楠木正成の出自や前半生は不明で彗星の如く現れたなどとよく資料で見かけますが、楠木正成は一武将です、戦時に兵隊を確保できる武将であるという事はある程度の地位に居たか所領を持っていたはずです。そうするとそういった事が書かれた資料が無いというのは不自然ではないでしょうか?
朝敵となった事で資料が抹消されてしまったのでしょうか?それとも当時はまだ土地の所有した記録や台帳のようなシステムがなかったのでしょうか?
よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

鎌倉時代では、ある時期の ある国の守護が誰だったか?


というのも分からないところがあります。その程度です。

朝廷は基本的に「文章主義」でしたので、だれをどこの国史に任命したというのが残っていることになっています。(紛失している部分もありますが)

幕府の正規の役職でもこの程度なので、幕府にも朝廷にも属していない「悪党」である楠木正成の前半生が分からないのは当たり前です。

楠木正成の初見は「河内に楠木云々の悪党がいて」というのだと記憶しております。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/11 17:21

先賢のNo.1,2の答えの通りです。


当時のものは相当な有名人でも、資料が残っていないのは当たり前です。
正成のものは「正慶元年頃、臨川寺領和泉国若松庄に悪党楠木兵衛尉なるものが押し入って乱暴をした。」との資料が最初のものです。   「ひょうえのじょう」の官位を持っており、時期から見ても後醍醐天皇に招かれ倒幕に立ち上がった後で、兵糧の調達をしたものでしょう。
このように寺領や荘園の年貢米を横取りしたものを、当時は悪党と呼んだので後世の山賊のような悪党とは違うようです。

楠木氏は河内の赤坂辺の土豪で、散所の民を束ねていたいたと推定されています。   散所とは領主の下で運送、労務などの雑役に従事する流民で、これらを束ねる者は運送などの際に必要な武装をしていました。
楠木氏の赤坂は名の通り朱の原料になる、貴重な辰砂(しんしゃ)の産地で産を成し財力があったと考える学者もいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/11 17:22

 楠正成は「悪党」出身で、その有力リーダーではないかと言われています。



 この「悪党」と呼ばれる集団は、主に流通業を生業として商業的利益を経済基盤としていました。

 日本の各地域の経済力が増し、農業を基本とした自給自足経済から、商業的流通が日常的・組織的に各地域間で成立するようになって、力を付けてきた人々です。

 流通をになう人々ですので、荷物を守る必要から、日常的に武装しており、馬などの家畜の扱いのプロですし、かなり広い地域の交通・地形を熟知していました。

 ですから、土地に土着した人々ではなく、他人に管理されることのない特殊技能集団だったので、有事に結束して動いた時、突如として有力武装集団が現れた形になったと見られています。

 尚、武家社会が成立し農民が完全に武家によって統制された時代になっても、古くからの狩猟民・流通民・河原者(主に芸能者)など農地を生活基盤としない人々は、天皇家を自分達の宗家と考える意識を持ち続けました。

 室町時代終わりごろ、皇族・摂関家出身者がトップとなっていた有力寺社には、商業者の座の本部がおかれることが多く、天皇家の菩提寺であった泉湧寺は、飢饉の時は河原者などに炊き出しをするなどして、彼らを保護しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/11 17:22

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q楠木正成の出自について

楠木正成の出自や前半生は不明で彗星の如く現れたなどとよく資料で見かけますが、楠木正成は一武将です、戦時に兵隊を確保できる武将であるという事はある程度の地位に居たか所領を持っていたはずです。そうするとそういった事が書かれた資料が無いというのは不自然ではないでしょうか?
朝敵となった事で資料が抹消されてしまったのでしょうか?それとも当時はまだ土地の所有した記録や台帳のようなシステムがなかったのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

鎌倉時代では、ある時期の ある国の守護が誰だったか?
というのも分からないところがあります。その程度です。

朝廷は基本的に「文章主義」でしたので、だれをどこの国史に任命したというのが残っていることになっています。(紛失している部分もありますが)

