マンガでよめる痔のこと・薬のこと

かつて西ベルリンは東ドイツの中の飛び地だったそうですが、西ベルリンの住民はそこから出る必要のあるとき、例えば、西ドイツ本国に行くときなど、どうしていたのでしょうか。飛行機を使っていたのでしょうか。車や鉄道を利用して、西ベルリン住民が東ドイツ内を通ることはできたのでしょうか。
どなたか教えてください。

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A 回答 (1件)

1971年のトランジット協定により西ドイツ-西ベルリン間は、航空機はもちろん鉄道・自動車などの陸路でも検問も比較的簡単で自由に行き来できたそうです。


西ドイツ・西ベルリン市民は、東ドイツ通過の際にパスポートは不要で身分証携行だけでよかったそうです。
通過の際、ビザ代が徴収されましたが、これは西ドイツ政府が肩代わりして支払っていたそうです。
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この回答へのお礼

そうだったのですか。ありがとうございます。

お礼日時:2002/11/06 20:08

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Q西ドイツ・東ドイツはどこで分かれていたのですか?

こんにちは。
旧東ドイツと旧西ドイツがどこで分かれていたのか知りたいのですが、私の手元には現在のドイツの地図しかなく調べる事が出来ませんでした。
どなたか、西ドイツと東ドイツに分かれていた頃の地図の載っているホームページをご存知ではありませんでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

西Berlinは東ドイツの中にぽっかり浮かぶ、西ドイツの飛び地として存在していました。
従ってkingyonohireさんのおっしゃる「東と西の分かれ目」と「ベルリンの壁」は別の場所です。でも「ベルリンの壁」が飛び地を仕切る厳然たる国境でもあったこともまた事実です。

さてご質問ですが、手許にドイツの地図があるのであればそう難しい相談ではありません。
その地図には州の区分は書いてありますか? 昔の東ドイツ地域に属する州はMecklenburg-Vorpommern、Sachsen-Anhalt、Brandenburg、Sachsen、Thueringenの5州とBerlin特別市(の東の領域)です。
旧国境はThueringen森を西に走り、Wuerzburgの北100kmくらいのところで北に向きを変え、Harz山のすぐ西を通り、Elbe川に沿ってHamburg方向に伸び、Luebeckの東でバルト海に達していました。

とりあえず、参考になりそうなページを付けておきます[1]。州ごとの特徴を日本語で説明したページですが、一番上に「地図」と書かれたリンクがあり、これを押すと地図[2]に飛びます。地図はドイツ語で書かれていますが、州の区分を見るだけなら特に困ることもないと思います。

[1] http://www.flc.u-tokai.ac.jp/german/land.htm
[2] http://userpage.chemie.fu-berlin.de/adressen/bl/bundeslaender.html

2年ほど前にドイツを訪ねた折に旧国境付近の5万分の1の地図を買ったのですが、旧国境を境に旧西地域と旧東地域で地図の記号や表記が微妙に違っていたのを興味深く感じたことがあります。(余談でした)

参考URL:http://www.flc.u-tokai.ac.jp/german/land.htm, http://userpage.chemie.fu-berlin.de/adressen/bl/bundeslaender.html

西Berlinは東ドイツの中にぽっかり浮かぶ、西ドイツの飛び地として存在していました。
従ってkingyonohireさんのおっしゃる「東と西の分かれ目」と「ベルリンの壁」は別の場所です。でも「ベルリンの壁」が飛び地を仕切る厳然たる国境でもあったこともまた事実です。

さてご質問ですが、手許にドイツの地図があるのであればそう難しい相談ではありません。
その地図には州の区分は書いてありますか? 昔の東ドイツ地域に属する州はMecklenburg-Vorpommern、Sachsen-Anhalt、Brandenburg、Sachsen、Thueringen...続きを読む

Q東ドイツと西ドイツでの価値観・国民性の違いについて

あまり歴史には詳しくないのですが、

東ドイツ=社会主義
西ドイツ=資本主義

といったイメージを持っています。

ドイツが分断されていた年月は、歴史全体から見れば僅かですが、当然、両国での教育や国民性は異なっているかと思います。

それぞれの国の教育による価値観や、国民性は、それぞれどういったものであったのでしょうか。

また、東ドイツが西ドイツに吸収されて今のドイツができたようですが、西ドイツと今のドイツの価値観と国民性には、根本的な違いはないのでしょうか。

Aベストアンサー

東ドイツ=DDR=Deutsche Demokratische Republik=ドイツ民主共和国=共産主義
西ドイツ=BRD=Bundesrepublik Deutschland=ドイツ連邦共和国=民主主義

