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現代日本にあるとよいと思われる哲学(あるいは哲学者)を教えてください。

仕事上、現代日本に必要な精神のありようを探しています。
そのため、現代日本にあるとよいと思われる、
過去の歴史上に存在した「哲学」「思想」を知りたく、
ご意見・アイディアを求めています。

現代日本といってもいろいろイメージがあると思うのですが、
例えば・・・

・成長期から衰退期へと移行時期
・人口減少化
・希望の持てない時代に
・格差社会化

などです。

ジャスト・アイディアでも結構ですので、どうぞご回答をお願いいたします。

A 回答 (11件中1~10件)

パーリ語で遺された「ブッダの教え」でしょう。



生命であるなら必ず役に立つものと感じます。

論理的で道徳的で理性的な教えです。

なぜもっと注目されないのかちょっと疑問です、疑問に思うほどに穴が無くがっちり正しく語られているように感じるのです。

他の哲学や宗教と違って、押し付け・脅し・疑問質問を禁じる性質が一切無く、「自己の理性によって言語的に論理的に現実的に妥当か考え、納得したなら実践し事実かどうか調べてみてはどうだろう。その方法は~~だ。疑問質問があったら建設的なものなら何でもしなさい。」と言う立場ですからね。

なかなか「怠けず」に「精進する」人は少ないですから。
いつでも仏教(大元の仏教)は少数派ですねw

いつの時代でも最先端をいっている、いかに幸福に生きれるか、善く生きるとは何なのか、生きるとは何なのか、その具体的で理性的な分析と実践方法を語られています。

今まで日本で語られた大乗仏教とは趣が違い、徹底的に理性の塊です。
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哲学者というべきか、思想家というべきか、あるいは評論家というべきか、学者というべきか、判然としないところがあるのですが、現代の日本人にとって必須の哲学や思想を語った先哲の名前と主要な著作(洋書は日本語版タイトルのみ)を紹介しましょう。



エドマンド・バーク(著)/半澤孝麿(訳)『 フランス革命の省察 』(みすず書房)
Aハミルトン、Jジェイ、Jマディソン(共著)/斎藤 真、武則 忠見(共訳)
『ザ・フェデラリスト』(福村出版)
阿川尚之(著)『憲法で読むアメリカ史(上、下)』(PHP新書)
サミュエル・スマイルズ(著)/中村正直(訳)『西国立志編』(講談社学術文庫)
中川八洋(著)『 与謝野晶子に学ぶ 』(グラフ社)
アレクシス・ド・トクヴィル(著)/小山 勉(訳) 『 旧体制と大革命 』(ちくま学芸文庫)※

※この本は優れた日本語版とは言えないので、フランス語を読める人は原著を、読めない人は英訳版をお勧めします。
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 No.1&8です。

この際 出しゃばってみます。日本人は 《絶対》の概念をこなすようになれば その情感のゆたかな人柄と合わせて 鬼に金棒だと思います。

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 
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 No.1です。

日本の歴史に さらに即して 述べます。神話と入り組んでいますが その趣旨を採っていただければと思います。

 日本人の思想(生活態度)は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると思います。(紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近)。

 §1 シントウの原形またその確立
 ――《ネコ‐ヒコ》連関 あるいは《イリなる歴史知性》の誕生――

 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。ある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めたそうです。祟りという認識でしたから 祀れば 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシの記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。

 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子であり 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。これは 一人の人における身体(=ネコ)と精神(=ヒコ)とに当てはめられるでしょうし あるいは 市民政府として 市民一般(=ネコ)と市長および公務員(=ヒコ)とに やはり当てはめて捉えてもよいと思います。つまり 社会形態としても そのように確立し始めたと考えられます。
 つまり この《ネコ‐ヒコ》連関は 基本的に一人の人間において 《身体‐精神》の総合なる存在を表わし また かれ(かのじょ)が 社会的にも 《市民(わたくし)‐公民(おほやけ)》の両要素の連関から成る存在であると主張します。
 そしてそのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。
 崇神(いわゆる天皇としては 第十代ですが)ミマキイリヒコイニヱのミコトの名にある《イリ》であり《ヒコ》のことです。そういう歴史知性であり これは 人の自然本性(=《ネコ(S)‐ヒコ(A)》連関)にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。市民のほうは その代表として あたかも概念として 《オホタタネコ》(⇒スサノヲ)が当たります。

