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岡本綺堂の「半七捕物帖」で、
「旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男などというものは概して無役の閑人であった。彼らの多くは兄の屋敷に厄介になって、大小を横たえた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮らしているという、一面から見ればすこぶる呑気らしい、また一面から見れば、頗る悲惨な境遇に置かれていた」
とあります。

いまのニートそっくりですが、彼らは、
1.就職できなかったのですか?
2.バイトはどうでしょうか?
3.結婚したら兄の屋敷を出て行かなければなりませんか?
4.結婚したら生活費はどうなりますか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (6件)

武家というのは、家の論理で動きますから、家という概念で考えないと誤解します。



1.就職できなかったのですか?
役というのは、代々、家に付くものですから家の当主でなければ、役に就くことはできません。分家というのは、新しく一家を立てて、その家の当主となることです。分家を立てれば(別の家ですから)役に就くことはあります。そうでない限り、家としての役に就くことはできません。もちろん、まれに次男が別に召し出されることはありましたが、その場合は将来、一家を立てることが前提です。

2.バイトはどうでしょうか?
バイトはできたようです。具体的には、大名火消しのガエン、歌舞伎・能の囃子方などは旗本・御家人の次男坊、三男坊のアルバイト先だったようです。小説などにある、町人やヤクザの用心棒はあり得ません。ただし、剣術道場の師範などはあったようです。

3.結婚したら兄の屋敷を出て行かなければなりませんか?
一家を立てなければ結婚はできません。従って、結婚するから家を出るのは、養子縁組、婿入りだけです。まず家を立てる(分家)のが先、結婚は家を立てたからできるのです。

4.結婚したら生活費はどうなりますか?
従って、この質問自体が成り立ちません。一家を立てるということは、収入があるということです。

補足をすると、二男・三男は養子、婿入りなどをして、一家の当主とならない限り、生涯独身です。その場合、当主から小遣いをもらい、女中をあてがわれ、身の回りの世話と性処理はその女中の仕事になります。当主(長男)が死亡すると、当主の息子(甥)が跡を継ぎ、いわゆる「厄介叔父」という立場になります。

大名家や大身の旗本で次男などに、分知をして(例えば前田家)一家を立てさせることはありました。この時は、分知ですから当然収入があるわけです。
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1.当時は夭折が多く長男が成人になるまで次、三男は跡取り候補ですが、無事成人すると厄介者です。


家名存続が大事なの旗本家は、次、三男の養子縁組先として男子の無い他の旗本を探しました。   兄が急死してその跡取りがいない時に、養子先で生まれた男子(血のつながりがある)を貰って跡取りにする為です。   
表向き一代限りの御家人では次、三男の養子縁組はそれほど熱心でなかったでしょう。
ただ優秀で評判な次、三男には旗本からも養子の希望がありました。
貧乏御家人では男の子が続くと水子にしたかも知れません。
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勝海舟の父、勝小吉が『夢酔独言』という自伝を書いています。


それによれば、

1.就職できなかったのですか?
就職活動はしていますが、職には就けませんでした。
求人倍率は相当高かったようです。

2.バイトはどうでしょうか?
地域の顔役、古物商などをしていました。

3.結婚したら兄の屋敷を出て行かなければなりませんか?
出て行ってます。

4.結婚したら生活費はどうなりますか?
勝海舟が、子供頃は貧乏で苦労したと語っています。

勝海舟の父ですので、江戸末期の話です。一口に江戸時代と言っても、初期と末期では相当勝手が違っていたと思われます。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B0%8F% …
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有名人としては幕末の大老井伊直弼


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A% …

恵まれた部屋住みですが、茶三昧です
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>1.就職できなかったのですか?


