時間って結局のところなんでしょう?
定義できるものなのでしょうか。
きっといろいろな分野から考えることは可能なのでしょうが。
どのような意見でもいいので、ぜひみなさんの考えを聞かせてください。

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A 回答 (22件中21~22件)

空間を物が移動できるのは、「時間」があるから。


(時間が経過するとわかるのは、「空間」があるから。)
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この回答へのお礼

 時間があるのは、空間があるおかげだということなのでしょうか。それでは、空間とは、なんなのでしょう?空間と時間はなぜ結びついているのでしょう?ってことを自分でしらべればよいのですね。ヒントありがとうございます。あ、答え知っていたら、また教えてください。
 回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/12 11:12

科学的な話じゃないんですよね?



うーん、すべての人に本当の意味で平等なモノ、かな。
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この回答へのお礼

 科学的なお話でももちろん結構です。
ただ、私の頭がついていかないかもしれませんが。

 「すべての人に本当の意味で平等なモノ」という定義はかなり考えさせられる提言でございました。私事ですが、今すっごく嫌なことがあって、やらなきゃいけないことを放って、1,2日ふてねをしていたのですが、どんなにあせってみても、悔やんでみても、泣いてみても、絶対その時間は戻ってきませんもんね。きっとそれは、どんなにお金持ちの人でも、社会的地位の高い人でも、どこの国の人でも、男でも女でも同じですよね。あ、でも人生の成功者は、時間の使い方がうまいのかもしれない。。。

 この世に真の平等などないという意見もよくききますが、時間だけは、私たちに平等で、それはときにやさしく心の傷を癒してくれたり、一方、人間をあせらせ、困らせ、追い立てたりしているようにも思えます。私には、時間というものが、川の流れに似たものに感じられてしかたありません。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/02/12 11:24

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Q数楽と数学会の読みは何ですか?

数楽と数学会の読みは何ですか?

最近、よく「数楽」という言葉を見かけますが、この言葉の読みは何でしょうか?。

普通に読めば「すうらく」だと思いますが、数楽舎という塾は、「すうらくしゃ」ではなく、「すうがくしゃ」と読むそうです。
どちらかが造語ですか?

また、数学会の読みは、「すうがっかい」ですか、「すうがくかい」ですか?

Aベストアンサー

私も、「すうがく」、「すうがっかい」でよいと思うが。

数楽というのは、数学者や数学愛好家が「数学とは楽しいものだ」ということを強調するために、わざと漢字を変えて使っているものである。
だから、数学と同じく、「すうがく」と読んで問題ない。

>どちらかが造語ですか?
「数楽」は造語、「数学会」は「数学」と「会」の合成語だろう。

余談だが、「楽」と言う字は、
・「楽園」「行楽」など、「たのしい」「のびのびする」という意味では「ラク」
・「音楽」「楽器」など、「うたう」「音をかなでる」という意味では「ガク」
と読むのが原則である。
「数楽」の場合は、上記のような理由で敢えて例外的に「ガク」と呼ぶのである。

Q哲学は非生産的で無価値な学問分野という考え

工学部の教授の講義で、「哲学は非生産的で無価値な学問分野です。何が楽しくて4年間も勉強するのでしょうね?(笑)」
と言っていたのですが、哲学を専攻している人は哲学は非生産的で無価値な学問分野という批判をどのように反論しますか?

Aベストアンサー

私なら反論はしませんね。
質問攻めにします(笑)

まず、生産的・非生産的というのはどういう意味か問います。
生産的というのが、「物質を加工して何かを作る」事であると答えられたと仮定します。
非生産的な事が「無価値」という事は、農業・工業以外のサービス業に従事する人は無価値と言うことになりますね。
今や、日本でサービス業に従事する人は6割以上に昇ります。
つまり、この論理でいけば、殆どの人が「無価値」な事をしてるわけですね。
ということは、「無価値」な事でもそれなりに人間にとって必要ということですよね?(必要ないなら、サービス業は淘汰されねばならないでしょう)
ということは、哲学が「無価値」でも人間にとっては必要ということですね。

また、生産活動とは「人々に幸せをもたらす事」と抽象的な事を仮定したとしましょう。
確かに、サービス業も商品を分配したり娯楽の時間を作ったり(無形生産)しています。
しかし、同じように哲学も「知的好奇心を満たす」為の生産活動を行っています。
例えば、哲学者は自分の研究の結果を本という「形」にして世に送り出します。
これは「生産活動」とは言えないのでしょうか?
それを読んで愉しむ人が居るなら、他の娯楽のサービス業と何処か違いがありますか?
例えば、パチンコ店なんてパチンコ好きには価値ある存在ですが、パチンコ嫌いには無価値な存在ですよね?
ということは、哲学も貴方にとって無価値でも私にとっては価値があると言うことになりませんか?

