真善美とはどういうものですか?気になって
しかたがないんです。どなたか教えていただけないでしょうか?

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A 回答 (6件)

あなたが哲学的探求をはじめるための入口の一つです。


(それは神とは何かでもよいし、宇宙とは何かでも、一とは何かでも、その他なんでも構いません。)
人生をかけてこの問いを問いつづけてゆけば、素晴らしい果実が収穫できるのではと思います。

あなたが今分かっていると思っている様々なことがらは、結局あなたの内から訪れました。色々な人に質問をぶつけてみることはよいこです。つねに問いつづける姿勢が大切だと思います。答えはあなた自身の中にあるでしょう。私はそう思います。
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「真善美」とはあなたがこの文字を見たときに感じた・・・そう、それです。

(笑)
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もっとわかりやすく言うと、哲学で真善美に最高の


価値をおいているけど、我々、普通に生活している人に
とっても、真実を探究するひとを否定することはできないし、我々も真実はあるとしんじて生きている。とりあえずは、人間の本姓は善であれ悪であれ、いずれもであろうとも我々は、倫理や道徳を作らないと生きていけない。
そして、シェリーが「美しいものは永遠の喜びなり」というように、美なるものを否定できない。
まぁ、どんなひとでも一生かんがえていかなあかんこと
じゃないですか?
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前のお二方とは違った観点からひとつ。

ただ、ごくごくかいつまんで。
人間には欲望と目的が与えられており、心と身体からなっていますが、身体に起因する欲望が衣・食・住とするならば、心に起因する欲望が真・善・美と言えるでしょう。これらは各々知・意・情に対応する価値です。(価値とは「欲望を充たしてくれるもの」です)
同一の対象を認識(判断)するとき、心の三機能(知・意・情)に従って各々違ったように表現されるのです。
例えば、mayu00さんが気に入った車があったとして、それは使用目的にかなって真であり、性能も善く、デザインも美しい、ということです。
心の欲望を充たしてくれる価値として、真・善・美があるということです。
あまりに簡単な説明で誤解もあろうことかと・・・。
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 さしあたり「古代ギリシアの三元徳」のことではないでしょうか。

意味はzosoさんの言われるとおりです。もしこちらなら、高等学校の「倫理」の教科書あたりをお読みになれば基本的なことはわかると思います(どっかの本屋で立ち読みしちゃいましょう)。
 他に「真善美」ということで思い浮かぶのは、ヴィルヘルム・ヴィンデルバントくらいかな…。新カント学派の人で、カント哲学を「価値判断の哲学」「価値批判の哲学」として発展・継承しました。で、その目標となる価値というのが「論理的価値としての真」「倫理的価値としての善」「審美的価値としての美」です。
 もしこちらなら、岩波文庫で『哲学概論』(2巻)があります。その他の主著も一通り翻訳が出てますが、『西洋近世哲学史』(創元社)は5巻本、『一般哲学史』(第一書房)は4巻本と、かなりヘヴィーです。図書館でお探しになるといいと思います。
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真善美がどういうものかとのことですが、これは説明したらキリがないでしょうから、最も手短に。



真善美は、人間の普遍妥当な価値を言い表しているものとされています。
真は認識上の価値、善は倫理上の価値、美は審美上の価値です。

その内容は、学派や時代などによって様々ですから、何ともいえません。

以上、紋切り型の説明でした(^o^)
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Q体がかゆいのに

普通、体がかゆくなるとその部分をかくとすっきりしますよね。ところが、私は時々体がかゆくなるのですがかゆいと感じる部分をかいてもその場所じゃない感覚に陥るのです。だからどこがかゆいのかわからないというか・・・
これって病気でしょうか?凄く気持ち悪いです。どなたかアドバイスお願い致します。

