親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

少し前の質問にクリスチャンはなんでも許すという話題がありました。
ふと思ったのですが、クリスチャンは本当に何でも許しますか?
たとえば、
先日の日曜日のアキバでの無差別殺人の犯人とか、
(本当にご遺族をテレビで拝見するとお気の毒です。でも
こんな犯人も許されるのでしょうか。)
ナチスのアウシュビッツ虐殺とか、
南京大虐殺とか、
いろいろ大虐殺はありますが。
もしかして中国が宗教を認めないのは南京大虐殺を許す勢力が
現れるから?

しかし、どんな犯罪でも許す、あるいは許してくれる宗教があったら
すごく便利ですよね。この間のアキバの犯人も殺人が合法になれば
いいのにと掲示板に書いていました。
オウムのポア(でしたっけ?)みたいに皆殺しにしても
教義として許されるからと居直れますか?

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A 回答 (13件中1~10件)

「南京大虐殺」と呼ばれる事件については、現時点で論争が継続されている。

否定説では「現に南京に建設された大屠殺記念館では300000であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。また大屠殺記念館の館長は日本のテレビ局の取材で300000という数字が政治的な数字である事を認めている。」という主張もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC% …

一方、元は中国の国家のひとつであり、元寇とは、中国韓国朝鮮の連合軍の日本侵略の試みであるが韓国においては、高麗元連合軍が倭を征伐した事実とされている。

日本の被害について「「伏敵編」所取の「高祖遺文録」に次のように残っている。この「遺文録』は、日蓮の遺文を集めた記事集である。

《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれている。壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87

日本の一般人を、あるいは殺し、あるいは生け捕りにして、手に穴を空け縄でつないで船に結びつけ捕虜として連れ帰った。一人も助かるものなしとある。

こんな事件もある。
通州事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E% …

誰が何を事実とし、何を許し何を居直るのか。あるのは復讐の連鎖だけなのか。祖先の行いにより子孫は平和に暮らせないとしたら、平和に暮らせる人間などひとりもいないのではないかと考える。はたして、憎み続けること、ないし憎み続けられることは出来るであろうか。復讐の連鎖から個人を断ち切るため、国家が個人からあだ討ち、私刑などを取り上げたと考える。
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クリスチャンという事にこだわる必要は無いと思います。


オーム事件の時に吉本隆明という文芸評論家が自分の親鸞解釈では当然麻原を阿弥陀仏は許すと言って多数派の仏教徒から非難をうけました。
彼の解釈は遠い離れたところから見れば人間が作り出す悪の規模などたかがしれている、未来の倫理はそこまで行かなくてはいけない,というものだったとおもいます。春秋社の吉本隆明のシリーズに詳しくかいています。
例えば「宗教の最後のすがた」など読んでみてください。
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 ANo.10


 皆さんにも質問者からはまったくなしのつぶてであるが、更にいえば、forgive them, for they not what they do.や右の頬~・・とは、
つまり私に復讐をさせないでください、その気持ちを払拭させてください。という自分と神への切実な祈りであります。
 邪悪への対決は決してゆるがせにはしておりません。その認容などはもってのほかです。そういう対決があってこそ、上の祈りとなるのであります。
 怯懦な人間が、なぜ己や愛する人に襲い掛かる敵を赦せますか。
 そんなのは卑怯に逃げる言い訳ではありませんか。
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 宗教が俗権(政治)と対決すれば、壊滅、迫害、禁止となる。


 政治権力との真っ向からの対決は避けなければならない。
 日本でも法難とかある。キリシタン弾圧は、之はまた別の要素がからんでいる。キリシタンと西欧の商売、そして王権の侵入の防止、わが国の民族性文化の保護のためもあった。欧米のキリスト教は商売や政治とアベックできているので。
 ドイツ・ナチス。柔和な子羊であるとされれ、かたがたは対決をさけるのでしょうね。
 日本の仏教もそうですが、その後で、戦後とか、反省しています。
 宗教は俗権にはかかわらないようにしてきています。
 赦すではない。forgiveではない。悪とは関わらない。一種の偽善ですね。
 信仰としては、いかなる殺人もみとめておりません。
 そしてこれを赦すか、どうかは神のみの権能です。
 神は認めたか、認めてはいません。御自ら(おんみずか)苦しんでおられます。
 教会にいかない、クリスチャンではあるが、私も苦しみ、認めていない。赦してはいない。それを赦していないということで、自分をしっかりさせ、行為者自身も、自分と同じ私なのだと思っている。
 事がすんで、反省し、自己批判をする。それさへしないで済ましている。こういうことは、もうあってはいけない。先人のつらさが、見に迫っております。人間の性(さが)なのでしょうか。
 だからといって、信仰を見下げるのは論外でしょう。
 それに信仰って集団や塊ではないですよね。
 自分と神、神と自分との間の、伝え者。その関係だと存じます。
 教会の、お寺の善男善女がどうだ、といってはいませんが。それはすばらしい信仰実践だと存じますが。
 
