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質問は上記の通りです。よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

私自身は哲学書なんどというものはおろか、どのような専門書にも全くと言っていいほど親しんできませんでしたから、いわゆる教養のお高い知識人のかたがたとはアプローチの仕方が違いますでしょうし、御質問者様の問いにこたえる資格があるのかどうかは分かりませんけれども。

。。
私にとっての「専門書」はナマの人間、およそ生ある者、そして実人生の全てです。
常に、いまよりも高い次元へと思索を進めることを強い、ときに、その鞭を弛めてくれるかと思いきや次の瞬間には、よりいっそう困難な課題を突きつけてくる厳しい教師でもあります。一つひとつ考察し、それらについて一応の到達点に辿り着いたとしてもなお、それらを超えて「大なる答え」を見出すことを要求してきます。
そして、おそらく最終的には「大なる答え」の前に、「小なる答え」は呆気なく吸収されてしまうのです。それでも、凡庸な者ほど「小なる答え」を軽んじるわけにいきませんし、その段階にあるうちは、仰るような「考えるために考えている」ような状態を余儀なくされるのでしょう。しかも、そこに留まったままで一生を終えるのが殆どの人間であるかもしれません。感受性や思索能力の問題、実生活上の動機の強弱や限界の問題、各人が背負う事情も左右することでしょう。

大辞泉によれば「哲学」とは
sophia(智)をphilein(愛する)という意に由来し
「世界・人生などの根本原理を追求する学問。
古代ギリシアでは学問一般として自然を含む多くの対象を包括していたが、のち諸学が分化・独立することによって、その対象領域が限定されていった。」とあります。
この、「分化・独立していった諸学」が、答えを出したがる哲学の要請に当たる分野ですね。
そして、それでもなお残ってしまう部分が「永遠の質問」、仰るところの、もはや「考えるために考えているのか?」としか言えないような姿になるわけです。
もう一つ、辞書には
「各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。」
とも出ています。ですから、ひとくちに「哲学」といっても幅広く錯綜していて、それは、ここのカテゴリーを御覧になっていても、お感じになることだろうと思います。そこで哲学の原初とは

「けだし、驚異することによって人間は哲学をはじめた」
~アリストテレス『形而上学』

「驚くというその感情は特に愛知者(哲学者)のものだ。 そうじゃないか、それより他に愛知=哲学のはじめはないんだ」(ソクラテスのことば)
~プラトン『テアイテトス』

「驚異が哲学のはじめをなす。不思議のないところに学問の発展は期待できません」
~田中美知太郎著『古代哲学史』筑摩叢書

『本当に哲学することとは、哲学さえなかったはずの場所へ身をおき、その誕生に立ち会うことである、とオルテガは言う。彼はまた弁証法とは考え続ける義務である、とも言う。純粋理性ならぬわれわれ歴史的理性は常に目の前の具体的現実を、一様相を認識するほかにない。われわれが手にする真理が常に部分的な真理であるならば、われわれは考えることをやめることはできない。であればオルテガは「哲学とは存在への問いかけである」という手垢にまみれたフレーズに安寧しない。それではまるで「存在」なるものがわれわれの眼前にあるかのごとくではないか、と彼は言う。むしろ彼はその存在なるものが要請される場へと向かうのである。』
~ホセ・オルテガ・イ・ガセット『哲学の起源』 書評

驚く。誰が驚くのか。
皆が同じものに驚くという保証はありませんし、何に対して、その答えを希求するかも各人一様ではありません。その面から見ても哲学の思考とは、たいへんに孤独なものだと思います。人に頼ってもしょうがないし、独りよがりでもしょうがない。まして最初に答えありきでは、そこから一歩も出られませんし、用意された靴に無理やり足を合わせるようなことをしても無意味どころか苦痛をもたらすものでしかありません。そこをカン違いしている人が多いようにも思います。

「驚く」のは自分自身です。人に驚いてもらうのではない。その「驚き」、「問い」を持続させていくのも自分自身です。本来、他人に用意してもらうものではなくて自分が他人に用意するものでもない。
ヒントにするのは大いに結構ですが他人の意見や書物等に、どっぷり頼りきる癖のある人は自分の足でステップを上がって行けないように見受けます。こういう人は、また責任転嫁も多いみたいで、要注意ではないかと思います。その学問を愛すると言いながら、その学問を汚すようなことをしている人がいかに多いことか!

「答え」を焦って無理にでも出したがるのは弱い人間の弱さゆえ。でも無理に出した答えで世界が把握できるわけもありません。虚構の世界を把握して満足ならいざ知らずですが、無理は前提の誤りを引き起こしがちです。そしてまた、その無理は往々、自分自身に由来していることも多いように見受けます。ですから心理学方面の考察も欠かせなくなってきます。

とは言え私、ふだん自分から殊更求めて難しいこと考えませんので、とりとめのない述べようになってしまって申し訳ないですが何とか回答としてまとめますと
哲学は答えを希求します。これは基本であろうと思います。諸科学が、その飽くなき希求と限界とを示していますから。そして辿り着けないからこそ「考えるために考える」ような姿を余儀なくもされる。それを受け入れることも真に哲学の希求ゆえなのだろうと思います。
したがって両方とも、ということになりますでしょうか。
いずれにしても、知能が発達したヒトならではの「煩悩」という側面もあるのでしょうね(笑)
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素晴らしい質問です。


一般に「答を得る為に考える」とされていますが、実際には「考えること」が先に有ったといった方が相応しいですね。
哲学は、「答を求めて考えれば考えるほど、答が分からなくなる」といった、永遠に楽しめるパズルのようなものですから。
禁断の楽園にようこそ。
そして、今回のあなたの質問こそが、その質問の答そのものです。
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誤字脱字あり



「道具(哲学」には存在理由はありません。存在理由は、利用者に依存していますので、存在理由があるのは利用者側です。

喩えば「缶」です。「缶」には、飲み物を運搬のするという存在理由がありますし、保存や器(飲むための)という存在理由もあります。一部では「灰皿」という存在理由もあります。
「缶」は、飲み物を運搬するためにあると断言できません。そして、そうだと断言する人間は、正に「缶」を運搬のために利用しているので「缶」自体がもつ存在理由だとして見誤るのです。

哲学に「~であるという」存在理由はなく、
哲学は「答えを出すため」のものである人間にとって、哲学とは「答えを出すため」のものであるように見え、
哲学は「考えるために考える」ものである人間にとっては、哲学とは「考えるために考える」ものであると見えるのです。
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一応、答えらしきものを追求していると思います。



 ただ、そのための方法論、思考の深さ、方向性が少しずつ違うのだと思います。
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貴方の質問は、哲学そのものです。


すばらしい質問です。そういった質問を考えた事もありません
答えを出せません。質問そのもが哲学のようです。そんなすばらしい質問を出せるなら、貴方自身で結論がでても、おかしくないと思います。
答えが出れば、逆に教えて欲しいです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。私のような小僧に素晴らしいといってくれてうれしいです。
哲学って、ある意味答えのないものを考えることだと思っています。
その中で答えを出すことより、考えることそのもの自体に意義を見出してるような気がしました。
ある人の回答で、考えることを楽しんでいるというのをみました。それはそれで素晴らしいことだと思います。

お礼日時:2008/05/08 23:56

哲学は人と人を築くために考える。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。哲学は一人でやってるイメージがありました。人と人をつなげる意味もあったのですね。

お礼日時:2008/05/08 20:08

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