(1)大隈重信が暴漢に襲われたことがあるそうですが、犯行動機とはどのようなものだったのでしょうか?
(2)第一次世界大戦に日本を参戦させたことに対して、当時の国内世論はどのようなものだったのでしょうか?

A 回答 (1件)

当時最大の外交問題であった不平等条約改正絡みです。

黒田内閣に外相として迎えられ改正交渉に取り組みますが、反対派の暴漢により負傷、辞職を余儀なくされ、その努力は残念ながら実りませんでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/18 19:40

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Q1881年に大隈重信が主張した早期ね国会開設

1881年に大隈重信が主張した早期ね国会開設はなぜすぐには実現に至らなかったのですか?

Aベストアンサー

1881年といえば日本史では「明治14年の政変」が有名です。大隈重信とその一派が政府から追放されました。これは、大隈らの主張が「国会即時開設」、伊藤博文らが「開設はするが10年後に」で激しく対立したためと言われます。
ただし、それだけでは理解不足でしょう。両者の対立点は「イギリス型の議院内閣制か、ドイツ型の超然内閣か」にもありました。当時、1870年に普仏戦争でプロイセンがフランスを破り、71年にプロイセン中心のドイツ帝国が成立して、昇竜の勢いだったのです。伊藤らはこれに幻惑されてドイツのまねを決め込み、大隈らのイギリス型案を排撃しました。
そもそも、議会を開設するのは、1868年の「五箇条の御誓文」第1条で誓われていたことでした(広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ)。また、ドイツの勢いに幻惑されて日本国の方向を決めてしまうことは、第二次世界大戦の前にも繰り返されました。

さて、イギリス型もドイツ型も世襲君主(王や皇帝)がいましたが、イギリス憲法学では King in parliament(または Queen in parliament)という基本概念があります。
ちょっと歴史を振り返ると、17世紀中葉の1649年、イギリスはピューリタン革命で国王を処刑しています。共和政になりましたが、クロムウェル独裁と化した後、また王政に戻りました(1660年)。さらに、国王が議会と対立して追放され、名誉革命が起こります(1688年)。議会は、王の娘夫婦をオランダから呼び寄せて王位に据えました。
その後イギリスでは革命が起こらず、今に至っています(詳しく言うと王朝名は代わったが)。つまり、英国王の正統性は、議会に呼び出されたことにあります。神代の昔から続く血筋なんてものに、かかっているのではありません。議会から「お呼びでない」と言われたら、それまでなのです。
こうして世襲君主と民主主義の両立の道が示され、名誉革命後のイギリスはおおむね安定的に発展していきました。

一方、ドイツ型の超然内閣は、国会の多数党が内閣を組織するというのでなく、議会に基盤があろうがなかろうが、皇帝から大命(たいめい)が降下した有力者が首相になるのです。この方法は、当時の日本の藩閥政府に適合していました。
また、1878年に参謀本部が設置されましたが、これもドイツのまねで政府(および陸軍省)から独立していました。参謀本部長には、政府を通さずに直接天皇に上奏する権限が認められたのです。これを帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)と言います。
天皇の仕事が「よきにはからえ」で済む(上奏されたことにそのまま御名御璽を記す)ためには、政府と軍が互いに調整を付けた上で、上奏しなければならないはずです。ところが、軍機事項・軍令事項については政府は口をはさめず、軍が上奏して最終決定となるという種が、この時まかれてしまいました。
そのあとの1889年に憲法が発布されますが、帷幄上奏権や「統帥権の独立」が組み込まれていました。要するに、五箇条の御誓文にもかかわらず、藩閥政府が国会開設や憲法制定をずるずる引き伸ばしているうちに、非民主的な制度が固まっていったのです。

また、ネットにはびこるネトウヨたちは、現行憲法を卑しめるために明治憲法を持ち上げるという、倒錯的な挙に出ることがあります。しかし、憲法学を勉強すれば、明治憲法が欠陥憲法で、現行憲法のほうが優れていることが分かります。優れていたために、手直ししないまま70年近くも使えてしまって、戦後日本の繁栄を支えてきましたが、さすがに改正も必要だろうとも言われています。

