための法案を可決させ、独裁化しました。何でもかんでも多数決をしたがる人がいますが、それは危険なことだと教えてくれることです。また、日本は経済制裁を受けたことで、最終的に戦争に突入しました。北朝鮮への経済制裁も、行った結果(破れかぶれで)日本や韓国へ戦争して来るとも限りません。不用意に経済制裁をすべきではないのです。

最後に、戦後の「東京裁判(極東国際軍事裁判)」において、日本側の弁護についたアメリカの弁護士は、日本がアメリカに対して戦争を行ったことに関する弁護で「日本の(宣戦布告なしの奇襲である)真珠湾での攻撃をしたことを罪とするならば、広島・長崎において行われた新兵器による一般人も含めた大量虐殺も罰せられなければならない」という内容で弁明しましたが、無視されてしまいました。(アメリカはもちろんのこと、日本でも原爆による攻撃でポツダム宣言を受諾したと思っている方が多いのですが、実際は、ソ連の参戦により、連合国側との仲介役をソ連に頼もうとする考えができなくなり、ポツダム宣言を受諾したのです。ここでもいろいろあるのですが、余談が長くなるので、止めます。)

日本の中にもアメリカとは戦争したくないと言う声は少なくなかったのです。しかし、石油などの資源をアメリカに押さえられてしまい、これを打開しなければいけませんでした。

 当時、日本は「日独伊防共協定」を結んでおり、さらにドイツはソ連と「独ソ不可侵条約」を結びました。そこで、日本は日独伊の関係をさらに強化し、同時に、そこにソ連も加えて4カ国の同盟関係を作れば、アメリカも容易には攻撃できず、経済制裁の解除もしやすいと考え、「日独伊三国(軍事)同盟」を結成しました。だが、この軍事...続きを読む

Q戦争が起きた原因

1・一番始めに戦争が起こった原因は何なのでしょうか

2・なぜ日本が戦争をしなければならなくなったのか
  またその引きがねとなった理由は

3・日本はどこと戦争していたのか

4・戦争中の日本を誰が指揮していたのか

5・なぜ周辺アジアと未だに仲が悪いのか

いまだに全く知らない自分が恥ずかしいです・・・。
よかったら教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

第2次大戦の事として、回答いたします。

1.これは、とても難しい話で、アヘン戦争の時代からの問題で、簡単には述べられません。
当初明治政府ができた時、朝鮮半島は、無政府状態で、そこに欧米列強の進出が有ると、国防上大変な事になります。
そのため、朝鮮半島を日本の勢力化に置き、本土の前哨線としようとしました。
そのため、利害の対立する、清やロシアとの戦いになりました。
朝鮮半島が日本の勢力下におかれると、さらにそこを守る前哨線として、隣接する満州地区を、さらに満州に隣接する北部中国へと、軍をすすめてゆきます。

当時の中国は、欧米列強による半植民地状態で、中国で、欧米との利害関係での対立を引き起こした事に起因します。

2.日本軍が、中国に深入りしすぎて、撤退も妥協もできなくなったため、国際間での調整がつかなくなったためです。

3.同盟関係は、とても複雑で、基本的には世界の2/3の国を相手に戦いました。
同盟国は、ドイツ、イタリア、ハンガリー、フィンランド、ブルガリア、ルーマニアです。

中立国は、スエーデン、スイス、スペイン、トルコ、タイなどです。

主な敵国は、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、中華民国、中国共産党、自由フランス、などと、その植民地のオーストラリア、ニュージーランド、インド、カナダ、などです。

4.一応大本営は有りますが、各組織が勝手に作戦をたてて動いていました。

5.アジア周辺と仲が悪いと言っても、問題になるのは、中国および華僑圏と、韓国・北朝鮮です。

東南アジアの華僑は、大戦前は、シギリス・オランダ・フランスなどの植民地支配の手先として、現地人を支配する立場にいましたが、日本軍の進撃により、植民地軍が撤退すると、その利権を奪われてしまいました。
その後、日本の支援で独立国となったため、当時の利権を永久に失ってしまった事によります。

