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川中島を生き抜いて山本勘助が生きていたら、長篠の合戦はどういう戦況だったと思いますか? 情報収集にも優れていた武田軍があんな無策な戦い方をしなかったのではと思いますが・・・。もしかしたら戦場が長篠ではない可能性が高いと考えます。

A 回答 (6件)

山本勘助のファンではありますが、


長期的に戦略面では、武田はどうか?とおもいますが
たとえ戦場で勝つことがあっても、戦場以外では負けるパターン
勝頼の王としての正当性に難がある
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#4です。

長篠合戦での勝頼の戦術判断は決して間違いではありません。
まず武田軍が長篠方面に進出したことですが、これは作戦として極めて常識的です。武田領から徳川・織田領への侵攻ルートには様々なルートがありますが、まず東海道沿いの進出は最も愚作ですね。徳川の城を正面からひとつひとつ潰していかなければならないので損害も多く時間もかかります。長期の作戦行動が取れない武田軍が取れる作戦ではありません。
あとは浜松方面に向かうか、長篠方面に出るか、今の中央道沿いに岐阜方面に出るかの3つのルートですが、岐阜方面は武田軍も大軍を動かせないのでこれも却下、残るは浜松方面か長篠方面ですが、長篠方面は浜松と岡崎の連絡線を分断するルートなので、このルートをとられるのが家康にとって一番キツいものとなります。ですから、武田軍は長篠ルートを採用したのです。

さて、その長篠城攻防戦のさなかに織田徳川連合軍がいわゆる後詰として来るのですが、後詰の兵がきたら自軍をその後詰のほうにシフトするのも当然です。そもそも、武田軍が長篠城を攻めたのも救援の織田徳川軍と決戦をするためで、長篠城を手に入れるのが目的ではありません。
先代の信玄の上洛戦の頃から長篠城辺りは武田と徳川が取ったり取られたりを繰り返しています。仮に武田軍が長篠城を手に入れても、武田軍が引き上げればすぐ徳川軍が奪回したでしょう。
武田軍の視点から見てみましょう。まず、今回は信長自身がきています。これは決戦を望む勝頼からすると「今やらなくていつやるんだ」ということになります。問題は、いったいどれだけの兵力がきたかですが、信長は弾正山の背後に兵力を隠していたので、武田軍は「思ったより大軍できていない」と判断したと思われます。武田軍は織田軍よりはるかに精強なので、同規模の兵力なら勝機は充分と考えても不思議ではありません。
また、織田軍は連吾川の向こう側に柵を立てて引きこもっています。その様子から見て「信長は武田軍を恐れている」あるいは「織田軍の士気は低い」と判断しても不思議ではありません。もしここで武田軍が撤退すれば「戦わずして退却した」ことになり対外的どころか武田家中においてもそれでなくても勝頼派と反勝頼派が対立する家中がさらに混乱することは避けられません。また仮に撤退したとなると、追撃を受けます。実は合戦において追撃が最も敗者にとって大きな損害を受けるのです。事実、長篠合戦において討ち取られた武田の武将を見てみると、戦場で戦死しているのはわずかで、大半が退却途中に追撃で討ち死にしています。

そして決戦時、武田軍の主力は左翼に配置してあります。対する織田徳川連合軍の右翼は徳川軍です。実は最も激しい戦いがあったのはこの戦場でいえば南側で、この場所はいわゆる馬防柵も少なく、何より地形が平坦で武田軍に有利です。勝頼はちゃんと最も自軍に有利なところに主力を配置しています。そもそも織田軍の正面は山であの馬防柵もあり、まともに当たっても跳ね返されるのは武田軍も分かっていたので正面の織田軍にはさほどまともに攻めていません。
しかし織田軍に比べると徳川軍は精強で、あまり知られていませんが家康は極めて優れた野戦指揮官です。あの三方ヶ原でも大敗北を喫していながら主だった武将を誰一人失っておらず、信玄をして徹底的な追撃を諦めさせるだけの抵抗をしています。
兵力に劣る武田軍は早期に突破できるかどうかが鍵でした。それが徳川軍によって防がれた時点でわずかな勝利の可能性も失われてしまいました。しかし仮に徳川軍が突破されたとしても、その背後には織田信忠が控えており、そこで食い止められた可能性は高いでしょう。

結論としては、確かに勝頼の判断はあながち間違いとはいいきれないですし、戦術家として勝頼は合理的な判断をしたといえると思います。しかし、信長の戦略家としての能力は勝頼をはるかに上回っており、戦略として既に武田方に勝利の可能性はほとんどなかったといえるでしょう。この合戦を見ると、信長は二重三重に策を練っており、どのような状況になっても柔軟に対応できるような体制を整えていました。これこそが、信長の戦略家としての真骨頂だったと思います。
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この回答へのお礼

丁寧なわかりやすい返事をいただきまして有難うございます。
結局は誘い出されたような形だったんですね。
>実は最も激しい戦いがあったのはこの戦場でいえば南側で、この場所はいわゆる馬防柵も少なく・・・
知りませんでした。あの馬防柵と鉄砲だらけのところに
ひたすら突っ込んでいっただけかと思ってました。そういう意味で
山本勘助なりなんなりが生きていたらそんなにあっさり惨敗していなかったか再起を計れるくらいの敗北ですませていたのではと考えていました。信玄が亡くなりそのまま進軍しなかった時点で勝負ありだったのでしょうね。

