真善美とはどういうものですか?気になって
しかたがないんです。どなたか教えていただけないでしょうか?

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A 回答 (6件)

あなたが哲学的探求をはじめるための入口の一つです。


(それは神とは何かでもよいし、宇宙とは何かでも、一とは何かでも、その他なんでも構いません。)
人生をかけてこの問いを問いつづけてゆけば、素晴らしい果実が収穫できるのではと思います。

あなたが今分かっていると思っている様々なことがらは、結局あなたの内から訪れました。色々な人に質問をぶつけてみることはよいこです。つねに問いつづける姿勢が大切だと思います。答えはあなた自身の中にあるでしょう。私はそう思います。
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「真善美」とはあなたがこの文字を見たときに感じた・・・そう、それです。

(笑)
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もっとわかりやすく言うと、哲学で真善美に最高の


価値をおいているけど、我々、普通に生活している人に
とっても、真実を探究するひとを否定することはできないし、我々も真実はあるとしんじて生きている。とりあえずは、人間の本姓は善であれ悪であれ、いずれもであろうとも我々は、倫理や道徳を作らないと生きていけない。
そして、シェリーが「美しいものは永遠の喜びなり」というように、美なるものを否定できない。
まぁ、どんなひとでも一生かんがえていかなあかんこと
じゃないですか?
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前のお二方とは違った観点からひとつ。

ただ、ごくごくかいつまんで。
人間には欲望と目的が与えられており、心と身体からなっていますが、身体に起因する欲望が衣・食・住とするならば、心に起因する欲望が真・善・美と言えるでしょう。これらは各々知・意・情に対応する価値です。(価値とは「欲望を充たしてくれるもの」です)
同一の対象を認識(判断)するとき、心の三機能(知・意・情)に従って各々違ったように表現されるのです。
例えば、mayu00さんが気に入った車があったとして、それは使用目的にかなって真であり、性能も善く、デザインも美しい、ということです。
心の欲望を充たしてくれる価値として、真・善・美があるということです。
あまりに簡単な説明で誤解もあろうことかと・・・。
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 さしあたり「古代ギリシアの三元徳」のことではないでしょうか。

意味はzosoさんの言われるとおりです。もしこちらなら、高等学校の「倫理」の教科書あたりをお読みになれば基本的なことはわかると思います(どっかの本屋で立ち読みしちゃいましょう)。
 他に「真善美」ということで思い浮かぶのは、ヴィルヘルム・ヴィンデルバントくらいかな…。新カント学派の人で、カント哲学を「価値判断の哲学」「価値批判の哲学」として発展・継承しました。で、その目標となる価値というのが「論理的価値としての真」「倫理的価値としての善」「審美的価値としての美」です。
 もしこちらなら、岩波文庫で『哲学概論』(2巻)があります。その他の主著も一通り翻訳が出てますが、『西洋近世哲学史』(創元社)は5巻本、『一般哲学史』(第一書房)は4巻本と、かなりヘヴィーです。図書館でお探しになるといいと思います。
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真善美がどういうものかとのことですが、これは説明したらキリがないでしょうから、最も手短に。



真善美は、人間の普遍妥当な価値を言い表しているものとされています。
真は認識上の価値、善は倫理上の価値、美は審美上の価値です。

その内容は、学派や時代などによって様々ですから、何ともいえません。

以上、紋切り型の説明でした(^o^)
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Q体がかゆいのに

普通、体がかゆくなるとその部分をかくとすっきりしますよね。ところが、私は時々体がかゆくなるのですがかゆいと感じる部分をかいてもその場所じゃない感覚に陥るのです。だからどこがかゆいのかわからないというか・・・
これって病気でしょうか?凄く気持ち悪いです。どなたかアドバイスお願い致します。

Aベストアンサー

以前に同じような質問がありましたよ。

私も良くあります。
とこが痒いのかわからず、スッキリしないですよね…
でも、おかしいことではないですよ。

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=340325

Q真善美の歴史

真善美の歴史

真善美について、何でも教えてください。





真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。

地球のどの地域の価値体系でしょうか。

アジアには、真善美を価値体系とする伝統はあるのでしょうか。


よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
遅い投稿となりますこと、なにとぞご容赦下さい。

>真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。

「美」が文明の営みとして、「真」「善」とともに語られるものであるのなら、
その源は古代ギリシアにまで遡ることでしょう。

プラトン以前の古代ギリシアにおいては、美しい詩を創作するなどの芸術行為により、
「カロカカキア(美悪合一)」から「カロカガティア(美善合一)」なる〈神〉へと
二次的に近づくものとみなされておりましたが、
その後のプラトンによって、感覚美と共に道徳的な精神美までもが理論化されるに至ります。


