孔子の言葉に「祭るに在すが如くす」と云うものがあるのですが・・・
これは一体どのように取るべき言葉なのでしょうか?
森鴎外の「かのように」と云う話の中に出てきたのですが、
この言葉を言葉の意味のまま取っていいものかどうか迷っています。
「文学」の所に出すべき質問なのかもしれませんが、若し宜しかったら
お教え願います。

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A 回答 (2件)

諸橋轍次著「中国古典名言事典」では,



「祭ること在すが如くす」という古語がある。その意味は,神を祭る時,あたかも,そこに神がおわしますような気持ちで祭ることである。単なる形式に終わってはならない。何事にも誠をつくしてあたれ,と説くのである。

と説明されています。「祭る」の解釈が岩波文庫版とは分かれていますが,要は「形だけではなく心を込めることが大事だ」という意味でしょうね。
ちなみに,孔子の言葉ではなく,論語の編者の言葉(つまり「子曰く」が頭についていない)だそうです。

ところで,質問者が求めていらっしゃるのは,こういう字面の説明ではなく,鴎外の作品の中において論語の編者の言葉をどう解釈するかということでしょうか?
だとすると,「かのように」は読んだことがありませんので,他の方が回答されるのを待ちたいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
大変参考になりました。
孔子の言葉ではないと云うのも初めて知りました。
もう一度、この解釈も踏まえて自分で考えてみたいと想います。

お礼日時:2001/02/14 10:26

祭如在、祭神如神在


(祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神が在すが如くす。)
御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。

とりあえず岩波文庫の論語にはこうありました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
この解釈を踏まえてもう一度考えてみたいと想います。

お礼日時:2001/02/14 10:27

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Q主張、或いは表現に哲学が在ると云う時、それが何であるのかを知りたい。

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意外な発言に対して五木寛之氏は「ここまで徹底して醒めた目を持っていることに驚かない人はいないだろう」
と述べて、冷徹な人生(報われるとは限らないと云う)を見すえた哲学である、としています。

ここに"哲学"を感じているらしい。

ここで五木寛之氏が指摘する羽生結弦選手の"哲学"に付いて、分かりやすい説明が欲しいので質問としました。
よろしくお願いいたします。

五木氏は、人生は厳しい。この若さで、それを見切る視線の強さに、あらためて驚嘆せずにはいられない。と、結んでいます。

☆ 単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線、のようなものが見えてくる事を期待しています。

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意...続きを読む

Aベストアンサー

yy8yy8az様、はじめまして。
 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう少し詳しく具体的に書かせて頂きますと……

(1)そもそもこの「五木寛之のボケない名言」というコラムにて用いられている「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉は、世間一般に出回っている範囲における「羽生結弦選手の言葉」ではありません。
 私なりに色々と調べてみましたが、少なくとも羽生選手がこれと同様の発言をしたという「原典」を見つけることは出来ませんでした。

(2)ただし、類似の発言はあります。それが、CosmoToy様も書いておられる以下の言葉です。
 「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」
 これは、2016年10月2日(日)にフジテレビ系列で放送された「Mr.サンデー×HERO'S 合体SP」という番組内で取り上げられたもので、インタビュ—映像にて羽生選手自身がフリップに書いた言葉です。
 http://dai.ly/x4vohh6
 (05:44以降のコーナーにて紹介。フリップとそれを説明する一連の言葉は動画終盤にて登場。)
 実際の番組を見ると、上記の言葉以外にも「努力の正解を見つける事が大切」など補足となる言葉が添えられており、羽生選手自身の考え方が色々と述べられています。
 今回の五木氏のコラムを紹介した羽生選手のファンサイトは数多ありますが、その中で「言葉そのものの出典」を示したものは、私が確認した限り全てこの番組での「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉をもって、五木氏の文章の原典としていました。

 つまり、
(1)五木氏のコラムは「羽生選手の名言」としながら実際には典拠不明の言葉を軸に展開されており、
(2)事情通の読み手は既知の羽生選手の発言に読み替えているものの、それらは似て非なるものである、
 ということです。