中国(中華人民共和国)は、戦勝国といっても、自分達では、全く無力で、何もできませんでした。
実際、中共軍と日本軍は、ほとんど戦っていません。
戦勝国といってみても、実質が全く伴っていませんでした。
そのため、日本に対し、強いコンプレックスを持ってしまい、やたらに正当性を主張するようになりました。
最近では、中国の国力がアップしてきましたので、コンプレックスは、より大きくなっているようです。

韓国ですが、本来韓国は、敗戦国なのですが、戦勝国としての地位を求め、他国からソデにされています。
ここでも日本に対して強いコンプレックスから、反日になっています。

ただ、韓国の場合でも中国の場合でも、日本に対して、真に反日の人は、それほど多くなく、パホーマンスの域を出ていないようです。

第2次大戦の事として、回答いたします。

1.これは、とても難しい話で、アヘン戦争の時代からの問題で、簡単には述べられません。
当初明治政府ができた時、朝鮮半島は、無政府状態で、そこに欧米列強の進出が有ると、国防上大変な事になります。
そのため、朝鮮半島を日本の勢力化に置き、本土の前哨線としようとしました。
そのため、利害の対立する、清やロシアとの戦いになりました。
朝鮮半島が日本の勢力下におかれると、さらにそこを守る前哨線として、隣接する満州地区を、さらに満州に隣接する北...続きを読む

Q日本が戦争をした国を教えてください

日本が今までに戦争をした国を教えてください。
中国、アメリカ、ロシア、はわかるのですが、第一次世界大戦、第二次世界大戦の相手国ともすべて直接戦争していますか?ドイツとも戦っていますか?

第二次世界大戦終結は日本の降伏が最後となり、他の国はすでに降伏していたのですよね?最後は日本とアメリカのみが戦っていたのですか?
降伏日がちがっても世界的に第二次世界大戦終戦記念日は1945年8月15日と統一されているのですか?

また、世界大戦中は味方同士の国が一緒になって戦う事はあったのですか?別々に戦っていたのですか?
教えてください。

Aベストアンサー

明治維新以後の日本の戦争の名称と”戦闘相手国”を古い順に書きます。

(1)台湾出兵(1874年):清 ←ただし、台湾の民兵(ゲリラ)との戦闘のみ
(2)日清戦争(1894-95):清
(3)日露戦争(1904-05):帝政ロシア
(4)北清事変(1900):清
(5)第一次世界大戦(1914-18):ドイツ帝国
(6)シベリア出兵(1918-22):ソ連(ボルシェビキ、赤軍)
(7)山東出兵(1927-28):中華民国(国民政府)
(8)満州事変(1931-32):中華民国(国民政府)、ソ連
(9)第一次上海事変(1932):中華民国(国民政府)
(10)支那事変(1937-45):中華民国(国民政府)
(11)ノモンハン事件(1939):ソ連
(12)大東亜戦争(1941-45):アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、ソ連

第一次世界大戦について:
日本は、日英同盟の関係で、ドイツとオーストリアの敵国となったが、戦闘した相手はドイツだけだった。

大東亜戦争について:
・インドなどアジアの諸地域は欧米の植民地であって独立国ではなかったため”戦闘相手国”としなかった。例えば、イギリスの植民地だったインドの人は宗主国イギリスの兵隊として日本兵と戦ったのでインドを”戦闘相手国”としなかった。同様にインドシアはオランダの植民地だった。フィリピンはアメリカの植民地だった。
・前記の5カ国のほかにも大東亜戦争で日本に宣戦布告した国は多数に上るが、日本側は宣戦布告しておらず、また、戦闘も行わなかったため”戦闘相手国”としなかった。

支那事変について:
支那事変は、1937年に日本と中華民国国民政府との間で行われた戦闘だが、初め、両国共に宣戦布告しなかった。1941年に至って相手は日本に宣戦布告したが日本は最後まで相手に宣戦しなかった。

大東亜戦争の名称について:
日本政府の正式名称である「大東亜戦争」には、1937年に始まった支那事変も含まれる。「支那事変を含めて大東亜戦争と呼称する」(1941年12月12日、日本政府閣議決定)

