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 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解について 感ずるところ・思うところを述べて ご意見をおしえてください。
 
 柄谷行人との討論形式による共著『終りなき世界―90年代の論理』で 岩井克人が 次のように発言しているところです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。

 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。
 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になると考えます。そのことを取り上げたいという意図が あります。要するに 権限のある人は 普段は 立派に振る舞うのですが どこかでは その意識をただただ排泄するという部分もみられるようで これを受け止める側のストレスという問題です。

 母源病ということばがありますが 基本的には 人間関係を源とする疾患つまり《社会源病》と捉え 特定しようと思えば 《上司源病》――そしてさらに広くむしろ抽象的に《アマテラス病》――と名づけたいのですが もし よろしければ そのあたりまでも ご見解を伸ばして おしえてください。

A 回答 (18件中11~18件)

primeapeです。


信仰告白というのは勇気が必要なのでしょうか。
私は質問者様の考えを全面的に肯定します。

欲望の蔓延する世の中を生き抜く方法について私なりの経験談です。
>人間性に関して格闘したのが質問者様です。
格闘技は勝ち負けのある勝負事です。一人相撲ではありません。
愛への信仰とは絶対で悪魔が舞い込めば瞬間的に勝利が確定します。
あまりにもひるみすぎる悪魔の前に返り討ちといわざる得ないのが私の心情です。
この場合愛の名の下に正義の力を借りてください。(けして悪を語らないように)
この宇宙に存在するものは必然的に愛です。
悪魔ですら還元すれば愛です。
しかし悪魔はけんか腰で殴りこんでくるので、あなたが従順になる必要はありません。
理解してあげるには敗北を認めさせる必要があります。

改めて言います。
この宇宙に存在するものは必然的に愛。
この神の真理を証明したのがイエス様です。
イエス様の生き方は後世への予言を伴いました。
それに忠実に生きるのがキリスト教徒です。
その場の空気が読める日本人としてキリスト教徒に苦情めいた注文があるのですが、「原罪」は錯覚です。キリスト教徒だけで克服してください。あまりにも殺人を蔓延させます。
幼い人類は神の意思たる愛に触れる前にまず慈悲を知るでしょう。
全ての生命はその発祥から全ての行いを許されています。

私は魂のよりどころたる涅槃に触れることが許されています。
イエス様の生き様は全人類的な記憶であり真実の愛です。
この世に生を受けた人間は愛の洗礼を必ず受けます。
ごるごだの丘の体験は誰もが無意識的に体現しています。
そんな中に自らの運命を知るのです。
神を名乗るのはイエス様の本意ではありません。
予言さえ実現してしまえば人類進化の一里塚です。
神の子とは人間のことです。
仏を現代語訳しても人間のことです。
神とは普遍的ですが今はまだ神々です。
日本人であることも実感してください。
日本人とは真実の信仰心をひたかくしにしているゆえ無信教と誤解されていますが神に忠実な生き方が許されています。
ゆえに神国です。
小泉八雲さんの感想は大切です。

この回答への補足

 primeapeさん 引きつづいて投稿いただき 支持をいただき ありがとうございます。
 正直申せば primeapeさんのご所説は 不思議な感じがします。なぜって 必ずしも理論構成を取らないのに 処方箋が きちんと現われてくる。それでいて 信仰の領域にも触れる 触れるのだけれど その基礎としての観想(つまり やはり理論)を出してくるというよりは そのいわば現場での対処の仕方について ずばり 判断の結果を表わす。・・・こんな感想です。
★ 欲望の蔓延する世の中を生き抜く方法について私なりの経験談です。
☆ とおっしゃるわけですから なるほど実証済みだと 思われ もっともに感じるところが多いです。
★ 欲望の蔓延する世の中を生き抜く方法
☆ という言い方も 実際には そのとおりだと飲み込めます。つまり 人間が変わり 世界と現実が 新しい天と新しい地のもとに やはり変わるというところを目指しているとも わたしたちは表現しますが 実際の《何もしない闘い》は 現在のところ 《欲望の蔓延する世の中を生き抜く》ことだとも納得します。通俗的に聞こえるようですが そのような一つの突破口になっているもののようです。 