>アジアには、真善美を価値体系とする伝統はあるのでしょうか。

はい。まず中国思想についてですが、
本来の「芸術」とは、技芸学術一般を指す一方、呪術性をも意味する言葉であり、
何と言っても、中国人の世界観の根底には「道」が欠かせません。
古くから「技」と「道」あるいは「芸」と「徳」を分け、
技よりも道、芸よりも徳を至上とする思想もあります(『荘子』『楽記』)。
殊に六朝以降、徳行による上下の序列を定めることで、
「芸」と「徳」とが統一的な、より高度な精神性が希求されます。

古代の韓国の場合には「花郎道」にみられる調和のとれた美、
つまり精神と肉体、善と美の合一が尊ばれたようです。

イスラムにおいては、
美的感受性より行為自体の美(=人格美)を重んじる傾向があり、
人間が善美の行いを積むことこそが、アッラーの神に報いることとみなされます。

最後に日本です。
坪内逍遥が「渋しといふも意気といふも、共に巧芸に所謂美ならん」
と記したように、日本の伝統に「美」に相当するものを見い出しながらも、
当時語られた「真善美の一体化」は、文明開化の証として、
シェリング或いはバウムガルテン等の西洋思想に基づくものでした。

野蛮との対比としての文明を模索するかのように、
〈美術〉が文明社会に欠かせないものとみなされるようになります。
西周も『美妙学説』において「道徳ノ性(善悪)」「正義の感覚(正不正)」「美妙(美醜)」
こそが人において重要な構成要件であると論じております。
(森鴎外は別の見方を抱いていたようですが)

いずれにせよ「小説ハ美術なり」とした逍遥も含めた、明治の知識人達は、
ともすると西洋的な進歩史観に陥ったとの見方もありましょうが、
現代に生きる私達には遠く及ばないほどの真摯な気概に溢れる姿勢でもって、
「真善美」を通じて新たな理想社会を希求したに違いありません。

以上、多少なりともご参考になりましたら幸いです。

参考文献:『講座 美学1』東京大学出版会

こんにちは。
遅い投稿となりますこと、なにとぞご容赦下さい。

>真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。

「美」が文明の営みとして、「真」「善」とともに語られるものであるのなら、
その源は古代ギリシアにまで遡ることでしょう。

プラトン以前の古代ギリシアにおいては、美しい詩を創作するなどの芸術行為により、
「カロカカキア(美悪合一)」から「カロカガティア(美善合一)」なる〈神〉へと
二次的に近づくものとみなされておりましたが、
その後のプラトンによって、感覚美と共...続きを読む

Q体を温める飲み物

今の時期、ほぼ毎日屋外のプールで泳いでいるのですが、曇った日などは水温が20℃にもなります。
そこで、泳いでいる最中にも飲むことのできる、体を温める飲み物が何かあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

泳いでる最中、というのは、泳いでいる間の休憩中、ということで考えて良いですか?

体を温めるなら、生姜がお勧めです。
摩り下ろした生姜の汁を飲み物に入れておけば、手軽に摂取できると思いますよ。
はちみつなどを入れれば飲みやすいです。

Q真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第九章 いわゆる真善美について

 1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。

 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。

 6. では 美はどこに位置づけられるのか?

 7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。

 8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。



 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。

 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。

 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。

 14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。




 

 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。

 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。

 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。

 19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。

 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
 (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。

 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。






 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。

 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。


 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。

 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?





 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。

 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。

 30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。




 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。

 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。

 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。






 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。

 37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。

 38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第九章 いわゆる真善美について

 1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
 真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。

Q体の部位の名称 鼻の下の溝?

鼻の下の真ん中にクチビルに向かう溝がありますが、
その部位の名称があるのでしょうか?
あれば、なんという名称なのでしょうか?