明治維新以後の日本の戦争の名称と”戦闘相手国”を古い順に書きます。

(1)台湾出兵(1874年):清 ←ただし、台湾の民兵(ゲリラ)との戦闘のみ
(2)日清戦争(1894-95):清
(3)日露戦争(1904-05):帝政ロシア
(4)北清事変(1900):清
(5)第一次世界大戦(1914-18):ドイツ帝国
(6)シベリア出兵(1918-22):ソ連(ボルシェビキ、赤軍)
(7)山東出兵(1927-28):中華民国(国民政府)
(8)満州事変(1931-32):中華民国(国民政府)、ソ連
(9)第一次上海事変(1932):中華民国(国民政府)
(10)支那事変(1937...続きを読む

Qなぜ日本は第二次世界対戦に参戦したのか。

一応検索したのですが見つからなかったので質問させていただきます。
どうか教えてください。

タイトルの通り、なぜ日本は第二次世界対戦に参戦したのでしょうか。
その背景には五・一五事件や二・二六事件も関係していると聞いたことがあるのですが、どういうことでしょうか。
そもそも、日本は第一次世界大戦に参戦し、戦争はたくさんの人の命を奪うということが分かったはずなのに、どうして戦争を止められなかったのでしょうか。
レベルの低い質問で申し訳ございません。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

 歴史の流れによるものです。

 鎖国からの開国時、アジアの極東の一島国でその他大勢の国の一つであった日本は、日清・日露・韓国併合・第一次世界大戦と軍事・外交的成功を収め、欧米から列強の一つとして認められるまでになりました。

 ただ、列強トップのイギリス・アメリカとは大きく水をあけられており、イタリアやロシア革命の混乱を脱しはじめたソ連、第一次大戦の敗戦国ドイツなどと同列でした。

 しかし、多くの列強が国境を接ししのぎを削りあっているヨーロッパ・アメリカから最も遠い極東アジアには、列強の利権が最後まで未確定であった中国がありました。
 衰退した清朝の倒れた後の中国は、軍閥が群雄割拠する政治的に混乱した社会があり、中国と隣り合う日本はもっとも有利な地理的位置におり、中国の利権を手に入れれば一躍、アメリカ・イギリス(広大な植民地の中でも、インドという人口の多いアジアの重要地域を手に入れたことが、イギリスの繁栄の原動力でした。)と並ぶ列強トップになれるように見えました。

 第一次世界大戦の破壊からヨーロッパが回復するにつれ、世界の列強間の経済戦争が激化し、お互いの勢力圏から他国を締め出すブロック経済が進展、利権の確定していない中国が各国の経済戦争の主戦場となりました。
 
 経済戦争だけでは、国力のあるアメリカ・イギリスに勝てない日本は、その地の利を生かして軍事的に中国の利権を確保すればよいという考えが、軍内部に生まれました。

 皇道派(現場指揮官が多く、天皇に対する忠誠心など精神論を信奉。)と統制派(陸軍大学卒業者の参謀などが多く、論理を重視。)に分かれていた軍内部は、五・一五事件や二・二六事件によって、統制派がコントロールするようになり、暴力機関である軍の力を恐れた文官・政治家が増えたこともあり、軍内部で独自の政治的意図を持って行動する素地が生まれます。

 この時点で日本の選択肢は、日本がアメリカの覇権を認めるか(第二次大戦後、現在も続いている状況です。)、日本がアメリカと並び立つかという選択になりました。(当時、あめりかのGDPは日本の10倍と言われていました。)そして日本は日本がアメリカと並び立つ可能性にかけたわけです。
(ですから、日本とアメリカの間の戦争は侵略戦争ではありません。)

 日本がアメリカと並び立つには、その経済力の差を少しでも埋めなければなりませんが、その可能性は列強の権益の確定していない中国にしかありません。
 まともに正面から経済戦争をしたのでは、アメリカに勝てません。そこで軍事占領による市場・資源の確保を目指したのです。
(ですから、中国に対しては侵略戦争となります。)

 アメリカに対抗する以上、満州事変から日華事変(=支那事変・日中戦争)太平洋戦争と続くこととなりました。
 
<<個別エピソード>>
・満州事変と支那事変の開始
 戦前の日本の政治システムにおいては、日本軍は皇軍=天皇の軍隊として存在しており、内閣と軍(陸軍=参謀本部、海軍=海軍軍令部)は、天皇のもとで並立する立場でした。
 明治時代においては、明治維新の重鎮(政治家だが、明治維新では軍指揮官としても活動。)が生存しており、内閣・軍双方に対して強い影響力を持っており、天皇を補佐する枢密院のメンバーとして内閣と軍をコントロールし、日本の政治力の根源となっていました。
 昭和になると、この枢密院に軍・行政双方に強い力を持つ人物がいなくなり(政治体制が確立して年数がたったため、軍・行政いずれかの出身者となり、どちらにも強い発言力を持つ人物がいなくなったのです。)、軍事・行政を統括した視点で政治力を発揮出来なくなったのです。

