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No.1
- 回答日時:
あくまで素人の感想なので、参考程度に読んでいただければ、
気が軽くなります。笑
★「しんしんと肺碧きまで海のたび」
その「海のたび」がどんな「海のたび」であったかと考えていくと、
句切れとしては、「しんしんと肺蒼きまで/海のたび」になるのでしょうか。
また季語らしい季語はありませんね。
もともと「季語」とは、字数の制限のため、移りゆく四季の情感を
濃縮された単語で代用しようと考えたものだと解釈すれば、
別に季語がなくても、ある情感が表現されていればそれでよいのだろうと思います。
たぶん季節は初夏か夏の盛りになるのでしょうか。
見渡す限り海、仰ぎ見ても一面の空の青さ。すべて青さのなかを航行していると、
人がもっとも生きていることを実感する肺までもゆっくりゆっくりと青さに染まっていきそうだ。
時間がゆるやかに過ぎて行きます。
それはたぶん「しんしん」と、旅をひらかなで「たび」と表現しているからだと思いますが、
特に「しんしん」が「肺」と「たび」の両方に被さってくるので、
なにか日常の「時間」を通り越して、透明感が増すと同時に
時間の止まった「永遠」への旅という印象すら感じます。
この句碑が日本の岬のどこかに建てられていたように記憶しているのですが
はたして何処だったか忘れてしまいました。
★「水枕ガバリと寒い海がある」
たぶん書き間違いだろうと推測するのですが、これは篠原鳳作ではなくて、西東三鬼の句ですね。
もし句切れがどうしても必要なら、わたしでしたら
「水枕ガバリと/寒い海がある」となってしまいます。
最近は水枕などあまり使わなくなりましたが、水枕を使って寝ていると
寝返りをしたときに中の水と氷がゴロゴロと音をたてたりします。その状態を作者は
「ガバリ」と表現しているわけですから、そのときの静かさが伝わってきそうです。
布団から起き上がったとき、たとえば窓辺の向こうに実際に寒い海があったととらえても
かまわないのでしょうが、と同時にその寒い海は作者の心風景でもあるのでしょう。
三鬼の句には季語のないものもありますし、この句も季語らしい季語はありません。
「寒い海」を冬の季語、季節ととらえても別にいいだろうと思いますが、
描かれている時は冬に限ったことではないでしょうね。
この句の最も特徴的なところは「ガバリ」という表現の部分であって、
こうした擬態語(これは上の句でも表現されていますね)を、
ましてカタカナで句の中に取り入れたこと、そしてそれがみごとに成功したことだろうと、
山本健吉さんは言っています。
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