プロが教えるわが家の防犯対策術!

長崎地裁で死刑判決が出たようです。

死刑制度を廃止すべきとの理由として、「冤罪の可能性」が挙げられることが多いのですが、
冤罪の可能性が無い事件、例えば現行犯逮捕などの場合は、死刑は許されるということでしょうか。
冤罪の可能性がある事件は一部であり、それを理由に死刑制度全体を廃止してしまおうというのは飛躍しすぎだと思うのですが、
皆さんはどう思われますか。

A 回答 (23件中1~10件)

冤罪の可能性のない事件はまずありえない。


人前で犯されとりおさえられた現行犯であっても
裁判をうけ、緻密な証拠・証人調べが執り行われる。

というのはその場に居合わせない裁判官の目には
真犯人なのか、真犯人とその一味にでっちあげられた
真犯人もどきなのか判別つかないからだ。

だいたい現場にも居合わせずこいつが現行犯だと警察の発表を鵜呑みにした
マスコミに連日思いこまされて踊らされている実情のほうがこわい。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:48

 なんか、現象が独立だなんて話を述べている人がいますね。


 それで反論が成立していると思っているようですが、完璧に的外れです。具体的に言えば、この人はどういう位置づけで交通事故死が言及されているか、全く理解できていないということです。

 別の所で使ったテキストがあるので、流用しましょう。

『結局の所あなたにとって人命なんて話は後付けのおためごかしでしかないということです。感覚的に「やだ」と思っている以上のものは無いと言って良いでしょう。実際、あなたの発言の中には何もありませんし。
 ちなみに、本当に人命が本質的な問題と捉えているのなら、死刑なんて制度の話ではなく「もっとも人命を脅かす現象は何か」を考えます。で、その観点でリサーチをすれば、共産主義政権だの戦争だの天災だの交通事故だのが上位に上ってきます。
 冤罪死など、この序列で言えば末席もいいところで、正月にモチを詰まらせる老人の死より少ないのですから、モチ対策の方がまだ冤罪死対策よりも「人命尊重」に叶う行為です。
 要するにあなたは、死刑というものの本質とは傍流の副作用に過ぎない話を持ち出して、死刑制度の是非を問うというズれたことをしているのです。』

 要するに、交通事故の存在を理由に自動車輸送というシステム自体を廃止しろと言うことと、冤罪を理由に死刑というシステム自体を廃止しろと言うことと、論理構造上に同じだということです。
 自動車でこれを言う人はいませんが、さて、なぜ死刑でこれを言う人がいるんでしょうね。私はその理由も分かりますが、ここでは本題から外れるので言及しません。

 ともあれ、一方で成立する構造が一方で成立しないなんてコトはロジカルにあり得ないのですから、交通事故が自動車輸送システム廃止の理由にならないのと同様、冤罪は死刑制度の廃止の理由になりません。

 また、感情論が正しいなんて言う人がいて、もう目も当てられません。「自分は真理を知っている」と他人が思っているということを思い込めるひとですから、そもそも論理というものが理解できないのでしょうけれど。
 短期的には、もしくは少数の人間なら、感情論で動かすことができますが、何十年も続き、延べ何十億の人間に影響を与える法制度は、そんなものでは動きません。立法というものがどういうプロセスで行われるのか、よほど知識も社会経験も無いのでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:50

世の中、「われこそは真実を知りたり」てな顔をして、「自分以外はみんなみんなバカ」だと睥睨する人間はごまんといる。

「自分は論理的に考えられるが、自分以外は感情論でしか考えられない」と思い込む人間もたくさんいる。

オレも含めてな。そう、自分自身も含めてだ。「自分だけは例外」と思うところから、議論の齟齬は始まるからな。

で、だ。
この種の話になると、必ず「論理的」ってやつが出てくるんだよな。「感情的」ってのもな。そして、「感情的なのは間違い、論理的なのが正しい」と必ずなる。

そうなのかね? 本当は、逆じゃないのか? 論理的な考えこそが間違いのもとで、感情論こそが正しいんじゃないか?

