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A 回答 (5件)

幕府は、キリスト教の浸透→外国の侵略 を恐れたのです。

(鎖国の理由)。 それでも、世界の情報はほしかったので、幕府が直接管理・統制しやすいよう、出島一箇所に限定し、オランダに限って貿易を許したのです。
 当時の日本は、豊かで、金銀の産出も多く、豊かで自給自足が可能でした。 
 ヨーロッパ諸国では、オランダのみに限定したのは、あまりキリスト教を布教しようとしなかったことにより「侵略の野心なし」と判断したためのようです。他のヨーロッパ諸国の情報はオランダから入手できると考えたのでしょう。
 中国との貿易は出島以外に薩摩藩が琉球を通じて相当盛んに行なっていたようです。
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開港地を限定したのは幕府の管理を容易にするためです。


実際にはN02のご回答にあるように幾つもの開港地はありましたが幕府の公認し直接管理したのは出島だけです。

これは海外の情報を幕府が直接入手するための手段でした。
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ずばり、白人がこわかった


という説があります。
出島の出入り口一つを占めてしまえば
もう出入りできませんからな

ちなみに、江戸時代の250年間
唯一の貿易国だったのに
明治維新政府は、オランダには
冷たかったそうだ。
出島付近も、すっかり埋め立ててしまったり
日本政府は、いろんな面で外交音痴だったのね。
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貿易は出島だけだったわけではありません。


朝鮮との貿易は釜山でおこなっていました。
また薩摩は琉球経由で貿易をしていました。
ただ、オランダとの貿易を出島に限定したのはオランダ貿易を幕府が管理するためです。(出島でなければということはありません、歴史的な経緯で出島になっただけです。)
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この回答へのお礼

 そうなんですか!
 ありがとうございました★

お礼日時:2008/03/03 19:03

回答じゃないです。



考察なのでしたら、何らかの資料があるはずです。
その資料から答えを導かないと考察とはいえません。
なので、ここでどなたかに答えていただいたとして、その資料からは明らかに導き出さない答えを書いていたら、逆に困りますよ。

たとえば、答えがA,B,Cと三つあったとして、資料からはA,Bしかわからない、なんて場合、どこからCがわかったのか、と突っ込まれます。
もしどうしても聞きたいなら、どんな資料なのか明記した方がいいです。
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この回答へのお礼

 わかりましたぁ★
 調べてみますっ

お礼日時:2008/03/03 19:04

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Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこん...続きを読む

Q長崎を貿易拠点にした理由について

長崎を貿易拠点にした理由について
オランダとの貿易拠点をなぜ
長崎の平戸に置いたのでしょうか?
別に鹿児島でも山口でも構わない
ように映りますが。

Aベストアンサー

中国やヨーロッパに最も近い港はどこでしょうか?
長崎じゃありませんか?
彼らは何ヶ月も危険な航海をしてオランダから来ます。少しでも航海距離の短い場所が良いし、本州や九州南端では難破の可能性が高まります。更に言うならば鹿児島・山口は幕府領ではありません。

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Qオランダは何故、鎖国中でも貿易できたのか?

中学の時の社会科教師が、クラスのやる気の無さにキレて教えてくれなかったのですが。

江戸時代に西洋の国なのにオランダが貿易を許されていたのは何故なんでしょうか?

オランダはキリスト教の布教活動はしなかったんでしょうか?

10年ぐらい気になってます。

Aベストアンサー

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・

安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵をさせた訳です。(カトリックの信徒にとっては十字架や聖母図は踏めませんからね)

ところが、そのころ日本に進出していたオランダ商人はプロテスタント系キリスト教(偶像崇拝を否定するキリスト教)信徒が多かった(ここ以降は多少あやふやな記憶ですので、あまり自信ありません)ために、「我々はキリスト教ではない。証拠に十字架なんぞはいくらでも踏んでみせる・・・」というようなやり取りがあって、「オランダはは邪蘇教(ヤソ教=江戸時代におけるキリスト教の呼び名です)ではない」というのが幕府の公的見解になって、出島でのみ貿易を許可された・・・という話だったと思います。

ただ、実際は、幕府もオランダが「ちょっと変わった」キリスト教であるということは知っていたようですが、鎖国しているとはいえ、世界の状況も知っておいた方が良いということで、目をつぶっていた・・・という話もあります。

長くなってしまいましたが参考になれば・・・

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・

安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵を...続きを読む

Q地球の水は何故なくならないのか

うちの従兄弟(5歳)が、妙な事を口走りました。
「お兄ちゃん、何で地球の水はなくならないの?」
恥ずかしながら、答えは、見つかりません。
是非、5歳児でも分かる回答を、
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

大人に説明するなら、水の飽和さえ分かれば簡単ですね。
上層の空気は気圧が低く、温度が低い。そのため、飽和量(蒸発した湿気を含める量)も少ないため、気化した湿気が水に変わりやすいという特徴があります。
さらに、水が蒸発する場所では空気が暖まるため、上昇気流が発生し、上昇する空気があると今度は下降する冷たい空気ができます。これは、「対流」と呼ばれ、「重力」という地球が物を引きつける力によって外部に空気や水分があまり漏れないようになっているために、このような循環が発生するのです。また、太陽の光があることで、地表が熱せられますから、水分の蒸発や空気を暖める効果が発生します。

