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現在の愛知県名古屋市南区、中川区、港区の中の地域で
部分的に埋め立てられて出来た
「熱田新田」についてですが、
正保4年から日々を費やし
海を埋め立て水田を完成させたのが1649年となっています。
その後、熱田新田〔水田〕の発展が進み、
その地に村が誕生したのが
(例えば、その地域の中の明徳村の誕生は1889年〔明治22年〕)
とありますが、
熱田水田が出来てから村が誕生するまでの長年(240年もの間)は
その地の辺り一面は、水田地帯のままで、
人々はその地に家を建て居住していなかったのでしょうか?

またその地にいつ頃から
一般の人々は居住するようになったのでしょうか?

全く分からない事だらけです。
少しでも知っている方々
すみませんがどうぞ教えてください。

A 回答 (1件)

明徳村自体は、明治22年の市町村制度ができたときに命名されただけであって、実態としての村落はすでにあった。


http://www.nakagawa-ho.or.jp/sibu/myoutoku.html

熱田新田がどのようにできたかは不明ですが、小規模の新田の場合は、村請けとかで、その村の次男・三男坊が新所帯を持つようなことになります。

新田新田はたぶん、尾張藩が主体となっているはずなので、農地ができたら逐次、尾張藩内の次男坊・三男坊が公募され移民しているはず。

※ この推測は、我が家の歴史をお寺の過去帳から調べたときの経験からです。江戸時代の270年間で、河の下流へ 下流へと 分家を出して、その分家の末端が、自分の親だった。
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この回答へのお礼

回答どうも有難うございます。

明徳村につきましては、
tanuki4uさんが示してくださったURL先に
明治22年以前より存在していたと
書かれてありましたね。

無知で恥ずかしいです。

熱田新田は、徳川家康の九男に当たる
尾張藩初代・徳川義直の支持によって
開拓されたとありますので、
熱田新田の後の土地には
尾張藩内(徳川家)に纏わる方々や、
実際に埋め立てに携わった鬼頭景義などの関連の人々が
現在多く住まれていると思っていいのでしょうか?

・・何だか漠然としています。

お礼日時:2008/03/02 00:10

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