東ドイツの教育は普通の授業と平行して、職業訓練も重要視されていました。
例えば、秋になると、農家の収穫を手伝うとか、Lehring, Geselle, Meisterと言った職人の見習い制度も重視されていました。

西ドイツでは保育園、幼稚園が不足していましたが、東では、保育園、幼稚園が充実していたようで、働きたいが、子供を預けられないといった心配はほとんど無かったようです。

西ドイツでは学校で初めて習う外国語がラテン語か英語ですが、東ドイツでは、ロシア語か英語、ラテン語でした。ですから、東出身の人はロシア語が分かる人がけっこういます。

また、東ドイツでは、SED=Sozialistische Einheitspartei Deutschelands=ドイツ社会主義統一党だけが、政党で、この政党党員の子供と、農民の子供が大学に行け、そこの党員でない人の子供は優秀でも大学に行けませんでした。

また、Abi(Gymnasiumの卒業試験)で彼らは、SEDをたたえる論文を書かなければ、大学に行けなかったそうです。

そして、例えば、農民の子が無事大学を卒業して、エンジニアになったとして、その人がSEDの党員でなければ、いくらその子供が優秀でも大学には入れてもらえない仕組みになっていたそうです。
もし、党に入っていない人の娘が優秀で、大学に行きたいのに行けないとかになると、身近な西ヨーロッパから来ている外国人とその娘が、偽装結婚して、彼の本国から西ドイツに渡って西ドイツの大学へ行くなどと言うこともあったようです。
教育自体は、西ドイツよりも東の方が良かったようです。

嘗て、東ドイツはオリンピックでメダルを多く稼いでいましたが、彼たちはSEDの格好のプロパガンダで、子供のころから、ドーピング漬けにされていた人達がほとんどで、ドイツ再統一後は大きなスキャンダルになっていました。
フィギュアースケートのカタリーナ・ヴィットはよくホーネッカーと雑誌などの写真に写っていて、プロパガンダの代表だったとも言える人です。

国民性の違いといって、バイエルン人と東プロイセン人との違いは無いと思います。ただ、地理的な関係で東プロイセンの人の引揚者が、東ドイツには多かったと思います。

東ドイツの時代は、友達や隣人がお互い見張っていて、スパイさながらの写真を撮って密告するなど、日常茶飯事、平気でやっていたようです。ですから、人を信じない人が多かったのではないでしょうか。

東ドイツでも東ベルリンでは、夜8時のARD(西ドイツの1チャンネル)のニュースが見る事が出来ました。西からの新聞、雑誌、出版物は禁止で、バナナ、オレンジ、チョコレート、コーヒーは市場にありませんでした。当時の東ベルリンのアレキサンダープラッツの喫茶店ではインスタントコーヒーで、その広場のスーパーでは、脂身の多いサラミーソーセージとラベルの貼っていない缶詰ばかりが目立っていました。缶詰は買って帰って、どうやって中身を判断するのか不思議に思ったものです。チェックポイント・チャーリーの国境を越えた東側は廃墟のビルしか見えず、人の気配が全くしない感じの所でした。

また、壁が崩壊する前、ハンガリーがオーストリア国境を開けると言った時に自分達の子供を置き去りにして、逃げた親が多くいて、壁の崩壊直後、当時のコール首相夫人が自らバスを運転して、その子供達を救いに行ったのは有名な話しです。

現在、嘗てDDRだった地方は、西よりも、目だった産業も無く、若者の失業率も高く、ザクセン州などはネオナチなどに走る若者がけっこういます。最近は親子3代ネオナチなんていうのもあるようです。

ベルリンの現在の国会議事堂内に国境線がありました。
そして、その脇に川が流れていて、鉄格子で仕切られている横に、十字架がいくつもあって、見れば、その前の年に撃たれた人のものもありました。30年前の話です。皆自由に行き来できる、いい時代になりました。

東ドイツ=DDR=Deutsche Demokratische Republik=ドイツ民主共和国=共産主義
西ドイツ=BRD=Bundesrepublik Deutschland=ドイツ連邦共和国=民主主義