 §2 歴史知性の以前――《ヨリ》なる歴史知性=原始心性――
 
 《オホタタネコ‐ミマキイリヒコ》連関の社会の以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。アニミスムないしシャーマニスム(たとえば 卑弥呼を想え。つまり崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀のことである)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。

 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(――つまり 農耕のように 種蒔きから実のりまで時間の経過を人も共に生きるそのような時間的な・相対的な――)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活は そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに 営まれていくと言えます。(そこでは 潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。

 §3 《イリ》歴史知性からさらに《ヨセ》なる超歴史知性の出現

 イリなる歴史知性に基づきつつも まだ 昔のヨリ(憑依)なる原始的知性の状態にある人びとは 残っていました。これを導こうとして 自らの力のもとに かれらを《ヨセル(寄せる)》ということを行なう人間が出ました。
 すでにその原形が 卑弥呼(ヒメのミコトの ヒとミとコで 中国の史書に載ったか)のシャーマニスムでした。アニミスムの親分というような性格の心性です。しかも こんどは すでに 歴史知性に芽生えたあとの《ヨセル》です。これは すでに イリ歴史知性を その知性の能力にものを言わせて アマガケルところのスーパー歴史知性です。たぶん 観念の帝国を すでに いの一番に 思い描くのでしょう。
 神功皇后オキナガタラシヒメのときに この《ヨセ》の記事はあるのですが その後も かのじょの系譜に見られるという意味で この《ヨセ》なる超歴史知性を 広くアマテラス族と呼びます。《タラシ》でもいいはづです。アマテラスのほうが 一般性があります。正確には 崇神ミマキイリヒコも アマテラス族ですから やはり それとは区別するなら スーパーアマテラスと呼ぶといいでしょう。

 §4 《イリ歴史知性》を基礎として 《ヨリ原始心性》および《ヨセなる超歴史知性》とが 共存する

 アマテラス(天照らす)というのは その言葉どおりに もともとは ヒコ(日子)と同じであろうと考えます。人間の精神であり 理性の光であり 社会的な役割としての公民です。崇神イリヒコなるアマテラスの系譜には のちにタラシ系統(スーパーアマテラス)から出た雄略ワカタケによって 謀略に遭い殺されたイチノベノオシハのミコがいます。その双子のオホケ・ヲケは 命からがら逃げて あとで 身分を明かし名乗り出るといった歴史があります。そのあと 市長となったとき(顕宗ヲケ=弟そして仁賢オホケ=兄の順序でなったとき) 父の仇の雄略ワカタケの陵墓から ほんの少し土をけずって 復讐に代えたという逸話があります。
 つまりふつうのイリヒコ系アマテラスと ヨセ=タラシ系のスーパーアマテラスとのちがいを 見たいという主観(えこひいき)です。

 したがってというほどに 後者の《ヨセなる超歴史知性》は けっきょく そのヒコ=アマテラスなる指導者の地位を 専門化させ――それはそれは もともと秀才でもありましたが 人一倍も二倍も勉強し努力しました その結果―― 社会から単独分立し もともとの市民政府ではなく その上に社会的な第二階を築き そこを 自分たちの住み処としてしまいました。市民たちは 国譲りをして かれらに好きなようにさせたのでした。

 §5 では 何が問題か
 
 ですから ここから オホタタネコの父親とも言われる神(霊)なるオホモノヌシは けっきょく 第二階に住むスーパーアマテラス族のための神となったかも知れません。(あるいは 三輪山に 元のまま あがめれているとも思われます)。また もともと やはり 市民たちの宮であった伊勢神宮(その前身の外宮)も かれらのための制度となりました。(この伊勢神宮については むしろ崇神ミマキイリヒコの時代の制度発足として記事があったりしますが どうでしょう)。

