昨日「東京大空襲」のドラマを見て祖母の話を思い出したの質問させてください。
私の祖母は東京大空襲の体験者です。私はおばあちゃん子だった為、良くそういった話を聞いていたのですが、幼い頃の話なので記憶もあいまいですし、今になって色々興味を持ち聞きたいと思うのですが、祖母は10年以上前に他界してしまい聞くことができません。

当時、祖母は両国付近に住んでいたようです。
(毎朝窓越しにお相撲さんの朝稽古を見るのが楽しみだった。と言っていました)
東京大空襲の日は
「川に入っていれば安全だから隅田川の方に逃げよう」という父親の意見に母親が反対して「○○に逃げるべきだ」と言って○○に逃げたそうです。
○○に逃げたおかげで燃える物も少なく間隔もあいていたので、火もそこまで激しくならなかったので助かった。と祖母は言っていました。

そこで質問なのですが、○○とはどの辺の事を言っているのだと思いますか?私的には皇居の方とか大きな公園か何かかな?と推測しています。

また、東京大空襲の際どちら方面に逃げるのが正解だったのでしょうか?

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A 回答 (4件)

>また、東京大空襲の際どちら方面に逃げるのが正解だったのでしょうか?



ふざけたような答えになりますが、「生き残った人が逃げた方面が正解だった」ということだと思います。
B29爆撃機は目標を特に特定せず、無差別に爆撃していきました。飛行機の航路、風向きなどでたまたま爆撃が集中した地域と比較的集中しなかった地域があったと思います。
また風下になってしまったために大きな被害を受けた地域と風上になった地域があったと思います。爆弾も風の影響を受けますから、風上の地域はそもそも落ちてくる爆弾の量も少なく、火災の影響も受けづらいということはあったと思います。

ちなみに覚えておいていただきたいことですが、東京大空襲というのは民間人に対する無差別爆撃ですので、戦時法に違反する虐殺行為です。一晩で8万人も殺したのですから、世界史に残る虐殺行為だといえるでしょう。しかし戦争に無条件降伏した日本政府はこのことをアメリカ政府に対し文句をつけないことを約束してしまいました。原爆もそうです。
このことを訴えたのが、今映画になっている「明日への遺言」の岡田資元中将です。
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ご質問の文面を読み、はるか昔に読んだ本の情景が思い出されました。

その本は、東京大空襲の実体験をつづったもので、東京大空襲の事実を世に知らせる役割を担った本です。
私の薄い記憶では、おばあさまの体験に近いことが述べられていたように思います。

岩波新書 「東京大空襲」 早乙女勝元著
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/3/4150210.html
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No.1 の方の説が正しいように思います。


手許に昭和21年発行の東京の地図があります。戦災で焼失した地区は赤く印刷されています。両国のあった本所区はほとんどが赤くなっていますが、両国駅の北側、同愛病院の近くは焼け残っています。
焼け残っているのは同愛病院と保善という学校、その東側の震災記念堂のある公園?(被服廠跡)、同愛病院の南側の公会堂のある公園?です。
また、現在国技館がある場所は隅田川の水を引いた堀割か貯水場のようになっていて、その周りにも焼けなかったところがあったようです。
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両国でしたら、隅田川に面した「陸軍本所被服廠跡地」の可能性があります。


現在、ここには慰霊堂のある公園がありますが、関東大震災時や太平洋戦争時は広い空き地でした。


関東大震災時には、ここに近所の多くの住民が家財を持ち込んで避難をしました。
ところが、その家財に火がついて火災旋風が起こり、この場所だけで3万8千人が死んでしまいました。
その時にこの跡地ではなく、隅田川に逃げ込んだ人は比較的助かったといわれています。


東京大空襲の時には関東大震災の時に跡地で多くの人が死んだ事を知っている人が多かったため、
跡地に逃げ込んだ人は少なく、多くの人は隅田川に逃げ込みました。

そのため、隅田川の水面にぎっしり人が詰まってしまい、溺れる者が出たり、
火が水面に広がったため逃げられず、火にまかれる人が出てしまいました。

逆に跡地は広い空き地の割りに避難者が少なかったため、火災が延焼せず、そのためここに逃げた人は助かりました。


東京大空襲の際、気転のきく人は「関東大震災の際に安全だった隅田川には人が殺到してかえって危ない。
陸軍本所被服廠跡地は多くの死者が出たために、今回は避難する人が少ないはずで、むしろ安全のはず」と考えたそうです。

