自分の持っている般若心経は、
「まーかーはんにゃー・・・」
から始まるのですが、間違いではないですか?
パソコンで、「般若心経」を調べると、
「かんじざいぼさつ・・・」
から始まるのですが、
自分の持っている般若心経は少しだけ通常のものと違うのですか?

教えて下さい。

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A 回答 (3件)

観自在菩薩以下が本文ですが、本文の前に経題(タイトル)がついています。

この経題は普通「摩訶般若波羅蜜多心経」ですが、訳により、また宗派により少し異動があります。ネットでは本文だけを取り上げることが多いですが、正式にはもちろん経題をつけなければいけません。Wikiその他の解説のサイトを見てください。ちゃんと経題つきです。
http://www.7key.jp/data/hannya.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5% …
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先に回答がありますように、『般若心経』は、経題が「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」で、本文が「観自在菩薩行深般若波羅蜜多……」で始まります。


お坊さんがお経を誦する時は、必ず、この経題から読み始めます。

ちなみに、うちに来る禅宗のお坊さんは、『般若心経』を誦する時には、

「まかーはんにゃーはらみたーしんぎょー。かんじーざいぼーさー……」

と読まれます。「仏説」はいつも読んでないですね。それが正しい読み方なのか、あるいは宗派による読み方の違いなのかは分かりませんが。
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般若心経とは(佛説摩訂般若波羅蜜多心経)の略字です。


始まりは、
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五…」となります。

この回答への補足

回答していただき、ありがとうございます。

つまり、自分は「般若心経」の読み方を間違っていたのですか?

補足日時:2008/03/30 17:22
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Q般若心経と般若経典群

素人ですが、般若心経に興味を持ち、一般向けの解説書を十数冊読んできました。

般若心経は般若経典群のエッセンス、とのことですが、これはたとえば「超訳」「まとめ」のような意味なのでしょうか、それとももっと別の意味があるのでしょうか。

般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。

そして、「超訳」であるなら、そもそも般若心経だけを理解して大乗仏教の深淵が理解できるわけもなく、般若心経をステップにして般若経典群を学びに入る・・・というのが本来のあり方のように思えてなりません。にも関わらず、「般若心経には宇宙の深淵がある」などといわれても、ちょっと困ります。

なんだか、般若心経はそれ自体がありがたがれ過ぎて「権威」となってしまい、疑うことまかりならん、わからんのはお前が未熟だからだ的な雰囲気がありますが、それにしては仏教会の権威である皆さんの(そのハズですが)書かれた解説書の解釈がバラバラ過ぎて、このような疑問を抱いてしまいました。

アドバイス、お叱り、否定、なんでも歓迎ですが、「知らない人の憶測による話」や、「思い込みによる感情的な否定」についてはご遠慮申し上げます。よろしくお願いします。

素人ですが、般若心経に興味を持ち、一般向けの解説書を十数冊読んできました。

般若心経は般若経典群のエッセンス、とのことですが、これはたとえば「超訳」「まとめ」のような意味なのでしょうか、それとももっと別の意味があるのでしょうか。

般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。

そして、「超訳」であるなら、そもそも般若心経だけを理解して大乗仏教の深淵が理解でき...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは。



☆般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。
◇これは間違いです。
テキスト的にいいますと、
おまじない(真言)の部分は他の経典から引用されたものですから。
そして、
この経典の功徳の素晴らしさを強調するために付け加えられた、と考えるべきです。

また、般若心経の本文も他の般若経から借用したものに過ぎません。
さらに、般若心経は経典の体裁を有しておらず、このために、「般若心経は経典でない」とする考え方もあります。
梵文(サンスクリット)は存在しますけれども、これは中国語からサンスリット語に翻訳されたものであり、この般若心経はインドではなく中国で作られた経典、つまり、偽経の疑惑もあります。

般若心経は、結構、いかがわしい経典なんですよ。


☆そして、「超訳」であるなら、そもそも般若心経だけを理解して大乗仏教の深淵が理解できるわけもなく、般若心経をステップにして般若経典群を学びに入る・・・というのが本来のあり方のように思えてなりません。にも関わらず、「般若心経には宇宙の深淵がある」などといわれても、ちょっと困ります。
◇「般若心経には宇宙の深淵がある」というのは大げさ過ぎると思いますが、
般若経で最も重要な思想である《空》について簡潔に記されているワケですから、
般若経のエッセンスがここにあるというのは、あながちウソではありません。

般若経は、一つの経典ではなく、聖書のように文献が多数集まった経典群であり、
般若経研究の専門家でもなければ、その全体像はつかめません。
専門家であっても、その全容はつかめない、といっても過言ではありません。
私を含めて素人には、ハッキリ言って、般若経は手に負えませんよ。

