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タイトルの通り、「歴史教育はどうあるべきか」となります。

私自身は、XXXX年に○○が何をした、などという事を丸暗記させる真に意味の無い事をさせるのは非常に時間の無駄だと思っております。
まるで、教科書の何ページの何文字目に何という文字が書いてあるよ、と回答してテストの点を貰っているようなものではないですか。
こんなものでは、身に付ける知識・教養として社会に出てから全く意味が無い。

それよりも、人はこうしたらこう動く、それは過去の○○年の事例と○○年の事例がある。
我々は同じ愚行を繰り返すかもしれないが、これから形づくる社会の為、教訓となる前例を知っておいても良いのでは、というスタイルが良いのではないか、と個人的に考えております。

以上を踏まえて質問したいのですが、
・この考え方は誤っているでしょうか? 
 暗記が良いのだ、と言う方が多くいらっしゃるのですが、暗記の効用があれば教えて頂きたく(皮肉ではありません)。
 今現在の日本が、このような歴史教育で回っているので、私の方が間違っているのかも知れない・・・との疑念も晴れません。
・また歴史教育はこうすべきだ、という意見があれば、どのような方向でも構いませんので、ご意見下さい。
 例えば実用性を重んじるのであれば近代以降に重点を移すべきだ、とか、
 そもそも歴史教育の最終目標はこうであって・・・、とか、
 あるいは、大学の入学試験を目標に勉強がなされるので・・・とかですね。

このままで良いなんて事は決してないと思いますので、これから取るべき選択をご教示頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。

A 回答 (16件中1~10件)

歴史教育はひじょうに難しい側面を持っています。

それについては他の方々も言及されてますよね。日本の場合、国側が歴史について真剣に取り組んでいないというのが大きな原因になります。最近やっとアイヌを先住民として認めよう…なんて法案が出された国です。はっきり言って、歴史認識に関しては相当遅れています。でもそれも一方では敗戦をふまえると仕方ないとも言えます。国が歴史学に首を突っ込んだらどうなるか、は過去の筆禍事件などを思い浮かべても容易に想像つくでしょう。ドイツでは、戦争からこんなに経った現代でさえ、ナチスに言及すると罪にただされる場合さえあります。ですが日本では「東条万歳!」なんて言っても、直接的には罰されないわけです。この良い部分と悪い部分、どちらに比重を置くかはとても難しいです。だから国は触れたくないんじゃないでしょうか…。踏み込むと危険なのが、歴史学であり、歴史教育なのです。

・この考え方は誤っているでしょうか? 

考え方は人それぞれで、あっている・間違っているなんてことはありません。それこそ○×をもらうテストじゃないんです。ご自身がそう考えるならそれでいいでしょう。

 暗記が良いのだ、と言う方が多くいらっしゃるのですが、暗記の効用があれば教えて頂きたく(皮肉ではありません)。

基本的用語は暗記してもらわねば意味がありません。私は近世文学を専攻してますが、教授から「江戸初期から末期までの元号とそれに照らし合わせる西暦をきちんと覚えておくように」という指導を受けています。いったい何が客観的にいつ起こったのか、を考える上で、教授の指導はもっともだと思いますし、それもできないのに研究をするのはお門違いだと思います。第一、歴史に限らず他の教科でも、たとえば、(a-b)(a+b)=a*a-b*bすら覚えていない中学生に因数分解を解かせられますか?
そういう問題です。

 今現在の日本が、このような歴史教育で回っているので、私の方が間違っているのかも知れない・・・との疑念も晴れません。

他の方も仰ってますが、別に、そんな歴史教育では回っていません。大学入試をごらんになったことがありますか?程度があがればあがるほど、基本的に論述です。センター試験だって、年号はほとんど訊きません。そして、考え方に合っている・間違っているはそもそもおかしいんです。