断言は出来ませんがおばあさんも、この気転をきかせた人の一人だったのではないでしょうか。
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Q東京大空襲のことについて質問です。

東京大空襲のことについて質問です。

東京大空襲についてどちらがだたしいのでしょうか

1、東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた一連の計画的かつ大規模な戦略爆撃の総称である。 参考;Wikipedia

2、昭和20年(1945)3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機による東京への大規模な空襲。死者約10万人、焼失家屋は27万戸に達し、下町一帯は焦土と化した。 参考;goo国語辞典


wikiには、総称とかいてありますが、gooには総称と記してありません。

どちらが正しいのか回答お願いします。またほかにある方もお願いします。

Aベストアンサー

東京への空襲は一度だけでなく、大小合わせて100回以上
行われました。これらの空襲をひとつの軍事作戦と捕らえて
「東京大空襲」と呼称する場合と、その中でも特に規模・損害の
大きかった昭和20年3月10日の空襲をそう呼ぶ場合とがあります。

Wikipediaは前者で、goo国語辞典は後者になります。

Q東京大空襲

東京大空襲の時、
死体を天皇の目につかない様に隠したとの記述を読んだんですがなぜ隠したのでしょうか?
現況を天皇に見せるのは何がいけないのでしょうか?
やはり腐敗した死体は美しいものではないからですか?
それとも損害を隠すとことで戦意を失わないようにするためでしょうか?

Aベストアンサー

 まず事実関係を整理します。
 昭和天皇の空襲地視察は昭和20年3月18日の午前9時から実施されました。これは昭和天皇自身の希望だったようです。
 昭和天皇から被災地視察の意向を受けた内大臣・木戸幸一は宮内省当局に対し、「思い切り簡単なる方式」での巡行を指示します。これは大空襲直後に現地視察に出向いた東部軍管区司令部の将校に焼け出された市民から悪罵が飛んだということを踏まえ、被害地を仰々しく視察することによって被災者を刺激し、天皇に対する不穏な事態が発生することを回避しようとしたものです。
 視察コースですが、空襲の被害が大きかった下町を中心に、呉服橋→永代橋→深川八幡→汐見橋→東陽公園→錦糸町→駒形橋→上野→湯島切通坂をめぐるコースが取られ、深川八幡境内で、大達茂雄内務大臣から状況説明を受け、11時頃には宮城に戻りました。この視察には木戸内大臣と侍従長・藤田尚徳海軍大将らが随行し、基本的に車での視察でしたが、小名木川橋付近では車を降りて徒歩で視察が行われました。(参考urlは視察当時の写真です。中央の陸軍軍服の人物は侍従武官長・蓮沼蕃陸軍大将、左端は藤田侍従長と思われます。)
 この際、昭和天皇は藤田侍従長に「関東大震災の際も市中を視察したが、今回の方がはるかに無惨である。関東大震災の時は焼け跡といっても大きな建物が少なかったからかそれほど無惨には感じなかったが、今回はビルの焼け跡が多くて一段と胸が痛む。これで東京も焦土になった」と述べたと伝えられています。
 ご質問の遺体を隠した云々の話ですが、まず天皇の被災地視察は大空襲から一週間後に行われており、そのころには遺体の片付けも進んでいたということはあると思います。
 ただし、逆に遺体の片付けが済んだ頃を見計らって視察の日程を組んだということも考えられ、この場合は昭和天皇に無残な遺体を見せないようにという配慮が働いた可能性もあります。行幸主務者である木戸内府の「木戸日記」や藤田侍従長の回想録を調べれば何か手掛かりがあるかもしれません。ぜひ調べてみてください。(歴史研究の面白さは、一次史料の踏査にあります!)
 なお、昭和天皇は大本営から戦況上奏を基本的に1日1回、多いときは1日3回受けており、日本の敗北が避けられないことはよく承知していました。ですので、空襲の犠牲者の遺体を見る見ないは直接天皇の戦意とは関係がなかったと思われます。