家督を継いだ長男が役職につくのが原則ですから
どこかの藩にでも仕官しなければ「無職」です
腕に覚えがあっても、道場を開くにも資金が無いでしょう
養子しかないでしょうね
>2.バイトはどうでしょうか?
 物書きや絵師のバイトをやっていたのはごく少数でしょうね
>3.結婚したら兄の屋敷を出て行かなければなりませんか?
出て行かねばならないでしょう
その場合、たいてい養子です
>4.結婚したら生活費はどうなりますか?
養子先の資産(豪農や商家など)や他の武家の養子になった場合、
義父の役職を継ぐことになると思います
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その三男坊が、他の兄弟に劣らず有能なら


養子にとられて、行った先の跡取りになるんですがね。
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千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
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Aベストアンサー

武士の次三男は養子の口がなければ厄介ということで兄の世話になるしかありませんでした。
ごくたまに運がよければ新規お召抱えの口があって召抱えられることもありました。
大身の旗本や大名であればごくたまには分知ということで所領の一部をわけてもらうこともありましたが、これは江戸初期を除けばほとんど望めませんでした。
そのためよい養子の口があるように次三男は長男(嫡子)に比べて武道や勉学に励んだとも言われます。

農民の場合も跡継ぎ以外は跡継ぎの世話になる厄介でしたが、こちらは町へ奉公に出たりすることが多く、また田畑の一部をもらって分家させてもらったり、新田開発などに応募して新たに家を起こすことも可能でした。

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これは本当でしょうか?
また、外様は大大名でも次男坊以下が旗本に取り立てられることは、ありえなかったのか、
お分かりの方、よろしくお願いいいたします。

Aベストアンサー

家光の代までは、次男坊以下が分家立藩・旗本・御家人になる事がありました。

が、以降は譜代・外様を問わず例が非常に少ないです。
当時は、旗本でも次男坊以下の扱いに困っていた状態です。
既に、旗本の数が増えすぎていたんですよ。
幕府財政も苦しいですから、旗本・御家人は減らしたい!
旗本といっても、役職が無い者(無役)が多数でしたからね。
幕府財政を圧迫していた原因です。

次男坊以下は、お家存続のためのスイペアーでしか存在価値がありません。
俗にいう「部屋住み」です。
例えば、幕末の大老・井伊直弼。
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Q江戸時代の武士は定員があったんでしょうか?

こんにちは
江戸時代の武士についてですが、
完全な世襲だったんでしょうか?だとすると、
1)戦もない時代、どのように数が増えないように、したんでしょうか?
2)武家の男子に生まれても、武士にならない人もいたんでしょうか?
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3)健常者でも適正検査はなかったんでしょうか?
あったとすると、落ちた人は、どうやって暮らしたんでしょうか?

Aベストアンサー

>江戸時代の武士は定員があったんでしょうか?
 そのようなものはありました。大名や旗本には「軍役の義務」というものがあり、何石につき何人の兵員を保有しなければならないという、幕府からのお達しがありました。
 まあ定員というより最低要員です。大名や旗本はこの規定を下回ることは、原則的にできませんでした。
 それじゃあ、アッパーリミットはあったのかというと、なかったみたいですね。家来を多く持つと経営が苦しくなるばかりです。無闇にふやせません。ですから、大名は最低要員を満たすため、殿様から扶持を貰わないでも自活できる「郷士」を活用して人数合わせのやりくりをしていました。
http://www.0105.jp/~mizuki/gunekikitei.html
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m198.html

1)戦もない時代、どのように数が増えないように、したんでしょうか?
 質問者さんの仰せの通り、ほぼ完全な世襲です。大名は家来の侍に子供が何人いようと、そんなことは知ったことではありません。500石取りの家来に男の子供が二人いたとしても、長男に500石を継がせ、二男に新たに300石をやって分家させるなどという甘いことをしていたら、その大名家は破産します。
 もし二男が非常に優秀であった場合は、分家を認める場合がありますが、その場合は本家の禄高を原則的に減らすということになります。そうすると本家の禄高が減り「家の格」が下がることになりますので、侍は余程のことがない限り分家はしません。
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2)武家の男子に生まれても、武士にならない人もいたんでしょうか?
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 このような場合を除いては長男は大概家を継げたようです。

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>江戸時代の武士は定員があったんでしょうか?
 そのようなものはありました。大名や旗本には「軍役の義務」というものがあり、何石につき何人の兵員を保有しなければならないという、幕府からのお達しがありました。
 まあ定員というより最低要員です。大名や旗本はこの規定を下回ることは、原則的にできませんでした。
 それじゃあ、アッパーリミットはあったのかというと、なかったみたいですね。家来を多く持つと経営が苦しくなるばかりです。無闇にふやせません。ですから、大名は最低要員を満たすた...続きを読む

Q農家の次男三男にとって軍隊は魅力的な職場?