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#3ですがね。


補足を拝読した限り、私の意図することを全く汲み取れていないようなので、再回答します。

「クリスチャンは本当に何でも許しますか?」という問いに対する答は「否」です。
なぜなら「すべてのクリスチャンが本当に何でも許すとは限らない」からです。
しかし、同時に「一部のクリスチャンは本当に何でも許す」というのも事実ですから、個人である私を例として挙げ、その他にもアーミッシュなるものがいるという紹介を(参考までに)させて頂きました。
ですから、「すべてのクリスチャンが本当に何でも許すとは限らないが、中には何でも許すクリスチャンもいる」ということです。
(あなたが「(アーミッシュのように)何でも許すクリスチャンはクリスチャンとは認めない」というのならばそれまでですけれども、それはあなたと私とで統計の取り方が全く違うために起こることです。アーミッシュ論への誘導でもなんでもありません。)

あなたのおっしゃる通り、私の「すべてをゆるす」という態度はキリスト教のものなのかというと必ずしもそうではないと言えます。
私が今まで生きてきた中で触れたもののすべてがキリスト教なわけではなく、当然東洋的な諦観や空の思想も影響しているでしょう。
(なお、私は他人事でなく当事者のことであってもゆるすでしょう)
そのようなことを踏まえると、こう言えると思います。
「クリスチャンだからなんでも許すというわけではなく、どんな宗教に属していようとも(また宗教に属していなかろうと)なんでも許す人はなんでも許すだろう」
つまり、「クリスチャン」という宗教カテゴリーと「なんでも許す」という実践のカテゴリーには関係はない(関連づけは無用)ということです。

クリスチャンじゃなくても「なんでも許す」人はいるでしょうが、その例は今思いつきません。
しかし、そのような人のことを、多くの人は愚かだと思うでしょう。一般の人にとって、泣き寝入りはしたくないでしょうから。
ただ、それが「ゆるさない人から見たなんでもゆるせる人の愚かさ」であるということは一考の余地があります。それはおそらく「執着すべきところで執着しない」という愚かさだと思われます。
一方、「なんでもゆるせる人から見たゆるさない人の愚かさ」というものも同時に存在し、それは「執着しても仕方のないことに対して執着している」という愚かさと言えるでしょう。
そして、どちらの愚かさの方が優れているとかいうことは一概には言えないことです。

要するに、結論としては「宗教とゆるしとは実は何の関係もない」のです。
しかしながら、前の質問で、私はクリスチャンの立場を用いてゆるすよう語ったのはなぜか。
単に「説得術」のためです。
それが誤解を招いた面があることはお詫びした方がよいとは思っています。申し訳ありません。
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私はクリスチャンではありませんが。



もしイエスキリストが哲学者で有るとするなら、「人間は不完全」だから、誰でも狂気的な行動と取り得る可能性が有り得る、深い深い深い思案が有っての宗教的な許すだと思います。


真宗の親鸞が弟子に私の言う事を聞くなら救ってやると、言ったら、お前は人を千人殺せるかと尋ねました、弟子は殺人など出来ません、親鸞はそうだろう、それは、お前に「業縁」がないために、殺さないだけなのだ。自分のこころが良いから、殺さないのではない。また、殺すまいと思っていても、諸条件が具わったなら、百人あるいは千人を殺すこともあるだろう