・また歴史教育はこうすべきだ、という意見があれば、どのような方向でも構いませんので、ご意見下さい。

個人的に申し上げれば、小学校三年生から英語を学ばせるよりも歴史教育を徹底させた方がきちんとした「国際人」は育つと思いますね。英語をしゃべるなんて別段幼少期からはじめずとも可能です。それよりも、英語だけしゃべれてほかに何も知らない無知な日本人が海外に出て行って、他国の人に「君の国では~」と質問されたときに珍回答をされるのが一番恥ずかしいです。ただ、それは日本に限ったことではなく、日本人の私より自国を知らない外国人も多数存在しますから、多分、どこの国も歴史教育には頭を悩ませていることと思います。

ちなみに、No.6さんの考え方で歴史学を捉えているのは、有名所だと早大文学部の日本史学科ですね。現代から過去にさかのぼっていく方式で歴史を捉えていく方法です。(具体的な名前は忘れましたが…)
早大出身者の歴史学者はみなさんこの方法をとられていたかと思いますよ。
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MargnalSeaさんのおっしゃる通り、豊臣秀吉の人の使い方、徳川家康の


抜け目ない幕府の築き方など人間面で見るべきところが多いのが歴史ですし、
そういう部分を学ばなければ歴史の面白さに触れたとは言えないと思います。

ですから、教師の役割はその科目が面白いものであると生徒に教えることが
第一で、あとは面白いなと思った生徒自身が好きで学ぶものだと思っています。

暗記の効用と言えるかどうかわかりませんが、インドで三桁の掛け算を
学ばせているのと同じ道理で、年号も覚えられる記憶力のあるうちに
覚えてしまうのもいいかなとは思います。

歴史教育の最終目標は歴史は繰り返すということを学び、反面教師に
することで今後に役立てることかなと思うので、どこそこの時代だけを
重点的に・・・というのは意味がないような気がします。

学校側もここまでは教えなくてはならない範囲なんかがあったりして
大変なんですよね。興味を持たせるだけでいいならすごくいい授業が出来ると
思うのに。
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私は「丸暗記」は考える素地を作るために非常に効果的だと思います。



私たちは普段過不足なく言葉を使うことができますが、
それは使う量の何倍ものボキャブラリーを持っているからで、
多くの言葉を知っていれば知っているほど、
繊細で深いコミュニケーションが可能です。

歴史にも実用性を求めるのであれば、
知識は多ければ多いほど洞察が深まるのではないでしょうか。

また年号を覚えることは決して無意味ではないと思います。
出来事の推移とそれに要した期間がわかるのはもちろんのこと、
海外と日本の歴史的つながりを比較検討するのにも役に立ちます。
また国内に限っても地域ごとの歴史的過程を比較するときに役立ちます。

いずれにしても単なる勉強や作業としての
歴史用語や年号の暗記は無意味ですが、
歴史を学ぶ本来の目的である社会への洞察力をつけたいのなら、
是非とも覚えておくべきだと思います。

私自身も年号を覚えるのは苦手でしたが、
年号のおかげで思わぬ出来事の関連に気づくことは少なくありません。
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>これらは事実として学ぶ前に教えるべきことだともいます。


誰でもわかるような事を教えるのは失礼と言います。

>歴史自体が
歴史と社会(日本)を知らない、または知ろうとせずに講釈しています。

>現在の学校などで行われている曖昧な道徳ではちょっと頼りないですね
これを礎にして現在の己を見る事が出来ます。
足元が見えていません。

>これらを現在の生活でどのように生かせるのか。
己の得と言う煩悩を捨てて初めて徳を得ます。

>仏法は超具体的に考え方を提示してくれます。
もちろんです。
しかし、真理には程遠い。

まず、思いつきで書き連ねる欲を捨てて諭す徳を見出す事です。
知ってはじめて考える事が出来、そこに真理を見出す事が出来る。

もう少し己の研鑽が要です。
ペン先で軍人の頭を機銃のように突き刺せば同じ愚か者でしょう。

期待しています。
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冷静に客観的に道徳に基づいて。



ですかね。

歴史自体が、資料に信頼性があるであろうと言う、人間の判断に基づいてランク付けし、その上位ランクをつなぎ合わせて、学者陣などが現在の歴史と言う学問の中で妥当と考えられると言う判断を下す。