明治から第一次世界大戦の頃まで、江戸時代だと、商家や武家に奉公にでていくような農家の次男三男にとって、軍隊はかなり魅力的な働き口だったような気がします。
1.あっていますか?
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Aベストアンサー

もう少し補足します。

軍隊に入れば「腹いっぱい飯が食べられる」が魅力だったのは、東北地方などでは有名な話です。東北地方は度々冷害に悩まされ飢饉が続いていましたから、雑穀中心の食事、それすら女の子を女郎に売らなければいけなかったり。
兵を養うのもお金がかかります。全員入隊できるわけではない。戦争をしていないときは、甲種合格しか赤紙は来ません。戦争していたら乙種にもきます。丙種は基本的にはまず徴兵されませんでしたが、第2次世界大戦の末には丙種にも来ました。

ビタミンの話は、脚気の問題です。白米だとビタミンB不足で脚気が続出しました。豚肉など充分取ればいいのですが、そういうわけにも行きません。麦を混ぜればいいのですが、軍隊の魅力は白米が食べられること。。。。結局陸軍は麦を入れました。脚気では戦争できませんから。海軍はエリート意識が強いので最後まで白米です。

Q大身旗本の出世

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例えば御小姓として初出仕した後はどの様な役職を経て番頭などの家格に相応しい役職に就いたのでしょうか?

Aベストアンサー

三千石以上であれば寄合関ですが、このクラスだとなかなか石高に応じた職がありませんからほとんどが持高つとめとでした。
三千石クラスで遠国奉行などの職に就いている例はめずらしくありませんし、はなはだしいのは家禄五千石の旗本が5百石高の小納戸についている例さえもあります。
このクラスは初出仕は御側の役が多く、中奥小姓という例は多くあり、また御側衆という例もあります。
このあとは小姓頭取や小普請支配、寄合肝煎を経て大番頭や両番の番頭、あるいは先手頭などという番方の役が多かったようです。
役方のコースに乗れば遠国奉行から勘定奉行、町奉行などになることもありました。

Q旗本

一千石・三千石・五千石の旗本の場合、家臣の人数・構成、屋敷の数・坪数はそれぞれどの程度の陣容だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 ●家臣の数・構成(慶安2年(1649)の軍役規定)
1000石 21人(侍5、槍持等16)
3000石 56人(騎士2、侍8、槍持等46)
5000石 103人(騎士5、侍9、槍持等89)

 ●旗本の人数(元和9年(1623年))
1000石 24人
3000石 45人
5000石 75人

 ●拝領屋敷地(元和6年(1620年))
1000石~1900石 700坪
3000石~4000石 1500坪
5000石~7000石 1800坪

Q●江戸時代の農家の次/三男の結婚の自由は?

「古文書」講座を習った時、農家の次男/三男は結婚せず、その家の労働力として、居候した・・ということを聞きました。くわしい方、教えてください。

Q1○身分制度から、農民は、農村から出られなかったか(yes/no)
Q2○次男/三男には、農家への婿養子という選択はあったか(yes/no)
Q3○次男/三男には、町へ出で、商家の奉公人になるという選択はあったか(yes/no)
Q4○次男/三男の性の処理方法として、(農家の?)寡婦を相手としたという俗説は存在したか(yes/no)

上の4質問以外に、実態をご存知の方は教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代については初期と中期以降では異なり、また地方によっても異なります。
江戸時代初期はまだ大規模経営が多かったので次三男が家に残って労働力となることはあり、その場合結婚しないままで厄介になることもありましたが、独立して農業経営はできないものの結婚すると言う場合もありました。もちろん婿養子になると言うことはありました。
また、次三男が武家奉公人(中間など)になると言う道はありました。
そういうことで江戸時代初期の場合は
Q1.No
Q2.Yes
Q3.初期はまだ難しかった

江戸時代も中期以降になると、次三男どころか長男が他国に出稼ぎに出ることは珍しくなく、次三男が都市に奉公に出るのは普通でした。
また武家奉公人になると言う選択肢もありました。
そこで江戸時代中期以降は
Q1.No
Q2.Yes
Q3.Yes
です。

Q8石2人扶持の身分は足軽ですか?