狂気的な行動を肯定しているようですが100%そうではありません  狂気的な行動を100%否定してます、が、人間の業と言うものが・・・。。  

人間の業は不安苦しみから逃れられない。  個々の業も悩みやすい人、そうでない人、ガンになり安い人そうでない人
早死にしやすい人そうでない人等々。こいう諸々は人間の智では解決出来ないのでしょうね。
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私はクリスチャンでも何でもないので、以下は私なりの解釈です。

神学など学んだことはありませんので、あしからず。また、「」内は書物からの引用です。

クリスチャンは犯罪者を許しません。
ですが、その犯罪者が己の罪を認め正しく償い、正しい信仰に立ち戻った暁には喜んでその元犯罪者を赦します。

「許容と赦罪とはちがいます」
「受けた損害を忘れるということ」
「コロサイの信徒への手紙を見ると過去を忘れてくださる神が「証書を破棄」ということで出ています」
「過去からの解放、受容、再結合、これが赦しの内容です」
(おもしろキリスト教Q&A77 山北宣久著 P74-75)

・ではなぜ聖書における神は人々を赦すのでしょうか。
神は一度、人々の過ちに耐えかねて世界を滅ぼしました。いわゆるノアの方舟のことです。
しかし神はそのことに非常に後悔をし、二度とそのようなこと(人類根絶)はしまい、と誓いました。つまり、神だって間違いを犯すのですね。それで、神は一気に滅ぼしてしまう代わりに、人間に与えた自由意思を尊重することに決めたのです。ずっとずっと耐えることに決めたのです。神が耐えるのは、罪にまみれた人間がいつかは神からの愛に応えて正しい道を歩んでくれると信じたからです。

・では、なぜクリスチャンは人を赦すのでしょうか?
クリスチャンにとって本当に義(ただ)しい人間など存在しません。
「あなたの目の前には義しい者はなく、実にただ一人もありえません。しかし、あなたは私たちの誰一人といえども忘れたり、棄てたり、罰したりされることはありませんでした。」
(祈り カール・バルト著 川名勇訳 新教出版社 受難節)
彼らにとって、神はすべてを見透かしている存在です。口先ばかりの英雄の本当の姿も。かたや、道化師の涙も。
「あなたの愛する御子イエス・キリストの苦しみと死において」
「あなたは私たちの闇と惨めさをご自分の上に引き受けられ、私たちを自由にして、あなたの子として光のもとに行き、喜びに満たされて歩むようにさせられました。」
(祈り カール・バルト著 川名勇訳 新教出版社 受難節)
つまり、私たちは皆生まれ落ちた瞬間からありとあらゆることを神から、人からずっと赦され続けているのです。
あなたがまだ赤ん坊だったころ、あなたの夜泣きがうるさいからと言ってだれかがあなたを傷つけたでしょうか。あなたが無意識に横入りをしてしまった時、本来そこにいるはずだった人が皆あなたを怒鳴りつけたでしょうか。
もし、人間から赦すということが無くなれば、無差別殺人を犯した犯人と同じになってしまいます。
「捜査本部は、職場への不満や不安が無差別殺人へと駆り立てるきっかけとなったとみててるきっかけとなったとみてさらに動機を追及している」
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/akihabara_ …

・不幸が不幸を呼ばないためにも赦す
殺人を犯す前に、犯人はこの世界を赦すべきでした。
そして何より、私たちは犯人が殺人を犯すその前に赦すべきでした。
もし、お互いがお互いを赦すことがなかったらどうでしょう。
いったい何度南京大虐殺を繰り返すことになるでしょうか。

今回の事件も、不寛容が不寛容を呼ぶ形になっています。
だから、また同じ過ちを少しでも減らすために、クリスチャンは互いを赦しあうのです。それは無責任や、甘えとは断じて違うのです。
「われわれの中の最善のもののうちにも悪があり、我々の中の最悪のもののうちにも善がある」
(真夜中に戸をたたく キング牧師説教集 クレイボーン・カーソン、ピーター・ホロラン編 梶原寿訳)
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クリスチャン自体を「なんでも許す」と括りつけるのは無理があると私は思います。


あなたの質問を例えますと
日本がどこにあるのかも分からないというイギリス人が「日本にはまだ侍や忍者がいる」
と現地に行ったワケでもないのに
概念だけを押し付けているようなもの。