☆ ちなみに わたくしは ものごとすべてについて キリストのキの字も出さずに ふつうの生活態度や思想として 話ができればいいなと思っています。それで もし信仰のことに触れるときには ああまだ表現能力が足りないと思うものですから 《信仰の話になりますが》という断り書きを述べるという恰好です。
★ 神を名乗るのはイエス様の本意ではありません。
☆ ということと同じ趣旨であるかと思います。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 愛への信仰とは絶対で悪魔が舞い込めば瞬間的に勝利が確定します。
あまりにもひるみすぎる悪魔の前に返り討ちといわざる得ないのが私の心情です。
この場合愛の名の下に正義の力を借りてください。(けして悪を語らないように)
・・・
しかし悪魔はけんか腰で殴りこんでくるので、あなたが従順になる必要はありません。
理解してあげるには敗北を認めさせる必要があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このようであると思うと同時に 現場の具体的な事態は けっこう複雑だと思います。基本的には 《生け捕り》つまりは 悪魔の側のその相手が《自首》することが 一つの結着となるのではないでしょうか。税金の申告のように 自分で総括して確定申告してくればよいというところでしょうか。
 けっこう複雑だというのは たとえば なかなか相手は折れない。《悪魔が舞い込んで来て 瞬間的に勝利が確定》しているのに 折れない。しぶとい。長期化することもあるようです。そして
★ けして悪を語らないように。
★ あなたが従順になる必要はありません。
☆ この二つの使い分けも むつかしい。相手のへそは 折れて曲がって 曲がって折れて 途中では 切れているのではないかとさえ思わせる場合などです。ことばが通じない絶体絶命の情況です。

★ ・・・「原罪」は錯覚です。キリスト教徒だけで克服してください。あまりにも殺人を蔓延させます。
☆ この原罪については 《Q:〈我れ〉は ある? ない?=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》そのNo.37補足欄《たわむれの仮説》を見ていただければ幸いです。短絡すれば 言語が タテマエとホンネとの二重性を持ったことだという認識です。

★ 日本人であることも実感してください。
日本人とは真実の信仰心をひたかくしにしているゆえ無信教と誤解されていますが神に忠実な生き方が許されています。
☆ とうぜん わが同胞のためには キリストの神から見放されてもよいと思ってというところですね。《日本人は 人間ではないでしょうか》などという表題をかかげていて言うのも おかしいのですが 日本人にのぞみを持っています。どこか いつか どんでん返しが来るかも知れません。おそらく キリスト信仰は 日本人がいちばん合っていると思います。控え目で慎ましい思想を携えてです。

☆ 昔 小泉八雲のTVドラマがありました。ジョージ・チャキリス主演の。よかった。

☆ 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》――この命題について かなり実際の格闘の中身について(ただし まだまだ 抽象的に 論じているとも言わなければならない) メスを入れることが出来ているようです。われわれの勝利です。 

補足日時:2008/03/29 00:04
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5.6.7です。


先輩面した言い方で失礼かもしれませんが、かなりいい線を言った理解力です。
特定の相手との以心伝心状態についても的をえた自覚をなさっています。
以心伝心状態で対面している先方の思念は煩悩です。
悪魔が腹をすかせていけにえを求めているのです。
この攻撃には実際の攻撃力が無く、完全に理解してしまえばただのひょうきんお笑い種攻撃です。
先方の全人格否定につながらないように礼節を重んじた物言いを心がけてください。

私はこう書きました。
>ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。

このほぼ無欲とはいかなることかと言うと、あえて他人の欲望に感染することで逆に返り討ちにしているからです。
個人的な話ですが、私の場合この捉えた欲望をクラシックカメラ収集の無駄遣い癖に還元しています。
欲望に関しては上手に受け流さないと運命の軌道をそらす危険があります。
それから幽霊といったのはたとえ話です。
上手に返り討ちにしないとその位の軋轢がありますのでご注意ください。
それからテレパシー能力に関しては、私はSF小説に出てくるエスパー並みの実証をしていますが、これは軋轢が生んだ事故のようなものでした。
平均的な以心伝心能力。
または少し感受性が豊か。
といった以上に克明な能力は無意識野担当で主観に及んでは病理同然ですのでご注意ください。
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この回答へのお礼

  ご回答をありがとうございます。
 わたくしの場合は 信仰にもとづいています。超能力の関係のものなどは いっさい 分かりません。また 心理学・精神分析とも つなげてはいません。(ただ 本を読むだけですし)。ですから 《無意識》の問題とも 直接 かかわらせてはおりません。