 そのような状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、極力事を構えない。」方針であった(=満州の軍閥、張学良の兵力は、日本軍の10倍あるといわれていた。)のに、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめました。参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となったのです。

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略は、『満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念する』というものでした。

ところが・・・・
Wikipedia抜粋 
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷された。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしいが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

<<日米開戦>> 
 開戦直前に昭和天皇は「本当にアメリカと戦争して大丈夫か」とかなりしつこく聞いています。御前会議(天皇出席の会議)で昭和天皇は「発言する」と言い出して周囲を慌てさせています。当時、既に御前会議は形骸化していて「陛下、このようになります」という申し出に天皇がケチをつけるというのはありえないこととなっていたのです。会議において天皇自らが発言すること自体が異例となっていたのです。
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3146246.html

 歴史の流れによるものです。

 鎖国からの開国時、アジアの極東の一島国でその他大勢の国の一つであった日本は、日清・日露・韓国併合・第一次世界大戦と軍事・外交的成功を収め、欧米から列強の一つとして認められるまでになりました。

 ただ、列強トップのイギリス・アメリカとは大きく水をあけられており、イタリアやロシア革命の混乱を脱しはじめたソ連、第一次大戦の敗戦国ドイツなどと同列でした。

 しかし、多くの列強が国境を接ししのぎを削りあっているヨーロッパ・アメリカから最も遠い極...続きを読む

Q日本は強かったの? 他国から歴史をみたら日本なんてなんてことない国だったの?

第一次、第二次世界大戦の時代
私は今まで、日本はアメリカに負けたけど、日本は戦争に強かった。と思っていました。零戦とか戦艦大和とか聞くし、神風特攻隊を出撃させたのは、作戦には疑問を持ちますが、とにかく日本は強かったんだと思っていました。でも、実際そうなんでしょうか?戦争に関して知識は豊富ではないですが、昔のVTRなどをみていると、簡単に言うと、ずるい方法をとったりしていたようにいわれてました。(約束破り?)
私は日本で日本の歴史を勉強するので日本は負けたけど、すごかった、強かった、というような感じを受けるものが多いですが、ほかの国から歴史を見たら、日本なんてなんてことなかった かのような存在だったのでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸軍は弱かった、人命無視のムチャクチャな作戦をやって自滅して行った…という悪いイメージがありますが、仔細に見るとそうでもありません。

A) 支那事変は、蒋介石率いる国民政府が、上海周辺にドイツ軍事顧問団の指導で建設した第一次大戦型の塹壕陣地(第一次大戦の常識では『突破不可能』。ゼークトラインと呼ばれた)を建設した上で、上海に駐屯していた海軍の上海特別陸戦隊を襲撃し、救援にやってくる日本陸軍を、上海周辺の塹壕陣地に誘致して殲滅する、という計画で始まりました。

蓋を開けてみますと、上海特別陸戦隊は意外なほど頑強に戦って陸軍の援軍が来るまで持ちこたえ、杭州湾に上陸した日本陸軍3個師団は、国民政府が頼みにしていたゼークトラインを「浸透戦術」を巧妙に用いることで少ない損害で突破し、国民党軍を包囲殲滅しながら国民政府の首都である南京へ進撃しました。

これは蒋介石にとって全く予想外のことで、国民政府軍は総崩れとなりました。日本陸軍は、上記のランキングでは「ランキング対象外」の国民政府軍より「遥かに強かった」と言えます。

ウィキペディア 第二次上海事変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

B) ポツダム宣言受諾の「後」に、ソ連軍が北方から千島と南樺太に侵攻しました。
千島列島の北端である占守島、日本領であった南樺太には、比較的装備が良く、兵員も充実した守備隊が残っていました。
8月15日以降のソ連軍の攻撃に対し、占守島と南樺太の陸軍部隊は善戦し、
「占守島においては、上陸したソ連軍をもう少しで海岸に追い詰めて全滅させるところまで戦う」
「樺太においては、ソ連軍の南下を食い止め、南樺太の日本人が北海道へ逃げる時間をかなり稼ぐ」
という戦いぶりを見せています。