これらの不完全かつ本当の真実などは知りえない、人間の判断の多く介入したもので、事実かどうかは我々にも解らないが、最大限憶測するにこうではないかと言う一つの柔軟な暫定的な見解であると。

何か新しい証拠や今までの証拠の信憑性が疑われれば、ひっくり返る性質がある。そのようなものである。

それらがどのようになされているのか。

これらは事実として学ぶ前に教えるべきことだともいます。

そしてこの識者といわれる人々の練りだした物語から何が学べるかと言うところが核になるのだと思います。

そのとき必須になるのが道徳ですが、現在の学校などで行われている曖昧な道徳ではちょっと頼りないですね…。

上座仏教などで語られる厳密で理性的具体的な論理的な道徳が今後見直されてくるのだと思います。

これらを機軸に、どのような心がどのような結果を生み、どのようなときにどのような心の流れが生まれる事が確認・憶測できるのか。

これらを現在の生活でどのように生かせるのか。

そして現在のこの世界に対する政治経済国民生活に対する心を視点とした見解を出し合い、自分が自分に対し成すべき事と他者になすべきことを考察する。

この際にも、仏法は超具体的に考え方を提示してくれます。

家族に恋人に友人に親しい人々に嫌いな人々に、どういった心でどう対処するべきなのか。

歴史の概念にしがみついて得られるものは何でしょう。
争いが多くうまれるだけとかんじるのです。

そもそも見解に対する執着によってほとんどの問題が生まれますね。
人間関係の毒である執着から離れることが、教育の核だと感じます。
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はっきり言っちまえば、



まともに記憶出来ない馬鹿に
2個同時に記憶させた所で物にならなくなるだけ。

俺の考えではこう作る。
いや、俺はこう作る。

両方不良品。
その為のJIS規格。

俺の教え方はこうだ。
俺はこう教える。
ただ単に右翼と左翼の大発生。

その為の教育規範。
授業がまるで進むまない。

10年考えて出た結論を高校生に1時限で理解させられる訳がない。
教える事は出来るが、理解させる事がまるで出来ない。

教えられない。に帰結します。
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器用貧乏。

(国語)
何でもこなすが、使われて大成出来ない人間を指す。
大工をすれば棟梁の仕事が光るだけなんです。

これを良い仕事と言うんです。

一挙両得(30年前の思想)

土方をさせる。
筋肉が付く。精神力が付く。お金も入る。

スポーツ選手にはなれない。
武道家にはかなわない。
苦労の代価が「金」であった。当然のこと。

結局、凡人に毛が生えただけ!

現代の政治経済なら経済大学へ行くべきでしょう。
思想なら、哲学科へ進むべきです。

目標を持って進むべきです。
少なくとも、江戸時代の教科書ではは駄目。
最新の教科書を使いましょう。

専門家やエキスパートを光らせる道具にされますよ。
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8番です。


回答者どうしの話は禁止ですが、ひとつだけ
8番で「過去から順番に遡る事を否定しているのです」と言っています。
過去から遡る事の問題点は、単独の回答(原因)だけで分かった気になってしまう事なのです。
歴史は、いくつかの原因が絡み合い形成されています。
ところが過去を現代から見ますと、単独の原因がその全てに見えてしまうのです。
そのため、単独の原因がその事件の全てに見えてしまうのです。
たとえば、北アイルランド問題を、いつの時点からと見るのかによって原因が全く異なってしまいます。
日韓関係も同じで、現在の日韓関係においても、両国とも自国に都合の良い部分だけを切り離して論じているため、妥結点が見出せません。
竹島問題などその象徴的問題です。
過去の事件Aからその後に起こったBという事件の関連を知る事は簡単ですが、BからAという事件がどう係わっていたかを予測し調べる事は著しく困難です。
AとBの間に、Cという事件があった場合、Cという事件のみでBという事件の説明をしてしまいがちになります。
他方過去の点だけを見た場合、AとBの関係のみになり、Bを語るのにAとBを語る人とCとBを語る人との間に差が生じてしまいます。
では、AとCを調べればよいかと言いますと、別のDやEも係わっている可能性もあります。
それらの原因全てを予測して因果関係を調べる事は不可能です。