お礼日時:2008/05/10 18:56

長篠合戦は、近年の研究では「勝頼にも勝算はあったと判断したのはあながち間違いではない」とするものが増えています。


その事情はポジティブなものとネガティブなものがあります。

まずポジティブな理由としては、当時織田徳川連合軍はひたすらに武田軍との正面決戦を避けていました。特に織田信長がそうで、彼は徹底的に武田軍の正面に立つことを避けていました。ですから、勝頼にとっては長篠で信長が自分の正面に対峙したことは文字通りの「ここで会ったが百年目」であったということです。
ネガティブな理由としては、当時織田と武田の動員兵力は圧倒的な差となっており、いくら周囲に敵を抱える信長といえど、長篠の頃はその座を脅かす強敵は少なくなっており、このままだと武田方は「ジリ貧」になることは明らかだったということです。そのため、多少一か八かでも決戦を挑む必要があったというものです。織田軍に比べると武田軍は長期の作戦行動も不可能で、そのためには早期に決戦を挑む必要もあったようです。

また、織田軍は背後に兵力を隠しており、武田軍は織田軍の兵力を見誤った、という説もあります。

長篠合戦のとき、織田徳川連合軍は武田軍の2倍から3倍近い兵力を集めています。これは、山本勘助どころか信玄をもってしてもいかんともしがたい兵力差です。武田軍が長篠で崩壊したのは、実は信玄の作り上げた国家システムそのものが織田に比べて時代遅れでさらにその維持すら困難な状況になっていた、というのが原因です。
仮に長篠で敗北しなくても、いつか必ず敗北したでしょう。結局のところ太平洋戦争のミッドウェー海戦と同じです。あすこで勝っても、最終的に戦争に負けたことには変わりがないってやつです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
まともに正面からいった戦術を選択したかったように
感じてしまうですが・・・。
正面からいくにしても雨の降り始めを機に仕掛けるとか・・・。

お礼日時:2008/05/10 09:33

体勢に影響はなかったでしょう。


武田勝頼自身、非常に有能な武将で、信玄の時代に金山が枯渇し、遠征で財政状況が悪化した武田家を引き受け、重商主義に転換させて財政再建を図ったり、難攻不落の高天神城を陥落させたり、実績を上げています。
要は、先代が粉飾決算でやりくりしていた会社を引き受けた2代目社長のような物で、跡を継いだ時点で問題が多すぎてどうにもならなかったという状況です。
相手が信長でなければ、緩やかな改革を行い、再建に成功したかも知れませんけど、弱ったところをライバル社から引き抜きや敵対的買収を受けたような物で、力尽きた感があります。
また、信玄も信長のような絶対的な君主ではなく、国人衆のバランスの上に立っていた存在で、それ故に息子の勝頼を曖昧な立場にした理由もあって、仮に山本勘助が生きていたにしても、同じことだったと思われる。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます

お礼日時:2008/05/10 09:26

戦闘に突入した理由は、



織田軍団は周囲の敵をほぼ排除しており
武田家攻略が目に見えていた事。

急激に勢力を伸ばす織田家に対して早急な対応が望まれ
遅れればそれだけ敗色が濃くなる事。

長篠城主、奥平貞昌が寝返ったのを見せしめにする必要があった事。

などです。

長篠城の包囲網は酒井忠次に背後を衝かれて崩壊。
ここに落城のメドはなくなり、篭城戦を断念します。

結局、鶴翼の陣で望み、約2倍の兵力差もありますが、
武田信廉と穴山信君の早々の戦線離脱もあり、
この時点で戦局はほぼ決定します。

鉄砲隊と言うよりも馬防柵の効果が大きく
攻撃時よりも退却時に多くの死者が出たらしいです。

親族衆筆頭の武田信廉が早々に離反している事に注目して下さい。

高天神城の戦いから策にはまっており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9% …

織田軍の到着の日数の目算を大きく誤った可能性があります。

奇策によって狼狽し、今すぐ叩いておくべきと判断した。
または信長の旗印を見、信玄公の川中島のような一騎打ちを夢見た。
退却(負け)を恥だと考えた。

高天神城を落とした辺りから何かが狂いはじめています。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます

お礼日時:2008/05/10 09:24

仮に、長篠の合戦まで山本勘助が生きていたとしても、結果は変わらなかったでしょう。


(まあ、史実の山本勘助は、大河ドラマで描かれたような軍師ではなかった可能性が高いですが、それはさておき)

理由は、武田勝頼にあります。
勝頼は無能ではないのですが、父親が残した家臣団をうまくまとめきれなかった。
さらに、父親の代から仕えていた家臣から、「先代様と比べて、今の殿は…」としょっちゅう言われていたらしく、そういう陰口を払いのけるためにも、戦場での功績にかなり執着していました。

長篠の合戦も、本当は織田・徳川の援軍が来た時点で、すぐに撤退すればよかったのです。
しかし、勝頼はそれができなかった。
家臣がそれを進言しようにも、戦場での経験豊富な先代からの家臣たちは、勝頼から遠ざけられていました。

いざ、合戦が始まる前の晩、信玄の代から仕えていた家臣たちは、水杯をかわして今生の別れとしたそうです。
もし、山本勘助がその場にいたとしても、同じように水杯をかわしていたことでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2008/05/10 09:20

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