日本における「議院内閣制」のデザイン - 齋藤憲司(政治議会調査室)、国立国会図書館レファレンス、平成22年11月号。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071802.pdf
〔引用開始〕
アメリカは第二次大戦終結の前から日本占領政策の研究を開始していた。
GHQ の1945(昭和20)年12月6日付「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」は、ラウエル民政局法規課長によるものであり、帝国憲法について調査したうえで、憲法改正に関する一応の結論と提案を記したものであった。〔中略〕
1946(昭和21)年1月7日に米国の国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)によって承認された「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は、日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示すもので、〔中略〕
このSWNCC228を基に起草するため、GHQ民政局の行政部を中心とするメンバーにより、運営委員会と7つの小委員会が設けられた。小委員会は、国会、行政権などに分かれ、小委員会の責任者の多くは、「法律家、政治及び行政の経験者、占領地の軍政担当者としての知的訓練を受けた専門家であった」。運営委員会は、ケーディス陸軍大佐を委員長に、ハッシー海軍中佐、ラウエル海軍中佐、秘書のルース・エラマンで構成され、
〔引用終り〕

意外に知られていませんが、この憲法の骨子を定めたのは「軍服を着た法律家」たちでした。米国の一流大学のロースクールを出て、法律家としてキャリアを築いていた人たちです。戦時に召集され、戦後東京のGHQに配属されたわけです。
憲法前文を起草したハッシー中佐は、ハーバード大学とバージニア大学で学び、弁護士や裁判官を務めていました。兵役に就いたのは1942年と遅く、中佐と言っても全然職業軍人ではありませんでした。
憲法案の骨子となる「ラウエル文書」を草したラウエル(またはローウェル)中佐は、ハーバード・ロースクールとスタンフォード・ロースクールに学んだ弁護士でした。兵役に就いたのは1943年です。
また、GHQ草案作成を実質的に指揮したケーディス大佐は、ハーバード・ロースクール出の弁護士であり、財務省に勤めていました。兵役に就いたのは第二次大戦が始まってからです。
つまり、ネトウヨが「今の憲法は、法律の素人であるGHQの軍人が9日間で急造した」などと言うのは、ガセにすぎません。

1881年といえば日本史では「明治14年の政変」が有名です。大隈重信とその一派が政府から追放されました。これは、大隈らの主張が「国会即時開設」、伊藤博文らが「開設はするが10年後に」で激しく対立したためと言われます。
ただし、それだけでは理解不足でしょう。両者の対立点は「イギリス型の議院内閣制か、ドイツ型の超然内閣か」にもありました。当時、1870年に普仏戦争でプロイセンがフランスを破り、71年にプロイセン中心のドイツ帝国が成立して、昇竜の勢いだったのです。伊藤らはこれに幻惑されてドイ...続きを読む

Q大隈重信の薩摩政治嫌い

大隈重信はなぜ、薩摩政治を嫌っていたのですか?

Aベストアンサー

単純に薩長の強権に反発していたという可能性があります。明治維新は徳川から薩長への政権交代で、薩長土肥と言われましたが、土佐・そして大隈の出身肥前は権力の中心にはいれませんでした。大隈が中心となった進歩党は、薩長以外の元藩士の集まりとなっています。
また大隈の進歩党は、政策として対外硬という日本中心主義で、外交は強硬に出て不平等条約を改正するという態度をとっていました。そのため薩英同盟をもともと結び、日英同盟を画策していた元薩摩藩士たちとは政策的にも相容れなかったようですね。

Qなぜ米国は第二次世界大戦に参戦する決意を

なぜ米国は第二次世界大戦に参戦する決意を強めたのですか?僕が習った範囲では、米国は大戦開始時は中立を宣言して、世論も参戦に否定的だったはずです。

後から参戦の決意を強めたのは、ルーズベルト大統領が自らナチス・ドイツを叩かねばならないと考えたからですか?それとも、英国に頼まれて助けないわけにはいかなくなったからですか?