次に
なんでも許す宗教

そんな民族、宗教があるとして
それは
・個人の考えや意見は絶対言ってはならない
・個人的感情を持たず共同体としての感情しか持ってはならない

ことも意味するわけですね。

そんな民族、宗教が存在出来るはずもないが

在るとすれば

皆さんは分かりませんが
私個人はとても悲しく思います。

=============================
トピック違いですが
↓の方の
ユダヤ人の金貸し
についての内容で異なる部分がありましたので勝手に訂正

ユダヤの金貸しは中世から
つまり
社会秩序の中心は神である という時代です。
この時代から金貸しが存在したというのですが
神の経済においては金融というモノはもちろん禁止です。

でもお金が足りない。

そこで登場したのが闇で金を貸すユダヤ人です。

まずユダヤ人はキリスト教世界のピラミッドの外枠に位置する人間である。
このことからユダヤ人は金貸しが出来る唯一の存在という位置につくことになる(もしくは自らがその位置についた。または金融システムを作り上げた)
ベースを理解した上で言うが
教徒達が金融業を命令したという事実はない。
ユダヤに対して職業選択の自由が無いというのは
そもそもキリストという神を頂点とする世界に自らが足を踏み入れることが出来ないから。

次に上下関係
これは
相手がユダヤより上の人種であっても金貸しの方が身分が上です。

隣人愛というのはよく知りませんが
童話なんかでユダヤの金貸しは登場します(グリムなんたらって童話に)
確か借りた人間の肉を切りとっていくという異質な利付貸付を行う者として登場したような。

これは勿論童話の話なので。
ただしユダヤの金貸しをイメージするには良い例えだと私は思います。

そういえば思い出したんですが
確かアメリカの金融業など
今でもユダヤ人が経営しているものがあったような
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事の発端の発言者です。

 汗 

質問者に返答を書いたのに、無視されて、信者同士の論争になっていて「これじゃ質問じゃなく、主張となってしまっている。やばいなぁ」と思っています。

やばいと思う理由は、質問者に無視されたからじゃなく、サイトのジャッジをする人たちが、<質問じゃなく主張だ>と判定したら、質問自体が削除されちゃう可能性があり、そうなると質問者がかわいそうだな って思うから。


さて、人類最大の恥 ホロコーストに対して、ジョンポール2世は、その頃、キリスト教はそれが起こっているのを知りながら 無視 をしたことに対して、遺憾の意を表明しています。
遺憾の意は謝罪じゃない。 
遺憾に思っているのは、大量の罪も無いユダヤ人たちが殺されたことに対するものでもない。
だってキリスト教はそれまでユダヤ人を神を殺したと迫害してきたのだから。

平和主義を唱えながら、実際の場面で沈黙し、無視をきめこんだことに対して遺憾だなぁ って思っただけ。

言葉と行動が伴わなかったことに対してであって、ユダヤ人に対してじゃない。


http://blog.livedoor.jp/elladan/archives/5113761 …

信仰の違いが如実に現れている

カトリックとプロテスタントの信仰の違いですね。
しかもプロテスタントの多くが、実践をしていないことをジミー・カーターは「それじゃあ 信仰していることにならない」と指摘しているわけです。



で、アメリカで40人以上の女性を誘拐し、拷問をしたあと、レイプして殺した男が捕まりました。
全然反省していない犯人に対して遺族らは激怒。

司法取引が行われ、彼は死刑にならなかった。


アメリカはプロテスタントの国で国民の90%が神の存在を信じているのだそうです。
そのプロテスタントの国で、裁判が行われ、神父が発言をしていました。

「今日こそ 自分の信仰心を試されたことは無い。

わたしは・・・・・ あなたを・・・・・ 赦します」

すると、犯人の顎がガタガタ振るえ、涙をこぼした。

すごいなぁ と映像を見て思いました。

神父は見本を示したのでしょう。
言うのは簡単。 だって被害者も被害者の遺族も犯人も隣人じゃないから。


さて、女性をレイプして殺していた犯人を捕まえると、「だってそう教わってきたから」と言う。

そう教わってきた? どう教わってきた? 誰に教わってきた?
って思うんですね。

キリスト教徒の間では、改悛した娼婦マグダラのマリア という認識がずっとあり、教皇が「どうやら娼婦と改悛した女性は別人のようだ」と発表したが、その後も、信者の間では、マグダラのマリアは娼婦 という認識だった。