参考URL:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.files/image025.jpg

 まず事実関係を整理します。
 昭和天皇の空襲地視察は昭和20年3月18日の午前9時から実施されました。これは昭和天皇自身の希望だったようです。
 昭和天皇から被災地視察の意向を受けた内大臣・木戸幸一は宮内省当局に対し、「思い切り簡単なる方式」での巡行を指示します。これは大空襲直後に現地視察に出向いた東部軍管区司令部の将校に焼け出された市民から悪罵が飛んだということを踏まえ、被害地を仰々しく視察することによって被災者を刺激し、天皇に対する不穏な事態が発生することを回避しようとし...続きを読む

Q誤爆って何ですか?東京大空襲も広島長崎も今なら誤爆なんでしょうか?

誤爆って何ですか?東京大空襲も広島長崎も今なら誤爆なんでしょうか?

Aベストアンサー

ネットスラングとしての誤爆、ではないのならば
爆弾やミサイルを目標外のところに打ち込んだ状況の事、です。
簡単にいうと「ハズレ」。
誤爆が騒がれるのは、それで関係ない人が死ぬからです。

GPS誘導のミサイルは、ちゃんと目標(=敵の司令部とか)の座標を設定してあげれば
だいたいその目標に突っ込んでくれますが、この座標設定を間違っていると「誤爆」になる。
このミサイル誘導などの軍事技術を流用しているのが「GPSカーナビ」ですが
「東京」に行くつもりが間違って「名古屋」と設定したら
名古屋に誘導されてしまうのとだいたい同じ理屈です。

他にも「ちゃんと設定したのになんらかの理由で違うところに着弾した」というのも誤爆です。
機器故障で誘導できなかった、ミサイルがまっすく飛べないくらいの強風で流された、などです。

先の大戦で東京地区は何回も爆撃され、大規模編隊による高空からの精密爆撃も
単機超低空侵入による無差別焼夷弾攻撃も、ありとあらゆる爆撃方法を受けていますが
これらは「東京をぶっ潰す」という大まかな方針に沿ったもので誤爆とは言いません。
まあ、中には攻撃目標外としていた某宮殿を燃やしてしまったりもしましたが
規模が大きいから被害を受けただけであり、今で言う誤爆とは少し違うと思いますよ。

昨今、誤爆で有名なのは、東ヨーロッパのどっかの国の内戦に干渉した
米軍のB2ステルス爆撃機が中国大使館を誤爆した話ですかね。
昔の地図を元に座標を入力したから間違えたとか言われてますけど
敵対勢力に加担している中国を黙らせるためにワザと誤爆したのではとも言われてます。


質問者さんの求める回答は上記のようなものではないでしょ?
質問文だけど、誤爆ではなく空爆じゃないかな?

東京大空襲も広島も長崎も昔は空襲、今なら空爆です。

空襲というと空挺部隊(パラシュート降下部隊)による「空からの侵攻」なども含みますが
空爆と言うと航空爆撃、いわゆる航空機による直接攻撃、のみという事らしいです。
軍事オタクなら区別される話かもですが、一般人にはどっちでも構わないと思います。

ネットスラングとしての誤爆、ではないのならば
爆弾やミサイルを目標外のところに打ち込んだ状況の事、です。
簡単にいうと「ハズレ」。
誤爆が騒がれるのは、それで関係ない人が死ぬからです。

GPS誘導のミサイルは、ちゃんと目標(=敵の司令部とか)の座標を設定してあげれば
だいたいその目標に突っ込んでくれますが、この座標設定を間違っていると「誤爆」になる。
このミサイル誘導などの軍事技術を流用しているのが「GPSカーナビ」ですが
「東京」に行くつもりが間違って「名古屋」と設定したら
名古屋に...続きを読む

Q東京大空襲

 米軍はなんで、隅田川に架かる橋(勝鬨橋~白鬚橋)を積極的に攻撃しなかったんですか?
彼らの物量からすれば、橋を破壊することなどたやすいと思うのですが。

・高射砲で守った。
・占領後をにらんで、大きい車両が通行可能な橋なので残した。
・橋などどうでもよかった。
思いついたのはこの3つです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