Aベストアンサー

かつて高橋和夫氏の国際政治の講義を受けましたが

かつてのアメリカ合衆国が最も恐れていたのはアメリカを超越する経済力、工業力を有するスーパーパワー超国家の誕生で
それは過去2回ありました
それが第一次、第二次世界大戦のドイツです


ただ単に単独のドイツなら力が接近すれどもアメリカを超越する事はあり得ない
それは冷戦時代のソ連も同様ですが

もしドイツが武力や威嚇によりヨーロッパを統一するような事態になれば
アメリカを超越するスーパーパワーを有する超国家が出現する可能性が出てくる

これに対しては何らかの理由をこじつけても力でねじ伏せる必要がある


というような講義だったと思います(多少の記憶違いもあるでしょうが)


日本に関しては工業力も技術力もアメリカより格段も下であるが
現在の北朝鮮のように何をしでかすかわからない部分もある

日本の弱点である工作機械、屑鉄の輸出を停止し、石油の日本への輸入を抑制し締め上げれば良いと考えていたのでしょう
実際日本は高級な工作機械を生産する能力が全くなく、殆んどアメリカよりの輸入に頼っていました
また日本の鉄鋼生産も消費に追い付かず
インドの民族系財閥のタータ製鉄から輸入していたほどで
日本の鉄鋼生産の原料としてアメリカの屑鉄も重要でした(もっとも日本には高度な特殊鋼を生産する技術力もなかったのですが)


つまりアメリカは
ドイツに対しては戦う意思があったが
日本は経済制裁で根を上げると考えていたということです

実際、アメリカ軍の(対独戦に必要のない海軍艦艇兵器は別として)新兵器や戦力の3分の2を対独戦に投入
対独本土爆撃に投入した航空機は対日本土爆撃の十数倍もあったのです

かつて高橋和夫氏の国際政治の講義を受けましたが

かつてのアメリカ合衆国が最も恐れていたのはアメリカを超越する経済力、工業力を有するスーパーパワー超国家の誕生で
それは過去2回ありました
それが第一次、第二次世界大戦のドイツです


ただ単に単独のドイツなら力が接近すれどもアメリカを超越する事はあり得ない
それは冷戦時代のソ連も同様ですが

もしドイツが武力や威嚇によりヨーロッパを統一するような事態になれば
アメリカを超越するスーパーパワーを有する超国家が出現する可能性が出...続きを読む

Qルーズベルトが参戦を決意しなければ、日本は大戦に勝ったと思いますか?

第二次世界大戦の勃発前、アメリカのフランクリン・ルーズベルトは戦争に参加しないという公約を掲げて大統領に当選しました。
当時のアメリカはモンロー主義もあり、国民も戦争参加は止めるべきという雰囲気だったようですし、旧大陸で何が起きようがアメリカには自活できるくらいの力もありました。

第二次世界大戦で日本が真珠湾を攻撃したのは参戦を目論んだルーズベルトが日本がアメリカを攻撃せざるを得ないところまで追い込んだからということを示す資料もありますし、アメリカも国家の総力を挙げて日独を潰しにかかったのは事実です。

ルーズベルトが所期の公約どおり第二次世界大戦において中立を貫いたなら、日本(とドイツ)は戦争に勝っていたでしょうか。

Aベストアンサー

アメリカと日本が戦わなかったら日本はそれ以外の戦争に勝っているかという質問ですが、勝っています。というか、これ、ifではなくて実際に勝っています。

日本は敗戦国ですが、負けたのはアメリカだけでそれ以外は勝っています。
対中華民国戦では、連戦連勝で蒋介石は逃げ回っていただけです。
対オランダ戦は、日本軍に瞬殺されます。
対イギリス戦は、シンガポールまでは日本軍は楽勝。

これは、ifでは無く史実です。

史実ではインドに行くと敗北しますが、if設定では、日米戦争が無いためそのまま進撃できるので、昭和17年初頭ならば楽勝です。


因みに、イギリス人やオランダ人は反日的な理由は、過去の歴史で日本に叩きのめされた経験があるからです。そして、それを知らない大半の日本人は話が一切かみ合わず、余計に彼らを腹立たせます。

日本としては、石油が確保できればそれ以上戦争をする必要も無いので、最低でもインドネシアあたりでイギリスとオランダと講和できれば、何も問題なくなります。




フィリピンの兵站の問題がありますが、アメリカに宣戦布告などしないで素通りすれば良いだけです。フィリピンにいるマッカーサーは怒るでしょうが、ルーズベルトから戦争を仕掛ける気が無い設定ですし、戦争にはなりません。フィリピンは素通りさえできればよいだけなので、戦線に影響もありません。

ルーズベルトから戦争を仕掛ける設定ではないと言う事は、アメリカがひそかに中華民国に兵士や戦闘機を送っていた事や(アメリカが先に日本に仕掛けたと言う根拠の一つ)、在米日本人の資産停止や日本人病原菌隔離演説(発言での攻撃も先に仕掛けた事になる。当時の価値観では、外交ルートでその発言を撤回しないなら実力(戦争)で撤回させても侵略にはならない。)などのルーズベルトが行った、日本に対する攻撃も無いかもしれません。

