出産前後の痔にはご注意!

 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解について 感ずるところ・思うところを述べて ご意見をおしえてください。
 
 柄谷行人との討論形式による共著『終りなき世界―90年代の論理』で 岩井克人が 次のように発言しているところです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。

 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。
 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になると考えます。そのことを取り上げたいという意図が あります。要するに 権限のある人は 普段は 立派に振る舞うのですが どこかでは その意識をただただ排泄するという部分もみられるようで これを受け止める側のストレスという問題です。

 母源病ということばがありますが 基本的には 人間関係を源とする疾患つまり《社会源病》と捉え 特定しようと思えば 《上司源病》――そしてさらに広くむしろ抽象的に《アマテラス病》――と名づけたいのですが もし よろしければ そのあたりまでも ご見解を伸ばして おしえてください。

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A 回答 (18件中1~10件)

 誤解でしたら申し訳ない。


 思うに、『日本人』は『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団であるからこそ、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ、帰属への意思のみが唯一の教条として、たまさかその集団に帰属してしまった人々に対しても帰属を強要(タチの悪いことに半ば無意識に)してしまうという性質があり、同時に帰属への意思というものは個を個たらしめる『他者』とのコミニュケーションに対して抑圧的に機能し、『露悪』という強力なツールがムラ的な『恥の共有』によって総ての『人間』から『個』としての理想や理念を奪いとり、他者性に属する『論』を成立させなくしてしまっている(…なんだか某掲示板に対する論評みたいになっちゃったな)。
 というのがわたしなりの理解ですが、こうした、『日本人』に帰属することのみが日本人の至上の勤めというなんだか気色の悪い病理は、人間関係を源としたものと考えるよりも、自己の他者性すらないことにした反・人間的な──他者は自己に都合のいい幻想と同様にふるまわなくてならないという甘ったれた──幻想に基づいた、他者に対する過剰な自己の投影を源としているように思われます。
 で──強いて名づけるなら、他者喪失症、といったところでしょうか。他者のないところに『善』があろう訳もなく(そこに存在しうるのは快/不快という感覚のみです)、そこで『偽善』は『他者』の存在を『日本人』という肥大した『わたくし』に認識させるが故に忌まれるのではないでしょうか(ああ、これまた某掲示板の幼稚なサヨク嫌悪を想起させますね)。

この回答への補足

 お礼を きわめて えらそうに書いて申し訳なく思っております。
 もう 感じたそのままを そして 一度振り返ったときにも やはり感じたそのままを 独語のごとくつづろうと思って 書いてしまいました。すみません。お詫びします。

★ ・・・『日本人』に帰属することのみが日本人の至上の勤めというなんだか気色の悪い病理は、人間関係を源としたものと考えるよりも、自己の他者性すらないことにした反・人間的な──他者は自己に都合のいい幻想と同様にふるまわなくてならないという甘ったれた──幻想に基づいた、他者に対する過剰な自己の投影を源としているように思われます。
☆ そうですね。ちょっぴり思ったことは 《お互い日本人じゃないか》主義は いわゆる同じ穴のむじなとして やはり一種のいわゆる共犯関係にもなるかも知れないということです。それなら 上司源病にはならず ストレスの伝播も もしあるとするなら この共犯の輪に連ならない一部分の人たちに しわ寄せされるであろうということです。
 他者性の喪失とは 今まで思いつかなかったことでした。

★ 、『日本人』は『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団であるからこそ、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ、帰属への意思のみが唯一の教条として、たまさかその集団に帰属してしまった人々に対しても帰属を強要(タチの悪いことに半ば無意識に)してしまうという性質があり、同時に帰属への意思というものは個を個たらしめる『他者』とのコミニュケーションに対して抑圧的に機能し、『露悪』という強力なツールがムラ的な『恥の共有』によって総ての『人間』から『個』としての理想や理念を奪いとり、他者性に属する『論』を成立させなくしてしまっている。
☆ 《露悪》ということについて 前々から ピンと来なかったのですが まだよくつかみ切れていません。《恥の共有》と言いますか 《恥の認識》は 自己還帰を促し 理想や理念をも気づかせることもあるように思ったりするのですが。
 それにしても この《帰属》ということ つまりそれを実際に人びとに促すあるいは強要するということ これが 何とも 絶妙におこなわれるというべきでしょうか。たしかに 《タチの悪いことに半ば無意識に》おこなわれているように わたしも 感じます。
 小学生のときから この集団の締めつけというような動きはありました。誰か生徒が その集団のあり方とは違った方向へ考えが向かって行っていると 教師が気づいたときには その教師は とうぜん その気づきからの帰属強要行為は 意識しておこなっているのですが なぜ そうするのか これについては 意識していないようですし 訊ねても答えられないようでもあります。生まれついたときから 刷り込まれているかのごとくだと感じます。
 生徒の考えが 何であるかについては 省みること少なく 自分のとは違うという感覚だけによって 引き止めよう・繋ぎ止めよう・輪の中に引き入れようとするように思われます。
★ ・・・、『人間』という普遍へと向かう意思としての『善』がおざなりにされ・・・
☆ というときの《善》――あるいは 《『人間』という普遍へと向かう意思》―― これを さらに具体的に表わせるといいだろうなと感じました。この時点では 丸投げになってしまいますが。 
 とにかく
★ 『日本人』という仮構の(内向きのベクトルしか持たない)集団に帰属することが暗黙の目的として群れ集っている集団
☆ というごとく この《暗黙の目的》が まるで《無目的に あたかも絶対的に そこへ向かう》という動きとして 大部分の人たちには 身体で覚えられているように思います。いったい 何なんでしょう???
 と感じています。