<海軍について>
日本海軍については、アメリカに次いで世界第二位の戦力を持っていたのは異論がない所で、戦前においては、東太平洋は「日本の海」でした。

「空母機動部隊」はアメリカと日本だけが編成して運用できたものですし、18インチ砲搭載の戦艦を建造できたのは日本だけです。第二次大戦終結までに完成させた大型空母の隻数で言えば、アメリカが圧倒的に多いわけですが、次に多いのは日本です。第三位のイギリスにかなり差をつけているはずです。

無限の物量と高度な技術を持つアメリカと戦っては、昭和19年のサイパン沖海戦で日本空母機動部隊が壊滅し、レイテ沖海戦で航空機の援護のない「レイテ湾への特攻」を命じられた水上部隊がろくな戦果を挙げられずに甚大な被害を受け、「沖縄への大和特攻」(坊の岬沖海戦)で終わったわけですが、アメリカ海軍相手にここまで戦える海軍は日本海軍だけだった、というのは紛れもない事実でしょう。

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸...続きを読む

Q大東亜戦争でアメリカと戦わないことはできたでしょうか?

ルーズベルトは日本と戦争したかったので、ハルノートなどで日本を挑発して日本から開戦させたという話がありますよね。実際に当時の議会は戦争反対で、ヨーロッパでイギリス、フランスが痛めつけられていてもアメリカから開戦していません。

それなら日本がイギリス、オランダ、中国とだけ戦っていれば、アメリカから開戦できなかったのではないかという気がします。ルーズベルトがどんなに開戦したくても議会に反対されたらできないと思うので、状況を見ながら必要ならロビー活動などをしながらアメリカを敵にしないように注意していればよかったのではないかと思うのですが。

イギリス、オランダ、中国相手なら実際に日本は勝っていますから、シンガポールが落ちた所で有利な講和に持ち込めると思っているんですがどうなんでしょうか? それで蒋介石援助のルートを遮断してしまえば、中国との戦争も時間の問題となり、大東亜共栄圏ができて日本が盟主になれたと思うんですが。

Aベストアンサー

ちょっと前に、アメリカはフセイン・イラク(当時)に対し「お前は大量破壊兵器を持っている。大人しく差し出せ。差し出さねば戦争だ」と迫りました。当時のフセイン大統領は「そんなもんは持っていない」と反論しますが「隠すとはふてえ野郎だ」といって、とうとう攻め込んでしまいました。米国民はこれを熱狂的に支持します。戦争に慎重な意見を述べた人たちは軒並み「反愛国者」のレッテルを貼られてしまいます。
で、結局のところ「大量破壊兵器ってなかったね」ってことがわかります。つまり、根も葉もない言いがかりをつけて戦争しちゃったわけです。
また、1964年にアメリカ軍の軍艦が北ベトナム(当時)の魚雷艇の攻撃を受けたと発表し反撃、これを口実にアメリカはベトナム戦争に本格介入、いわゆる北爆も開始しました。世にいうトンキン湾事件です。しかし後にこの事件はCIAによってねつ造された事件だということが発覚します。
他にもあります。1990年の湾岸危機の際、アメリカ議会でクウェートから脱出してきたという少女が涙ながらにイラク軍の蛮行を訴えました。彼女は自分の目の前で弟がイラク兵によって惨殺されたといったのです。当初イラクへの介入を嫌がっていたアメリカ国民はこれを見て激高、世論は一気に戦争支持へと傾きます。しかし、実はその少女は「在米クウェート大使」の娘で、湾岸危機発生当時はニューヨークに住んでいたのです。

アングロサクソンは本気になるとそういうことをやる人たちです。つまりアングロサクソンが本気で「戦争をする」となったらねつ造でもなんでもいかなる手段をとっても戦争に持ち込むんです。

太平洋戦争直前に、日本軍はインドシナ(今のベトナム北半分)に進駐します。当時の日本のインテリはみな(軍部も含めて)「ここがギリギリのライン」と思っていました。しかし、これに対してアメリカはくず鉄と石油の禁輸を打ち出します。ここで日本は衝撃を受けました。たぶん、何人かの人は「これはもうアメリカが本気で戦争に持ち込もうとしている」と感じたと思います。

