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絵画や彫刻を、されているか好きな方は写真は芸術的には絵画や彫刻より劣っていると思われますか?

A 回答 (11件中1~10件)

質問者様、たびたびすみません。


質問者様の意図された以上に本題のスケールがあまりに大きすぎて、私の中でちょっと収拾がつかなくなっております。
申し訳ありません。
もう少しだけ、この場をお借りしてもよろしいでしょうか。

>ちなみに、この秋の展覧会で私の作品も末席に・・。
質問者様ご自身もとても楽しみにしていらっしゃることと拝察致します。とても素晴らしいです♪
でも・・・何故「日展」では「写真の部」が無いのでしょうか。
とても不思議なことだと私は思うのですが。

>一般に目に付く所ではCM写真などでは普通に使われていますから良く目にされているでしょう。
え~、そうだったのですか。
いわゆる「合成写真」ではなくて・・・ですか?
私は現代絵画や彫刻が好きなのでより「抽象的な作品」に心惹かれます。 
それらの作品を楽しむには恵比寿の美術館以外にどこかお奨めスポットはありますでしょうか。
よろしければ是非ご教授いただきたいと思います。

Kadowaki様、こんばんは。
>ヴァレリーという批評家は、芸術家と自作品との関係について、
>ある時はハクチョウの子を産んだアヒル、ある時はアヒルの子を産んだハクチョウと語っております。

これは本当に「言い得て妙」な名言だと思います。
本人も含めての辛辣な批評ですね。
ですがこのような批評を有難く受け止める度量が自称芸術家であれば欲しいところだと思います。

ちなみに生前はたった一枚の絵しか売ることの出来なかったゴッホ。
彼はどのような情熱や芸術感を持って一人黙々とキャンバスに向かっていたのでしょうか。
全く知る由もありませんが、彼の生前とま逆な没後の「評価のギャップ」はどこから生じたのでしょうか。
彼の「芸術性」は「誰」が認め美術史において燦然と輝くようになったのでしょうね。
「批評家たち」でしょうか、「画商」でしょうか、それとも、、、。

>なお、私は「受け手の受け取り方は自由」などと思ったことは一度もないですね。
なるほど、やはり。
皆さん、そうおっしゃいますね。 そう考えるのが普通だと思います。

「受けての取り方は自由」という私のフレーズはこちらでは本当に「ウケ」が悪いです(笑)。
仮に新聞などより広範なマス・メディアで伝播する可能性がある場合は、より「誤解のあえて少ない書き方の義務」を求められると考えます。
ですがここでのやりとりではごく一部の方々同士の「サシでの対話」と考えています。ですから文章に主観を交え「遊んで」いるのです。

私の「受けての取り方の自由」とは先のご回答の「制作者と享受者の間の芸術的モチーフの差異」にも通じるかもしれませんが、「発言の意図や製作者の意図、主張」は「他人には所詮100%正しく理解しあえない」という私の生来のペシミズムから来ています。
フランスで過ごした多感な少女期も影響しているかもしれません。

例えばThe Beatlesの音楽は「少年」には理解しえても「少女」には100%理解しがたいニュアンスが必ずあると今でも思います。
またセザンヌの「静物画」もどんなに注釈本を読み漁って本物の絵画を目の当たりにしてもセザンヌ本人の意図は理解し得ないはずだと思っておりました。
ですがある日、エクス郊外のセザンヌのアトリエに出かけて「やっと」セザンヌの「目線」といいますか、キャンバスに向かって作品を仕上げる心境がわかる感覚に襲われて、以前とかなり違う「独りよがりな視野が開けた」のです。

結局はセザンヌの作品にぶつけた情熱や意図の数パーセントも正確に私には理解しえないのですが、「私の受け手としての心境の変化」はセザンヌにお構いなしに「自由」である、と思ったのです。
我ながら変な考えですよね(笑)。
(もちろん製作者や発言者の意図を「正確に忠実に汲み取ろうとする努力や訓練」は必要ですし、情報の発信者もできるだけ真摯に伝えるべきだと思いますが)