 信仰にかかわっていると述べたのは 次に掲げる文章ですが それは 
★ このほぼ無欲とはいかなることかと言うと、あえて他人の欲望に感染することで逆に返り討ちにしているからです。
☆ とおっしゃる内容に きわめて近いように思います。おそらく 《返り討ち》というのは 比喩だと思うのですが 次の文章の中の《その人を得る》というのに反して 相手が遠ざかり去っていくときには いわば《燃える炭火を相手の頭に積む》というような現象ではないかと考えます。
 では パウロの文章です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
(コリント前書9:19-23)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ 以心伝心状態で対面している先方の思念は煩悩です。
悪魔が腹をすかせていけにえを求めているのです。
☆ という場合には やはり《生け捕り》がいいのだと思っています。信仰の話は 実際その言葉とともに 生きていますので 無理にでも 出させてもらいました。

お礼日時:2008/03/27 21:44

5.6です。


いい忘れました。
技術的問題についてです。

上司との軋轢はどちらか、または双方の人格に関する勘違いや行き違いと定義すれば理性で押さえつけることが出来ます。人によってはそれで楽になれます。
ただしこれはうそであり、方便です。
このようなうそをつくことが現実を肯定することです。
それが出来ないでアマテラスさんまで持ち出して人間性に関して格闘したのが質問者様です。
これは無意識的に以心伝心のテレパシー現象を確実な物として自覚している証明です。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 ANo.5・6・7について あらためて まとめて お礼を述べます。

★ ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。
 ほぼこれと同じ軋轢でお悩みでないかと思いいたりました。
☆ No.5で 見逃してしまったようです。すみません。
 《欲望に駆られた相手が こちらを 幽霊と見なして話しかける》ということでしょうか。
 《幽霊と見なしているらしいが その相手は こちらを 一定の意志をもった人間像として 捉えているはづだ。しかし それは 勘違いというものだ》と 全体を捉えるとよいでしょうか。
 つまり――あらかじめですが ただ 相手が こちらをどう扱うかというときに その内面において どういうふうに思っていようと それは 問題にならないと思うのですが とりあえず―― 次のご指摘ですね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人格に関する勘違いや行き違いと定義すれば理性で押さえつけることが出来ます。人によってはそれで楽になれます。
 ただしこれはうそであり、方便です。
 このようなうそをつくことが現実を肯定することです。
 それが出来ないでアマテラスさんまで持ち出して人間性に関して格闘したのが質問者様です。
 これは無意識的に以心伝心のテレパシー現象を確実な物として自覚している証明です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このとき 《楽になれ》ることが 全体として 自分は 何を志向して 相手ともども どこへ向かおうとしているのか これを まだ つかみかねています。
 ご説明に従い 《人間性を蹂躙する行為》に対する《技術的問題》であると 捉えましたが でも 結論としては 
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・そのような上司の人間性の成長を助けてあげることになります。
でも、どうやって。とは考えないで下さい。これは無意識野の自覚の問題なので自然に行いに反映されます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ とも述べておられますので そのままでいいのかなとは 思いましたが 果たして 理解が行き届いていないでしょうか。

 もう少し 込み入った話が出来ます。
 《以心伝心のテレパシー現象を確実な物として自覚している》というのは そのとおりの事実ですが ただしこれは 《無意識的に》ではなく 意識においても 認識します。そして その現象は すべて 相手の側の振る舞いであるとも 知っています。その意味では 《人間性に関して格闘》するその仕方が 違っているのかも分かりません。
 つまりその意味としては 《格闘》は 相手とするのではなく また相手とこちらとの関係の問題であるよりは  一つには 上に触れたように 相手自身の人格の問題であるでしょうし もう一つには むしろすべての人間にとっての社会生活の問題であると思われます。
 要するに わたしの理解するところでは これは すでに解決済みであると同時に その解決が まだ実現していない。という意味は その解決が わたしたち一人ひとりに ゆだねられている。そうして しかも その解決としては 基本的に 理論(あるいは観想)として 言葉にして表現するとよいと捉えているものです。
 つまりは このようにいま質問して この事態を できるかぎり 分析し言葉での表現において明らかにし その内容を 公表するということ 差し当たって このように考えていますが お応えできましたでしょうか。