幕府の正規の役職でもこの程度なので、幕府にも朝廷にも属していない「悪党」である楠木正成の前半生が分からないのは当たり前です。

楠木正成の初見は「河内に楠木云々の悪党がいて」というのだと記憶しております。

Q楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏について。

楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏ってどんな関係だったのですか?
その時代の情勢を知りたいんですが、なかなか的確なサイトが見つかりません。どなたか歴史の知識がない私にもわかるように簡単に説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。
ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。
後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍してきましたが、翻意して幕府の京都の拠点、六波羅探題を攻め落とし、これに呼応する形で、新田義貞が鎌倉をせめて、ここに鎌倉幕府は終焉し、後醍醐天皇の親政が始まります。
天皇は公家中心の政治を考えて、公家の荘園などを保護したため、武士たちの不満が高まり、足利尊氏を中心に不満が爆発、あくまで天皇に従う、楠正成や新田義貞と戦争になります。
一時は足利尊氏を九州に追い払った朝廷ですが、やがて勢力を挽回した足利軍が、後醍醐天皇とは別の系統の持明院統の光厳上皇を擁して京都を目指して攻め上ってくると、もはやなんともならず、楠正成も湊川の合戦で破れ、自刃して果てます。
やがて新田義貞、北畠顕家などの朝廷側の有力武将も破れ、後醍醐天皇は吉野に逃れ、足利氏の立てた持明院統の光厳上皇に対抗して「南朝」を立てます。
これ以降は、吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と言って、南朝には楠正行(正成の息子)などが応援に加わり、足利幕府の内紛に乗じて京都を奪還したりしますが、3代将軍足利義満の時代に、一応南朝は消滅します。
分かりやすいのは横山光輝の「太平記」という漫画などを読みますとよいですよ。
漫画喫茶などで読んでみてください。

この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。
ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。
後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍...続きを読む

Q楠木正成は忠臣だったのか。

楠木正成は忠臣とされています。負けると分かっていて、南朝のために湊川の合戦に向かうなど、行動だけ見ると忠臣としか思えないでしょう。水戸黄門も「嗚呼、忠臣楠子の墓」と湊川神社にある墓に刻んだほどですから。井沢元彦も「誠の忠臣」としています。しかし、私には信じられません。どの侍も家名を守ることが第一で、主君のことは二の次のはずです。何か、打算があって、結果的に湊川の合戦で討ち死にしたのではないでしょうか。新田義貞にしても足利尊氏との対抗のために南朝に従ったのであって、忠誠心からではないと思います。楠木正成は後醍醐天皇に「足利尊氏と和睦すること」を進言したとも言われますが、その進言を拒否されても南朝に従わなければならない理由があったのではないでしょうか。楠木正成にどのような打算があったか、知っている方がいらっしゃればお教えください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.2です。
<土地を持たない武装商人の親玉だから、足利尊氏のような土地本意の武装集団と合流しても、重く用いられる可能性は低かったということでしょうか。>
 楠木正成の戦い方や、発言を見ると、有能な人物であり、足利尊氏の下についた場合、特殊な技能集団を抱える男という面もあり、重用されたと思われます。

<古くから朝廷と結びついていたので、今更、朝廷を裏切って、足利尊氏に下るということもできなかったのかも知れませんね。>
 精神的な部分が多く、楠木正成個人としては、出来ないことではなかったと思います。

 楠木正成が足利尊氏の下につくということは、楠木正成が「悪党」から土地を基盤とする「領主」になるということです。土地を基盤とする領主となるということは、楠木正成と部下との間に、土地を仲介とした主従関係ができるということを意味します。

 そのためには、悪党の仲間内の一番優秀な党目という、上下関係の少ない対等者の盟主という立場を、支配者と被支配者の関係に作り変えなければなりません。
 多分、今まで一緒に戦ってきた「悪党」仲間の半分以上が楠木正成を離れて、「悪党」のままでいることを選び、その中で一番優秀と思われる者が率いていくことになるでしょう。
 となれば、後醍醐天皇側に残った「悪党」(=臨機応変の機動部隊)との戦闘に、足利尊氏は、同じ悪党出身の楠木正成の部隊を当てるのが一番合理的となります。

 この、同じ釜の飯を食った仲間を、自分が生き残るために、敵味方に引き裂いて戦わせる結果となるよりは、成功の確率が低いとはいえ、一丸となって足利尊氏と戦う方を選んだというのが真相ではないかと思います。