まぁ、ともかく生産的・非生産的徒は何か、価値あるものと価値のないモノの違いは何かを定義してくれなくては、反論のしようがありませんので。
そうそう、私の経験則なんですが、「確乎とした信条・理論(≒哲学)」を持っていない人は、質問攻めにすると必ずボロがでます。

私なら反論はしませんね。
質問攻めにします(笑)

まず、生産的・非生産的というのはどういう意味か問います。
生産的というのが、「物質を加工して何かを作る」事であると答えられたと仮定します。
非生産的な事が「無価値」という事は、農業・工業以外のサービス業に従事する人は無価値と言うことになりますね。
今や、日本でサービス業に従事する人は6割以上に昇ります。
つまり、この論理でいけば、殆どの人が「無価値」な事をしてるわけですね。
ということは、「無価値」な事でもそれなりに人間...続きを読む

Q読みは何でしょう

読みは何でしょう

Aベストアンサー

「網目」です。

写真から箱書きのように見えますが
網目模様の焼き物か塗り物でも入っているのでしょうか?

Q私の考える幸福の定義は、誤りか意見をください。

先日、幸福な人とはどんな人を指しますか?と言う質問を見かけました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7099980.html

いろいろな意見があるのですが、
私の中では幸福な人とは「幸福を意識していない人」
と定義し、結論付けているのですが、そのような回答を述べた人がいませんでした。


何故そう思うのかと言うと、健康な人間が健康を「意識」する事はありません。
「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」・・・。
そうなった時、初めて健康を「意識」するのだと思います。
(↑「健康マニア」は例外 これは幸福とは何なのか?などを哲学的に考えにふけってしまう「幸福マニア」も含む)




幸福も同じです。幸福な人間は幸福を「意識」しません。
決定的な不幸が襲わなくとも、平凡で安全な何不自由ない生活を送っているが、
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そう感じると、幸福を「意識」するようになります。
つまり、そう言う人は幸福では無いと言う事です(比較の問題でその程度なら、劣悪な環境で生活している人たちからすれば、幸福度は決して低いものではないでしょう)


幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きると思います。
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と言う考えでいたのですが、そのような回答を述べている人がいませんでした。
もしかしてこの考えは誤りなのでしょうか?




*因みに私の幸福な人の定義「幸福を意識していない人」と言う「意識」という言葉がポイントです。
これを「幸福を求めていない人」と言う言葉だとニュアンスが変わります。

先日、幸福な人とはどんな人を指しますか?と言う質問を見かけました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7099980.html

いろいろな意見があるのですが、
私の中では幸福な人とは「幸福を意識していない人」
と定義し、結論付けているのですが、そのような回答を述べた人がいませんでした。


何故そう思うのかと言うと、健康な人間が健康を「意識」する事はありません。
「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」・・・。
そうなった時、初めて健康を「意識」するのだと...続きを読む

Aベストアンサー

>幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きる

というのはおっしゃるとおりでしょう。
冬を知らない人に春の暖かさが実感できないのと同様です。
ただ、冬を経験することが不幸だと認識する必要はないということも同じく言えるように思います。
なぜなら、春を幸福の比喩とした場合、冬から春へと変わる節目にこそ幸福の要素が凝縮されているからです。
乗り越え超越するその過程にこそ幸福があるような気がします。
この意味で落差が必要で、そのためにはある程度の不幸は必須でしょうが、それも幸福を構成する一因子であるという構造になるのでしょう。
むろん、乗り越え可能な程度の不幸であることが最低条件にはなります。
    

Q本を読み事で何が得られますか?

本を読み事で何が得られますか?

Aベストアンサー

楽しい時間。展開を想像すること。新たな知識、作者の思想。

Q「神とは、定義できないものである」と定義する。

 「神とは、定義できないものである」と定義する。

ただし、ちょっとまってね。神だとやっかいそうなので、

 「Gとは、定義できないものである」と定義する。

Gはもともと意義を持たない、単なるラベル。この定義によって、「定義できないもの」という属性概念の名称になる。そして意義が生成する。

Gの性質は、本質的に「定義できないもの」という属性と言うことになり、
「AはG」ということで、「Aは定義できないもの」ということをさす。

そして、定義以外の「GはB」という形式の概念思考はできないとする。
というのは、Gの定義から考えられることは、この定義以外の属性を分析判断することができないと思うから。

それとも、たとえば、「Gは創造主である」とか、「Gは絶対者である」とかでてきますか?