補足日時:2008/03/27 16:39
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NO5です。


>ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。

ほぼこれと同じ軋轢でお悩みでないかと思いいたりました。
ソクラテスでしたかイデア論というのが有ります。
だれそれについて話したり考えたりする時自らの心にその原型があるという考え方です。
原型が普遍的存在なら問題はないのですが誤解に基づいた偶像なら軋轢が生じます。
私は家業を手伝っているので業務上の絶対的な命令というのは経験がありませんが、欲望を肯定して悪意の存在を認めた人間性のイデアの偶像に基づいて業務命令が下され、じかも「判っているだろ、当然だ」という態度をとられたら、かなりの抵抗が有ると思います。
これは部下の人間性を蹂躙する行為です。
私の経験からして、うかつに従うと自らの魂の原型(人間性)を損ねます。
その場の空気を読む。という口ぶりが有りますが無意識は明白にテレパシー能力があり(以心伝心)イデアの偶像に直接汚染されます。
現実を肯定することはイコールで欲望を肯定して悪意の存在を認めることとも受止められます。そのような行いの出来る方は人生の荒波を乗り切る達人でありますが、本心から諦めきった人は一人もいません。
対処法としてバランス感覚を大切にしながらそのような上司の人間性の成長を助けてあげることになります。
でも、どうやって。とは考えないで下さい。これは無意識野の自覚の問題なので自然に行いに反映されます。
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私は何も考えないで頭を真っ白にする特技があります。


ほぼ無欲なので欲望に駆られて話す人がまるで幽霊に話しかけているような錯覚すら覚えます。
そんな錯覚があると普通の社会人生活に支障が出まして、いろいろな心の軋轢があります。
特に耐えかねたとき、確かな神のご加護がありました。
アマテラスさんです。
天満宮の菅原さんにも、おてつだいをお願いした事があります。
ちなみに日本の神々はお賽銭がお嫌いのようです。
いびつな教義が無いと信仰出来ない一神教よりも教義が無くても信仰される日本の神々のほうがよほど霊格が高いです。

日本は聖徳太子様が建国のために掲げた十七条の憲法以来脈々と調和を尊ぶ和の精神を受けついでいまして、言葉にしなくても同じ日本人として分かり合える心を沢山秘めています。
これは人間らしいからこそ出来ることでだと思います。

調和を尊ぶ日本人の感性が生む軋轢は私にはピンときませんが、欲望に基づいた思考が生む軋轢はほとほと困り果てています。

それから「日本人らしさ」を理解したいのなら小泉八雲の書いた本をお読みになるとわかりやすいです。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。全体として 何か集団としてのまとまりが 単に島国であるからとか 顔や体つきが似たり寄ったりであるからとか そういうことだけではなく もっと強い――いい意味でもわるい意味でも――つながりがあるように わたしも思います。

 ただ
★ 言葉にしなくても同じ日本人として分かり合える心を沢山秘めています。
☆ とおっしゃるとき 言葉にしなくては分かり合えない場合もあり(つまり これは 当然でしょうが) それだけではなく 言葉にしても もう分かり合えないと言いますか 分かり合おうとしない場合もあるように感じます。
 つまりは この質問のつてでは 上司が《おまえたちよ もう 分かれ》と暗黙のうちに言っており 部下たちも けっこう物分かりがよく 暗に《察しましたよ》と返答しているとさえ考えられる場合もあるように思います。これで コミュニケーションが取れていればよいのですが。
 小泉八雲ですか。《神国》という漢字が大書された本だったかを読んだ記憶があるのですが そして割と馴染みやすく理解できたというふうにも記憶しているのですが 上のような《日本社会への帰属》というそのあり方については また そういう視点で 読み返す必要があるかも知れません。
 和の精神は アマテラスの光の以前に スサノヲの自由とそれにもとづく共同自治があって そのムラ(村)イスムが 土台になっているのではないかと考えたことがあるのですが・・・。
 ありがとうございました。さらに 考えてまいります。

お礼日時:2008/03/26 23:14

 bragelone様 《日本人十二歳説》 私自身は伝えられるマッカーサーの太平洋戦争観に同意しておりますし、公平かどうかはわかりませんが、文化的に少数派である、日本人は国際社会では、上手なお付き合いができないでいることは確かだと存じます。

