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無知です。
ウィキペディアは詳しすぎるため、とりあえず大まかな流れを知りたいです。


日中戦争とは、いつ、何のために始めたのでしょうか?

石原莞爾はどのような才覚の持ち主で、日中戦争にどのように関わったのでしょうか?
(なにかと日中戦争を混合しているかもわかりません)
(ちなみに、指揮者の小澤征爾さんの爾は石原莞爾から、征は板垣征四郎からです)


また、
イオウジマ ではなく イオウトウ であるように、
太平洋戦争 でなく 大東亜戦争であるように、
日中戦争は日中戦争いいのでしょうか?

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A 回答 (2件)

 日中戦争を何のために始めたかという質問自体が、戦前の日本の本質を突いています。



 日本の国益と言う視点から、軍事・外交を統合した『戦略』が欠如していて、各部門の中堅幹部が「観念的な行動」をとって戦争を拡大してしまい、当時の日本の国力で実現可能な範囲を逸脱して、国民を不幸のどん底に落としてしまいました。

・具体的に・・・細かく長くなりますが・・・
 満州事変と支那事変(日華事変・日中戦争)は、ある点で性格を全く異にしています。

 日本が開戦するのですが、現実論に立った政治・経済的視点からは、積極的に開戦する理由がなく、開戦決断もしなかったので、「なんのため」が見えなくなってしまっています。

<日本の政権構造と満州事変・日華事変・太平洋戦争(=対米戦争)の詳細経緯>

 戦前の政治体制では、軍(皇軍=天皇の軍隊。陸軍=参謀本部、海軍=軍令部)と内閣(=行政府)は同格の存在として、天皇の下に並立しています。(統帥権の独立)
 明治・大正時代までは、枢密院が天皇の補佐として実質的に日本の政治・軍事を統括した国政の主導機関として機能していましたから、並立する軍・内閣を統合するシステムが存在・機能していました。

 ところが、昭和になると枢密院の権威の低下と(枢密院は事実上、その構成員の個人的力によって動いていました。明治時代の枢密院のメンバーは、明治維新の立役者であり、倒幕軍の指揮官を経て新政府の高官となった人が多く、軍・政両方に幅広い人脈を持ち、両者を統括する力を持っていました。)、天皇自身のリベラルな考え方(美濃部達吉の天皇機関説とほぼ同じ考えを持っており、御前会議では、ほとんど異議を唱えませんでした。例外は2・26事件と終戦の決断の二つといわれています。)の結果、軍と行政を統合した国際的視野を持った政治判断が失われてていきます。

 この、政治=外交と軍事を統合する視野を欠いたまま、満州事変・支那事変(日華事変・日中戦争)が起こっていきます。
 ですから、中国本土への介入が日本と言う国家にプラスであると言う判断なしに、支那事変が起こり継続されたと考えています。

・満州事変
 「石原莞爾」という特異な才能の元で、演出されました。

 上に述べたような政治状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、張学良と極力事を構えない。」方針でした。(満州の軍閥、張学良の兵力は、満州に駐留している日本軍の10倍あるといわれていたからです。)
 ところが、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめ、満州を占領してしまったのです。
 この大戦果に、参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。(ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となりました。)

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。

 国際連盟では、リットン調査団の報告にもかかわらず、常任理事国である日本の行動を容認する意見も強く(第一次大戦後の国際的な厭戦気分が影響しています。当初、ドイツもこの傾向を利用して、英・仏と戦うことなく国土の拡大を行ないました。)、石原莞爾の思惑通り事態は進むかと思えました。
 ところが、国際連盟で討議している最中に、日本軍が満州から中国に侵攻を開始(熱河作戦)し、面子をつぶされた国際連盟の諸国の態度が一変します。

・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

・満州事変の性格と支那事変の性格
 高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。

 満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。

 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。

 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。

 私個人としては、「軍が軍の観念論で戦っていた。」以外の答えを今のところ見つけておりません。
 中国側は、「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。
 
 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択となったのです。

 さらに、軍が急激に膨張した結果、多くの「職業軍人」は、平和時にはありえない異常なほどの昇進を手にしていました
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日中戦争を語る前に中国人のメンタリティを良く分析しておく必要があるでしょう。