 武士は、一所懸命で、土地に命をかけますが、「悪党」であった楠木正成は、「悪党」仲間の結束に命をかけたということです。
 土地と仲間、どちらに命をかけるかは、その人間の生い立ちから決まってくる本性とも言うべきものではないでしょうか。

No.2です。
<土地を持たない武装商人の親玉だから、足利尊氏のような土地本意の武装集団と合流しても、重く用いられる可能性は低かったということでしょうか。>
 楠木正成の戦い方や、発言を見ると、有能な人物であり、足利尊氏の下についた場合、特殊な技能集団を抱える男という面もあり、重用されたと思われます。

<古くから朝廷と結びついていたので、今更、朝廷を裏切って、足利尊氏に下るということもできなかったのかも知れませんね。>
 精神的な部分が多く、楠木正成個人としては、出来な...続きを読む

Q楠正成について

質問のタイトル通りです。
楠正成について色々詳しい方回答お願いします。
ちなみに、楠正成?政重?どちらがただしいのですか?
どんな事でもいいです。それなりにご存知の方の感想なども頂けたら幸いです。

Aベストアンサー

こんばんは。
お礼を有難うございます!

>どうもうちの家系は楠家に由来しているらしく
そうなんですか!カッコいいですよ~!!楠公さんの末裔だなんて、憧れてしまいます!!
自分のルーツを知ることはとても大切なことだし、何となく気になりますよね。
実家は旧い社家で菅公さん(菅原道真)の末裔らしいけど、歴史を見たって梅が恋しいと嘆いてみたり(笑)40過ぎたら、ヒゲに白髪が混じっちゃったよ~と嘆いてみたり(苦笑)「何だか女々しい人やなぁ~」って感じですよね(笑)受験だって第一志望落ちちゃったから、「子孫に厳しすぎやん!」と腹を立てた覚えもあります(笑)

おっと!脱線してしまいましたが、私が読んだ楠公さんに関する本で、なかなか面白かったものがあったので、補足として付け加えさせて頂きます。

楠木正成と悪党―南北朝時代を読みなおす
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480057854/qid=1082640375/sr=1-130/ref=sr_1_0_130/249-5435647-5016329
人となりと言うより、歴史の背景を知るにはとても役立つ一冊だと思います。ちょっと難い感じですが、参考にはなると思います。

悪党の裔(すえ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/412002167X/qid=1082640156/sr=1-21/ref=sr_1_0_21/249-5435647-5016329
ハードボイルド作家の北方謙三の著作です。同時代の悪党、赤松円心を通して描かれた正成が描かれています。
歴史小説としてみても、なかなか面白いですよ。

楠木正成
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122042178/ref=pd_sim_dp_4/249-5435647-5016329
同じく北方の著。私の言った「男気」が、この一冊を読むとご理解いただけると思います。ご先祖様を誇りに思えますよ!

お調べになる際の一参考になれば幸いです。

こんばんは。
お礼を有難うございます!

>どうもうちの家系は楠家に由来しているらしく
そうなんですか!カッコいいですよ~!!楠公さんの末裔だなんて、憧れてしまいます!!
自分のルーツを知ることはとても大切なことだし、何となく気になりますよね。
実家は旧い社家で菅公さん(菅原道真)の末裔らしいけど、歴史を見たって梅が恋しいと嘆いてみたり(笑)40過ぎたら、ヒゲに白髪が混じっちゃったよ~と嘆いてみたり(苦笑)「何だか女々しい人やなぁ~」って感じですよね(笑)受験だって第一志望...続きを読む

Q皇居の楠木正成像

皇居の楠木正成像は、誰でも見に行ける物なのでしょうか?

Aベストアンサー

 皇居の外苑なんで誰でも見に行けます。

Q楠正成がたてこもった?山頂にある城

確か「その時歴史が動いた」で見たんだと思いますが、
全く何もない山にお城が建っていた映像を見た記憶があります。
何処のお城だかわかりますか?