それは無論その文化観と歴史観、民族性から出てきていると存じますが、お誘いに応じて、何かを陳述するまでには想いが到っておりませんので、どうかお許し下さい。

 《でも欧米の人のような成長は好ましくない、のですが。》
  単に、でもなく、とてもあの欧米文化は、年齢を重ねてくると、肌に馴染まないというだけです。
  精神的ありようにどうも馴染めない、ということなのです。
  このことでも、今概括してコメントを陳述させてもらうほど、私の勉強は進展しておりませんのでどうかお許し下さい。

 私の単なる口の端をもとに、折角場を設けてくださり、お誘いですが、申しわけありません。
 何かの契機や切り口でもあれば、またことばを挟ませていただければと、存じます。
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この回答へのお礼

 わかりました。
 どうぞ 自由に振る舞ってくださいませ。

 なお コミュニケーションにかんしては たとえば 求婚申し込みに対して――妥当かどうか分かりませんが―― 《四十年その答を待って欲しい》という答が 意思表示の一環として 提出されれば そのとき 成立すると思います。妥当だとは とても思えませんが ともかく 話し合いは成立すると考えます。といったことなどだと思います。

お礼日時:2008/03/26 19:10

 brageloneさん、訪問した印に参加させていただきます。

これってコミュニケーションになりますかね。
 それは措いておいて、コミュニケーションくらい難しく、理想的とはいはなくても、ある程度行える人や場合は僅少といっていいでしょうか。そして民俗は勿論、民族的にも、世代でも、いろんなことで特徴や方式が異なりますよね。
 日本人にはそして、属してきた時代文化により、なかなか一様にはその優劣は論じられませんよね。
 人生って、これをどう発達させるか、工夫していくかを大きな課題としていますよね。日本人としての特徴もありますが、それは西欧やその他の外国、比較的開いている民族性を下敷きにしたり、それに照合してみると、考えざるを得ませんね。
 これが日本人を12歳だということの原因だったのでしょうか?
 マッカーサーですか、その通りかも知れませんが、文化の違いではないでしょうか。通用する成長はしなければなりませんね。
 でも欧米の人のような成長は好ましくない、のですが。
 
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご投稿をありがとうございます。
 
 そうおっしゃるのではないかと思いました。
 
 一方で 同じ民族=言語の内で通じるコミュニケーションのあり方について ふつうに自省し その自己認識をしておくこと 他方で 他の国々・文明の中でのそれについても やはりしっかりと認識しておくこと したがって 両者・多者を共に認識しておくこと・できれば 共通の物指しをも探し出せればよいとすること 大雑把ですが このように おっしゃっているものと存じます。

 なかで 《日本人十二歳説》を出されていますね。この説に 公平な判断をなすことができるといいですね。それに 互いに 批判というものも 考えてみれば 自由なのですし。

 《でも欧米の人のような成長は好ましくない、のですが。》――この問題点についても おしえを乞いたい気持ちですが この質問では 岩井克人や柄谷行人の発言にからめて もしよろしければ ご回答を寄せていただけるかも分かりません。

お礼日時:2008/03/26 11:55

この文章を読む限りにおいては、生物学的な人間と違った意味で人間という語を使っているようです。

以下では、分かりやすいように生物学的な意味での人間を人類と書きます。

準備として、コミュニケーションというものを定義しておきましょう。さしあたって、双方向的に意思や情報が伝達されているものをコミュニケーションと呼ぶことにします。たとえばラジオも電話も音声だけで情報や意思が伝達されていますが、ラジオのような一方通行的なものをコミュニケーションとは呼びませんが、双方向的に伝達されている電話などはコミュニケーションと呼ばないですから、理解しにくい話ではないと思います。

人間=ある人とコミュニケーションをとることのできる人類、と定義すると、人類でありながら人間ではない相手というものが存在することになります。たとえば、近代の奴隷を考えれば、奴隷の主にしてみれば奴隷は人間ではなくて単なる道具か家畜も同然の地位であり、コミュニケーションをとる相手ではなく命令する相手です。つまり、この意味では奴隷はその主にとっては人間ではないわけです。

この定義を使うと、人類の集合が世界(多分、社会という方がわかりやすいと思いますが)であると考えれば、世界とコミュニケーションをとることを拒絶している人は、世界から見て人間ではないわけです。