 複数のファンブログが特に推測という断りもなく断定形で書いていましたが、実際には出典が示されていない以上、五木氏が本当にこの番組を下地として文章を書いたのかは判りません。
 もしかすると又聞きや孫引きによる執筆なのかもしれませんし、TV番組だけに後から記憶を頼りに書いた結果の変化かもしれません。
 或いは、私もコアなファンも検索エンジンも知らない羽生選手の言葉を、元々フィギュアスケートがお好きだという五木氏がご存知だったという可能性もあります。
 ただ、もしも本当に「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉こそが五木氏の文章の本来の原典なのだとしたら、コラムの文章は羽生選手の本来の発言の意図を曲げていることになります。
 たとえば、CosmoToy様も言及されていますが、野球のダルビッシュ有投手のtwitterにある「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。」(2010年6月10日)という言葉などと同じく、アスリートがしばしば述べる「練習(努力)の仕方」についての指摘を、羽生選手の「努力はウソをつく。」に始まる一連の発言は含んでいると思います。
 しかし、五木氏の書いた「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉では、その要素は消えてしまいます。
 動画をご覧頂ければわかりますが、本来この言葉は後輩スケーターたち(或いはもっと広範な未来のアスリートたち)に向けたメッセージであり、助言の意図を持ったものです。
 ですから、アスリートとして極めて重要な指摘であるこの点を抜いてしまったのでは、「彼の真意」や「哲学」を酌み切れていないことになるかと思われます。
 ただし、五木氏の書かれた文章が、まるっきり的外れなものだとも私は思いません。
「努力がむくわれるとは限らない現実を受け入れ、それでも努力し続ける信念と精神力を持つ。」
 五木氏の指摘されたことも、羽生選手の一連の言葉が持つ意味の一側面には違いないと感じるからです。
 あくまでも五木氏が羽生選手の言葉や在り方から汲み取ったものを綴った文章だと思って読めば、充分に含蓄に富んだ読み応えのあるコラムだと思います。
 もしも五木氏の文章というフィルターを通さない、生の羽生選手自身の考えや哲学といったものに興味をお持ちでしたら、お時間のある時に出典(であろうと思われる)動画を直接ご覧になることをお勧め致します。
 ただし、この番組もまた、羽生選手の言葉や彼に関する事実関係を、少しずつ変えたり伏せたりするという編集を行っているものではあります。
 自分自身がある程度詳しい分野についての報道を見ていると、しばしば情報が伏せられたり片寄せられたりしていることに気付かされます。
 世の中に情報は溢れていますが、それらは常に誰かの視点というフィルターを通った後のものであるということを意識しておかないと、気付かぬ内に見えなくなってしまっている部分もあるのだと実感させられます。

 最後になりますが、質問主様の仰る「単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線」についての私見を述べさせて頂きます。
 私は「考え」と「哲学」の差は「矛盾するものを同時に持ち得るか」ということではないかと思います。
 単なる「考え」であれば「Aである」「Aではない」「Bである」「AでもBでもある」といった相反していたり食い違っていたりするものを同時に己の内に持つことが出来ます。
 一つの事象や命題に対し、一人の人間が幾つもの意見や視点(=考え)を持ち得る、と言い換えても良いかもしれません。
 究極、自分自身の本来の意見とは正反対のものであっても、そういう「考え」を持つことは出来ます。
 そして、その「考え」は必ずしもその持ち主の言動にまでは反映されません。
 対して、ここで言う「哲学」とは自らの経験に則って培われた人生観であり、否応なく常に自身の言動へとフィードバックされていく、より本質的・根源的なものだと思います。
 謂わば「生き方・生き様」そのものであり、これに矛盾を抱えることは大きな葛藤を伴い、ときに不可能ですらあります。
 五木寛之氏は元々フィギュアスケートを好んでいらっしゃる方らしいですので、羽生選手の言葉から汲み取ったものに普段から見ているその生き様に通じるものを見出され、「考え」ではなく「哲学」と書かれたのではないでしょうか。
 何だか小難しい言い回しでまとまりが悪くなってしまいましたが、個人的には他の回答者様や質問主様ご自身のご意見とも近いところのある答えかと思います。

 以上、ご質問の件に対し、思うところを述べさせて頂きました。
 長文乱文となってしまい、大変失礼致しました。

yy8yy8az様、はじめまして。
 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう...続きを読む

Q「情緒」と云う言葉に的確にマッチする外国語はないのか?

「情緒」を英訳すると、EMOTION,SOUL,FEELING といった単語しかないそうですが、これらの単語は「情緒」の適訳ではないとのことでした。これは故岡潔博士の本で読んだことですが、他の外国語ではどうなんでしょうか。「情緒」と云う言葉が持つ精神性は日本人独自のものなのでしょうか。お考えをお聞かせください。

Aベストアンサー

#3です。補足頂戴しました。

「情緒」≠"atmosphere"として、なんとなれば日本人の心の動きには……、と論ずる方法論はあると思います。

少々乱暴に聞こえるかもしれませんが、「犬」≠"dog"として、イヌという和語には元来セントバーナードやチワワは含まれておらずそもそも和犬とは……、と論ずるのと似ています。

いけないことではなく、筆者の意図を伝えるための手法であり、効果も期待できます。しかし、一旦普遍化(一般化)した言葉に特定の意味を再付与し、特殊な用途で用いることになりますので、説明が必要です。