>美も性も奥が深いだけに、なかなか私の手には負えません。
まぁ、難しい本を読んで週末夜更かしされたのではないでしょうか(笑)。
私はおかげさまで後者は「私の手に負える」ようになりました♪
たった一つの「見えざる影」、しかも「無実無根」なのにもかかわらず立場変われば自分がこんなにも激しく追い求められ、「行為」それ自体が「劇的に変化を遂げる」とは思いもよらず、当初の期待に比べてかなり嬉しい「誤算」です。
「誤算」とは、まぁ、、、「専門家のkadowaki様」のご想像にお任せいたしますが♪

>自分の価値観だと言い張ったところで、実はこれまでの生半可な聞きかじり、世俗の流行、商業主義等々にマインド・コントロールされているだけでは?
確かに。
それでは世俗的な情報の影響下にある「自己の価値観」と「それすら持たない横並び的価値観」とはたして差があるのでしょうか。

>遠い昔から、芸術の価値基準をはじめ、日本で権威として通用するためには、とにかく舶来のものであることが絶対条件でしたし、現代日本人もこういう目に見えない束縛から解放されているとはとても信じがたいところです。
これもおっしゃるとおりだと思います。
「舶来物」もそうですし、「舶来の眼」を通してしか「自国の誇れる芸術作品」を評価出来ない現実は何とも情けないと思います。
クリスティーズオークションに出品されていた、運慶作と推定される『大日如来像』もしかり。
国をあげて放出を阻止すべきであったのに、評価額でかなり見積もりが下回っていましたね。
この辺が極めて日本という国を「主婦で芸術に無知で最も甘ちゃんな存在の私」でさえ「甘い」と卑下せざるを得ないところなのです。
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この回答へのお礼

「いわゆる「合成写真」ではなくて・・・ですか?」
しっかり理解出来ませんが、実在する物どうしの「くっつけ」の合成でなく、全くの架空の画像と言う事でしょうか?抽象的な!
そうですねCM写真だと現実の物同士あるいは現実と架空の物との融合と言う形の物が多いですね。
個人の作品などでしたら、全くの架空の物で抽象的な物もあります、こうなると写真とデザインの境界はなくなります。

矢張り権威ある官展の「日展」は写真を芸術と認めなかったのでは、
その体質を嫌がり退き新たに立ち上げた二科は写真を望んだのでは!

残念ながら田舎物で江戸のお勧めスポットはわかりません、国立新美術館も私は昨年は選外でしたので、この秋に始めて拝みまする。

お礼日時:2008/06/30 23:06

再々回答、失礼いたします。



思うに、質問者さんの根本的疑問を解決するためには、二つのアポリアをクリアする必要がありそうですね。
一つは、芸術的価値の優劣の判断基準という問題、もう一つは、制作者と享受者の間の芸術的モチーフの差異という問題です。

たとえば、「朝鮮日用雑器の茶碗が日本人の茶人により一級の芸術品に変わったりします」とおっしゃいますが、大きく「変わった」のは享受者側の受け止め方だけですよね。
ちょうど、日本で古紙同然の扱いを受けた浮世絵がヨーロッパに渡って、新進の画家たちを興奮させたように。

で、「表現が芸術の域まで昇華された」における、「芸術の域」と言ったところで、結局は昔ながらの《神域》や《神業》といった比喩以上に客観的な言い方なんてありえませんから、質問者さんご自身が現在のご自分の達成度にどれほど不満を持ち、それを乗り越えんとする気概をお持ちになるか、ということ以外は問題になりようがないと思います。

ご存じかもしれませんが、ヴァレリーという批評家は、芸術家と自作品との関係について、ある時はハクチョウの子を産んだアヒル、ある時はアヒルの子を産んだハクチョウと語っております。
けだし、名言だと思いませんか?