ちなみにこれは、真面目な問いです。

Aベストアンサー

それを定義できないものと定義したならば、それ以上のことは言えない。
定義できないものの名称であるGやAに、創造主や、絶対者という属性を付与することはできない。
しかし、GをAと言い換えることが出来るのなら、そこから何らかの、定義できないものたちの共通項を導き出すことは可能性としては残ると思う。つまり、定義できないものの特性、というものが導き出せる可能性はあるということ。
具体的には、たとえば、全く知らない、見たことも聴いたこともないものについては、定義ができない。
それについて、すべての人の意見がバラバラであったり、嘘で固められていて共通項が見いだせない、あるいは信じられる要素がないものについては定義ができない。
言語の法則性が崩壊しているものについては定義ができない。
など。
定義できるかできないかが分からない、というものは、定義できる可能性を示唆しているが、それ以上ではない。その場合、かもしれないという表現に値すると思う。それは、Gを絶対者と定義できるかもしれない。それは、Aを創造主と定義できるかもしれない。など。
確証はなく、希望によって色付けられるものなのではないだろうか。

それを定義できないものと定義したならば、それ以上のことは言えない。
定義できないものの名称であるGやAに、創造主や、絶対者という属性を付与することはできない。
しかし、GをAと言い換えることが出来るのなら、そこから何らかの、定義できないものたちの共通項を導き出すことは可能性としては残ると思う。つまり、定義できないものの特性、というものが導き出せる可能性はあるということ。
具体的には、たとえば、全く知らない、見たことも聴いたこともないものについては、定義ができない。
それについて、...続きを読む

Q「故れ」の読み方と意味は何ですか

「故れ」の読み方と意味は何ですか。

本居宣長の「古事記伝」に出てきます。
一応、自分の解釈は
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意味は「これによって」
と思うのですが、国語学的な根拠がないので、
自信がありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

例えば古事記傳七之卷神代五之卷の二段目「須佐之男命御啼伊佐知の段」の冒頭を見てください。「故各隨依賜之命所知看之中」に、「カレ オノモオノモ ヨサシタマヘル  ミコトノ マニマニ シロシメス ナカニ」と訓みが添えられています。

「かれ」は、「か・あれ」の縮まったもので、「か」は「あれ」「あそこ」と物を指し示す語、「あれ」は物が明瞭に見える意の「ある」の「已然形」で、「あるので」「あるのだが」というような意味。併せて、「そのようなことであるから」といったような意味に使われます。

「自分の解釈」と仰るのはとても良いことですね。国語学的な根拠など参考程度にすればよいでしょう。それこそ宣長の言う「おほらか」ということでしょう。

Q時と時間の違いあるいは定義、空と空間との違いあるいは定義を教えて下さい

時と時間の違いあるいは定義、空と空間との違いあるいは定義を教えて下さい。引用ではなく、独自の見解でお願いできれば本望です。

Aベストアンサー

追伸
時空を考えると慢性的難病になりますね。慢性的難病を直す薬が「亀と漁師の無限と有限の話」なんですね。
以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
特に、無と空がいいですね。自然現象として無も空も存在しないのだけれど人間の単純な観察では表現の言葉として便利に使える言葉ということですね。言葉が独り歩きしてあたかもそのようなことが実際にあるかのごとく考えて慢性的難病になってしまうところが怖いとこなんですね。「無とは単純にないことの、たわいないことば。哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!」そういうことですね。
(仏教)哲学的では無も空も変転の一つの姿を現している状態でしかないですからね。水は熱で水蒸気になり冷やされて又水になる、更に冷やされると氷になる。こんなことはみな知っているのに水蒸気になると見えないので「無し」というのですね。それを空とよんでも同じですね。なくなっているわけではなく変転の姿ですよね。でも見えないから「無や空」ですね。観察眼的表現で論理を立てても意味がないことですね。
その変転をアインシュタインはE=mC^2と表現し、釈尊は「色即是空・空即是色」といってますね。これは存在の永遠性の表現ですね。無限も「無や空」と非常に似てますね。あまりに多い・大きい・小さいと観察不可能ですから無限・無限大・無限小と言っているだけなのですね。単なる言葉遊びなのですが遊びが学問になると慢性的難病になりますね。
まあ私も重い慢性的難病ですから、更に付け加えると、三次元宇宙・時空というのはたくさんあるのですね。朝。木々の葉についている水滴ですね。いくつもの水滴が木の葉についてますね。あの水滴の一つが三次元宇宙・時空なんですね。次の朝になると水滴の数が違っている。そんなようなものなんですね。
膨張も収縮も変転も何でもありですね。再度、たわごとを言ってしまいました。

追伸
時空を考えると慢性的難病になりますね。慢性的難病を直す薬が「亀と漁師の無限と有限の話」なんですね。
以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
特に、...続きを読む

Q「馬前」←1字の漢字です。読みと意味は何ですか?