森達也の「死刑」に書いてあったんだけど、結局、ほとんどの人間は、死刑に対する漠然とした「回答」ってのが既に自分の中にあって、それを正当たらしめるために理論武装しているに過ぎないんでないのか。「死刑賛成」も「死刑反対」も、どっちももっともらしい理論はごまんとある。ネットを検索すれば腐るほどヒットする。その中から、自分の「気持ち(=感情)」を「論理的に正しいんだ、と証明できる証拠」を適当にピックアップして理論武装する。そして、「論理的な死刑論のできあがり」ってわけだ。

結局、つまるところ人間は「論理」で動いたりはしない。それが論理的に正しいかどうかで人は動かない。「イヤだから」「イイから」でしか動かない。

だから、死刑に関する、どんな「論理的な説明」も、結局は人を動かす力にはならないと思うんだよな。だから、「飛躍しすぎ」だろうがそうでなかろうが、本人にとっては別にどうでもいいんだ。それが否定されたら、またどっかから自分の感情を正当化する理論を探して持ってくればいいんだから。

人間は、感情の生き物なんだ。あんまり「感情」を「論理」より低くみると、痛い目をみるぜ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:50

ご質問の趣旨とは関係のない回答になってしまいますが。



死刑制度と交通事故の死者数を元にバランス感覚を欠いているとの指摘は正当とは思えません。
両者は独立の議論なのです。
つまり、一方の変更は他方には影響を与えません。
具体的に言えば、死刑制度を廃止しても交通事故の死者数に影響を及ぼせないし、交通事故の死者数を減らす対策を講じても死刑や冤罪の数には影響を及ぼせません。
相互に独立したものを一方の怠慢を理由に他方の制度を論じることには全く意味がありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:50

no.12です。


>冤罪多い→冤罪を0に近づける対策→終身刑の導入→死刑廃止
 そういうことですか。
論じる順番については特に意識していませんでした。
論理の飛躍しすぎというのを議論に値しないというような意味にとっていました。(議論に値する→飛躍していない、という思考回路でした。)
私の感覚では、冤罪を0にする対策、終身刑の導入の議論はもう既にされていると思っていたんですが、議論を同時並行でするのがそんなに問題だとも思いません。

好みは人それぞれ。死刑制度に殺人抑止力があっても、自衛手段のこうじられる殺人と自衛手段のこうじられない冤罪なら、自衛手段のこうじられる殺人のほうがいいので死刑制度を廃止しよう、と考える人もいるかもしれません。
私はどちらとも決めていませんが、最終的には多数派が望む制度になるのでしょうか。
制度の議論は自分の利害を交えてしてほしいものです。(一人一人が自らの利害を交えて議論していれば戦争は起こらないというのはいいすぎでしょうか。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:51

死刑廃止論者の方々は「死刑」が取り返しのつかないと仰いますが拘束される懲役刑や金庫刑でもそれは同じことです。


時間や自由は何にも代えられません。
また、冤罪だからといって罪がなくなるわけではありません。被害者のために治安維持のために責任は誰かが取らなければなりません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:51

冤罪云々は、判決の正確性に疑問があるということですから、現在、刑務所に収容されている人は解放しろと要求すべきだと思うのですが、そのような書き込みがないのはなぜでしょうか。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:51

あなたは、ある日通勤途中の満員電車の中で痴漢と間違われて女性に駅員室に連れて行かれそうになる。

 身に覚えのないあなたは女性の手を振り払おうとして誤って女性を線路に突き落としてしまう。 そこに電車が来て女性は亡くなってしまう。 「痴漢を咎められた変態が逆切れして被害者を殺害した」とテレビのワイドショーが連日報じ、世論の憎しみの後押しのもと、いよいよあなたに死刑判決が下る。 なんてことが、冤罪と死刑は全く無縁だなどととぼけたことを言ってる皆さんの身の上に怒らないことを祈るばかりです。 日本の交通事故の死者数は今では年間6千人程度です。 いずれにせよ死刑と交通事故死を同列に並べるような不可解な思考ができない自分でよかったと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:51

> 冤罪の可能性がある事件は一部であり、それを理由に死刑制度


> 全体を廃止してしまおうというのは飛躍しすぎだと思うのですが、

 その通りですよ。

 その程度のことすら分からないヒトが多くいるという嘆かわしい現実もまた、その通りなのですが。

 そもそも、交通事故で毎年一万人から死んでいるこの日本で、数人の死刑に対して冤罪で云々するということが、いかにバランス感覚を逸しているかを理解できないのですから、論理性・合理性の教育というものがいかに重要かという証左ですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:51

ほかの方も言われるとおり、冤罪は少ないものではありません。


少なくとも、人の行いが完全になりえない限り、その不完全な司法で、取り返しのきかない「死」という完全な結果がある死刑を行うことは、不当であるという視点で見れば、決して飛躍ではないです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2008/06/07 18:51

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!