マシュマロ2さん、こんにちは。

>そのどちらも私の心を掴んで離さないのですよ。
>不思議です。 何故でしょうね。

ハハハッ、良い意味で欲張りでいらっしゃるからとしか、私には説明のしようのないところです。
でも、マシュマロ2さんは、本当に才気煥発で魅力的な女性でいらっしゃいますね。

なお、私は「受け手の受け取り方は自由」などと思ったことは一度もないですね。
どんなに自分の価値観だと言い張ったところで、実はこれまでの生半可な聞きかじり、世俗の流行、商業主義等々にマインド・コントロールされているだけでは?と私自身を観るかぎり、そう感じないわけにはいられませんから。
美も性も奥が深いだけに、なかなか私の手には負えません。

ところで、明治以降の日本の美術・芸術に関する定見のなさ、権威主義等については、おっしゃる通りだと思います。
一方、遠い昔から、芸術の価値基準をはじめ、日本で権威として通用するためには、とにかく舶来のものであることが絶対条件でしたし、現代日本人もこういう目に見えない束縛から解放されているとはとても信じがたいところです。
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この回答へのお礼

仰られる通りです。
 写真以外の表現をされている方達は写真をどう見てるかと簡単に
  聞こうとしましたが、
   難しい事になって来ましたね。
再度の回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/30 18:19

uu11212891様、再度のお礼をありがとうございます。

 そして、

>作者が何を使われようが、どの様な表現方法を用いようが表現が芸術の域まで昇華された物は芸術と解釈しています。
私もこれに深く同意します。 また、

>近年カメラのデジタル化にPCの高性能化に伴い写真の世界も画像加工ソフトにより架空のものも簡単に作れる様になりました
これも大変面白いと思います。 是非見てみたいです。

>「ある美術団体の会員が絵画目当ての鑑賞者を写真の前でも足を止めさせたい」の様な意味の発言を聞き、絵画や彫刻など写真以外に携わっている方達は・・
これにつきましては、
「写真の技術立国たる日本こそ、写真の芸術性を広く海外にアピールする絶好のポジションに『今』位置している。」 
ゆえに
「絵画目当ての鑑賞者のみならずより幅広い目線で戦略的に「芸術性」を展開していくべきである」
と私は考えますし、今後の発展に期待せずにはいられません。

明治期以降に西洋美術が導入されて以来、「美術の世界(絵画、彫刻など)」に関して言えば、広く一般市民の裾野の開拓どころか非常に閉鎖的な世界であると思います。 
「教科書で啓蒙させられた」美術館級の超一級品には長蛇の列で見学する「教養」を持ちたいという意欲はあるものの、新進気鋭の作品や未評価に過ぎない芸術作品・分野に関しては日本は「極めて懐が小さい」のが現状です。
海外の面たる国はテート、グッゲンハイム、MOMA、ポンピドー等需要と供給のバランスを上手く構築していますが、例えば日本の「国立新美術館」の場合、「ジブリ」とは何たることでしょう!
ま、私がその手のアニメにあまり興味がない偏見のせいだと思いますが(笑)。

ですから私は現代日本において絵画・彫刻以上に「写真」にこそ「芸術性」において「未知なる可能性」を秘めていると願わずにはいられません。 

>朝鮮日用雑器の茶碗が日本人の茶人により一級の芸術品に変わったりしますから。
以前麻布中の国語の入試問題で 『利休と遠州』(薄田泣菫)が抜粋出題されたことがあり、つい読みこんでしまったことがあります。
大変面白かったです。 たかだか小学生の子供達に読ませて意図が掴めるか疑問の余地はありますが(笑)、こういった「遊び心」を持つ教師のいる学校は希少かつ「懐が深い」と思いました。
話がそれてすみません。