市民が普通に暮らしていると見せかけて物資を運んでいたそうです。

情報が少なくてすいません。

Aベストアンサー

大阪府千早赤阪村にあった、赤坂城・千早城に間違いありませんが、若干補足をさせて頂きたいと思います。「楠正成」と書かれていますが、普通は「楠木正成」と書きます。また、そもそも、「城」というイメージが、現代人と中世とでは異なると思います。織田信長以来の天守閣のある城を「城」と、我々はイメージしていますが、元々の城は、「全く何もない山」なのです。数十年前、丹波篠山の古城巡りに参加したことがありますが、私には、ただの「山登り」にしか見えませんでした。

Q旧華族の子孫と使用人の子孫、旧大名の子孫と家来の子孫の様に、今も主従関

旧華族の子孫と使用人の子孫、旧大名の子孫と家来の子孫の様に、今も主従関係が続いているケースはありますか?(例=会社社長と社員、主人と使用人など)ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>今も主従関係が続いているケースはありますか

ありますよ。
旧華族については、不明ですが・・・。

愛知県犬山市にある「犬山城」は、旧名古屋藩付け家老である成瀬家が2004年まで個人所有していました。
現在は、財団法人犬山城白帝文庫(理事長は、成瀬家子孫)に所有権を移転しています。
昔、ここの職員に旧家臣の子孫がいると聞いた事がありますね。

他にも、旧藩主が持っていた古文書・美術品などを保存管理している「○○家公益会」「○○家美術館」などに、旧主従関係が続いている事があるようです。

幕府旗本家臣団の子孫の集まりである「柳営会」は、今でも徳川宗家と交流を続けています。

Qなぜ皇居外苑に楠正成像?

1392年の両朝合一以来、歴代天皇は現在にいたるまで北朝系のはず(光明天皇の子孫)です。
なので皇居外苑に銅像を建てるならば、敵である南朝の楠正成よりも、本来皇位継承権のなかった光明天皇を祭上げてくれた足利尊氏の銅像を建てるのが筋ではないかと思うのですが・・・つまらない質問ですいません

Aベストアンサー

 明治維新を実行した志士達が抱いていた尊皇攘夷思想のもとになった水戸学では南朝を正統政権としていましたが、明治維新時には、熊沢寛道氏のような方を別にして、南朝直系の皇族は存在していませんでしたし、これまでの成り行き上、北朝の子孫であっても、3種の神器の所有者である現天皇を支持するほかなく、明治天皇も南朝が正統であると断定したので、忠君愛国のモデルとして、楠正成を飾ることを認めたのでしょう。

参考URL:http://www.ryomonet.co.jp/p-soft/nanboku/index.html

Qよく〇〇の子孫という有名人がいますが

身近なところでは スケートの織田某は織田信長の子孫といいますがそうでしょうか?
信長の子孫ということは直系ということですよね?しかし信長の直系の子孫は孫の三法師(長男信忠の子 のちの秀信)で途絶えたはずです あくまで男系の子孫でですが…

確かに信包や有楽斎の子孫はちゃんと今も存在していますし…
ということは 織田某 君の先祖は信長でも 兄弟の誰かでもなくなりますよね

さらに プロ野球 現巨人の真田祐貴投手は あの真田幸村の子孫といいますがこれも違いますよね?
幸村の子孫は息子の大助(幸昌)で途絶えたはずです  多分兄信幸の子孫です ならなぜ真田信幸の子孫 といわないのか?信幸がマイナーだから?

教えて下さい

Aベストアンサー

とりあえず、織田の方から
織田信長 - 初代:信高(七男) - 2代:高重 - 3代:一之 - 4代:信門 = 5代:信倉(養子) = 6代:信直(養子) - 7代:長孺 - 8代:長裕 - 9代:信真 - (10代から13代は不明)- 14代:重治 - 15代:信義 - 信成(次男)
織田信長の七男・信高の系統は、徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。フィギュアスケート選手の織田信成は、現15代当主・信義の次男である。
Wiki...で調べるとこうなっていました。間に養子があるということですが、血の繋がった女の子に婿をとったのなら、織田信長の血がつながっていますが、他家から養子を迎え、それに嫁をとったのなら、血はつながっていないということですね。

Q鮮卑と朝鮮の出自

朝鮮という名称は五胡十六国の鮮卑から呼び名が来ている、というのは正しい説なのでしょうか?

Aベストアンサー

五胡十六国は紀元4世紀頃ですね。鮮卑はもっと前からあったかも知れませんが。
箕子朝鮮は殷と同じ時代という伝説がありますから、この伝説を信じるなら紀元前11世紀ですね。遅くとも楽浪郡の時代には朝鮮はありました。


人気Q&Aランキング