補足日時:2008/03/26 22:52
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この回答へのお礼

 うぅーーむ。共感!!! そして もう一味なにか欲しい!!!――こんな感想になるのでしょうか。
 Vwiyoonnさん ご回答をありがとうございます。えらそうに言えば なかなか 読ませますね。もう少し時間をかけて考えてみたいとも思っております。
 たぶん ご自分でも書いておられるように こうして分析してしまうと 昔の左翼がらみの論戦の――それは しばしば不毛に映った――ようなものを感じさせるからなのでしょうか。でも この分析はとおると思いました。ということは 逆に こういう論理を押し出すと この社会の心理共同的な情感の流れの中では 浮いてしまうのか それとも すぐに 周りに淀みが出来て 滞ってしまうのか そういった然るべからざる抵抗に遭って そのときの感覚が 《もう一味なにか欲しい》と思わせるのでしょうか。もしくは 腹八分として 言わずもがなの二分の部分を残して 余韻として 人びとに味わわせると 少しは 受け容れやすくなるのかなとも・・・。
 ふぅーっ。補足欄もありますので もっと咀嚼して 考えてみます。その結果をお伝えできるかも分かりません。
 それにしても 描いていただき 浮かび上がらせた絵図のような《現実》は おそらく 人びとは とうてい意識していないはづです。そういうことが 五千万人や一億人の規模で どうして 出来るのか 不思議でもあります。
★ ・・・『偽善』は『他者』の存在を『日本人』という肥大した『わたくし』に認識させるが故に忌まれるのではないでしょうか。
☆ 偽善は 単純にいえば タテマエとホンネとの使い分けですよね。だけれども その使い分けを ともかく《善(つまり自己が存在し他者と共存することより 前提されてくる)》として こなしてみせると もうとっくに喪失していて意識したくない《他者》のことが こころに蘇えってくるから 嫌う――ということでしょうか。
 《仮構の『日本人』という集団をつくり その中にあって 内向きのベクトルしか持たず そこでは 人は みな〈日本人〉であって 〈おれはおまえ おまえはおれ〉という観念が どうしようもなく現実に 運河のように掘られており 水としても流れている》とき このとき もし自己を認識して《わたし》と言うとすれば それは 《日本人という肥大したわたし》だという読みでよろしいでしょうか。

お礼日時:2008/03/26 19:51

primeapeです。


日本人らしさの本題についてコメントします。

>だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
いい感じの言葉ですね。解釈も良いです。
上司の話の引き合いに出たパウロさんのお言葉もいい感じです。
ウルトラマンのプラモデルは受け取ってもらえれば楽しめたでしょうが必要ないことがわかります。

純真な魂にとっては言葉すらも授かり物。信じぬものにとっては借り物。もっともこんな二元論は不毛ですが。
そんな中、人づてに聞いた言葉に人間同士が信じあう心を持てることが今までの私の日本人感でしたが、brageloneさんのご様子を見るとそんな人づての言葉に神からの恩恵を直感なさっているように思えます。
たぶんその方が真実に近いでしょう。最も私にとっては聖書の引用は人づて程の明快さがありません。

>primeapeさんのご所説は 不思議な感じがします。なぜって 必ずしも理論構成を取らないのに 

このご指摘で自分の考えが論理的でないことを始めて知りました。
そして、言うなれば「心象を表した言葉」であることを自覚しました。
自らの内面と表裏一体のペルソナを持つことは自覚していました。
心象をあらわした言葉は日本語にはよく登場します。
「差し金」なんてのもその1つで悪魔退治によく使われる道具です。
中途半端であいまいな物言いが日本人の欠点とされていますが、私はあいまいな言葉を操っているのではなく柔軟な言葉を操っているのだと自覚しました。
自在に解釈できる言葉はお互いのことを尊重できるゆえです。
私はこの調和の理想が好きです。
個人主義が日本に根付かない理由でもあるのでしょう。
NO7の技術的問題のたとえ話で、現実的であることがいかに嘘が多いかはわかっていただけると思います。
お互いの心の結びつき。「絆」。
それにより強く触れられるのが日本人だと思います。

この回答への補足

 primeapeさん お答えをありがとうございます。
 今回 述べていただいたご省察を契機に また この日本の社会つまりは 個別的・微視的に人間どうしの関係のあり方に 分析の道が開けたように思いました。局面の打開が 少しづつ 進もうかというところではないでしょうか。

 ほかの質問へのprimeapeさんのご回答を読んで まづ唯識の方だということを思い出しました。忘れていて 面目ありません。
 そして その前に すでに 反省を致しておりました。
☆ primeapeさんのご所説が 必ずしも理論構成を取らない
と書いたのは 適切ではありません。要するに 自前の思想を打ち建てておられるのであって わたしのように 誰か思想家に依拠して 語っているのではないと知ったからです。
 わたしは 福音書を読んでも パウロの書簡を読み込まなければ 聖書が分からなかった。パウロの文章を飲みこんでも アウグスティヌスの書物をひもとかなければ イエスのことは 分からなかった。のです。やっと 読めるようになったばかりか 信仰まで与えられていました。この信仰がわたしのすべてですから 観想も理論も みな そこから来ていると思っています。(ただし アウグスティヌスが不可欠だとする水による洗礼を 拒むという叛逆をおこなっていますが)。
 こういうわけで primeapeさんの思想について その構成ぐあいが まだまだ 分からず それだけではなく 自分の思想のあり方だけを基準として 推し測っていたのでした。伏しておわび申し上げます。すみませんでした。(なかなか 考えの片寄りというものは なくならないようです)。