答えは、「橋などどうでもよかった」です。

橋を攻撃する目的は、それが重要な戦略物資や戦力の移動手段
になっており、それを遮断することが目的です。

日本の高射砲はほとんど効果がありませんでした。
また、戦後のため、ということを考慮したという記事は
いまのところ著名ではないので、却下で良いでしょう。

東京空襲の目的は、日本を無力化することであり、
そのため、当初は軍事拠点、とくに軍需工場と周辺の部品工場の破壊が
行われました。
東京へは昭和19年11月より空襲が開始されます。
精密爆撃が実施されていましたが、昭和20年1月後半より
焼夷弾を使った無差別爆撃に切り替えられました。
(これは国際法違反です)

これにより東京の多くの労働力と、生産物資と、軍需工場へ部品を供給する
町工場がなくなり、日本の生産力が激減し、事実上、戦争を継続することが
出来なくなりました。

こうして、橋はあっても、難民が行きかうだけの場所となったのですが
さらに戦争が継続し、隅田川を挟んで軍隊が行きかうようになれば
やがてはこれらも破壊されたはずです

参考
図説 アメリカ軍の日本焦土作戦 P24-43

答えは、「橋などどうでもよかった」です。

橋を攻撃する目的は、それが重要な戦略物資や戦力の移動手段
になっており、それを遮断することが目的です。

日本の高射砲はほとんど効果がありませんでした。
また、戦後のため、ということを考慮したという記事は
いまのところ著名ではないので、却下で良いでしょう。

東京空襲の目的は、日本を無力化することであり、
そのため、当初は軍事拠点、とくに軍需工場と周辺の部品工場の破壊が
行われました。
東京へは昭和19年11月より空襲が開始されます。
精密爆...続きを読む

Q東京大空襲の時、ラジオ局ってどうなったんですか?

東京大空襲の時、ラジオ局ってどうなったんですか?

Aベストアンサー

 内幸町の放送会館、川口の送信所共に、激しい空襲に耐え、
逓信省・軍の検閲下でしたが、都民に情報を提供しました。

 皇居の向かいの第一生命ビルが東部軍司令部に使われ、敵機が近づくと
空襲警報が発令されると、地下の軍放送室に待機していたNHKから派遣された
アナウンサーに渡され読み上げられ、東部軍司令部から放送会館・川口送信所に
周り、放送され、空襲警報解除まで、放送は軍の管理下で、されました。

Q大空襲の東京のお台場

もし現在今の東京にあるお台場で当時のB29による当時の焼夷弾が落ちたらどんな風になります?
各スポット
ゆりかもめ、りんかい線、レインボーバス、都営バス、レインボーブリッジ、首都高は運行はどうなりますか?
東京港トンネルで歩いて脱出、お台場海浜公園から泳いで脱出はダメですか?理由を書いて貰えます?
望ましい脱出ルート、避難場所を書いて貰えます?
空襲警報が鳴っている時に防空壕の中で携帯の通話はダメですか?

Aベストアンサー

さあ、やってみんと分からんですなあ。

ただ、焼夷弾てのは別名ナパーム弾といいまして、目標を破壊するのが目的ではなく、燃やすのが目的です。だから破壊力はあまりないんですね。第二次大戦の対日爆撃で焼夷弾攻撃が絶大な効果をあげたのは、当時の日本の家屋が紙と木でできていたからです。
今のお台場(に限ったわけではなく、東京)の建物はコンクリートのビルが多いですから、あまり効果はないかもしれません。ただ、日本の建物は地震には頑丈にできていますが、爆撃されることは想定されていませんから、爆撃されたらどうなるかは、爆撃されてみないと分かりません。

>ゆりかもめ、りんかい線、レインボーバス、都営バス、レインボーブリッジ、首都高は運行はどうなりますか?

爆撃されてるってのにのんびりと運行しているわけにはいかんでしょう。空襲警報がでれば公共の交通機関は運行をストップでしょうね。一般車両は、爆撃されるような状況であれば通行にさまざまな制限が加えられるでしょう。

>お台場海浜公園から泳いで脱出はダメですか?

そんなに泳げるんですか?

>望ましい脱出ルート、避難場所を書いて貰えます?