「馬前」←1字の漢字です。読みと意味は何ですか?
人名のようなのですが、[馬前]原という記述がありました。
第2水準にも無い漢字のようですが、何と読むのでしょうか?
また意味は何ですか?

Aベストアンサー

漢字辞典で調べたらありました。人名については分かりません。

読み:「セン」古い中国の読み方だと「ゼン」の場合も
意味:蹄の白い馬
「[馬前]原」の読み:「きばはら」

参考…大修館「漢語新辞典」

Q東浩紀氏がいうスノビズムの定義って一般的なスノビズムの定義とは違いますよね?

東浩紀氏によると「与えられた環境を否定する実質的な理由が何もないにも関わらず、形式的な価値に基づいてそれを否定する行動様式のことをいう。」
(東浩紀著:動物化するポストモダンより抜粋)とありますが、一般的なスノビズムにいう俗物根性のようなニュアンスはないですよね。
なぜ、こんな用語の混同が起こるのでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

すいません。遅くなりました。
ちょっと時間がないんですが、いまを逃したらまた遅くなっちゃうんで。
簡単に。

> 「富や地位に対する憧れ」が形式的価値といえるかどうかが疑問です。

何を「富」とし、何を「地位」とするか、というのは、個人が主体的に意味づけを行ったものではありません。すでに決まった価値に依拠して、主体が判断するものにほかならない。だから「形式的」な価値という意味で、わたしはこの言葉を使いました。

『動物化する…』の本文には「名誉や規律」とありますが、「富や地位に対するあこがれ」は「名誉」に含まれるもののひとつでしょう。もちろん、コジェーヴがあげている「切腹」の例にはあてはまりませんが。

たとえば「規律」は、主体が社会化されるプロセスにおいて、むしろ外から押しつけられるもの、という印象が強いかもしれません。
一方、「名誉」というと、主体が進んで求めるもの、自発的に欲望するもの、と誤認されるものかもしれませんが、これも教育のたまものです。

教育というと学校で教わるもののように思われるかもしれませんが、それにとどまるものではありません。

たとえばボードリヤールはそれを「日常的ルシクラージュ(再教育)」と呼んでいますが、わたしたちは常に携帯電話の最新機種や車の最新モデル、ファッションの流行などの情報にさらされ、情報の更新を迫ります。わたしたちはこうやって学習し、「新しいもの」「価値あるもの」の情報を得たところで、自分の欲望を「主体的に」形成していくのです。そこでは「もの」を買うことは、その機能を使用すること、私有することではありません(東さんのこの部分はボードリヤールの「コミュニケーションと交換のシステムとしての消費」ということとは関係がないので、これ以上はふれません)。

ただ、ここで言う「名誉と規律」で質問者さんが出しておられる「炊飯器」はスノビズムの例にふさわしくないんです。

もちろん、現在「米を炊く道具」として利用している炊飯器がまったく壊れていなくて、日々の使用に十分耐えうるものであっても、白く、大きくて、場所を取る。最新型の銀色のIHジャーではない、という「価値」において否定する、それがスノビズムである、といって言えないこともないんですが、それだと結局は消費行動に収斂されてしまう。「動物」ということになってしまいます。

コジェーヴのあげた「切腹」の例にしても、以降のジジェクのシニシズムとの関連づけ方を見ても、ここで言われているのは、もっと実体のないもの、あらっぽくいうと(東さんはこの言葉を使うのを避けていますが)イデオロギーというふうに理解していいんじゃないかと思います。

すいません。遅くなりました。
ちょっと時間がないんですが、いまを逃したらまた遅くなっちゃうんで。
簡単に。

> 「富や地位に対する憧れ」が形式的価値といえるかどうかが疑問です。

何を「富」とし、何を「地位」とするか、というのは、個人が主体的に意味づけを行ったものではありません。すでに決まった価値に依拠して、主体が判断するものにほかならない。だから「形式的」な価値という意味で、わたしはこの言葉を使いました。

『動物化する…』の本文には「名誉や規律」とありますが、「富や地位...続きを読む


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