★ ウルトラマンや仮面ライダー
☆ を 表現の中に取り入れることは 問題ないと思います。わたしの場合 ピンと来ない事情があり したがって 理解が行き届かず 自分から使うことも出来ないという現在の状態です。
★ 言うなれば「心象を表した言葉」であることを自覚しました。
☆ これは おっしゃるとおりだと わたしも 感じます。言わば 人間どうしの関係とそれが錯綜する社会関係において 観念の運河が掘られていて そこを意思表示や気持ちまた情念や何やかやが流れます。この実際の現実に即して それを――どこか半歩離れるようにして 実際には離れていないのですが――言葉にして捉えるという作業 これが 《心象を表わした言葉》だと思います。出世間あるいは空観と言っていいのではないでしょうか。 
 《差し金》など 普段使うことばで表わしたほうが なお効果があると思います。わたしの場合の一例として。感情や情念を あたかも意識の排泄のごとく その運河の溝に垂れ流すばあい それは 一般に弱い立ち場にある人に向けて 《アース》をしているのだと 表現したことがあります。そして
★ 自在に解釈できる言葉はお互いのことを尊重できるゆえです。 / 私はこの調和の理想が好きです。
☆ のように ことばは それ自体に 柔軟性があるようにわたしも思います。
★ 個人主義が日本に根付かない理由でもあるのでしょう。 / NO7の技術的問題のたとえ話で、現実的であることがいかに嘘が多いかはわかっていただけると思います。
☆ この問題は 間口も広く奥行きも深いと思い さらにさらに 追究していく課題であるとも思います。
★ お互いの心の結びつき。「絆」。 / それにより強く触れられるのが日本人だと思います。
☆ この点は ことばの柔軟性とほぼ一体であるのではないかと考えます。つまり 大いに 発展させていきたいことです。
 さらに磨きをかけて まいりましょう。ありがとうございました。

補足日時:2008/04/04 12:11
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この回答へのお礼

 (20080414記です)

 みなさんにおわび申し上げます。
 《Q:日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》は この質問についての関連質問であるので この質問を締め切ってからでないと 規約に違反するという理由で 削除されてしまいました。
 たいへん ご迷惑をおかけしました。せっかく ご投稿いただき 中味もたいへんいい感じになって ありがたく思っていたのですが わたくしの不手際によって このような結果を招き まことに申し訳なく思っております。
 どうもすみませんでした。かさねてお詫び申し上げます。
 注意を怠らずに進むつもりですので これに懲りませずに 今後とも よろしくお願い申し上げたいと存じます。

 なお もしよろしければ この質問において 言霊としての(もしくは 存在じたいに社会的な関係性があるというその潜在力による)コミュニケーションやあるいは一般に非言語的なそれが 考えられるという仮説を合わせて ご回答をいただければ幸いと存じます。(ここは 補足欄ではなく お礼欄ですが よろしくお願いいたします)。

お礼日時:2008/04/14 18:58

 よく隅々まで理解できたというわけではありませんが、ご指摘の危険性と欠点は十分あるように存じます。


 私はなんの予備知識も無く、この内田樹氏という方も知らずに、自分の思考に引き寄せて読んでいましたので、bragelone様のご評論のご指摘は十分有意義に反省の項目と為ります。
 この質問のサイトで、立場を逆にして、お礼申しあげます。
 有難う御座いました。
 

この回答への補足

 あらたに こう考えました。(20080407記)

 日本人は 一人ひとりが 神なのです。《他者・他人》が 神です。あるいは《世間》が神です。
 ただし 天つ神と国つ神と二つの神族がいます。
 その議論は ややこしくなりますので省きますが 《互いに神である》ということは 二つの側面を持ちます。もたらします。
 多少でも《神》であるという認識によって 多少なりとも 秩序が保たれます。いわゆる和です。
 互いに人間が神であるということによって生じるもう一つの側面は そういう形での(つまり 上に触れた秩序を形成しつつの)狼どうしの闘いです。世間のうらみを買わなければ どこまでも 仁義無ききつねとたぬきとのだまし合いです。
 要するに うまく振る舞ったほうが勝ちです。あとは 仁義無きという点で こわあーい世の中になっているという《自覚》が 《生きて》います。その方面からも 奇妙な秩序がもたらされます。
 
 この社会では コミュニケーションはありません。

補足日時:2008/04/07 11:00
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この回答へのお礼

 きょうしゅくです。
 こうべがあがりません。
 ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/01 16:29

 brageloneさん


 たいへん示唆的なサイトをメール・マガジンで送ってもらいました。
 ぜひログインしてご覧下さい。貴兄のご評論をお待ちしております。
 以下のURLで先ずログイン画面がでます。
 https://www.blwisdom.com/vp/kenja/01/
 そうしたら、必要な登録をして、https://www.blwisdom.com/vp/kenja/01/に入ってください。
 私の考えと、文章を読む限りでは齟齬がありません。
 そして示唆的です。ご評論をお待ちしております。

この回答への補足

 krya1998さん たちまちにしてご回答をいただき ありがとうございます。わたくしも 精進して みなさんに遅れないように まいりたいと願いました。

 《「上司はえらい!」の理由──内田樹(うちだたつる と読むのですね)氏に聞く》を読みました。
 全体として言えば やや――やや です――がっかりしました。わたしは うそが言えないのではなく krya1998さんには 絶対的に甘えてまいりますので そういう総評です。
 なぜなら その昔 いけいけどんどんという企業の猛烈な疾走の時代には 大幅に乱暴に言ってしまえば このような――つまりたとえば《「理解」や「共感」を前提としてはいけない》といった標語から連想されるような――交通の仕方は すでに実践されていたと見るべきではないでしょうか。それをふたたびの如く狙って 内田樹が いまこのような提言をしているのではないでしょうが そうではないでしょうが おそらく ひとことで言ってしまえば 目的や目標が明確な場合の組織集団というものは じっさい ひとつの行き方として このような交通のあり方で そのように実行することができるでしょうし また うまく行くのだろうと考えます。
 