Aベストアンサー

鼻の下、上唇の上に位置する溝状の部位は「人中;じんちゅう」と呼ばれます。

と、別の人が回答しているのをパクッてしまいしまいた。

Q真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。



 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。

 6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?

 7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。

 8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。




 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。

 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。

 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。

 14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。




 

 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。

 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。

 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。

 19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。

 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
 (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。

 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。






 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。

 23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。

 23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。

 23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。

 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。


 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。

 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?





 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。

 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。

 30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。




 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。

 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。

 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。






 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。

 37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。

 38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかある...続きを読む

Aベストアンサー

真理は善悪の彼岸?
 真理に善悪は無いと思います。
 善悪は人の心が生み出すものだから。

 人の心は真理から生まれ出る一現象であって、生命体に宿る心なので自己(肉体)の保存、維持は他の有機物の養分を取り入れ(殺生)なければならず、それ故にそこから善悪感が生じるのだと思います。なぜならば自身の命を維持するために取り込む養分は自身と同じ"生命体(同朋・同胞)"だから。

 美、についてはまだよく分かりません。美は善とつながり、悪につながるのは醜かな、と思うくらいです。

 真理は一つ。
 この世は"絶対"の精神体。
 この"精神"に意志、理性、感情という働きがあって・・・だから人間の心にも・・・。

 「意・理・感」
 意力に依って現象し、それは感(物質)となり、その変化は理(的)に。

 意力によって、あらわれた物質現象は理的であって"奇跡"は起きない。
 "奇跡"を起こせるのは精神のみ。

 釈迦の精神、キリストの精神、然り。
 生命を善とするならばブラジュロンヌさんの説は的を射ている。

 ・・・・・と、思いました。

真理は善悪の彼岸?
 真理に善悪は無いと思います。
 善悪は人の心が生み出すものだから。

 人の心は真理から生まれ出る一現象であって、生命体に宿る心なので自己(肉体)の保存、維持は他の有機物の養分を取り入れ(殺生)なければならず、それ故にそこから善悪感が生じるのだと思います。なぜならば自身の命を維持するために取り込む養分は自身と同じ"生命体(同朋・同胞)"だから。

 美、についてはまだよく分かりません。美は善とつながり、悪につながるのは醜かな、と思うくらいです。

 真理は一...続きを読む

Qいきなりですが... 公園の池などで泳いだことはありますか?? あと泳ぐと何か体に害はありますか?

いきなりですが...
公園の池などで泳いだことはありますか??
あと泳ぐと何か体に害はありますか?

Aベストアンサー

池で溺者の救助をした経験が有りますが、それ以外で泳ぐ事は有りませんね、
泳ぐ事による一番の危険性は雑菌感染です、何が潜んでるか判りませんからね。

Q気が利かない人に「気が利かないなあ。」と言うような人は、 いつも気が利く人が、偶々、咄嗟に気を利かせ

気が利かない人に「気が利かないなあ。」と言うような人は、
いつも気が利く人が、偶々、咄嗟に気を利かせる事が出来なかった事があった時にも、「気が利かないなあ。」と言いそうな気がするのです が、如何なものでしょうか?

どんなに気が利く人でも、
どんなに真面目で優秀で、知識や教養の他に知恵があって臨機応変が出来る人でも、
全知全能の神ではないですし、
何でも出来るランプの魔神ではないですし、
「少し調子が悪くなれば蹴られる高性能ロボット」ではない、ですよね?

Aベストアンサー

「気が利かないなぁ」という発言は、大分類上「感想」と呼ばれる分類になります。

「事実」や「命令」などは注意深く聞く必要がありますが、「感想」は注意深く聞く必要が無い場合も多いです。

「感想」を注意深く聞くと良いケースもあります。それは「好きな人」が感想を言う場合です。この場合は注意深く聞いて、彼/彼女の感想を覚えておくと良いです。
それ以外の場合であれば、「感想」は聞き流しておくのがよろしいと思います。

Q左半分の体絶対呪われてます。お祓い考えています

私は左半分の体、絶対何か呪われています。昔から左側だけ妙に怪我や体の支障が多いです。

小さい頃から、逆立ちに失敗して左足首をねんざ。
チャリに乗ってこけては左ヒザに大けが。
左のふくらはぎにもライン上の怪我。
大人になるにつれて左顔だけ肝斑が出来、スッピンがおそろしく(治しましたが)、
左腕には傷が出来、火傷をおおいました。
左足の爪に重い物を落とし黒くなりました。
などなど。