<改悛しない女は殺しても構わない。> そういうことで、犯人たちは、女性を殺していたわけです。

そればかりではなく、キリスト教の女性蔑視はすさまじく、その環境で育てば、女性を人間として捕らえることができず、なんでもやっていいかのように殺せてもしまう人間が育つ。

神父に赦す権限など無いのに、自分がまるで神にでもなったかのように、「私がこの犯人を赦すのだから、信者たちも赦してやりましょう」ときたもんだ。

神父もラスコーリニコフと同じ、踏み越えた者となった。

ラスコーリニコフの場合、ナポレオンは大虐殺をしたことでフランスに益をもたらし英雄となったから、金貸しの老婆を殺すことが世の中のためだ」って自分を神にしようと、金貸しのユダヤ女性を殺したわけです。


何故ユダヤ人が金貸しをするのか。
キリスト教がユダヤ人に職業選択の自由を与えず、金貸しとかしかさせなかったから。


金貸しは、ユダヤ社会において昔からあった。
<金を借りるために服を質に入れたものが、夕方に金を返せなくても、その人が質に入れた服を返却するべきだ。>という教えがある。
何故なら、その服が唯一の服で、夜その人は服が無いと凍えてしまうから。
隣人愛です。


隣人に対しては、それだけ寛容であるべきだとしている。
自分がもし逆の立場にたったとき、凍えてしまうことにならないようにという教え。


イエスは悪に手向かうなと言ったとされる。
これは、「あなたに不当な仕打ちをした隣人に対して、張り合ったり競ったりするな」ということ。

イエスは悪に屈服せよとは言っていない。
「むっとして仕返しをしてやろうとする心を節制をもって押し留め、仕返しをしないようにしなさい」ってわけです。
「この人がやったことに仕返しをして報いてやろうなど思うな」ってことです。

隣人に対してはそのような原則があったが、殺人や強姦や暴行に対面したとき、それは適用するものじゃない。
戦場の敵に対してまで適用しろとは言っていない。
あくまで隣人間における鉄則を説いたわけです。


隣人の行動を罰するのは、信者ではない。 その役割は神。
ラスコーリニコフのように自分は神だ と思った人は、神の権限を奪い やってしまうわけです。
こうなると、オウムと同じ。

「もし あなたの敵が飢えていたなら、パンを与えて食べさせ、もし渇いているのなら水を与えて飲ませよう」 箴言25・21

この敵というのは、戦場における敵のことではなく、隣人のこと。
例えば、たった一枚しかない服を担保にしてお金を借りてきた人が、夕方お金を返せなかった場合、服を質に流さず、その人に利子を取らず、服を返してやれってこと。
神の名において、返してやれってわけです。


復讐をするな とは、金を借りた隣人が期限の延長を求めたことにたいして、「アイツとはケンカしたから」と、意地悪をして延長を拒絶するな ということ。


10戒におけるこの戒律の対象者はユダヤ教徒。
5から10に関しては隣人間の信頼に関することであり、同じ神を崇拝する者同士は隣人で、<隣人同士はこうあれ>と言っているわけです。


ところが、この隣人が、キリスト教になると、範囲が拡大され、殺人犯も隣人ってことになった。
戦場で自分を殺そうとする者も隣人ってことになった。

神はそんなこたー 命令していない。
「あたしが選んだ民が どうして私が選んだ民を殺すことなどあるでしょうか」であって、「私がエジプトから救い出してもいない人も、私の子供だ」など言っていない。


クムラン宗団は「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という宗規があったが、その集団は信者が穢れを起こした内容に応じて、謹慎処分など規定をもうけていた。
一番重い罪は、律法 すなわち神の否定。
こうなると、もう神を信仰していないことになるので、死装束を着せ死人として扱い、穴の中に入れて、通常3日後、集団から永久追放をし、その後 絶対に交わらないようにしていた。