厳密なことを言えば、どんな単語でも言語によって大なり小なりニュアンスの違いがあります。同じ言語でも年代差があり時代差があり、地域差があります。

「日本人独自」という言葉の使い方も注意が必要だと感じます。#4で民族主義について触れられていますが、本当に現代の多くの日本人が共有しているものなのか、本当に他国にはほとんど見られないユニークなものなのか、説明の苦しいものも多く散見されますので。もしかしたら「その人独自」であるだけなのかも知れません。

「情緒」について、”懐かしい、と思う心の動き””桜花のように散る、ことを是とする気持ち”が、はたしてユニークなのかと問われますと、感覚的に私自身はあまりそう感じません。専門ではありませんが、近隣部族の侵略や諍いが多い文化に表れやすそうな価値・美意識だと思われます。

#3です。補足頂戴しました。

「情緒」≠"atmosphere"として、なんとなれば日本人の心の動きには……、と論ずる方法論はあると思います。

少々乱暴に聞こえるかもしれませんが、「犬」≠"dog"として、イヌという和語には元来セントバーナードやチワワは含まれておらずそもそも和犬とは……、と論ずるのと似ています。

いけないことではなく、筆者の意図を伝えるための手法であり、効果も期待できます。しかし、一旦普遍化(一般化)した言葉に特定の意味を再付与し、特殊な用途で用いることになりますので、説...続きを読む

Q人道支援、と云う言葉に付いて・・・

平和で安全な国の日本国民も、最近の国際的事件を通して"テロ"というものに実感、というものを感じ始めているのではないでしょうか。
 その一人である私は、だから、安倍総理の使った"人道支援"という言葉が気になっています。

 人道支援、あるいは人道援助、と云う言葉をウィキやコトバンクで調べましたが"お頭(おつむ)"が弱いせいか理解するところまで行きませんでした。

 そこで頼りにしたいのが、ここ哲学カテの智者の皆さんです。
 政治がらみに人道支援という言葉を使うことの適切さの是非を聞かせていただけないでしょうか。

 なぜ知りたいかというと、安倍総理の使い方に疑問を感じたからです。純粋な人道支援とは云えないのではないかと。

 また、そう思うので赤十字社のような機関がそのことに異議を申し出ない事にも不満を感じるのですが、これについても意見が聞きたいです。

 よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

戦闘地域に残っている民間人への食料、医療の提供などでしょう。
ただし、食料などの場合、お金で支援すると武器の購入費用に化けるとか、保存のきく食料でも、それを売って武器にしたりとか、軍人用の携帯食料になったりとで、難しいです。
 だから、現地に行って粥などにして、直接手渡しがいいといいます。

 戦闘地域からの難民の受け入れも支援の一つですが、日本はこの形の活動は熱心ではないですね。

お金を出すのなら、その国の政府にではなく、赤十字へでしょうね。

Q仏教・キリスト教・イスラムに在ることになっている天国・浄土や地獄は、神道にも、同じように在るのですか

仏教・キリスト教・イスラムには、天国・浄土や地獄が在る、ということになっていますね。
ところで、神道にも、天国・浄土や地獄が、同じように在るのですか?

Aベストアンサー

こんばんは。

黄泉(よみ)や常世(とこよ)と呼ばれるものが該当するのでしょう。

常世
https://goo.gl/HbwOZb

黄泉
https://goo.gl/LwwGQv

常世はパラダイス的なもので天国や極楽に対応し、それに対して、黄泉は不浄、穢れの地で地獄に相当する。
ですから、神道にも天国や地獄に相当するものがある。
ですが、常世、黄泉ともに、この世、生者の世界と地続きであり連続していますが、天国や極楽などの死後の世界はこの世と隔絶している異界であり、天国や極楽などの死後の世界とはこの点が大きく異なっている。

ちなみに、生き返ることを「よみがえる」といいますが、これは「黄泉(よみ)+帰(かえ)る」が語源とされています。
知らず知らずのうちに、日常的に黄泉という言葉を使っているというわけです。

Q孔子の『論語』について

有名な「われ十五にして学を志し…七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」の言葉の内容というか、簡単に現代風にわかりやすい感じでいうとどんな感じですかね??
最後の「七十にして…」のところがわからないんですけど。

Aベストアンサー

素直に思った通りのことを言っても人と揉めなくなった。
素直にしたいようにしても人を不快にさせなくなった。
ということでしょう。

自分のままでいながらも調和できるようになったということで、
よい意味で捉えられがちですが、
宮崎市定という有名な京大の先生は『論語の新研究』という本の中で、
「孔子も歳をとったということだ」と解説していました。
10代のころは???でしたが、最近それもわかる気がします。


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