右半分の体はとてもきれいなんです。

左側は内面、右側は外面と聞いた事があります。内面は内面生活全てきっとボロボロなんです。
表向きだけ生活など全て周りからとてもよく見えるのは確かだと思います。

ここまで色々続くと、お祓いを考えています。

何かいい所やいい方法はありますか?
よろしくお願いします。どうしたら左半身の怪我が止まりますか?

Aベストアンサー

こんばんは。
呪われているんですか?それは大変ですね
左側ばかりに集中とありますが もしかすると体がいがんでいるのかもしれませんよ
どちらかが傾くと カバーしようと反対側が動きます
神経が集中するので あなたの場合左側の動きがおろそかになっているのかも・・。
一度鏡の前に立ってみてください 片方の方だけ上がっていませんか?

とはいってもそれだけで証明できない症状がありますね。
お祓いの前に ご先祖のお墓参りに行ってください
そこで私を守ってくださいとお願いしてください
お墓はきれいに掃除をしてあげてくださいね。

オカルト的な話になりますが 先祖供養をするとたいていの症状が消えるそうです。
お墓汚れていませんか? 
この間のお彼岸に行きました!ということなら お祓いに行きましょうか
だいたい5000円~一万円でしてくれます。

あなたに伝えておきたいのですが なぜ左側ばかり また左だわ!やっぱり呪われてるんだわ
そういう思いが 少なからず影響してきているのではないかと思います。
呪いは本人が自覚して初めてかかります 
もし怪我をしてしまっても もし守ってもらっていなければ
もっと大きな事故になっていたと 自分自身の考え方も変えること
お祓いをしてもらった後は
私は守られているんだと自信を持って生きてください。




 

こんばんは。
呪われているんですか?それは大変ですね
左側ばかりに集中とありますが もしかすると体がいがんでいるのかもしれませんよ
どちらかが傾くと カバーしようと反対側が動きます
神経が集中するので あなたの場合左側の動きがおろそかになっているのかも・・。
一度鏡の前に立ってみてください 片方の方だけ上がっていませんか?

とはいってもそれだけで証明できない症状がありますね。
お祓いの前に ご先祖のお墓参りに行ってください
そこで私を守ってくださいとお願いしてください
お墓はきれ...続きを読む

Q無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。
実在する仮面ライダー。
黒き明星だ。
私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。

まあ、無についておさらいだ。
以下を読みたまえ。

無の悟りとは単純明快である。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7612407.html

無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。
さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。

イデアの開眼は哲学の目標だ
http://okwave.jp/qa/q8767250.html

この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。
そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。

ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。
記憶の墓標作戦。

僕は死にましぇん。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8787474.html

自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。
所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。
この構図は仏陀の伝統を踏襲している。

私は永遠に生きる。
君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。

古来の、
私は涅槃に行く。
君達は六道輪廻に苦しみ抜く。

この両者の基本は変わらない。
私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。
お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。
それどころか無であるとまで言ったんだ。
君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。
それが君達の本願で有る救いだ。
しかし、無であるとか言ったね。
この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。
そう言う無だ。
そもそも聞いても何にもなんないだろう。
私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。
仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。
真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。
君達は自らの意思で絶望を選択する。
このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。
お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。
心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。
それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。
信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。

さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。
お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。
承知でコケにした。
この学説にご意見ご感想をどうぞ。

私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。
実在する仮面ライダー。
黒き明星だ。
私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。

まあ、無についておさらいだ。
以下を読みたまえ。

無の悟りとは単純明快である。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7612407.html

無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。
さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。

イデアの開眼は哲学の目標だ
http://okwave.jp/qa/q8767250.html

この観念世界「...続きを読む

Aベストアンサー

頼まれど われ頼むかは 阿弥陀仏!!
 余計な真似を すると殺すぞ
               by ネムネコ

お前もそうだ、Flareon♪


撲殺天使ドクロちゃん
https://www.youtube.com/watch?v=dgN4sR6vJfQ


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