横レス失礼、kadowaki様、
不躾ながらご丁寧なご回答をありがとうございました。
>私の大好きなモネだって、外界は光の乱舞か洪水にしか見えなかったでしょうし、キュービスムに対しても「酔狂な連中だな!」と呆れていたと思いますよ。
仰るとおり、「酔狂な連中だな!」の一言なのでしょう>キュービズム
私の大好きな「ラス・メニーナス」がどのようにピカソによって秀作し変質したかを見るにつけ「酔狂以上にクレイジーだな!」と思います。
ですが、そのどちらも私の心を掴んで離さないのですよ。
不思議です。 何故でしょうね。

きっとそれはkadowaki様が明るい日差しの下オランジュリーで大展望なさった絵画を目の当たりにした「感動」と同じかもしれません。
それとも「受け手の受け取り方は自由」ですから全く別の「感動」かもしれません。
美術を愛する「感動」「芸術性」とは一体何でしょうね。
一部の専門家の高い評価が得られた作品だから「素晴らしい感動を与える」のでしょうか。 私には良くわかりません。

ちなみにこのような私の「ハッタリ文章」を「遊び心」を持って快くお付き合い下さったことはこちらこそ光栄の極みであり、また「恩人の一人」として感謝の気持ちをいつまでも持ち続けたいと思います。 
ありがとうございました^^
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この回答へのお礼

「架空のものも簡単に作れる様になりました。
これも大変面白いと思います。 是非見てみたいです。」
 一般に目に付く所ではCM写真などでは普通に使われていますから
 良く目にされているでしょう。

「例えば日本の「国立新美術館」の場合、「ジブリ」とは」
 ちなみに、この秋の展覧会で私の作品も末席に・・。

再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/30 17:53

No.jです。


気に掛かる処がありましたので、改めて意見を述べさせて貰いたく存じます。
どうも、複数製作されるものや、作者の意志が込められていないものは、何となく、いえ明らかに蔑視されているようなので。
実は江戸時代にもその考え方はあり、一品物である肉筆画は高く評価され、印刷物である浮世絵は低く見做されていました。その為、浮世絵は殆ど保存されず、建具の下張りや焚き付け等に使われてしまいました。また混紡用のクッションにもされ、その一部が西洋に渡ったのです。そして起こったのがジャポニズモですね。
また、デゥシャンの「泉」はどう考えれば良いのでしょうか。
芸術作品にはこう云った「作者の手を離れたら鑑賞者に委ねられる」性質が有ります。文学でも演劇でも同様です。
作者が「こう考えて頑張ったんです」と云って通用するのは、例の「仮装大賞」程度です。
また、写真はカメラが撮る、とお考えではないでしょうか。写真は写真家がカメラで撮るものなのですよ。
またいくらソフトが発達しても、仕上がりは自分でイメージするものなのです。
いずれにせよ、道具が違うだけですし、作者は皆手を抜いている訳ではないことは、御承知起きく下さい。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
「複数製作されるものや、作者の意志が込められていないものは、何となく、いえ明らかに蔑視されているようなので」
複数製作品と意志が込められていない物、これは別々の問題と思います、複数製作品と単品との違いは芸術度の差ではなく単に希少が故の価値の違いでしょう。
作者の意志が込められていないものは、の方は非常に曖昧なもので製作者の心は他者には、わかりませんから発表形態や販売形態で変わって来ますが、朝鮮日用雑器の茶碗が日本人の茶人により一級の芸術品に変わったりしますから。
「写真はカメラが撮る、とお考えではないでしょうか」
こちらは他の方の回答へのお礼にも書きました様に、作者が何を使われようが、どの様な表現方法を用いようが表現が芸術の域まで昇華された物は芸術と解釈しています。

お礼日時:2008/06/29 02:26

ANo.4です。



次の一文を拝読して、はじめて質問者さんの興味・関心の在処がはっきりと見えてきました。

>近年カメラのデジタル化にPCの高性能化に伴い写真の世界も画像加工ソフトにより架空のものも簡単に作れる様になりました、これで写真が被写体に寄り掛かった芸術から離れられた、または、その様な架空の物と合成された物は、もはや写真ではない商業デザインだ、と言う意見にわかれます。