 《ひとつの行き方として》と条件づけたのは 次の事情のもとにです。
 この現実世界においては 《待った無し》という情況が起こります。終戦直後であれば それが 一般化していたと見ることもできるのではないでしょうか。《利益の確保 もしくは ともかく集団の存続》を第一に掲げざるを得ない会社の場合には この待った無しの情況を かもし出すことが出来ますし そうせざるを得ない危機的な情況にある場合も起きます。
 ですから 生産と迂回生産ということがあるように 一方では つねに 利益を上げて直接の結果を出していなければならない場合があり 他方では 一般に学問が そもそもの問い求めから出発し 基礎理論や基礎技術を追究して その成果を 企業なら企業に提供するという場合とがあると考えます。どちらも 会社内外の人びと ひいては 同じ同胞の存続を目指して 仕事をするわけです。
 直接に現実の成果を出さなければならないというときには 目標やそれを達成する過程や手続きが はっきりと特定されてきます。このとき 根底には はらからの存続繁栄という大目的が 暗黙の前提としてありますが ともすれば それは 暗黙のままに放っておかれることもあるのではないでしょうか。
 このとき一般的に言って 《〈理解〉が得られるかや〈共感〉を呼ぶか》の問題は 生命および共生といった《大目的》にかかわっており あるいは 迂回生産としての《基礎研究つまり一般に 哲学思想》の問題として位置づけられています。
 ですから あとは 人間論としての《理解や共感》の問題が 現実の実務組織において どれだけ注目され注意が払われるかは それぞれの現場における実践の度合いということに 収斂していきます。
 ですから 《部下が「たいしたことない上司に私は仕えている」と考える〔のではなく〕 「私が仕えることで、たいしたことない人間をたいしたものにする」というふうにマインドを切り替えればいいんです》というとき ならば その上司の考えに合わせるということでしょうから 確かに 《部下が考えるべきことは 二つだけで〔あって それらは〕 (1)上司にいかに気分良く働いてもらうか、(2)組織内における上司の評価をいかに高めるか》になると思われます。
 おそらく そのような《優秀な》部下は そのときにも つねに あの大目的についても 考えをめぐらしていることだと思います。そのいま すぐただちに 根本目的のために 自分がはたらくわけには行かないがと思いつつであるでしょう。

 《コミュニケーション》は このような全体の情況において そのあり方や価値が 問われます。
 おそらく 《むしろ他人を理解し共感することは絶望的に困難であるということを前提にして、理解や共感抜きでも機能するような共同体を設計した方がいいよ》という見解は 根本人間学においても 共有されるのではないでしょうか。
 ですから その同じ前提において わたしは
☆ 《人間・地球人であること》を共通のものとして 人格を 表立って出すことのない互いの交通が出来るのなら それは コミュニケーションであると言えるのかも知れません。(No.11お礼欄)
というふうに いわばこれも一種の《待った無し》の情況を踏まえてのひとつの妥協策として 提案しました。幻想であっても 共有するものがあれば たとえば日・中・韓でも コミュニケーションがはかどると見られるかも知れません。

補足日時:2008/04/01 15:16
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この回答へのお礼

 ただし 同じこのとき 《理解や共感抜きでも機能するような共同体を設計した方がいい》と考え 互いにその考えとしての主観を共同化する人びとは 知恵を寄せ合って 考えを練っていくものと考えます。そのための哲学思想という分野が 厳然としてあると言わなければならないと思います。その基本的な社会思想のもとに 社会ひいては世界を設計していこうという人びとも あとを継ぐでしょう。

 おそらく この共同主観(コモンセンス)に立つ人びとが 社会の中で 三分の一 これに共感する人びとが 三分の一 あとの三分の一は そんなのカンケイねぇーという人びと こういう構成ではないかと推し測られます。三番目の人たちからは 押し潰しを受けることでしょう。

 というような考えを持ちますが いかがでしょうか。(ふぅーっ)。

お礼日時:2008/04/01 15:23

primeapeです。


今回の質問とは関係ありませんが現場第一主義の視点から救援物資です。

> この二つの使い分けも むつかしい。相手のへそは 折れて曲がって 曲がって折れて 途中では 切れているのではないかとさえ思わせる場合などです。ことばが通じない絶体絶命の情況です。

最新の欲望はもはや選択肢を奪われた状態で逃げ出します。(このいきさつには立ち会いました)
その結果尽きることの無いかのような絶望すら予感した一昔前と違って行き場を失った欲望は燃え尽きるのを待つだけです。
そんなさなかにもはや折れなくなっています。
もう後始末みたいなモンです。

魔物の類は悪魔と呼ぶと神格化されて力を奪うことが出来ました。
ただしこれも流行遅れです。
最新のソレは、宇宙怪獣と呼んであげてください。
そしてウルトラマンとなって戦うのです。
信じがたい話で驚くかもしれませんが、なんと!ウルトラマン様からご加護が届きます。
ウルトラマンの番組は40年続いています。
その間に純真な子供たちが送り続けた声援の新鮮なエネルギーです。
圧倒的な体力差の元に正義を名乗るゆとりがあります。

悪の名を借りるときは仮面ライダーに変身してください。
ショっカーに改造されたやつです。
現在放送中の仮面ライダーはモチーフが吸血鬼です。
メカニズムについてはとやかく言いませんが、怪人が人間性を装っても吸血鬼としてエサになるだけですから返り血がありませんし、過去にさかのぼることも無く時流に乗って戦えます。