東ドイツの教育は普通の授業と平行して、職業訓練も重要視されていました。
例えば、秋になると、農家の収穫を手伝うとか、Lehring, Geselle, Meisterと言った職人の見習い制度も重視されていました。

西ドイツでは保育園、幼稚園が不足していましたが、東では、保育園、幼稚園が充実していたようで、働きたいが、子供を預けられないといった心配は...続きを読む

Qベルリンの壁はなぜ1周していないのか

かつて、東ドイツの中にベルリンがあり、東西に分かれていました。そこにベルリンの壁ができたのですが、なぜベルリン市内1周つくらなかったのか。壁のないところからは西側には亡命できないなにかが、あったのでしょうか。

Aベストアンサー

私も同じ疑問をもちました。下記URL参照。東ベルリンをぐるりと囲んでたらしいです。

参考URL:http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=683663

Qベルリンの壁以外の国境線 東ドイツからの脱出ルート

西ベルリンは東ドイツの中にあって壁で守られていたので東ドイツ国民はベルリンに入ることが出来なかったのは理解できます。しかし、ベルリンを除く西ドイツと東ドイツは国境線も長く海も山もあるので脱出や移動が可能な気がしますが(壁で無く鉄条網か?)警備が厳重で脱出出来なかったのでしょうか?1980年代後半はハンガリーから脱出してベルリンの壁崩壊に向かうようですがそもそも国民が大挙して万人単位で国境線破れば取り締まれないような気がします。

Aベストアンサー

東ドイツ側は通行出来る場所ではベルリンの壁と同程度の警戒をしていましたし、通行できない場所は鉄条網が張られ地雷がたっぷりと埋まっていて自動で銃撃する装置が設置されていました。

以下の写真が当時の国境の写真ですが、東側が設置した鉄条網が張られ、自動発砲装置が設置され、東西を挟む立入禁止部分には地雷が埋まっています。
http://www.be21.ne.jp/pepisode189D22-281.jpg

自動発砲装置とは、地雷が埋まった無人地帯に何かが入り込むと自動的に銃撃する無人の装置です。

>そもそも国民が大挙して万人単位で国境線破れば取り締まれないような気がします。

確かに、自動発砲装置の弾が尽きて、全部の地雷が爆発し切れば、そのあとは、1万人の民衆が雪崩れ込むのを防げません。

ですが、1万人の集団の先頭に立つって事は、自動発砲装置と地雷の餌食になると言う事なので「100%の死」を意味します。

なので、だれも先頭に立とうとしなかったのです。100%死ぬと判って先頭に立つ馬鹿は居ませんからね。誰だって命は惜しいのです。

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q韓国人の一般的な朝昼晩の日常食

韓国人の一般的な朝昼晩の日常的な家庭料理、
献立を教えて下さい。

Aベストアンサー

再びで~す。
キムチと一言で言っても、ありとあらゆる種類があります。
白菜、大根は一般的ですが、大根葉、きゅうり、キャベツ、にら、いろんなキムチがあります。
普通は、なんらかのキムチが食卓に必ず乗っています。
今は、若い大根葉のキムチ(ヨルムキムチ)がおいしい季節です。
夏になると、冷た~いムル・キムチ(水キムチ)が、よく食卓に上ります。

また、韓国人でも、激辛が好きな人もいれば、あんまり辛いのは苦手、という人もいます。
日本人でも刺身とか寿司とか天ぷらとか、あんまり好きじゃない人は、出されたり誘われれば食べても、自分の家の食卓にわざわざお金を出して買って来て乗せないと思いますが、韓国人も、自宅では辛いものが好きな人は、辛いものをバンバン食べ、それほど好きじゃない人は、辛さを押さえたものを食べています。

でも、今のお父さんの年代の人は、唐辛子で真っ赤なものが好きな人が多いので、たいていの家庭の食卓には、辛いものが並んでいます。

最近の子どもは、ピザとかハンバーガーが好きで、キムチは嫌い、なんて子も珍しくないんですよ。

再びで~す。
キムチと一言で言っても、ありとあらゆる種類があります。
白菜、大根は一般的ですが、大根葉、きゅうり、キャベツ、にら、いろんなキムチがあります。
普通は、なんらかのキムチが食卓に必ず乗っています。
今は、若い大根葉のキムチ(ヨルムキムチ)がおいしい季節です。
夏になると、冷た~いムル・キムチ(水キムチ)が、よく食卓に上ります。

