『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

関が原の三年後、徳川家康は江戸幕府を創設し、豊臣家から完全に政権を奪う事になり、大坂陣まで両者の間には不穏な空気が流れるのですが、そんな中大坂城の豊臣秀頼を訪ねた大名は誰がいたのでしょうか?

小説や史実によりますと、加藤清正や浅野長政・幸長親子(福井の松平秀康?)の他は外様大名や池田,前田らの織田系大名はもとより、福島正則,堀尾吉晴,田中吉政ら秀吉子飼いの諸将が大坂城を訪れた記録がないのですが、実際には当時の加藤や浅野らを除き、大坂城を訪れた大名は一人もいなかったのでしょうか?

両加藤や福島ら豊臣系大名は幕府にとって目障りだったのか、取り潰されたり、大幅に減封されますが、同時に田中,堀尾,中村,小早川ら豊臣家に縁の深い大名も無嗣廃絶となっており、これも単なる偶然とは思えないのですが、実際はどうだったのでしょうか?

A 回答 (2件)

福島正則は慶長十三年二月、秀頼が疱瘡を患った際、西国大名を誘ってお見舞いに行きました。


ただ、「是れ家康公の前を憚るか」(当代記)と書かれたほど、こっそりと見舞ったようです。病気見舞いですら内密にしなければならぬ状況なので、記録に残らない訪問があった可能性は考えられます。
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江戸の東日本政権 大坂の西日本政権の二重政権論が最近、唱えられています。


摂津など65万石といわれていますが、最近伊勢などで豊臣政権の影響下である事を示す書類が発見されました。

豊臣系大名が断絶されていることがよく指摘されますが、徳川でも、松平忠吉や武田信吉などが、無嗣断絶になっています。
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