控えめな健康な無意識さんたちのお手紙を代筆してあげると。
「軋轢といってもこんな感じで結構楽しい」
こんな感じが消息です。もっともこれが一番伝えたかったことではありませんが。
目の前にある真実を伝えるために私たちはあまりにも努力してきました。
でももう死を待つことも無く伝えることが出来そうです。

それから原罪に関しては、まだわだかまりがあります。
結局「業」と同じメカニズムを解説しているだけだと思い至りますが、
>ごるごだの丘の体験は誰もが無意識的に体現しています。
この状態のお粗末な真相がわかりました。
原罪に苦しむ輩がイエス様の偶像を繰り返し処刑しています。
その犯行現場の以心伝心現象です。
ちなみにキリスト教はこの原罪のうわさを布教に利用してつじつまを合わせています。
神前にそぐはない違法な布教です。
キリスト教徒以外には迷惑な話ですから、信じるもののお一人として是非brageloneさんに命題を編み出して解消する糸口を見つけて欲しいところです。

この回答への補足

 現場第一主義とおっしゃるように仕向けてしまって 申しわけがありません。ま わたしとしましては そのように どこへでも飛び回っている人間だったのですが 隅のほうへ追いやられてしまい 本でも読もうかという仕儀になったのでしたが。むかしは 今よりももっと ホンネを言うと嫌われたものです。

 さて まづ 原罪のほうから お応えします。いま わたしが考えおこなっていることは エレミヤ書の《新しい契約》の箇所を周知の状態におきたいということです。その新しい契約の時が来たなら

   ・・・彼ら(人びと)はそれぞれ自分の同胞に、
   それぞれ自分の兄弟に、
   『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
   小さな者から大きな者に至るまで
   彼らはすべて、わたしを知るようになり、
   わたしは、彼らの不義を赦し、
   もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
     (エレミア書 31:31-34の段落より)

という主のことばです。これは 新約のヘブル書にも引用されており 原罪についての命題として ふさわしいと思うのですが いかがでしょうか。いまも 質問としても出しております。
 《Q:〈千年王国〉について= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3898618.html
 《Q:ヘブル書に引くエレミヤ書の〈新しい契約〉とは?=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3807611.html 》

 あとは パウロの文章が いくつか参照されるべきだと思います。

   それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ば
  れるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるた
  めに洗礼を受けたことを。
   わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあず
  かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死
  者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる
  ためなのです。
   もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやか
  るならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
   わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたの
  は、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため
  であると知っています。
   死んだ者は、罪から解放されています。
   わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生
  きることにもなると信じます。
   そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬこと
  がない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
   キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであ
  り、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
   このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリ
  スト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさ
  い。 (ローマ6:3-11)

 これを 普通の経験思想として表現していくことが 大事だと思っています。信仰者には 明らかであるはづなのですがねぇ。

 《ことばが通じない絶体絶命の情況》――これは 直接には 昔のいろんな経緯のことを言ったのでしたが 現在 このように質問・応答を 常にとしては昨年の初夏あたりからでしたが おこなってきて そういう情況にあると自覚したこともあったわけでした。
 おそらく おっしゃるように 局面が変わって来ています。この場での一箇所だけですが いわば定点観測として その推移は見てとれるように感じます。そして たしかに 経験現実であるのだが あるにもかかわらず 抽象的な表現を用いて述べざるを得ない情況であり 問題であると わたしも 考えており その名づけのための表現には けっこう――楽しみながら――苦労するところもあるようです。
 わたしは 自慢ではありませんが アニメやマンガには からっきし 疎いです。つい先日も それではいけないと思い テレビで《ハリーポッターと秘密の部屋》を見ました。まぁ なんとか筋を捉えることができたと思ったころ――初めは どんな意図やメッセージをもった作品であるかも捉えかねていたのです―― たぶん もういいだろうという いつもの悪いくせが出てしまって また先送りすることになりました。(ハリーたちが 敵役のマルフォイから 秘密の部屋にかんする真相を聞き出すための薬を ひと月がかりで少女が完成させたというところで 止めてしまいました)。
 というわけなのですが ウルトラマンも仮面ライダーも――もちろん名前は知っていますが―― 中味は まったくの白紙の状態です。残念と言いますか そういう情況ではあります。(つづく)

補足日時:2008/04/01 11:28
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この回答へのお礼

(つづき)いちばんの基本原則は

  だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
 (コリント後書 11:14)

などの聖句だと思われます。悪魔は 最終の死の淵にまでは よう来なかったのですよね。それで 打ち負かされたとも考えられます。どうしようもない嫌疑をかけられ どこまでも疑い続けられたとき わたしたちは そのような人びとの欠陥を憎み その存在を愛します。
 アウグスティヌスによると 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してもならないと言います。
 疑いの晴れないまま そのあと この世の不条理の掟に対して なおも真理のことばを与えつつ抵抗もしながら 人びとの疑いを憎みとおして 存在としては人びとを愛しつづけた。死を甘んじて受けたとき 悪魔は 退散せざるを得なかったと考えられます。
 (さらにその表現を洗練していきたい主題です。また このゴルゴタの丘の物語については 解釈は 限りなくいろんなふうに出来るとも考えます)。

 その昔わたしは けっこう厳しい表現をつかって 人びとの欠陥を指摘したこともありました。身内も例外ではなかった。バスに乗れば――電車でよりも より頻繁に―― こちらに つっかかってくる以心伝心の電磁波があったものです。最後に 永遠の火の中に行きなさいということばで 一応たいていは おさまりました。こちらは 怒ってもおらず ふつうの状態にいつづけるものですから ちょっかいは 続くのです。第一波に対して 下がりなさい。第二波には 滅びなさい。そして こちらは もう最後のにしようとしている第三波に対しては 上のように応答してやります。うんぬんです。そういう武勇伝(?)です。