 このいわゆる二階建ての国家の問題は 天武オホシアマ天皇の――六七二年の乱を経ての――改革によって 一定の収拾を見ました。市民が主役であるという考えをできるだけ採り入れようとしました。(八色の姓。万葉集の過半数は 無名の作者です)。国家という二階建ての形態は その後も残ったわけです。

 ちなみに すでに 崇神イリヒコのときに あたかも スーパー歴史知性による《ヨセ》としての統治ではないかと思わせる記事があります。やまとから日本の四方八方の各地に《四道将軍》を派遣して 王化の徳を及ぼそうとしたと書いてあります。つまり 服属させたわけです。
 やはりえこひいきして言えば これほど素晴らしい《イリなる歴史知性》を自覚した人びとが ほかの隣人に 伝えてやりたいと思って やったことでしょう。それほど奇異なことではないように思います。《宣教という愚かな手段》(パウロ)のことです。
 
 かくて 社会は 平屋建てではなくなり スサノヲ市民圏( Susanowoschaft )とそしてアマテラス公民圏( Amaterasutum )との二階建て形態が いくらかの期間――世界史においても――つづいております。

 《わたしは無宗教です》というように 現代の日本人は もう崇神ミマキイリヒコの社会を忘れているのだと思います。無宗教であっても イリ歴史知性のことを忘れなければ いいわけですが この社会は 神話としては スサノヲのイヅモの国でのスガの宮のことだと考えられます。これは のちに子孫のオホクニヌシの代になって アマテラス国から 服属の要求を受け かれは非戦論であったので 国譲りをしています。主戦論も非戦論も 人間の弱さから出ると考えたからです。
 アマテラス公民天国という事態は 伝統ではありません。わたしたちは 何が何でも自分たちが一番だというスーパー歴史知性に対して 好きなようにさせたのだと考えます。長すぎました。そばが延びてしまいました。そういう情況にあると考えます。

 §6 補遺

 その昔 そして 個体別に 一人ひとりが その後もそうしてきたように いわゆるスーパーアマテラス族の人間類型は ガリ勉かどうかは別としても それはそれは 努力の人でした。指導者を目指すのですから しかも同時に 謙虚です。少なくとも表向きは 謙虚のかたまりです。人間的になり ますます人間的になり もうこれ以上は 人間的になれないというほどの人間になったとき 周りを見渡すと だれも この謙虚と見識の深さに重きを置いていないと気づく。勝手にやっていることだというわけです。そして自分自身も この《徳》の高さは けっきょく 相対的なものであって みなが どんぐりの背比べであると覚ります。
 ここから ふつうの《イリ歴史知性》に立ち戻れば よかったのですが(そして そうした人びとも いたでしょうが) そうではなく 既存の秩序は守らねばならぬと考え 既得利益については失いたくないという方向へ走りました。
 一般のスサノヲ市民の中からは むしろ これら超歴史知性なるスーパーアマテラス類型へと靡いていく人びとが出ましたし(官民の癒着) これらの勢力が 現象としては 有力になっています。
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この回答へのお礼

知らないタームが多いので、理解が難しいですね。
教えていただいた内容が、なぜ現代日本に必要なのか、
自分なりに消化できたらいいなと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/07 14:24

「足るを知る」というと、なにやら偽善ぽくていかがわしいですが、


いたずらな消費に走らない。家でじっくり本でも読んでみろ、金をかけない満足がいっぱいあるぞ。グルメ嗜好にばかりならずに、肥満から自然に抜けてみろ。

とにかく、
○今あるものをそれ以上もとめない
ということが、自戒に意味もかねてもっとも必要なのではないだろうか?

