勘合貿易で使用した割符で、日本側は「本字壱号」「本字弐号」を用いましたが、明側の用いた割符に書かれた文字も同じだったでしょうか。それとも違ってましったっけ?

A 回答 (2件)

「勘合」とは一種の割符(わりふ)で、そこに記されている片割れの文字は、「底簿(ていぼ)」と呼ばれる台帳の文字としか一致しないようになっていました。


日本船は「本字勘合符」に幕府の印を押したものを持参し、明側は、「底簿(ていぼ)」で照合した。が、現物は存在しない。
 もちろん、割り符ですから、同じ文字の半分という意味ですから、同じ文字です。明の改元の毎に文字(字体など)は変えられたそうです。
 以下のURLへ、写真があります。

参考URL:http://www.kyohaku.go.jp/mus_dict/hd0902j.htm
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。どうも私の方に錯覚があったようで、妙な質問をしてしまいました。dragon-2さんのお答えで、私の錯覚に気づきました。「割り符」なのに使用した文字が違うなんてことは変な話ですもんね。ご指摘有難うございました。

お礼日時:2001/02/10 22:14

 詳しくは覚えていないのですが、たしか日本側の板符と明側の板符を合わせてはじめてひとつの言葉になるんだったと思います.つまり、文字の書かれた板符を縦に半分に割って、片方を日本側が、もう片方を明側が所持していたように記憶していますが・・・。

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この回答へのお礼

お礼を投稿したつもりだったのですが、画面上に出てこないので、ひょっとすると私の送信ミスでしたか・・・?それともお礼の文はこの画面上には出ないのでしょうか。でも他の質問を見るとちゃんとお礼の文まで出てますよね。なんせ、投稿が初めてなもんで右も左も分からず、うろうろしてます。届いていない可能性もありますので、改めて送信致します。ご回答有難うございました。echoesさんの仰るとおりなのですが、何か私が錯覚していた可能性もあります。日本と明の札を合わせて初めて勘合符が出来上がるのですから、「本字壱号」なら「本字壱号」で、日本側の使用する勘合符と明側の使用する勘合符とで文字が違うということはおかしいことですもんね。私の錯覚とは、輸出する側と輸入する側とで、ひょっとすると勘合符に用いられる文字が違ったのかと…。「本字壱号」の「本」って、「日本」の「本」のことでしょ?だから、明は明で何か別の文字を用いたのかと・・・。私の方に妙な錯覚があったとすれば質問自体が成り立ちませんね。ともあれ、ご回答有難うございました。厚く御礼申し上げます。

お礼日時:2001/02/10 22:06

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Q倭寇と勘合貿易について

学校の教科書などの説明に、「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」とあります。

単純な疑問なのですが、確認のために倭寇の海賊船に対しのこのこ割符をもっていったら持っていた人物は略奪をうけたり殺害されたりしなかったのでしょうか。勘合符を照合する人物はなにか武力的な裏付けがあったのでしょうか。

或いは勘合符とはそういった性質の物ではなくて単に正式の貿易船と密貿易船を区別するものだったのでしょうか。そうなると一般的に海賊とされる倭寇が乱暴も働かずにすごすごと帰っていったのでしょうか。

または勘合符の役割は朝貢貿易船以外の船の平和的な排除だったのでしょうか。

どなたか詳しい方御回答をお願い申し上げます。

Aベストアンサー

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」
相当に簡略化した説明です。
誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。
勘合符を要求したのは、明王朝です。
貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。
当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。
朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が品物を下賜する、という形態です。
明王朝の家臣である必要があります。
明王朝は、周辺の国の王に対して、明王朝の家臣としてその国を治めている、という様式をとることを強要しました。
同時に統治者に対して、お前が正式な統治者であることを認めて王と名乗ることを許すという、いわば辞令を発行していました。
古代史で有名な金印「漢委奴国王印」が有名です。
このような印を辞令として下賜しました。

この考え方は古代から清王朝が滅亡するまでの長い間続いていた中国王朝特有の考え方です。
(中華思想と呼ばれます)
明や清王朝はこの朝貢貿易以外の交易(私貿易)を一切認めていませんでした。
私貿易は全て密貿易という扱いでした。

明王朝が下賜する品物の経済的価値は家臣が献上したものよりも大きいのが普通です。
家臣の側から見れば安い品物で高価なものが入手できますから、貿易としては常に黒字ということになります。
この利益を狙って偽者が献上してくるのを防止する必要があります。
この船は正式に日本からの献上品を搭載した船です、ということを証明するのが勘合符です。
勘合符を所持した船は1401年~1547年の間で総計84隻です。
日明間での交易全体に占める割合は微々たるものです。

つまり、身分証明書ではありますが、安全を保障する効力はありません。
海上で海賊船に襲われようが、襲われまいが明王朝の与り知らないことです。

倭寇という言葉は、中国や朝鮮王朝で使われていた言葉です。
沿岸を荒らしまわる武力集団の総称です。
内容は、武装商人、日本人の海賊、中国人の海賊、ポルトガル等のヨーロッパの海賊と多岐にわたっていました。
この武装商人の中に、九州一円の大名船や博多などの商人船も含まれています。
もっとも頻繁に渡航したのは朝鮮半島です。

護送船団という考え方は存在していませんでした。
ただでさえ積載量に制限のある船に警備兵などという無駄な要員は乗せていませんでした。
乗務員が即戦闘員です。文字通り自己責任で身の安全を守りました。

海賊船と言っても、カリブの海賊ではありません。大砲をぶっ放して襲ってくるわけではありません。
船を接近させて乗り込んで白兵戦を広げるだけのことです。
こんな手間暇をかけて海上の勘合船を襲うくらいなら、中国なり朝鮮の沿岸に上陸して略奪したほうがよほど効率は良いです。
広い海上で当てもなく勘合船を探すなどという無駄なことはしませんでした。
さっさと中国大陸や朝鮮半島を目指しました。

以上がざっとした説明です、何か疑問があれば補足をお願いします。

蛇足
足利義満は、明との交易による利益欲しさに在職中にいろいろやりましたが、朝廷の家臣であることから上手くいきませんでした。
そこで引退して自由になったところで勝手に日本国王と名乗って朝貢を始めました。
息子の義持は、オレは親父とは違い他国の家臣ではない、といって止めてしまいました。
義持なき後、利に目がくらんだ連中が再開しました。

足利幕府には倭寇を働く九州沿岸の人間を取り締まる意志も能力も持ち合わせていませんでした。
明や高麗、李朝鮮は盛んに取り締まりを依頼してきますが素知らぬ顔でした。
倭寇として沿岸を荒らしまわっていた連中を排除したのは、北九州一帯の諸大名たちでした。
目的は、中国や朝鮮との交易の独占です。
倭寇を排除するのには有効だったことから、明王朝や朝鮮王朝はこれらの諸大名の交易は黙認しました。
これを組織的に徹底的にやったのが秀吉です。
秀吉の時代になってからは朱印船制度というものを設けました。
臣下の礼を要求する勘合などということを秀吉は受付ませんでした。
やがて朝鮮出兵へとつながります。

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」
相当に簡略化した説明です。
誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。
勘合符を要求したのは、明王朝です。
貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。
当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。
朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が...続きを読む


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