 こんな話でいいものでしょうかね。

お礼日時:2008/04/01 11:38

 たいへん深いお話の補足を頂き、読んでいますがで、私には理解が届かないところが多く、お時間を賜りたくお願い申しあげます。

想いが追いついてきましたら書き込みさせていただきます。どうかご容赦下さい。なおあの宗教だか、政治だかの団体は私も明確に申しあげれば、神道や仏教、そして私の勉強している教え同様、生活的な肌合いというのはあまり合うものではないのです。
 話は別に、といい、行を変えなければいけませんが。どこの民族や国民も、大衆というのは何か一生懸命やっていくものですね。大きな流れになっていくのですね。キリストやソクラテス、リンカーン、そしてわが国でも、警察官を態々退職した人の山本宣治議員の暗殺。まぁ事は違いますが、死をもたらせた方ってどこか悲しいくらい似ていないでしょうか。
 彼の、美濃部達吉は、一定の方々では当たり前の密教的理論を、民衆的な活字発表として、顕教のところの話にしたが故に、危険だったのだというお話を勉強したことがあります。かの政治と宗教が未分化の方々や、ラディカル前衛を標榜している方々も、それぞれが一つの勢力でしょうが、どこの民族、国家にもそういう傾向ってあるような気がなさいませんか?赴くところ恐ろしいところがないでしょうか?イエスの処刑をローマの支配層は、考えたのでしょうかね?私はむしろ、そういう民衆なのかなと、推量しております。
 ここでいいたいことは、貴兄様同様、私もあの宗教だか政治だかの団体は、自分も中に入れば判りませんが、今はかかわりたくないと存じております。でも明らかに情宣でありそうなので、一言しておきました次第です。どうかご誤解のありませんように。想いが追いつかないので当面、訪問しても、書き込みは控えさせていただきます。申しわけありません。
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この回答へのお礼

 krya1998さん お話をいただきありがとうございます。

 そういえば 以前にこのようなことがありましたね。つまりわたくしの暴走です。鯉もあまりにも飛び跳ねると 干上がってしまうぞと忠告を受けた政治家がいましたね。

 忠告する人たち かれらは
 
   彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。
   イスラエル人なのか。わたしもそうです。
   アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。
   キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、
  わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投
  獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多
  く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
  ・・・
   だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょう
  か。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるで
  しょうか。
   誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
  ( パウロ:コリント人への第二の手紙11:22-30)

 わたしは このことばを素通りすることが出来ません。
 わたしたちは かれら以上に 日本人なのです。
 そうでなければ 先祖に申し訳が立たない というのは 半分冗談ですが あらゆる可能性が開けていると考えます。ほんの少し風穴を開けることができたなら・・・。
 失礼致しました。

お礼日時:2008/03/30 16:53

 いやなかなか読めなくて。



 ≪人格を 表立って出すことのない互いの交通が出来るのなら それは コミュニケーションであると言えるのかも知れません。≫
 ○その一つが生々しいことや、いろんな個性性、あるいは事情などを度外視してということでは。これはそのひとつですから。そしてそれを出しても、または出さないと成り立たない場合も経験しております。お説には異議ありません。

≪コミュニケーションの成立の条件としては どこまでも どんな内容であっても 答え続けること・つまりは問いつづけること これが 必要条件です。意味が通じて 意思疎通がかなうこと これが 十分条件だと思います。≫
○このことについては私も全く異論は御座いません。
 貴兄様のコミュニケーションと同じ意味と範囲ではないかかも知れませんが、人と人、ことばなどの媒体の介在ということのない場合や、状況、そして場面でも、私は生き合う関わり合いというものをもっております。それは私の内の行き来かもしれません。そういうのを想像とか空想というのだよ、といわれるかもしれません。でも一つの生き方としてのことです。自己内に終始していてはいけないと存じ、東洋の考え方、哲学、詩歌、などなども取り入れ、同調し、勉強しながら。なのですが。

引用したURLでは、・・・。
 ある政権与党さんのことでは、よき国民性を大事にしてください。お互いだということを。現場末端的に過度な熱情や偏りをなくしてください。というコミュニケーション上のお願いと国民性は今の与党さんにはないですよ。ラディカル前衛とか、何党にも僅少ですよ、といいたかったのです。
 
 ご自身というのでは、二人称という指示語やその意識は、自分と自分の関わりの仕方意識を表現することでもあるし、形成することでもありますよ。ということをいいたかったのです。