*ちなみに、既に解答があるように地球から離れる水分ももちろんある。これは紫外線による分解に限ったことではなく、地球外に放射されることもある。

まあ、これは理論としてのものですけどね。
ちょっと間違いもあるかも・・・

子供に説明するなら、詳しく何でも教えなくとも、今の年齢なら「雨で降ってくるから」で十分でしょう。それでも「何故雨は降るの」と言うならば、「雲があるから」「どうやって雲はできるの」と来たら、「さあどうしてだろうね」とこっちから本人がどう思うか聞いてみる。本人がどう思っているか聞いてから、答え方を考えるのも良いかも・・・ね。

それとちょっと、補足です。

「三つ子の魂百まで」という意味は、子供の頃の性質が大人になっても変わらないと言う意味で、間違った知識が百歳まで残るとはちょっと異なり。正確や性質が大人になっても変わりにくいという意味だと思うのですが・・・まあ、その性格によってはずっと勘違いしたままということもあるでしょうから、そのあたりは状況によってですね。ただ、気象などは間違って教えても身近に起こることで学校などでもある程度教えますから、間違ったままになることは無いはずです。

大人に説明するなら、水の飽和さえ分かれば簡単ですね。
上層の空気は気圧が低く、温度が低い。そのため、飽和量(蒸発した湿気を含める量)も少ないため、気化した湿気が水に変わりやすいという特徴があります。
さらに、水が蒸発する場所では空気が暖まるため、上昇気流が発生し、上昇する空気があると今度は下降する冷たい空気ができます。これは、「対流」と呼ばれ、「重力」という地球が物を引きつける力によって外部に空気や水分があまり漏れないようになっているために、このような循環が発生するのです...続きを読む

Q江戸時代の貿易について

江戸時代に長崎の出島でオランダと貿易をしていましたが、オランダからの輸入品や日本の輸出品と言うのはお互い「これが欲しいから送ってくれ」みたいなリストがあったんでしょうか?
それとも、これはオランダや江戸幕府が勝手に何を送るか決めていたのでしょうか?

わかりにくい文で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

長崎貿易は、時期により取引の仕方が異なっていたようです。松井洋子「長崎出島と唐人屋敷」によると以下のように時期区分されます。
(1)糸割符制度(1641-54)・・・糸割符年寄が売手方と話し合って生糸の等級ごとの統一価格を決め、一括で買い取る。
(2)相対貿易 (1655-71)・・・売り手と買い手の間で価格を決定する。1668年には輸出入の品目を制限し、オランダへの銀輸出を禁じる。
(3)市法商法 (1672-84)・・・奉行が全輸入品の買取り価格を決定し一括購入する。
(4)定高制  (1685-  )・・・1年の貿易額を中国船は銀6,000貫、オランダ船は金50,000両、私貿易品(脇荷)は銀400貫に制限する。
(5)正徳新例 (1715-  )・・・A.銅の輸出額を450斤と定め、中国船へは不足分として俵物等を渡す。B.オランダ船は2艘、中国船は30艘とし、積荷の銀高を決める。C.中国船には信牌の所持を義務付ける。D.輸入商品は日本側で価格を決定する。

基本的には、日本側は生糸が欲しく、オランダ側は金銀が欲しかった。しかし、貿易をすると日本の金銀がどんどん海外へ流出してしまうので、これに歯止めをかけるために、何度も取引方法の改革をしたようです。回答になっていないかもしれませんが、参考になれば幸いです。
正徳新例については、以下のサイトを参考にしてください。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6%E4%BA%92%E5%B8%82%E6%96%B0%E4%BE%8B

長崎貿易は、時期により取引の仕方が異なっていたようです。松井洋子「長崎出島と唐人屋敷」によると以下のように時期区分されます。
(1)糸割符制度(1641-54)・・・糸割符年寄が売手方と話し合って生糸の等級ごとの統一価格を決め、一括で買い取る。
(2)相対貿易 (1655-71)・・・売り手と買い手の間で価格を決定する。1668年には輸出入の品目を制限し、オランダへの銀輸出を禁じる。
(3)市法商法 (1672-84)・・・奉行が全輸入品の買取り価格を決定し一括購入する。
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Q鎖国時代にできた出島について

 鎖国の時に長崎の出島はポルトガルやオランダとの貿易の拠点でした。
 そこで素朴な質問なのですが、なんで「長崎」に外国船はきたのですか?航海してきて一番はじめに見える陸が九州だったからなのかもしれませんが、九州には長崎以外の港だってありますよね。(鉄砲が伝わったの鹿児島でしたし…)なにか長崎で貿易することで利点はあったのですか? 
どなたか教えてください!!

Aベストアンサー

長崎になったのは、簡単に言うと、ポルトガル人が「ここがいい」って言ったからです。
しかし、これにはいろいろ紆余曲折があって、まずは平戸に貿易港を築いたものの、大村領横瀬浦に移り、さらに福田というところに場所を移しました。
しかし、福田は貿易港として不適格だったため、島原半島の口之津港に移したものの、ポルトガル人が「大村氏の領土でないとイヤだ」クレームが出たため、長崎に白羽の矢が立ってポルトガルも了承したため、長崎が貿易港になったと言うことです。
開港当時は出島はなかったのですが、キリスト教禁教令により隔離されるようになり、出島に収容されたということです。1637年の島原の乱によりポルトガル人が追放された後、平戸にいたオランダが出島に移り、出島の主になった、ということです。
ちなみに、出島は当時は扇の形をしていたため、「扇島」と呼ばれていたらしく、どうやって作ったのか、誰が設計し、現場を指揮してたのか、一切が今もって謎です。

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む


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