また、韓国人でも、激辛が好きな人もいれば、あんまり辛いのは苦手、という人もいます。
日本人でも刺身とか寿司とか天ぷらとか、あんまり好...続きを読む

Qメガネを新しくしました。同じ度数なのに見え方が違って困ってます。

5年ぶりにメガネを買い替えました。
度数だけは眼科で診て貰って度数に変化はないということで同じ度数にしました。

度が強いので超薄型の高価なレンズにしました。

でも、何か違和感があり古いメガネの方が楽にクッキリ見える感じです。

少しは慣れてきましたが新しいメガネにしたらこういうことはあるんでしょうか?

フレームの大きさより少しだけ大きめです。
眼鏡店では詳しく診てもらわず度数だけ言って前のメガネのカルテを参考にして作ってもらいました。
これがいけなかったのでしょうか?

慣れて目がメガネに合ってくるものでしょうか?

Aベストアンサー

早速の補足ありがとうございました。

眼科で処方箋は請求されなかったんでしょうか?
もしかしたら、前回の眼鏡と同度数でOKということで、処方箋は特に必要なしだということだったんでしょうか。両眼共に+5Dなんですね?

今までのレンズは非球面レンズではなかったんでしょうね。今のレンズは非球面でしょうか?(レンズが薄いことから非球面と思いますが)

非球面レンズは同度数でも最初の内は以前のレンズと見え方は違っていますので、確かにしばらくは違和感があると思います。+5Dでは通常のレンズでは確かに厚みが出てしまいますね。非球面レンズは球面レンズの非点収差(レンズの周辺で見ると点が線に見える、いわゆる乱視が入ったように感じる状態)を極力少なくしたものですが、人によってはかえって非球面レンズでこの収差を感じる場合があります。
また、前回のレンズがプラスチックレンズであれば、今の薄いレンズはおそらくガラスレンズですので、薄くなってもかえって重くなっていることがあります。フレームも変わったために装用感が変わり、その分、眼にも慣れるまでは負担が掛かることになります。

眼鏡を新しくした場合、同じ度数でも装用感の違い、材質の違い、性質の違いなどから当然同じ掛け心地とはいきません。
しばらく慣れてくれば、気にならなくなってくると思いますので、もし辛いようなら、前回の眼鏡を併用して眼に休息を与えながら慣れていくようにしてください。

早速の補足ありがとうございました。

眼科で処方箋は請求されなかったんでしょうか?
もしかしたら、前回の眼鏡と同度数でOKということで、処方箋は特に必要なしだということだったんでしょうか。両眼共に+5Dなんですね?

今までのレンズは非球面レンズではなかったんでしょうね。今のレンズは非球面でしょうか?(レンズが薄いことから非球面と思いますが)

非球面レンズは同度数でも最初の内は以前のレンズと見え方は違っていますので、確かにしばらくは違和感があると思います。+5Dでは通常の...続きを読む

Q原爆投下地の広島・長崎では何故、人が暮らせているのですか?

チェルノブイリでは、石棺を建造したり現在も人が近寄れない状況であるのに、広島や長崎ではなぜ、戦後から現在に至るまで人間が暮らせているのですか?
広島や長崎ではガンや先天異常等、人体への影響は出ていないのでしょうか。それとも原発事故と原子爆弾では、発生する物質やその後の展開が異なっているのでしょうか。
放射性物質の半減期はすごく永いと、昔理科の時間に習ったような気がしますが、それなら広島と長崎の環境は、現在も人体に深刻な影響があるのではないでしょうか。