この回答への補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。
 《いやなかなか読めなくて。》というむしろ このわたくしの気持ちをすでに 表わしていただいた恰好です。と言うと 嫌味に聞こえる部分もあるかも知れませんが いま現在の日本人の交通のあり方としては そういうふうに 良きにつけ悪しきにつけ 互いに思想を先取りする場合もあるようです。まづ そう思います。この質問の主題そのものですから。まづ
★ ご自身というのでは、二人称という指示語やその意識は、自分と自分の関わりの仕方意識を表現することでもあるし、形成することでもありますよ。ということをいいたかったのです。
☆ に関しましては おっしゃる通りですので その点に焦点を当てられなかったことをただただ反省します。もう一方の
★ 国民性の問題
☆ については そこまで考え(読み取り)が及びませんでした。というのも 改めて読んだのですが krya1998さんも 一度目の回答では そのことには触れておられません。ですから 二度目の投稿で 国民性の問題から 私的な団体や個人の問題を出すのは慎むのがいいのではと たしなめておられるというかたちです。
 そして 同じくあらためて考えるに 互いに相手の思想・信条を尊重するのが わが国民性であるとき ――わたしの考えですが――自己のであれ相手のであれ 至らぬところについて批判するのは これも ふつうだと思うのです。・・・たぶん この場合の裁定は わたしの極端な自由とkrya1998さんの慎み深さとの中間にあるのではないでしょうか。
 ちなみに 今朝の日経第二面には 《不打不相識(けんかをしないと 分かり合えない)》という中国の言い回しが引かれています。《けんかをしない(または 隠れてする・または 蔭で脅して従わせる)》というのは アマテラス予備軍(アマテラスもどき=後述)の唱える《大和》主義によるのであって もともとの《和》は けんかも し合える共生ではないのでしょうか。
★ 独語(ソリロクウィ)の世界もしくは 自己の中での誰かとの対話
☆ は 誰しも 通ると思います。続けると思います。そして わたしの思うには krya1998さんにお聞きしたいのですが その思索・瞑想の内容と ここで 表現されている投稿内容とは ちがうのでしょうか。同じでしょうか。
 ちがうという場合は まだ熟しておらず 発表にまでは至らないというに過ぎないのではないでしょうか。
 またまた持論で申し訳ないのですが 人間存在のあり方として 《自己完結性》と《他者との関係性》と これら二面を わたしたちは 同時に持っていると考えるのは いかがでしょうか。

 さて 指摘いただいた国民性の問題 これは 新しいそれ もしくは 《新しい日本人》という主題として この質問に どんぴしゃりです。
 近くは明治維新いらい 為政者・政権与党は 古い国民性に乗っかっていると思います。そもそも――という言い方は お嫌いだったかも知れませんが―― 維新政府の面面は 天皇を 名誉職に就かせ祀り挙げるのだということを 半ば公言していたのではないでしょうか。言いかえると 何かそれこそ《象徴》を戴かなければ生きて行けない人間像としてわが国民を認識していたものと思われます。
 かれらは わたしの言葉で ただの《アマテラス予備軍》です。つまり まったく市民としても公民としてもどっちつかずの第三者の社会階級(ないし階層)として 分立しているのではないでしょうか。昭和の戦争突入に関して そのアマテラス予備軍振りが現われたとも見られます。もちろん悪い意味での天上天下唯我独尊です。
 天皇制は いまの民主主義においても スサノヲ市民およびアマテラス公民(公務員)のほかの制度上の役職として いわゆる元首・象徴つまりアマテラシテ(アマテラスの抽象名詞化)として 合法的です。おそらくわづかに 世襲制が 問題になるかと考えますが。(つまり 代替わりには そのつど主権者である国民の同意を得るべきだと考えられます)。
 ちなみに 万世一系というのは 何でもありません。わたしたち誰もが例外なく 万世一系として いまあります。さらに アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟です。国民性を考えるときに 参照されるべき材料だと思います。和を以って貴しと為すのですが 誰が和を乱しているのでしょう? 果たして誰が 乱させているのでしょう? ティベットの和は どうして乱れるのでしょう。・・・
 
 たしかにこの質問は 包括的な主題であって 日本人論の全域にわたるかも知れません。ですが 広くみなさんからも どしどし ご意見をたまわりたいと存じます。おしえてください。《新しい日本人》へ向けてです。

補足日時:2008/03/30 11:35
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こんばんは、brageloneさん。



遅入りしてきていうのもなんなんですが…

●日本人は 人間ではないでしょうか

修飾語句が抜け落ちてやしませんか?

日本人は(  ?  )人間ではないでしょうか

括弧の中に甘いとか辛いとか弱いとか強いとかなんか言葉はなかったのですかね?

日本人は 人間ではないでしょうか
      ↑
ここの空白が気になって…先へ進めません

聞くは一時の恥じ、聞かぬは一生の恥じ

コミュニケーションをはかるということで、ちょいとおたずね
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この回答へのお礼

 今回は 岩井克人の発言をめぐっての質問です。

 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と表現しています。
 《人間化していない / あるいは もともと 当然 人間に生まれて来ており 人間であるのだが コミュニケーションを意図しておらず そういう存在としては 人間ではないと言えるだろう》ということだと思います。
 あるいは 《人間ではない状態に入り込んだ人間》という意味だと思います。
 また これまでの質疑応答の内容を参照していただくのが よいと思います。抽象的な要素がありますが すべて 経験現実と対応する事態を分析しつつ述べているはづです。直前(No.11)のわたしの応答では コミュニケーションが成立することについての必要条件および十分条件を述べております。この条件を満たさない場合は コミュニケーションする意図がない ゆえに 人間ではないという想定かつ規定をしています。動物が 机の奥で椅子にふんぞり返っているのと変わらないという捉え方です。

お礼日時:2008/03/29 22:17

brageloneさん、お早う御座います。


 いつも広い包括的なテーマでして、今回の課題もどこからどう切り込んでいいのか、私も長年目前においてきたものですから。
 ただ私は、コミュニケーションということでは痛い経験がたくさんあるのですが、根があまり学習をしていかない性質(たち)ですので、傷が治ると痛い経験は忘れています。でもいわゆる欧州の方とのやり取りはどうも、いつも上手(うわて)をとられていて、逃げ腰です。
 そして私は、人の関わりとういうことの中での一つのテーマとしておいております。双方交通ということでなくても、そしてそれが自分側と同じメディアでのものなくても、コミュニケーションの範囲、関わりの中のこととして考えています。
 だから動植物や自然、その諸現象に対しても自分とのコミュニケーションをやり取りしているものと思い、生きること自体だと存じております。ですので、brageloneさんのお言葉にのるとしても、非常に現象的、個別的な私の直面事項で参加させて下さい。
 それで最近、以下の聞きたいで書いたり、質問したことをお話して最初の、具体的参加とさせてください。

  http://kikitai.teacup.com/qa3904046.html
  http://kikitai.teacup.com/qa3892997.html