Aベストアンサー

以前に同じような質問がありましたよ。

私も良くあります。
とこが痒いのかわからず、スッキリしないですよね…
でも、おかしいことではないですよ。

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=340325

Q真善美の歴史

真善美の歴史

真善美について、何でも教えてください。





真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。

地球のどの地域の価値体系でしょうか。

アジアには、真善美を価値体系とする伝統はあるのでしょうか。


よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
遅い投稿となりますこと、なにとぞご容赦下さい。

>真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。

「美」が文明の営みとして、「真」「善」とともに語られるものであるのなら、
その源は古代ギリシアにまで遡ることでしょう。

プラトン以前の古代ギリシアにおいては、美しい詩を創作するなどの芸術行為により、
「カロカカキア(美悪合一)」から「カロカガティア(美善合一)」なる〈神〉へと
二次的に近づくものとみなされておりましたが、
その後のプラトンによって、感覚美と共に道徳的な精神美までもが理論化されるに至ります。


>アジアには、真善美を価値体系とする伝統はあるのでしょうか。

はい。まず中国思想についてですが、
本来の「芸術」とは、技芸学術一般を指す一方、呪術性をも意味する言葉であり、
何と言っても、中国人の世界観の根底には「道」が欠かせません。
古くから「技」と「道」あるいは「芸」と「徳」を分け、
技よりも道、芸よりも徳を至上とする思想もあります(『荘子』『楽記』)。
殊に六朝以降、徳行による上下の序列を定めることで、
「芸」と「徳」とが統一的な、より高度な精神性が希求されます。

古代の韓国の場合には「花郎道」にみられる調和のとれた美、
つまり精神と肉体、善と美の合一が尊ばれたようです。

イスラムにおいては、
美的感受性より行為自体の美(=人格美)を重んじる傾向があり、
人間が善美の行いを積むことこそが、アッラーの神に報いることとみなされます。

最後に日本です。
坪内逍遥が「渋しといふも意気といふも、共に巧芸に所謂美ならん」
と記したように、日本の伝統に「美」に相当するものを見い出しながらも、
当時語られた「真善美の一体化」は、文明開化の証として、
シェリング或いはバウムガルテン等の西洋思想に基づくものでした。

野蛮との対比としての文明を模索するかのように、
〈美術〉が文明社会に欠かせないものとみなされるようになります。
西周も『美妙学説』において「道徳ノ性(善悪)」「正義の感覚(正不正)」「美妙(美醜)」
こそが人において重要な構成要件であると論じております。
(森鴎外は別の見方を抱いていたようですが)

いずれにせよ「小説ハ美術なり」とした逍遥も含めた、明治の知識人達は、
ともすると西洋的な進歩史観に陥ったとの見方もありましょうが、
現代に生きる私達には遠く及ばないほどの真摯な気概に溢れる姿勢でもって、
「真善美」を通じて新たな理想社会を希求したに違いありません。

以上、多少なりともご参考になりましたら幸いです。

参考文献:『講座 美学1』東京大学出版会

こんにちは。
遅い投稿となりますこと、なにとぞご容赦下さい。

>真善美を価値と置いたのは、いつごろの時代からでしょうか。

「美」が文明の営みとして、「真」「善」とともに語られるものであるのなら、
その源は古代ギリシアにまで遡ることでしょう。

プラトン以前の古代ギリシアにおいては、美しい詩を創作するなどの芸術行為により、
「カロカカキア(美悪合一)」から「カロカガティア(美善合一)」なる〈神〉へと
二次的に近づくものとみなされておりましたが、
その後のプラトンによって、感覚美と共...続きを読む

Q体がかゆい

4月1人暮らしをしている男です。

ここ最近の話しなのですが、体が少しかゆいんですが、何か病気でしょうか??
蚊に刺されたようにプクっとなっていて、そこがかゆいのです。結構体中かゆいので、どういった病気しりたいです。

Aベストアンサー

ダニがいるんじゃないですか?
一人暮らしを始めたようですが(?)そこの環境でダニが居るのでは?
畳の部屋&押入れ、敷きっぱなしの布団etc.

Q真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第九章 いわゆる真善美について

 1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。

 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。

 6. では 美はどこに位置づけられるのか?