そうなると、日米関係は意外と良好かもしれません。実は、開戦直前までは、日米関係は表向きはそこまで悪くなかったのです。ベーブルースが日本に来た当時も、鬼畜米国人と嫌われる事は無く大変歓迎され、まさかその数ヵ月後に日米で戦争になるとは多くの日本人は思っていませんでした。



そもそもの話ですが、ルーズベルトが日本と戦争をしない方針なら、アメリカの日本に対する石油の禁輸もないかもしれません。そうなると、日本はイギリスやオランダとの戦争すらなかったかもしれません。

中華民国との戦いは、そもそも中華民国がテロ活動を一向にやめず、通州事件などの日本人虐殺事件が発端になっていますが、その治安回復を蒋介石が放置していたため、日本が自己回復のために兵士を送った事変です。これは、日米関係が良好でも蒋介石がちゃんと犯罪者を取り締まらない限り不可避でしょうが、史実でも後一歩まで蒋介石を追い詰めていたので、このif設定では、時間の問題だったでしょう。

アメリカと日本が戦わなかったら日本はそれ以外の戦争に勝っているかという質問ですが、勝っています。というか、これ、ifではなくて実際に勝っています。

日本は敗戦国ですが、負けたのはアメリカだけでそれ以外は勝っています。
対中華民国戦では、連戦連勝で蒋介石は逃げ回っていただけです。
対オランダ戦は、日本軍に瞬殺されます。
対イギリス戦は、シンガポールまでは日本軍は楽勝。

これは、ifでは無く史実です。

史実ではインドに行くと敗北しますが、if設定では、日米戦争が無いためそのまま進撃でき...続きを読む

Q源頼朝の流人生活はどのようなものだった?

源頼朝の流人生活はどのようなものだったのか詳しく教えてください

頼朝はそのころに政権の構想や平家打倒の計画をじっくり練っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは

頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は同行せず、後に頼朝に対面していること(『吾妻鑑』など)によっても裏付けられます。池禅尼に加えて、現在、頼朝の生母の実家である熱田大宮司家の一族の子女が、後白河院と上西門院の近臣や女房として仕えていたことの影響(上横手雅敬・元木泰雄)との説があります。さらに、源頼政が伊豆の知行国主であることの影響から、配流地が伊豆に決定したのでは(五味文彦)と言われています。
*上西門院=統子内親王。鳥羽天皇と待賢門院との間の皇女で、後白河天皇准母。なお、頼朝の生母の由良御前(熱田大宮司藤原季範のむすめ)は、上西門院の女房であったとの説あり。また、姉妹には上西門院と待賢門院の女房がいた(『尊卑文脈』)とされています。
次に、伊豆までの道中ですが、長田資経が一族の長田資家を従者として付けてくれたことが知られています。この長田資経ですが、因幡国高庭郡の郡司であったようですが、頼朝との関係は分かっていません。平氏の家人で、平治の乱に参加し、捕虜になった頼朝を見て、憐憫の情を催したようですが、少年期(数え13歳)の頼朝は、人を引き付ける魅力があったということなのかもしれません。
さらに、熱田大宮司家では、由良御前の弟の祐範が、従者を1名付けたことが知られています。ただ、熱田大宮司家では、祖父の熱田大宮司藤原季範・母の由良御前は平治の乱当時には死去しており、また、季範の長子であったと思われる範忠は、頼朝の同母弟*希義を駿河で捕らえ、平氏に引き渡しています。季範と範忠の関係は悪く、季範は熱田大宮司の職を五男とされる範雅に譲っています(後に範忠が就任)。同じ大宮司家でも、範忠と由良御前・祐範・範雅は母を異にしているようで、それが行動の差になって表れているように思われます。特に由良御前と祐範は、祐範の行動などから、同母の兄弟であると考えられます。
*希義=土佐国へ流刑になり、後に挙兵しますが敗死します。