江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
飛地にある陣屋で勘定奉行を務めたらしいのですが仮に足軽でも勘定奉行に成れるのですか?
飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

Aベストアンサー

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸時代でも,算用方は,かなり能力人事の部分があったそうですから,仮に「卒」の身分でも取り立てられる事はあったはずです。ただ,勘定奉行というのは,「卒」のままでは難しいでしょう。その場合,「卒」から加増されて「士」として,勘定方の役職を歴任し,最終的に奉行になるというルートです。もともとが「士」の身分なら,そのまま出世をしていったという話です。

奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

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NHKの大河ドラマなどをみていて思うのですが、いわゆる戦国武将や武家の妻達についてふと思いました。

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 私は、下級武士の女房であれば、現代のサラリーマンの専業主婦よりは、はるかに大変という印象を持っていますが、お話が戦国武将や大名の妻ということですので、現代の奥さん方との比較はなかなか難しいですね。でも大名の奥さんも、それなりに大変だったんじゃないでしょうか。
 皆さんがおっしゃっていますように、大名の妻達はほとんど100%政略結婚により、無理やり嫁に行かされました。亭主になる男がどんな人間であるか全くわからないわけですから、大変な不安と心労を胸に抱えて嫁入りしたのだと思います。
 戦国大名の妻ですと、両家の同盟の証として嫁入りしました。嫁としてはその同盟を崩れないようにするために、ない知恵と力を出していろいろ気配りをしたんではないでしょうか。
 人質ですから両家が離反すれば、自分の命はもちろん、子供や夫、または実家の父母や兄弟の命が危うくなるわけですから、その気苦労は相当なものであっただろうと想像できます。
 それから江戸時代になって世の中が落ち着いても、政略結婚は続いていました。嫁ぎ先と実家との戦争ということはなくなりましたが、今度は参勤交代の制度ができ、正妻はと家族は江戸住まいとなり、これも幕府への人質といえるでしょう。
 大名の妻がテレビドラマの山内一豊の妻のような性格の人ばかりとは限りません。多くは乳母や女中にかしづかれていた深窓のお姫様です。対人コミュニケーションは上手であったとは思えません。お千代さんのような前裁きが上手な人はむしろ少なかったと思いますね。
 嫁入りのときは乳母や少数の家来が実家から付けられていたとはいえ、大名家の裏方を統率していくことにはそれなりの気苦労があったと思います。また当時は当たり前であったとはいえ、側室の問題から発生する嫉妬心の処理にも困ったことでしょう。
 そういうことで、大名の妻は現代サラリーマンの専業主婦よりは大変であったと思います。
 今のサラリーマンの専業主婦なんて楽なもんです。
 一昔前の主婦は大変でした。朝早く起きて、井戸から水を汲んで水がめに水を入れ、竈に薪をくべて飯を炊き、汁を作り、井戸端で盥と洗濯板で衣類を洗い・・・。こういうイヤミなことをしょっちゅういうもんだから、家内に嫌がられていますが(笑)。

 私は、下級武士の女房であれば、現代のサラリーマンの専業主婦よりは、はるかに大変という印象を持っていますが、お話が戦国武将や大名の妻ということですので、現代の奥さん方との比較はなかなか難しいですね。でも大名の奥さんも、それなりに大変だったんじゃないでしょうか。
 皆さんがおっしゃっていますように、大名の妻達はほとんど100%政略結婚により、無理やり嫁に行かされました。亭主になる男がどんな人間であるか全くわからないわけですから、大変な不安と心労を胸に抱えて嫁入りしたのだと思...続きを読む


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