対イギリス、オランダに限定して戦争を始めたとしても、いずれ数年でアメリカは介入したでしょう。おそらく口実はフィリピン沖でアメリカ海軍の艦船が日本軍によって攻撃を受けたとかそういうことになったと思います。
そうなれば、史実と違いフィリピンは米領ですし、グアムなども日本は占領していません。旧英領、オランダ領の占領と維持のために多くの艦船と部隊が必要ですから、フィリピンやグアムを占領するための艦隊と地上部隊は限定されたものになるでしょう。またフィリピンから出航した潜水艦部隊が史実のように通商破壊戦を行えば史実以上のハイペースで南方補給路線は干上がったと思われます。

当時のアメリカにとっての最大の敵はナチスドイツであり、日本は「それが終わった後に片付ければよい相手」でした。実際問題、対日戦では対独戦に勝利するまでは反撃をせずに戦線を維持するのが当初の方針でした。日本が最大版図としたあたりのラインまではアメリカとしても許容範囲内でしたし、あれ以上は日本の補給路では限界だったでしょう。アメリカはミッドウェーまでは落ちてもいいと思っていたんです。
ですが、陸軍ばかりに豊富に予算が回ることに対する海軍のやっかみと、陸軍の稀代の軍人政治家マッカーサーの政治活動で対日戦も反撃せざるを得なかったんです。1944年のフィリピン上陸までは太平洋戦線にいたアメリカの地上部隊は第一、第二海兵師団くらいでした。

ちょっと前に、アメリカはフセイン・イラク(当時)に対し「お前は大量破壊兵器を持っている。大人しく差し出せ。差し出さねば戦争だ」と迫りました。当時のフセイン大統領は「そんなもんは持っていない」と反論しますが「隠すとはふてえ野郎だ」といって、とうとう攻め込んでしまいました。米国民はこれを熱狂的に支持します。戦争に慎重な意見を述べた人たちは軒並み「反愛国者」のレッテルを貼られてしまいます。
で、結局のところ「大量破壊兵器ってなかったね」ってことがわかります。つまり、根も葉もない...続きを読む

Q精神障害者手帳2級とはどのレベルのなのでしょうか

最近身内になった方が、精神障害者手帳2級を持っていることを知りました。

普通に遊んでいますし、喋れます。料理もしているし、ゲームもしています。
普通の生活はできていると思います。

仕事はできないそうです。
たまに頭が痛くなるとか。

なぜこのような質問をしているかと申しますと
子作りをしていると聞いたからです。

薬を飲んでいないなら妊娠してもいいと書いてあるサイトは見ましたが、子育ってって楽じゃないですよね。
私にも子供がいますが、やはり大変でした。
普通の人でも精神的に不安定になると思います。
ことあるごとに「鬱だから」と言ってひきこもる彼女が、このタイミングで子供を作っていいのか疑問なのです。
友人だったら応援するかもしれません。
しかし、身内となると、そうは言っていられません。
何かあった時に産まれてきた子供がかわいそうです。

※鬱病の方を批判しているわけではありません。

中立なご意見をお願いします。

Aベストアンサー

あなたの身内がどんな精神障害かは解らないですが薬で症状が和らぎ普通に生活できる人もいます。
理解あるパートナーが本人の調子の悪い時に100%面倒(家事、子育てなど)を見てくれるならまだ良いですがなかなかそういう訳にもいかないのが結婚生活だと思います。
そんな状況下で育てられたこどもは不安ですよね

2級ともなると年金が支給されるほどのかなりの重度なので一人では生活できない程度です。
自己の判断もできない状況が多々あると思われます。
そんな人が子育てはちょっと無理かな、子育てが出来るなら仕事もできるんじゃない?と思うのは当然ですよね。
私もそんな状況で子育てには賛成できません

ですががやはり決めるのは本人です
あなた自身がいろいろと調べた結果それを踏まえてアドバイスするのは良いでしょうがそこまでにしておいた方が良いのかもしれません。
強要すると症状が悪化するかもしれないのでなるべくその方の両親を通した方が良いかもしれない。

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。


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