 7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。

 8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。



 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。

 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。

 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。

 14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。




 

 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。

 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。

 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。

 19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。

 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
 (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。

 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。






 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。

 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。


 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。

 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?





 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。

 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。

 30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。




 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。

 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。

 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。






 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。

 37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。

 38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第九章 いわゆる真善美について

 1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
 真善美は、社会的動物として進化してくる過程で人類が獲得してきた大筋の枠組みとしての感覚だと思います。真善美という感覚そのものを伝える先天的な遺伝的ファクターと文化的土壌の中で後天的に教えられ定着して受け継がれてきたファクターの相乗効果としての大まかな枠組みがある中で、個人的に生きた体験からの主観的なファクターが加わって、大筋からの派生という形で十人十色の多様な具体的な真善美というものが存在するものだと考えます。多様性の自由度というのは真<善<美というような感じになるのではないでしょうか。真の自由度は時代の未熟さにより、善の自由度は社会の未熟さにより、美の自由度は個人の体験によって獲得したセンスにより。

Qあったかいと体がかゆい

風呂上り、ストーブなどで室温が上昇したときなど
あったかいときに体が突然無性にかゆくなります。
原因として考えられる病名などがあればその予防法も含めていくつか教えてください。
かゆい部位は特に後頭部、がかゆく、全身がかゆいです。医者にも行きましたが2回違うこと(疥癬、にきび)を言われぶつぶつが新たにできてきたので信用できません。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No1の方がおっしゃるように皮膚掻痒症、温度アレルギーという可能性がありますが、私は素人なので詳細は分かりません。

ただ、経験者として少しだけ情報を提供しておきます。

私の場合は、体温が上がるとき(風呂上がり、寒い日に暖かい室内に入ったとき、初めての人と出会いなどでストレスがかかったとき、暖かいうどんを食べたとき)に腰回りを中心とする身体全体がかゆくなってました。
5年くらい、乾燥する冬を中心にそんなことが続いた気がしますが、なぜか何も治療しないまま治りました。

結構お辛いかと察しますが、同じ悩みを持つ方も多いと思うので、こうした場で情報収集されるとよい知恵が出てくるかもしれません。

Q真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。



 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。

 6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?

 7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。

 8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。




 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。

 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。

 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。

 14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。




 

 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。

 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。

 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。

 19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。

 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
 (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。

 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。






 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。

 23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。

 23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。

 23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。

 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。


 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。

 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?





 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。

 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。

 30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。




 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。

 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。

 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。






 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。

 37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。

 38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかある...続きを読む

Aベストアンサー

真理は善悪の彼岸?
 真理に善悪は無いと思います。
 善悪は人の心が生み出すものだから。

 人の心は真理から生まれ出る一現象であって、生命体に宿る心なので自己(肉体)の保存、維持は他の有機物の養分を取り入れ(殺生)なければならず、それ故にそこから善悪感が生じるのだと思います。なぜならば自身の命を維持するために取り込む養分は自身と同じ"生命体(同朋・同胞)"だから。

 美、についてはまだよく分かりません。美は善とつながり、悪につながるのは醜かな、と思うくらいです。

 真理は一つ。
 この世は"絶対"の精神体。
 この"精神"に意志、理性、感情という働きがあって・・・だから人間の心にも・・・。

 「意・理・感」
 意力に依って現象し、それは感(物質)となり、その変化は理(的)に。

 意力によって、あらわれた物質現象は理的であって"奇跡"は起きない。
 "奇跡"を起こせるのは精神のみ。

 釈迦の精神、キリストの精神、然り。
 生命を善とするならばブラジュロンヌさんの説は的を射ている。

 ・・・・・と、思いました。

真理は善悪の彼岸?
 真理に善悪は無いと思います。
 善悪は人の心が生み出すものだから。

 人の心は真理から生まれ出る一現象であって、生命体に宿る心なので自己(肉体)の保存、維持は他の有機物の養分を取り入れ(殺生)なければならず、それ故にそこから善悪感が生じるのだと思います。なぜならば自身の命を維持するために取り込む養分は自身と同じ"生命体(同朋・同胞)"だから。