申し上げるまでもなく、絵画にせよ、写真にせよ、人間が道具(手段)を用いて外界に働きかける(加工する)という最も基本的な生活行為であることでは何ら変わりないわけです。
そうした生活行為の種類も多岐にわたりますが、その中で芸術制作だけがそれ自体を目的としており、他の実利的、実用的な目的達成の手段ではないと言えるはずです。
たとえば、どんなに腕の良い職人が作った、一見芸術的に見える作品も、それがお客に高く評価されることを当て込んで作られているとすれば、それを芸術作品とは呼べませんよね。
逆に、どんなに稚拙な作品でも、それが作者の内的必然性から生み出されたのであれば、立派な芸術作品であることは否定しようがないはずです。

マシュマロ2さん、こんばんは。

本当に「異なところで」お会いできて光栄に存じます。

>全ての画家がキュービズムに至らないのは何故でしょう。
>単なる表現のアプローチの違いだけでしょうか。

やはり、他の画家は先駆者のセザンヌや大御所のピカソほどには、人間の目が立体的にしかモノを見られないということに興味・関心がなかったのではないでしょうか。
私の大好きなモネだって、外界は光の乱舞か洪水にしか見えなかったでしょうし、キュービスムに対しても「酔狂な連中だな!」と呆れていたと思いますよ。
でなければ、あのオランジュリーの大壁画に没頭なんかできなかったはずです。

でも、マシュマロ2さんって博学な才媛でいらっしゃいますね。
それでいて、ちゃんとエスプリも備えていらっしゃるのですから。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
商業デザインと頭に商業と付けてしまった為に誤解を与えてしまいました、これは深い意味は無く商業と付けてしまった事ですからデザインと解釈して下さい。
ストレート写真と加工写真の違い」の問題も興味はありますが、残念ながら今回の推察は外れまして「絵画や彫刻を、されているか好きな方は写真は芸術的には絵画や彫刻より劣っていると思われますか?」
が疑問、興味での質問です。
勿論、どちらが上や下ではなく職人と芸術家の違いも理解している積もりです。

お礼日時:2008/06/29 01:52

No.3です。

お礼方々再投稿致します。

これはなかなか面白いテーマだと思います。
質問者様の問いかけに心より感謝申し上げます。

私が昨夜書き忘れた点についてです。
仮に「絵画」「彫刻」にあって「写真」に「足りない、あるいは限界」があるとするならば。
作品の「題材」の「幅」だと思うのです。

「絵画」「彫刻」の題材はフィクションの世界、人間の無限のイマジネーションの可能性を大いに秘めていると言えます。
ですが写真場合、題材は自ずと「自然界」や「現実世界に存在する」ものに限定されてしまいます。
そこに「芸術的優劣を見出す」人がいてもおかしくないかもしれないと私は思いました。

写真においてもフィクションの世界を映し出すということは技術的には可能でしょうか。
仮にあるとするならば「大変に面白い試み」だと思うのですがいかがでしょう。

ちなみに横レスNo.4様(これは異なところで、笑)に伺いたいのですが、
「画家がより写実的に描こうとすればするほど、より立体的、彫刻的なピカソのような絵画にならざるをえないでしょうね。」

この点につきまして全ての画家がキュービズムに至らないのは何故でしょう。
単なる表現のアプローチの違いだけでしょうか。
お考えを伺えたらとても嬉しいです。 
よろしくお願いいたします。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
仰られている通りフィルムでの撮影では現実に在る物を工夫を凝らして撮影すると言う形ですから被写体個々の存在感の大小が大きく作品に影響していましたが近年カメラのデジタル化にPCの高性能化に伴い写真の世界も画像加工ソフトにより架空のものも簡単に作れる様になりました、これで写真が被写体に寄り掛かった芸術から離れられた、または、その様な架空の物と合成された物は、もはや写真ではない商業デザインだ、と言う意見にわかれます。