流刑地である伊豆に着いた頼朝ですが、頼朝には生活を支える領地はなかったとされます。これに関して、Wikiの関連記事である「関東御領」の記述の、「(*関東御領の)起源は、鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領である。これに平氏滅亡の際、平氏一門が持っていた荘園(平家没官領)を組み入れて継承した。」の部分は、紛らわしい表現で、「鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領」は、平治の乱後、平氏により没官されており、頼朝が流人時代には存在せず、平家の所領に組み込まれ、後に平家没官領の形で回収され(石井進・『国史大辞典』)、流人時代の頼朝には所領が無かったことになります。
流人時代の頼朝を支えたのは、まず、熱田大宮司家の祐範です。祐範は月に一度使者を頼朝のもとに派遣したとされています。当時は子の面倒は、母方がみる例が多いので、使者を遣わしただけではなく、なにくれの生活の面倒もみたのではないでしょうか。

次は、乳母のグループです。頼朝の乳母としては、摩々尼、山内尼・寒川尼・比企尼の四人が知られています。これもWikiは山内尼=摩々尼説ですが、摩々局が母、摩々尼が娘で、土肥氏の一族の女性であり、山内尼は山内首藤俊通の妻で、俊綱の母の女性で、山内尼と摩々尼は別人説が主流となっています。
さて、この乳母の中で頼朝の流人時代の生活の面倒をみたとされているのは、比企尼で、彼女は夫の比企掃部允と共に武蔵国の比企郡に下り、その後頼朝の挙兵までの*20年間面倒をみたとされています。
さらに、比企尼の長女の婿の安達盛長は、流人時代の頼朝の従者として側近に仕えたとされます。
また、どの乳母なのかは不明ですが、頼朝の乳母の妹の子である三善康信(*後の問注所執事)は、月に三度京都の情報を頼朝に送り届けたとされます。康信の情報が、頼朝の挙兵に影響を与えたともされています。
*20年間面倒をみた=能員姨母、号比企尼、当初為武衛乳母、而永暦元年御遠行于豆州之時、在忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途(『吾妻鑑』寿永元年10月17日の条)

次に、家人と分類されるべきグループが存在します。
第一に上げられるのが、佐々木四兄弟です。近江源氏(宇多源氏)で、近江に所領を持っていた佐々木秀義は平治の乱で敗軍となり、所領を失います。その後、関東を通って、奥州に落ち延びる途中、相模の渋谷氏に引き留められ、そのまま居つくようになります。その子息の定綱・経高・盛綱・高綱は、流罪中の頼朝の家人として仕えたとされています。ただ、常時頼朝に近侍したわけでもないようです。
それ以外にも、伊豆や相模の武士が頼朝の下を訪れていたとの話もありますが、軍記物語などの話が多く、確実な資料とは言えない部分があります。
頼朝の日常生活ですが、法華経への信仰が知られています。父母や源氏一門の菩提を弔う毎日で、読経・暗誦・写経などをしていたようです。さらに、箱根権現・伊豆山(走湯)権現を信仰していたとされます。
それ以外には、弓が挙げられると思います。石橋山の戦いでは強弓により敵を射殺していますし、鎌倉に落ち着いたのちには、弓の故実を知る武士に故実を問うなどしています。当時の武士の表芸である弓と馬(弓馬の道)は、当然ですが鍛錬していたものと思われますし、狩などもしていたようです(物語作品にある話として)。
さて、伊豆国の知行国主は源頼政であることは前記しましたが、伊豆国の国守も頼政の嫡子の仲綱(その後は頼政次男頼兼など、知行国主として当然ですが頼政の影響下の人物が任命されています)であり、以仁王の挙兵の失敗で、この親子が敗死するまで、比較的自由な行動が許されていたとの見方もされています。流罪初期には伊豆国府に近い場所(一般に蛭が小島と言われています)にいたようですが、伊豆山権現や伊東氏の領内など、伊豆の国中を移動できたようです。しかし、知行国主が頼政から平時忠(*清盛の妻時子の弟。公家平氏)に変わり、流人生活は激変し、挙兵へ進むことになります。

頼朝の流人時代の生活については、史料が少なく、『吾妻鑑』の記録、それも当時のものではなく、頼朝が関東制圧後に、流人当時の関係者やその縁者についての記述に、断片的に記録されたものがほとんどです。それ以外は、『曽我物語』などの文学作品に出ているなどになります。上記は、『吾妻鑑』の記述にある事柄をもとにしましたが、一部は軍記物語なども参考としています。ともかく、わからないことが多いので、参考程度に。

こんにちは

頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は...続きを読む

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