焼夷弾なら出入口が破壊される可能性は低いですから、りんかい線の地下駅に逃げるのがいちばん安心なんじゃないかと思います。停電すると怖いけどね。

>空襲警報が鳴っている時に防空壕の中で携帯の通話はダメですか?

地震なんかの災害が起きるとアクセス過多で携帯が繋がらなくなりますから、繋がらなくなるんじゃないかしら。

さあ、やってみんと分からんですなあ。

ただ、焼夷弾てのは別名ナパーム弾といいまして、目標を破壊するのが目的ではなく、燃やすのが目的です。だから破壊力はあまりないんですね。第二次大戦の対日爆撃で焼夷弾攻撃が絶大な効果をあげたのは、当時の日本の家屋が紙と木でできていたからです。
今のお台場(に限ったわけではなく、東京)の建物はコンクリートのビルが多いですから、あまり効果はないかもしれません。ただ、日本の建物は地震には頑丈にできていますが、爆撃されることは想定されていませんから、...続きを読む

Q「神戸大空襲」 「東京大空襲」 「広島・長崎原爆」

「神戸大空襲」 「東京大空襲」 「広島・長崎原爆」

1.それぞれの実施された日を教えてください。

2.広島と長崎って言いますが、同じ日に投下されたのですか? 広島がメインな印象ですが・・・(原爆ドームとか)

3.他に第二次大戦中の「大空襲」ってありますか?
私の祖母が「神奈川県横浜市鶴見区でも空襲があった」と言ってましたが・・・(鶴見の総持寺というお寺に逃げたらしい)

Aベストアンサー

神戸大空襲:1945年3月17日、6月5日ほか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

東京大空襲:1945年3月10日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

広島原爆投下:1945年8月6日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

長崎原爆投下:1945年8月9日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

日本本土大空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ドレスデン爆撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ベルリン空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E7%A9%BA%E8%A5%B2

神戸大空襲:1945年3月17日、6月5日ほか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

東京大空襲:1945年3月10日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

広島原爆投下:1945年8月6日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

長崎原爆投下:1945年8月9日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

日本本土...続きを読む

Q東京大空襲から敗戦へ。瓦礫の処理。

復興するにはまず、膨大な瓦礫を処理せねばなりませんが、どのようにして処理したのですか。
住民が住民自身の判断で、近くの海辺、川、池などへ大八車で運んで、捨てた(埋め立てた)のですか。
役所は瓦礫処理に関して何らかの指示を出しましたか。
ドイツでは、女性が主体になって膨大な瓦礫を処理したそうで、その奮闘ぶりは教科書にも載っているそうです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

既に御回答が出揃っている様子も伺えますので、
重複を避けるため参考URLの貼り付けにとどめますが、
少しでも隙間が埋まればとの思いで投稿させていただきました。

なお、下記の「郷土室だより 第69号(平成2年9月30日)」によれば、
焼跡につみ重なった建物の土台石や焼け瓦、壁土などを当時は「残土」と呼んだようです。

・「首都建設法の制定に関する一考察(1)/長谷川淳一」『経済学雑誌 105(4)/2005-03』
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il4/meta_pub/G0000007repository_KJ00002508037
<16~18/18> (3)残土整理の必要

・東京都中央区立京橋図書館>アーカイヴス>郷土室だより>
「郷土室だより 第69号(平成2年9月30日)」
http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/pdf/area/kaigann068-075/kyodo_069.pdf
<1/6> ◇消えた三十間堀川
「郷土室だより 第110号(平成13年7月1日)」
http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/pdf/area/hashi02_101-121/kyodo_110.pdf
<3~4/4> ◇埋められた外濠

・第38回土木学会関東支部技術研究発表会
「東京における戦災復興と河川埋立に係る一考察/
東京都土木技術支援・人材育成センター 正会員 石原成幸」
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00061/2010/37-02-0036.pdf

・平22.都土木技術支援・人材育成センター年報
平成22年度(2010年)年報目次/報告編(本文)
整理番号 2217/年報の頁 169
題名 17. 東京の河川に係わる管理体制と改修計画の経緯
「東京の河川に係わる管理体制と改修計画の経緯/技術支援課 石原成幸」
http://doboku.metro.tokyo.jp/start/03-jyouhou/nenpo/22nenpo/2217.pdf
<6~8/16>
6. 戦災復興計画における河川埋立の背景
(1) 建設のあゆみ、(2) 灰燼処理、(3) 河濠整理計画、(4) 新都市