律法から離れたものは、穢れた者であるとして、交わりを絶ったわけです。

法律は人を縛るものではなく、守るもの。

例えば、隣人が「こいつ気に入らない」と裁判で偽証して、罪に陥れようとしても、律法により「罪が無い」となる場合もある。

律法によりつながれていた場合、罪を犯さない。
偽証されて罪を犯したと訴えられた場合、律法により罪が無いとされ、罪だとされた状態から開放される ってわけです。

「あなたが地上でつながれることは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」マタイ16・19

ってのの つなぐ と 解く はヘブライ語だとアサルとヒティル。
アサルは、師士記だと「縛る」の意味で、列王記だと「捕囚する」の意味で、創世記だと車に「つなぐ」の意味。
そしてイエスが生きたとされた時代になると、もう1つ加わって、「禁じる」という意味でも使われるようになった。

アサルが禁じるで、ヒティルが赦す。
つまり 律法:神ってことですね。


で、キリスト教は、この限定集団におけるルールを、限定解除しちゃったもんだから、さあ 大変。
唯一神など信仰していないものにまで、対象として、「なんでもかんでも 赦しちゃいましょう  何故なら 赦しちゃえば、あなたは死んだ時、罪を赦され天国に行けちゃうってお得さがあるから」ときたもんだ。

で遺族に「許してやりなさいよ」と言う。
「あなたの娘を拷問してレイプしたあげく 切り刻んで殺して犯人をゆるすべきです。だってあなた天国に行きたいでしょ? 」なわけです。


キリスト教はプラトン主義と言われますが、プラトンとて、殺人やレイプを犯す者まで擁護しなかった。

逆になんでもかんでも赦せってのは、集団の破壊 無秩序しか招かない としている。

で、アリストテレスもそうで、「自分の怒りや感情を抑制できず悪に走る奴は、法で罰されると恐怖を与えることで、悪いことをしないようにするしかない」とした。

それでも、抑制きかず殺しちゃう人は、、、、日本の法律だと人間ではないので、動物として扱う って感じです。
人間ではなくなったものを、どう扱うか。

これ難しい問題ですが、アキバの件は、精神障害を起こしているように思えます。
ネオ麦茶の件に似ているから。
ネオ麦茶が犯行に及んだ原因は、うつ病の薬の副作用だったと思います。


というわけで、今回のアキバの事件も何か裏があると思います。
キリスト教は無条件に赦せと言うが、原因を究明しないで無視して、ひたすら自分が天国に行くためなら、他人すら利用してやるってのは、あまり美しくないし、隣人愛に欠けるエゴイストだと思うんですね。

だって、原因を究明することを最初から放棄しているなら、何にも代わらないわけでしょ?
何故起こったのかを原因究明しない限り、同じことが何度でも繰り返され、やがて自分すら殺されかねない。
自分の無視で自分が死ぬわけです。


「他人のためにがんばっているだ って思うこ自体 楽な生き方なのよ」って言った飛鳥は、それに留まらず「あんた 自分のことだけしか愛してないのよ 自分しかここにいないのよ 」と信者 じゃなくて シンジの本性を暴きだします。


アメリカの裁判での神父の発言も「自分しかここにいない」から言えることだと思えるのですが。
神父にとって、隣人など存在しないってことです。


踏み越えたラスコーリニコフは、心理描写から精神障害を引き起こしたと思えるのですが、彼は大地にひれふしたわけですが、でも彼は救われたわけじゃない。

足が萎えた人、つまり高台に乗ってえらそうなことだけ言う祭司たちを批判したわけです。
イエスの場合、ジミーカーターのように歩き回って自分の信仰を実践した。

高台に上ってえらそうに言うことはできるが、実践しないものは、足が萎えた者。
そんな人をイエスは救えるか?
イエスに従っていないので、イエスとて救いようが無い。


ドイツはキリスト教国ですが、あれはキリスト教の精神とか、口ではえらそうに言うが、実際は無視をきめこんで「くわばらくわばら」だったわけでもないと思います。

えっと、、、、アイヒマン。
ミルグラム実験は、人によっては、権威あるとされる人の言うことに従ってしまうことを証明した実験。

服従の心理 なわけです。

だから 1つ1つそれぞれ原因は何か違うんじゃないかと。
原因を追究せず、盲信する愚かさ。
実に楽な生き方です。
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 No.1&2です。



 理解はしたが 伝わって来ないということですか。
 意味が分かりませんでの 降ります。なかったことにしてください。
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