こう定義したところで、面白い見解がこの後出てくるのかもしれませんが、ここまでで引用は終わっていて、この本を読んでいないので面白い見解につながるかどうかは私にはわかりません。ただ、たとえば白人が白人だけを人間とみなしていた、というときの「人間」という語は、この意味で用いられていたという解釈ができ、同じ人間でなければ動物か超人のいずれかに分類される、という一般的な現象を正しく認識するためには有用だと思います。

> コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になる

ならないんじゃないかな、と思います。もちろん、人間関係でのストレスの中には含まれると思いますが。

たとえば新興宗教の熱心な信者にとって、教祖はコミュニケーションをとる相手ではありませんし、明らかに教祖のほうが「広い意味での社会的な身分の上下関係」は上ですが、その信者は教祖の意見に従うことに対してストレスを感じているとは思いません。

会社のように上司からのストレスというものがあるということをいう人がいると思いますが、その上司もやはりストレスを感じていることから考えると、これは身分の上下云々よりも単純な人間関係、もっといえばコミュニケーションをとるためのベースが共有できていないことに起因するストレスと考えるほうが実態に近いものだと思います。

この回答への補足

 at9_amさん はじめまして。ご回答をありがとうございます。
 引用文の脈絡がはっきりしないうらみがあったかと思います。ただ そこでは 《偽善》の問題を前面に出すかたちですので 端折ってしまいました。もっとも 参考にするべきかも分かりませんので あらためて掲げることとします。

 柄谷行人の発言がおもなのですが かれは  次の岩井克人の発言を承けて その次の引用のように――長いですが――語っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(岩井) ぼくは日本人は百パーセント レイシストだと思いますよ。〔・・・〕上に媚びて 下に威張るというね。明治以来 日本は常にそうだったと思うんですね。そして それと同時に 白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。
(pp.129-130)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(柄谷) 暗黙にではなく 露骨にそうですね。
 ぼくがいやなのは こういうときにはアメリカ人は〔そのような日本人のことを〕偽善的だと批判することですね。
 たしか漱石が 現代日本人は偽善をいやがるあまりに 《露悪主義》になっているということを言っています。これは近代文明批判であったのでしょうが 特に日本人に当てはまるのではないかと思う。

 以前に 中曽根が黒人のIQが低いという発言をして問題になったときに テレビで景山民夫という男が中曽根さんはほんとうのことを正直に言っただけだと言って それが受けていました。
 ぼくはものすごく腹が立った。こういう《正直》なんかより 《偽善》のほうがいいのだと。なぜなら 日本語では 《偽善》は善のように偽ることですが 偽善者は少なくとも《善》を意識し《善》であろうとしているわけですから。

 ところが 日本人は《偽善》のほうを嫌う。自民党の議員が同じことをすれば 許さない。それは 自民党の方が《正直》だからです。これも じつは宣長の言う《やまとごころ》と結びついているんですよ。それは《漢意(からごころ)》=《偽善》の批判だったから。

 もちろん 人間は偽善者であるほかないと思うんです。しかし 人を残らず偽善者たらしめてしまうような《善》とは 結局 神 絶対的な他者としての神ですね。言いかえれば 世界宗教ですね。ぼくは 儒教もそのなかにいれています。もちろん親族形態や先祖崇拝のイデオロギーとなった儒教ではないです。儒教は《天》をたえず意識するのです。日本人に比べれば 韓国人にはそういう意識が強くある。政治家もきちんとしゃべる。どうも 日本人だけが あの正直さ=やまとごころに帰着してしまったようですね。日本のポスト・モダニズムは そういうものです。
(『終りなき世界―90年代の論理』 pp.130-131)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 ご回答については 岩井の言う《人間以前の存在》という表現が 案外 意味を持つように思うのですが どうでしょう。つまり 《主人から見た奴隷》 あるいは 《白人のみが人間だと言うその白人から見たその他の生物としての人類に属する存在》を例に出されていますが 微妙に違うようにも感じました。どこがどうかと言えば どうでしょう? 人間であると認め合っている情況がはじめにあって しかも その人間の状態に達していないと見なさざるを得ないというようなところでしょうか。

 もう一点。上司病の問題は おっしゃるところによれば 上司も 広く大きく上司病をこうむっていると受け取ったのですが それで よろしいでしょうか。 

補足日時:2008/03/26 11:31
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