 美、についてはまだよく分かりません。美は善とつながり、悪につながるのは醜かな、と思うくらいです。

 真理は一...続きを読む

Q体がかゆいのに場所がわからない

こんにちは。
かゆみの感覚の事で質問します。
私は蚊に刺されやすい上に、汗をかきやすいので
かゆくなる事があります。
で、普通かゆい所をかくと、おさまりますよね。
でも私の場合たとえば右肩がかゆくてかいてもかいても治まらず、あまりかゆいので体中をかいていると、全然違う背中がかゆかった・・・という事がよくあるんです。
結局背中がかゆい所だったのに違う所がかゆく感じる・・・という事なのです。
でも周りに聞いても「自分のかゆいとこ位わかるでしょ~」といわれます。
私は感覚がおかしいのでしょうか。
他にそういう人いませんか?

Aベストアンサー

 そういうのを関連痛といいます。(かゆみと痛みは身体の内部構造上は同じものです)

 どうして発生するかまでは分かりませんが、身体の表面ではなく、内部が痒い場合に起こるようです。身体の内部は、表面に比べて痛覚神経の数が極端に少ないので、そのことが関係していると思います。

 面倒なのは、本当はどこが痒いのかを探す場合に、身体を満遍なく撫で回すしかないのが面倒なところなんですよね(^_^;

Q気が利かない人に「気が利かないなあ。」と言うような人は、 いつも気が利く人が、偶々、咄嗟に気を利かせ

気が利かない人に「気が利かないなあ。」と言うような人は、
いつも気が利く人が、偶々、咄嗟に気を利かせる事が出来なかった事があった時にも、「気が利かないなあ。」と言いそうな気がするのです が、如何なものでしょうか?

どんなに気が利く人でも、
どんなに真面目で優秀で、知識や教養の他に知恵があって臨機応変が出来る人でも、
全知全能の神ではないですし、
何でも出来るランプの魔神ではないですし、
「少し調子が悪くなれば蹴られる高性能ロボット」ではない、ですよね?

Aベストアンサー

「気が利かないなぁ」という発言は、大分類上「感想」と呼ばれる分類になります。

「事実」や「命令」などは注意深く聞く必要がありますが、「感想」は注意深く聞く必要が無い場合も多いです。

「感想」を注意深く聞くと良いケースもあります。それは「好きな人」が感想を言う場合です。この場合は注意深く聞いて、彼/彼女の感想を覚えておくと良いです。
それ以外の場合であれば、「感想」は聞き流しておくのがよろしいと思います。

Qおすすめの入浴剤ありませんか?(体が乾燥&かゆいんです)

ここ一ヶ月程、体が乾燥しているみたいで背中(特に腰のあたり)やももが
かゆいんです。なるべくかかないようにしているのですが、いつのまにか
かさぶたみたいになってきてしまいました…
毎日欠かさず体中に尿素20%位はあるクリームを塗りたくっているのですが
それでもかゆいんです…
そこで、入浴剤でいいのがあったら試したいと思い、お勧めの保湿力の
強い入浴剤があれば教えていただきたいんです!!
どうか助けてください!!!

Aベストアンサー

「フェルゼア」の入浴剤が結構いいです。
彼が乾燥肌で、ボリボリかいているので薬局行って探したら、これがあったので買って使ってみましたら、かかなくなりました。
乾燥肌の友達にも勧めてみたら、お風呂入った後に痒くなくなったと言ってました。

良くなると良いんですけれど。。。

Q人は変わるものでしょうか、変わらないものでしょうか

今年の冬も、帰れません。
ときどき何のために生きているのか分からなくなります。

Aベストアンサー

哲学カテで青春談義する。
あなた方はまっこと馬鹿である。この馬鹿にうんざりする。
哲学は万能だと信じている。この馬鹿にうんざりする。


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