これを本格的に勉強しようとしたら、アビダルマなどの仏教の基礎学の知識が欠かせません。
そして、
般若心経が分からないというのは、こうした仏教の基礎知識が欠如しているためです。
ですから、
質問者さんが一般向けの書籍をいくら読んでも、分からないのは当然だと思います。

まずは、仏教の基本思想について書かれた本を読むことをおすすめします。



☆なんだか、般若心経はそれ自体がありがたがれ過ぎて「権威」となってしまい、疑うことまかりならん、わからんのはお前が未熟だからだ的な雰囲気がありますが、それにしては仏教会の権威である皆さんの(そのハズですが)書かれた解説書の解釈がバラバラ過ぎて、このような疑問を抱いてしまいました。
◇これらは、仏教学の専門家が書いた書籍でないからです。
僧侶や芸能人などの有名人が書いた本ではなく、仏教学者の書かれた本を読まれたらいいのではないでしょうか。

たとえば、
 真釈 般若心経
 宮坂宥洪著
 角川ソフィア文庫
あたりを読まれてみてはいかがでしょう。

この本はいい本ですよ。

ただし、この本に書かれている内容をすべて鵜呑にしてはいけません。
著者の独自の解釈なども多数含まれているので、批判的に読んでください。


ではでは。

こんばんは。



☆般若心経には難解な部分、意味の通じない部分、そして後半に突然羯諦羯諦・・・の呪文が出てくるわけですが、これも般若経典群の「まとめ」と解釈すれば納得できます。
◇これは間違いです。
テキスト的にいいますと、
おまじない(真言)の部分は他の経典から引用されたものですから。
そして、
この経典の功徳の素晴らしさを強調するために付け加えられた、と考えるべきです。

また、般若心経の本文も他の般若経から借用したものに過ぎません。
さらに、般若心経は経典の体裁を有...続きを読む

Q般若心経の意味 般若波羅蜜多について 

般若心経の最初に

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 
・・・

とつづきますが ここで 観自在菩薩は菩薩のお名前でいいのでしょうか

次は般若波羅蜜多を深く行じていたときに という意味でしょうか
ここで質問です
般若波羅蜜多というのはどのような行なのでしょうか
般若心経にはそのことがなにも書かれていないようですが

Aベストアンサー

「般若波羅蜜多」はあえて訳せば「悟りの世界に至る智慧(瞑想による根源的なる力)」となるでしょうが、ここでは般若波羅蜜多は般若波羅蜜多という固有名詞と考えてもいいでしょう。
 次に「心」ですが、これはサンスクリット語でフリダヤ。心臓を意味しますが、そこから「(生命の)中核」、それは同時に真言(咒)を意味します。旧訳の般若心経では『般若波羅蜜神咒』『般若波羅蜜大明咒経』など、フリダヤの部分ははっきりと咒であると説かれます(現存する最古のサンスクリット語の心経でも「以上が般若波羅蜜のフリダヤ(咒)である」と締めくくられます)。

 弘法大師による心経論『般若心経秘鍵』では観自在菩薩を「諸乗の行人」の意味と説きます。つまり「諸々の大乗仏教の修行者」という意味です。つまり礼拝対象の観音菩薩という意味にとどまらず、「観」は瞑想の意味であるから瞑想自在なる修行者。
 その瞑想とは「ギャテイ ギャテイ・・・」の般若波羅蜜多の咒を唱えるという修行です。その修行の結果として「五蘊皆空」という境地に達した故に「一切の苦厄を度した」。この苦厄を度する力が「ギャテイの咒」にあるからこそ心経は信仰されてきたのです(ちまたにあふれる心経解説書は“こだわりを捨てる心”などと説き、咒を付け足しぐらいに紹介していますが、それは心経成立の歴史を知らない不完全なものです)。
 『般若心経秘鍵』では「大般若波羅蜜多心経と者(いっぱ)、即ち是れ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり」と的確に説きます。般若菩薩とは般若波羅蜜そのものを尊格化した菩薩ですから、現代訳すれば“般若心経とは偉大なる般若波羅蜜多の大心真言による、深い禅定(瞑想)に入るための教えである”。ですから「観自在菩薩」から「咒即説咒曰」までがギャテイの咒の偉大さを説くものです。
 また羅什訳『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』、義浄訳『般若波羅蜜多心経』には末尾に「此の経を誦せば十悪五逆九十五種邪道を破す。若し十方の諸仏を供養し、十方の諸仏の恩を報ぜんと欲せば、当に観世音の般若を誦すること百遍、千遍にすべし。無間の昼夜に、常に此の経を誦せば、願ひとして果さ不といふこと無し」と読経と真言念誦の功徳を説きます。「観世音の般若」とはギャテイの咒のことですから、的確に真言念誦による瞑想を説いています。
 ですから般若波羅蜜の瞑想を行う者、自身がそれを行えば自分自身が観自在菩薩に成ることも意味します。