当方素人で、恥ずかしながら見当もつきません。どなたかご存知の方、お答えよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 広島に落とされた原爆には64kgのウラン、長崎に落とされた原爆には6.2kgのプルトニウムが搭載されていました。これに対し、チェルノブイリ原発には3.6トンのウランがあり、事故により0.2トンが空中に放出されました。ですから、チェルノブイリ原発の内部には広島原爆の実に53倍にも達するウランが残ったままになっています。このため、コンクリートで封入しておく必要があるのです。
 核爆発で生成される放射性物質には様々な種類があり、半減期の長いものとしては90Srや137Cs(両者とも30年程度)があげられます。これらは死の灰となって降り注ぎましたが、数日で雨や風などによって流されましたので今は影響ありません。核分裂をせずに残ったウラン(半減期は数億-数十億年)やプルトニウム(半減期は数十万年)も同じです。
 放射線被曝により、数年-数十年後にガンの発症率が上昇することは、原爆被爆者の調査により証明されています。これは被曝量に比例し、放射線源(原発事故、原爆、水爆、宇宙線など)には関係しません。
 胎児が被曝すると小頭症や発育不全が起きます。これも被爆者の調査で証明されています。四肢欠損などの体表奇形は証明されていません。
 放射線被曝後に妊娠した場合、とくに先天異常は起きません。これは被爆者でもそうですし、骨盤部レントゲン検査などで生殖腺に被曝した場合もそうです。
 なお、放射線測定用のガイガーカウンターは安いもので4万円弱から市販されていますので、本当に放射能がないかどうか自分で測定することもできます。

 広島に落とされた原爆には64kgのウラン、長崎に落とされた原爆には6.2kgのプルトニウムが搭載されていました。これに対し、チェルノブイリ原発には3.6トンのウランがあり、事故により0.2トンが空中に放出されました。ですから、チェルノブイリ原発の内部には広島原爆の実に53倍にも達するウランが残ったままになっています。このため、コンクリートで封入しておく必要があるのです。
 核爆発で生成される放射性物質には様々な種類があり、半減期の長いものとしては90Srや137Cs(両者とも30年程度)があげられ...続きを読む

Qなぜ中国は国連安保理の常任理事国のひとつに入ることができたのでしょうか?

お聞きしたいことは、タイトルの通りです。

私は政治・経済の勉強を主にしていたため、歴史にうとい一面を併せ持ってしまいました。なので、おそらく初歩的すぎる質問かとは思うのですが……どなたか、「事情」あるいは「検索エンジンで有効なキーワード」などを教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

「United Nation」は中国語で「聯合國」と訳します。第二次大戦の戦勝国も同じく「聯合國」です。これを「国連」と「連合国」に訳し分けるのは、敗戦国の日本だけです。

それはともかく、質問者さんの疑問は、「民主国家でない『毛沢東と中華人民共和国』が、なぜ国連の常任理事国なのか?」ということでしょう。
他の方も書いておられますが、1945年の国連創立時から1971年までは、『蒋介石の中華民国』が常任理事国だったのです。

蒋介石が大陸で負けて、毛沢東の中華人民共和国が成立したのは1949年。翌年の朝鮮戦争では、韓国を応援した国連軍と、北朝鮮を応援した中国人民解放軍が戦闘しています。当時の国連軍の主体だった米国としては、非共産側の蒋介石を手放すわけにはいきません。その経緯があって、蒋介石を追い出すことも、毛沢東を受け入れることもなく、以後20年以上が経過しました。

1960年代に入ると、同じ共産側だったソ連と中華人民共和国に微妙な亀裂が入ります。中国国内は文化大革命で混乱していたにも関わらず、国際的には蒋介石より毛沢東のほうがソ連への牽制に大きな力を持つようになりました。
このような時期に、東欧のアルバニア(ガチガチの共産主義国)が提案した「中国代表権交代提案」に、米国などが乗ったのです。日本は最後まで反対したのですが。

なお、中華民国か中華人民共和国のどちらかを常任理事国にしておくことは、一種のバランス感覚だったのでしょう。
日本も、第一次大戦で戦勝国となった後に設立された「国際連盟」では、最初から常任理事国でした。
第二次大戦を防げなかった国際連盟を廃し、日本の代わりに戦勝国となった中国(まだ中華民国)を常任理事国に入れるということは、それほど奇妙な流れではなかったのでしょう。

「United Nation」は中国語で「聯合國」と訳します。第二次大戦の戦勝国も同じく「聯合國」です。これを「国連」と「連合国」に訳し分けるのは、敗戦国の日本だけです。

それはともかく、質問者さんの疑問は、「民主国家でない『毛沢東と中華人民共和国』が、なぜ国連の常任理事国なのか?」ということでしょう。
他の方も書いておられますが、1945年の国連創立時から1971年までは、『蒋介石の中華民国』が常任理事国だったのです。

蒋介石が大陸で負けて、毛沢東の中華人民共和国が成立したのは1949年。翌...続きを読む


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