以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

既に御回答が出揃っている様子も伺えますので、
重複を避けるため参考URLの貼り付けにとどめますが、
少しでも隙間が埋まればとの思いで投稿させていただきました。

なお、下記の「郷土室だより 第69号(平成2年9月30日)」によれば、
焼跡につみ重なった建物の土台石や焼け瓦、壁土などを当時は「残土」と呼んだようです。

・「首都建設法の制定に関する一考察(1)/長谷川淳一」『経済学雑誌 105(4)/2005-03』
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il4/meta_pub/G0000007repository_KJ00002508037
<16~18...続きを読む

Q東京大空襲その後の土地区画や権利について

東京大空襲に限った事ではないのですが
東京大空襲では10万人以上の人が亡くなったと思います。
そこで質問なんですが、家族全員が亡くなった場合や疎開していた子供しか残らなかったなんて事が多々あったと思います。それに加え家は殆どが焼け土地の区画なんてのも解らなくなってしまった場合もあったと思います。
そういった場合土地の権利などはどうしてたのでしょうか?
土地の略奪なんかが横行したのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

他の地方もそうだったようですが、東京の場合も早い者勝ちだったようです。空襲で一番被害を受けた下町あたりはほとんどが都有地でしたが、疎開していた人が、東京に戻った時には他人に占拠されていた例もたくさんあったようです。立て札を立てて権利を主張すれば良かったらしいです。

Q東京(非)大空襲について

3月10日以外の4月13日夜半5月24,26日にの空襲について。
投下弾量は310とあまり変わらなかったのではないでしょうか。
そらなのに被害が少なかったのは地域的な差があったのでしょうか。あるいは防火体制が強化されていたか。それから、310で一部池袋あたりが被弾していますが、これはなんででしょうか?

そして、310だけしか一般に知られないのは、マスコミ体質、皮相的一般的体質のせいでしょうか?

Aベストアンサー

この辺の事情について、私のバーさんに聞いたことがあります。当時バーさんは50歳前後(1895年生まれ)、住まいは東京の飯田橋で亀戸(の某石鹸会社)に勤めに行っていました。
・何しろ一回目の3月10日で人口密集地の家屋はほとんど焼けてしまい、次からはその辺りで焼ける物が無くなっていた。つまり防火体制が強化というより、燃えるもの?が無かったのでしょうね。
・被害者についていえば、3月に焼け出された人たちで、それ以降も東京に住んだ人は、お堀っ端や河っぷちに防空壕を掘って住んでいた。平地の(庭の)防空壕が空襲で何の役にも立たないことを知ったので、水のある場所の斜めになった所に横穴式の壕を作るようになった。そのため被害が減った。
・2回目以降の空襲は山の手が襲われたけど、山の手は家が広いし、緑も多いからあまり実害が多くはなかった。私の記憶でも新宿西口の高層ビル街なんて戦後も浄水場以外何もなかったですから。
・3月の空襲で分かったことは、火を消そうとしても無駄で、とにかく身軽に逃げる、それしかない。つまり日頃やってること(消火訓練)なんかをやる馬鹿や家財を持ち出そうとする欲ボケは死ぬ。まぁ、そういう教訓はバーさん以外にもみんな分かったでしょうね。
とのことです。私が子供の頃(昭和30年代前半)は、お堀の横穴に住んでいる家族もまだいましたね。

この辺の事情について、私のバーさんに聞いたことがあります。当時バーさんは50歳前後(1895年生まれ)、住まいは東京の飯田橋で亀戸(の某石鹸会社)に勤めに行っていました。
・何しろ一回目の3月10日で人口密集地の家屋はほとんど焼けてしまい、次からはその辺りで焼ける物が無くなっていた。つまり防火体制が強化というより、燃えるもの?が無かったのでしょうね。
・被害者についていえば、3月に焼け出された人たちで、それ以降も東京に住んだ人は、お堀っ端や河っぷちに防空壕を掘って住んでいた。平地の...続きを読む


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