お礼日時:2008/06/28 12:59

私は両方やっていますので、その様な優劣について考えたことはありません。


以上、私の個人的な意見です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/28 12:37

質問者さんが「芸術的には」とおっしゃる意味が判然としませんので、以下の回答も、もしかしてご質問の意図には呼応しないかもしれません。



ちょうど、演劇と映画とを比較して、その芸術的な優劣を判断することが無意味であるように、写真家が光学的なメカニズムを介して一瞬の世界を捉えた写真と、画家が外界(モデルを含む)を観察し、それを絵筆で色や線に再構成して作り上げた「絵画」とを比較することには無理があると思います。

また、人間の目は対象を観察するとき、無意識のうちに、それを立体的に眺めないではいられませんから、すなわち、たとえ視点が固定されていても、無意識裡に対象の裏面や横面に関する記憶や想像力等に影響されながら観察してしまいますから、画家がより写実的に描こうとすればするほど、より立体的、彫刻的なピカソのような絵画にならざるをえないでしょうね。

一方ん、カメラのレンズはそんなことを考えもしませんから、シャッターを切った瞬間の光の反射に反応するだけです。
でも、ファインダーを覗いて、その構図を決めるのも、光の量を決めるのも、シャッターを切るのも、写真家の判断である以上、そこには否応なく人間的な思惑が投影せざるをえませんから、できあがった写真は、良くも悪くも芸術作品たらざるをえないわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
芸術的にの意味は個人により違う物ですから、その違う価値観で意見を伺おうとしています。
また同じジャンル内での優劣は単に作品の優劣ですから、あえての質問です。
もちろん道具が違うだけで、
あらゆる創作活動を昇華させれば芸術の域に達すると思います。

お礼日時:2008/06/28 12:34

こんにちは。



私も絵画や彫刻と写真、どれが「優れ」「劣る」とは甲乙つけられないと思います。

ですが強いて言えば、絵画や彫刻にはより強く製作者の「宗教観」や「人生観」などの「メッセージ性」が「より強く込められた」作品が多いと思います(特に古典的作品など)。

例えば美術館で注釈を読むのと読まないのとでは、鑑賞する際の解釈がまるで異なる場合があります。
その点写真の場合はそこまで複雑かつ難しい解釈の違いがあるとは私には到底思えません。

ですが写真には絵画や彫刻には無い別の魅力、ストレートに訴えかける魅力がとても大きいと思います。
これはこれでとても素晴らしく、私はいつも魅了されます。

あくまでもこれらは私の独りよがりな見方ですので、より多くの方のご意見を私も伺いたいと思います♪
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
mashumaro2さんの回答の主だった所と私は同意見です。
「ある美術団体の会員が絵画目当ての鑑賞者を写真の前でも足を止めさせたい」の様な意味の発言を聞き、絵画や彫刻など写真以外に携わっている方達は・・。
今回の質問をしました切っ掛けでした。

お礼日時:2008/06/27 23:48

写真はコピーできると思っているようですが、手焼きのプリント


は同じものは一つとしてありません。同じに見えて
厳密には違うものです。
印画紙に焼き付ける条件によって様々な色や陰影が出ます。
何枚も焼いた印画紙の中から良い色のオリジナルプリントを
展覧会などに出展しています。

一種の絵画ですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
はい モノクロプリントやカラーネガでの場合は焼きまでが表現なのは、わかっています。
リバーサルあるいはデジタルデータの場合は大量に同じ物がプリント出来ます。
質問にも在ります様に絵画や彫刻をやられている方や好きな方に対してのつもりで居ましたから、その部分はあえて省きました。

お礼日時:2008/06/26 00:49

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