そのため、自分が納得した原因を主たる原因とし、相手との妥協点を持とうとしない原理主義的考え方が蔓延してしまうのです。

基本的には、民族問題であれば、民族の形成期以降が重要であり、人類の誕生や地球の誕生などを引き合いに出す事は、歴史を理解していないと思えてしかたありません。
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No6です。

No8 の方へ。
 「木を見て森を見ず」「鹿を追う猟師は山を見ず」、物事の追求の仕方に「演繹法」と「帰納法」の両方があることをご理解ください。
 「歴史は最初から学ぶ」といっても、「はじめ」がどこにあるのでし。人類の誕生? 地球の誕生? 宇宙の開闢?・・・おのずと途中から出しか始めようがありません。
 仮に人類誕生の時からはじめるとして、どこからスタートし、人文・科学・地理・風俗・文化・経済・政治・・・対象はどんどん広がって、とてもとてもまとまりがつくものではありません。
 個人が歴史の勉強をする場合、何かに焦点を絞ってある程度集中せざるを得ないでしょう。 ましてや、見据えた限られた対象について、現代から過去の歴史を参考に未来を考えにはこれが一番ではないでしょうか。 私は、この前提に立って「現在からさかのぼっての探求」を提案しているのです。
 この場合でも、短絡的な狭量や偏見は、歴史勉強の基本として当然排除らされなければなりません、広く深く探求したいものです? 民族主義的?原理主義的? なんのことでしょうか。
 以上、「歴史をさかのぼって」との提案も、オーソドックスな時系列的な理解を否定するものではありません。地球の誕生、人類の誕生、あるいは国家の成立、当たりから歴史の流れを大きく捉えておくことは、「歴史をさかのぼって」探求する方法の補完的方法として重要です。
いってみれば車の両輪のような関係でしょうか。
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歴史が大好きです。


受験のために歴史を勉強するのであれば、暗記も必要でしょうが、「真に歴史を学ぶのに暗記は必要ない」と考えています。
受験の場合はともかく、歴史的事実が1年やそこら違っていても前後関係さえ誤っていなくても、たいした問題ではありません。
関が原の戦いがなぜ起こったのかが大切であり、それが1599年だろうと1600年だろうと。
年号や個人名などは、年表や資料を読めば全く問題なく解決するのです。
江戸時代の西暦と元号なども、換算表でもあれば、わざわざ暗記する必要性などありません。
これらをわざわざ暗記する事は、便利なコンピュータや電卓があるのにもかかわらず、それを使用せずに3桁の掛け算をする事と同じです。
それよりも、「なぜそうなったのか?」を考える事が、歴史を学ぶうえで最も大切であると信じています。

私は、「近代以降を重点的に学べばよい」とか、「現在から過去に向かって学ぶべきだ」という考え方には反対です。
歴史は、過去から現代へと流れているもので、過去の原因がありそれが次々と連鎖的に事件や事実が起こるのです。
近代や現代に起こっている事件の原因が、中世以前に遡るものが沢山あります。
それらの原因を知らずに現在を語る事は、短絡的思考となり、大変危険です。
現在から過去に遡る学び方も、原因が複数あるのにひとつに単純化されがちであるために、行うべきではないと思っています。
現在から過去に遡る考え方をするために、民族主義的な考え方、原理主義的考え方に固着する事になり、対立点ばかりが目立ち、紛争が絶えなくなるのだと思っています。
(ただし問題点の提示の場合にのみ反対するものではありません。過去から順番に遡る事を否定しているのです)

歴史を学ぶ本当の意味は、過去の事実を知る事よりも、どのような因果関係にあるかを推定し、それを調べて理解する事、過去の因果関係から将来を予測する事だと思っています。
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