中国人は今でもそうですが(1)西欧流民主主義は多民族国家の中国には合わない。国土も大き過ぎる。(2)西欧近代諸国には、教えることはあってもそこから学ぶことなど何もない、と心底は考えているようです。1912年前近代国家の清朝が欧州諸国の略奪を受けて崩壊したとき、中国人はこのメンタリティが災いして「清国崩壊後は、どういう国家をつくるべきか?」というビジョンが作れなくなってしまったようです。そうすると、誰がリーダーになってもうまく行かないのは自然の流れでしょう。
 日本人はこの点割り切っていて(1) 西欧流の議会民主主義は日本人には合わない。士農工商の前近代的身分制度を廃止して四民平等型天皇制で行く。(後年、不平等条約改正の過程で、イギリス式議会制とフランス流法治制度を導入しましたが木に竹を接いだ状態で、今日でも政府自民党支配体制を民主主義の成果と考えていますが、誤解というべきでしょう。政権政党の交代の無い議会制民主主義国家は、民主主義でない国家で初めて可能であって言葉の上でも矛盾しています。)経済体制は文明開化というグローバル化を実施する(2)西欧諸国の軍隊制度、科学技術を徹底的に学んで、いつか西欧諸国に対抗する力を身に付ける。(3)西欧諸国は、アジア人を馬鹿にし差別し搾取している行為は許し難い。少なくとも日本人に対して、そういうことをさせない富国強兵政策を導入する。・・みたいな感じのメンタリティといえるでしょう。西洋国家の良いとこ取りするメンタリティは今でも変わっていないようです。古代から日本人は漢国朝鮮国家の良いとこ取りしていましたから、もうこれは日本人のDNAでしょう。
 日中戦争は清朝崩壊後25年経った1937年に起きましたが、要するにアジアの盟主たるべき中国人が近代的政治国家を作れないイライラが頂点に達していた日本人の世論を見透かして、全体主義者の日本人、かつ陸軍省の役人が起こした軍事的衝突事件でしょう。
 アジア諸国の植民地化ではイギリス、オランダが一歩先んじていましたから、この時代の流れに乗り遅れたフランス、ドイツ、イタリア、ロシア、アメリカは、「日本人と中国人の争いを利用しない手はない」と考えたわけで、この策にまんまと全体主義者がまって国際的に孤立してしまったわけです。日本人は富国強兵政策が日ロ戦争勝利という形で成功させると、中国の近代的国家成立西欧諸国のアジアに対する搾取から解放する「大東亜共栄圏構想」の実行に移りましたから、今まで仲良くしてくれていたイギリス人・オランダ人までも日本人の敵に回るようになりました。「これではアジア諸国、なかんずく中国にに経済進出しようという野望が日本人に妨害されてしまう」と考えたアメリカも日本人の敵に回るようになりました。
 「ならばなおさらに西洋諸国に対抗して、アジアを開放し大東亜共栄圏の実現を計ることが日本人、日本国家の生きる道である」と日本人が考えたとしても私には不思議ではないです。朝日新聞を始めとする大新聞すべてが大東亜戦争の戦争遂行に協力しましたが、全体主義政権の言論統制に従っったからこうなっただけではないと私は思っています。
 大東亜戦争が終わって、日本人は軍事的には敗北しましたが、大東亜共栄圏構想は裏では着々と実行されていました。朝鮮戦争で得た大きな経済的利益を原資に、経済成長戦略を立て、それも成功させると、日本は東南アジア諸国に工場を立てるようになったのです。(実際には、人件費高騰に困るようになって、東南アジアの安い労働力に頼らざるを得なかったのですが・・)これで東南アジア諸国は経済力を身につけ、アジア的貧困と飢餓社会から脱出できるようになったわけです。これらの東南アジア諸国の成功を脇から見ていた中国人は、これまでの政策を転換して「日本人は中国で工場作って良いですよ。中国人の造った工場を自由に使ってください。一緒になって両国の経済を豊かにしましょう」となったわけです。日本人は餃子まで中国で作るようになった基礎はこういう背景があるでしょう。
 日本人としては、大東亜共栄圏構想は政治経済体制を超越したDNAであるみたいな印象ですが、中国人はやっとこの考えを受け入れるようになったというわけです。ですから私は大東亜戦争の歴史的意義は大ありであると考えています。ただし中国人、朝鮮人の方々に全体主義者・陸軍省の役人が与えた損害・迷惑については大いに謝罪すべきと思っています。私としては大東亜共栄圏構想を民主主義政治体制・文民統制方式軍隊のもとで実行しなかったのは日本人の大きな失敗であったと思っています。天皇制と民主主義は両立しないと考えたのがその誤りの原点でしょう。天皇制と民主主義は両立させる、大東亜共栄圏構想を民主主義政治体制・文民統制方式軍隊のもとで実行し、アジアの中で日本は活きる。イスラム・アフリカ・ヨーロッパ・中南米の紛争については中立を守り、余計な口ははさまない・・みたいな考えが私の日中戦争・大東亜戦争から学んでいる教訓ですが、皆さんのお考えはどうでしょうか?。
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