この回答への補足

 krya1998さん ご投稿ご回答をありがとうございます。
 今日は土曜日 ほかのわたし自身の質問で回答に対する応えをこなしましたが その前には (1)寝坊 (2)いつもの野暮用(身内の見舞い) そして その後では (3)図書館の借りた本が 今日で期限だったと気づいて 先ほど 行って戻って来ました。食事もゆっくり取らせていただきました。というわけで 遅くなりました。

 さて (い)《広い包括的なテーマ》なのですが 《コミュニケーションの成立いかん》に絞っているともご理解ください。
 (ろ)
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして私は、人の関わりとういうことの中での一つのテーマとしておいております。双方交通ということでなくても、そしてそれが自分側と同じメディアでのものなくても、コミュニケーションの範囲、関わりの中のこととして考えています。
 だから動植物や自然、その諸現象に対しても自分とのコミュニケーションをやり取りしているものと思い、生きること自体だと存じております。ですので、brageloneさんのお言葉にのるとしても、非常に現象的、個別的な私の直面事項で参加させて下さい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このご説明について いまひとつ はっきり致しません。
★ 双方交通
☆ でなくては コミュニケーションではありません。コミュニケーションは
★ 生きること自体だと存じております。
☆ とおっしゃるとおりだと思いますが 人間以外とのやり取り これも コミュニケーションには 達していないと考えます。
 コミュニケーションの成立の条件としては どこまでも どんな内容であっても 答え続けること・つまりは問いつづけること これが 必要条件です。意味が通じて 意思疎通がかなうこと これが 十分条件だと思います。このことは もう長いおつきあいですので はっきりと申し述べたいと存じます。

 (は) 《Q:芸者》(その内容は 某宗教団体の指導者のスキャンダル如何)につきましては 何も言うことがありません。krya1998さんは くわしく事情を説明されていますが そういうことですら わたしは言う気が起きません。あしからずご了承ください。
 (に) 《Q:ご自身》。次のように 二点 重要事項があると考えます。そして その内の一点は まさにこの質問と重なっていると思います。
  まづ総括的に 考えます。《自身 / ご自身》は 《おのれ》と同じように 自己称の代名詞です。そして《おのれぇーっ!》と相手に向かって呼びかけることがあるように 《ご自身》も 対称(第二人称)になりうるという感覚があるのではないでしょうか。大阪では 《われ》という自称(一人称)が 二人称にも 使われています。
 (にー1) ことばの変化についてです。《ら抜き言葉》は わたしは嫌いで使いたくありませんが 抜いても 可能を表わすという感覚があれば どんどん拡がると覚悟しています。ことばは 経済性(怠惰の精神)に従うようです。ニルヴァーナが ニッバーナになり ネハンにさえなって使われています。通用したもん勝ちなのでしょう。
 フランスでは 国が 保守的な立ち場で 決めるということをおこなっているようですが どの時代どの社会層のことば使いを 標準とするのか これも おかしいと思われます。つまり その標準も 昔からの変化した姿なのですから。ヨシュアが イエスースになり ジェジュやヘススまたジーザスと言うわけですから 手に負えるものとは思えません。ただ 一部としてでも 正統・妥当と思われる表現を用いるべきだとは わたしも思います。
 (にー2) この質問のお礼欄などで 《〈おまえはおれ おれはおまえ〉でいいじゃないか》という考えでいるようだと書いたと思いますが 対人関係での人格の――交流とはいいにくい・何故なら 一人ひとり個人がいて 初めて交流できる ゆえに――交換が 問題です。そのとき あたかも当然のごとく 人称も交換されています。また 自己称(ご自身・おのれ)が 二人称に使われるというのは その対人関係で互いに共通のものを捉えているということだと思われます。たとえば《同郷人や同窓生である / つまりは 日本人である》という観念が 互いに共有されているのだと考えます。心理的に強固なならわしになっているのでしょう。

補足日時:2008/03/29 18:18
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この回答へのお礼

 察し合いも 思いやりも よい習慣だと思いますが おそらく 行き過ぎているのではないでしょうか。あるいは 逆に見て どの外国の人に対しても その心理観念の共有が 実現していればよいのかも知れません。つまり 《人間・地球人であること》を共通のものとして 人格を 表立って出すことのない互いの交通が出来るのなら それは コミュニケーションであると言えるのかも知れません。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/03/29 18:28

primeapeです。


誤解を招きかねない表現がありました。
確かな天文観測の出来る私に言わせれば人知を超えた存在はそこら中にゴロゴロしています。
したがって神々の一元化がイエス様の予言かどうかは疑問です。
この辺は確かな英知が新たな予言を呼ぶでしょう。
一神教の普遍性の無さはそれを信じるものの自己責任です。
「愛」といってしまえば自ずから結論が出るのですが殺人を横行させたキリスト教徒にはそれを語るものが少ないのが実情でしょう。
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この回答へのお礼

 そうですね。《神々の一元化》は 無理にする必要はないでしょうし しなくても どうってことはないと言っていいかも知れません。《神々》というものは 思想の問題であるよりも 文学的な表現の問題であるとも考えます。

 ヨーロッパ人のキリスト信仰の受容は うまく行かなかったようですね。おっしゃるように 血を流し過ぎましたね。

お礼日時:2008/03/29 00:41

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