 より詳しくは『般若心経秘鍵入門』(村岡空著:大覚寺出版部)を参照ください。
http://www.sagagoryu.gr.jp/shop/hiken01.html

「般若波羅蜜多」はあえて訳せば「悟りの世界に至る智慧(瞑想による根源的なる力)」となるでしょうが、ここでは般若波羅蜜多は般若波羅蜜多という固有名詞と考えてもいいでしょう。
 次に「心」ですが、これはサンスクリット語でフリダヤ。心臓を意味しますが、そこから「(生命の)中核」、それは同時に真言(咒)を意味します。旧訳の般若心経では『般若波羅蜜神咒』『般若波羅蜜大明咒経』など、フリダヤの部分ははっきりと咒であると説かれます(現存する最古のサンスクリット語の心経でも「以上が般若波...続きを読む

Q原始仏教と般若心経

先日、たまたまマハーヴァッカを見ていたら
「色受想行識は我ではない」というくだりがあったので般若心経と似てると思ったんですが、
般若心経の中には「無苦集滅道」というように原始仏教の四諦をあからさまに否定するような一節もあります。
マハーバッカにある「色受想行識は我ではない」という部分と、般若心経の「「色受想行識即空」という部分は関連付けない方がいいのでしょうか?

Aベストアンサー

岩波文庫

般若:はんにゃ
原語の音訳、パンナ。真理を悟ることによって得られる智慧。

波羅蜜多:はらみた
原語の音訳、パーラミータ。彼岸に至ること、完成。

彼岸:ひがん
彼の岸。対語此岸が苦悩と迷いの現実世界であり、彼岸は悟りの世界。

心経:しんぎょう
心を述べた言葉、真言。

と言うことですから、そうなった暁には四諦も自身の中から無くなる
(存在しなくなる)と言うことではないでしょうか。


詳細は大般若経に書いてあり、般若心経は要約ですので
大般若経にて確認できるようです。

Q般若心経の読経

もっと一生懸命に般若心経を唱えるには、如何すべきですか?

Aベストアンサー

あなたが生きているんじゃなく
仏に生かされているんです。

あなたがお経を唱えるんじゃなく
仏があなたの身体を使って
お経を唱えるんです。

我を捨てることはできませんが、
しばらく横に置いておきましょう。
自分を空にして、仏がお経を唱えるのを
邪魔しないようにしましょう。

Q般若心経は間違い?

スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。
彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。
この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。

皆さんはどう思われますか?

それから、この本とははなれますが、こんな説があります。サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。

Aベストアンサー

 こんにちは。


 色受想行識の色について 

   色即是空、空即是色

 と言ったあと ほかにもさらに

   受即是空 空即是受
   想即是空 空即是想
   ・・・

 というふうに 五蘊のすべてについて同じ見方を述べています。

 仮りに《空》が 五蘊のそれぞれに対して上位概念であったとすれば 前半の認識のあと 《空即是・・・》というかたちで捉える後半の認識については 色受想行識が言わば現象であるのですから そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば 問題はないと考えます。

 《空》という上位概念に 下位概念としての五蘊のそれぞれが言わば認識の上で到達し 《空》は下位概念のそれぞれを言わばつつんでいるとすでに前半の句で言っていますから しかもそのひとつの認識の段階にはとどまらず 上位概念が 下位概念にも降りて来ると言ったことになる。これだけのことではないでしょうか。


 《即》という表現が 気に食わないということかも知れません。
 
 批判するときには 出来るだけ相手に不利にならないように・またときには有利に解釈した上で しかもなお残る根本的なマチガイを指摘するのが 筋だと考えます。



 また 思想の良さを捉えるときには その著者いかんや出自の如何を問う必要はありません。
 ぎゃくに著名な書物であっても その思想のマチガイは きちんと捉えて指摘せねばなりません。
 すべからく中身で勝負だと考えます。

 こんにちは。


 色受想行識の色について 

   色即是空、空即是色

 と言ったあと ほかにもさらに

   受即是空 空即是受
   想即是空 空即是想
   ・・・

 というふうに 五蘊のすべてについて同じ見方を述べています。

 仮りに《空》が 五蘊のそれぞれに対して上位概念であったとすれば 前半の認識のあと 《空即是・・・》というかたちで捉える後半の認識については 色受想行識が言わば現象であるのですから そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば 問題...続きを読む


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