それってつまり、人間的に「烏合の衆」から脱するということなんだよね。意識が「自分は自分」ってわりきって、わいわいなぁなぁの無駄なしがらみ時間から開放されればいいだけ。

それって文化に近づくことです。
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この回答へのお礼

日本のバブル期にはやった「清貧の思想」などが
今まさに必要とされているのかもしれないなと思っています。

「知足」という言葉は、わたしもこのトピックスを考える際に頭によぎっていました。

示唆に富むご回答をありがとうございました。

お礼日時:2008/07/07 14:23

職業的な哲学者ではありませんが養老孟司さんは最高の哲学者のひとりではないでしょうか。

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この回答へのお礼

養老孟司さんの著書は私も好きです。
彼のすごいところは、おっしゃるとおり、職業哲学者ではないところにあると思います。

日本人としての哲学者として、かれがどんなことを考えているのか、
もう一度本を読み直して、考えてみたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/07 14:22

今の日本人に必要な事は、日本人の常識は少数派というのを自覚


するという事かと。
日本語が母国語の国は日本だけですからね。文化も世界標準というにはほど遠いワケです。

たとえば「1から10まで言わないとわからないのか!」とか職場でいわれたりすると、わかるわけねーだろ、と思います。
私はテレパスではありません。
このような「しゃべらない美学」「あうんの呼吸」「言われなくとも察しろ」という「語らぬ事が美徳」という人種は、世界でもきわめて希だという事です。それに気づいていない日本人が多い。さらにこれが世界標準だと思っているのも日本人。


ついでに日本人は「めんどくさがり」な人種でもあります。国内の自動販売機のコイン投入口にタテが多いのは、せっかちな日本人用に作られたモノです。

なので、やたら新しい単語を作ります。そうすることで、喋る時間を短縮できるからです。

英語には「ハンバーガー」という言葉はありません。ハンバーグで、ハンバーガーといわゆるハンバーグの意味をかねます。
どちらをさすかは会話の流れで判断します。
日本人はそれがめんどくさいので単語を作ります。


これらがどういう事かというと「日本人はコミュニケーションが下手」といわれていますが、こんな文化を守っていたらいたら当然の事。
それが離婚率、治安の悪化、少子化になど、すべての面で飛び火しています。

つまり日本人が世界標準になるには「喋る美徳」を手に入れる事が必要不可欠。

という意見。
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この回答へのお礼

日本にいると、すべてが「常識」のように思われ、
それが世界標準ではないことを忘れがちです。
海外旅行から帰ってきたときによくそれを思います。
コミュニケーション能力はすべてを決定付けるほど大切なものですよね。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/07 14:20

主観的に発言するとすると、日本の教育を支配している


国語英語重視主義を排除することが一番大切だと思います。

結果論ですが、これまで、
国語教員・英語教員及び教育システムが達成しえたことは、
国民の国語能力+英語能力の全体的低下です。
(コスト面を考えただけで、身震いがします。)

経験に照らしていうと、このシステムの大前提として存在する---
A)「老齢者趣向の押し付け」や
(受験内容の主観性+研究内容の任意さが
これまで、若者たちに権威的に押し付けられてきたことを
皮肉っていっているだけです。)
B1)貴族・豪族の色恋沙汰を「ありがたいもの」とし
(伝説化さえ・・・笑止)
B2)英国の文学こそ一番大事なコンテンツとしてきた
「ねじれ」は、
「非合理主義」を生んできたとしかいえません。

わたくし個人の考えですが、改革手段としては、
合理主義・思考を通じた普遍性の獲得が提言されるべきでしょう。

現時点で、一番大事なこと=
議論できる「個」を陶冶していくことだと思います。

なかでも、
合理主義は、学力の基礎を形成する上で必要である
とわたしは考えます。

大きな流れとしては
日本における西洋哲学の再生を実現すること
まずは、
アリストテレス(論理)/プラトン(政治)/カント(自由と倫理)を
深く学んでいくことが課題です。
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この回答へのお礼

>合理主義・思考を通じた普遍性の獲得が提言されるべきでしょう。

おっしゃるとおりだと思います。むずかしいことで、これまでの歴史上、ずっと課題とされてきたことだと思いますが、こと日本人に関して、これは難しいけれども大切な要素だと思います。

>議論できる「個」を陶冶していくことだと思います。

このようなものが現在の日本に存在するのか・・・
私個人としてはないように思います。
だからこそ、大切なことなわけですね。

>日本における西洋哲学の再生を実現すること
>アリストテレス(論理)/プラトン(政治)/カント(自由と倫理)を
>深く学んでいくことが課題です。

3者3様、偉大な哲学者ですね。
哲学を考える上でもはずせない人たちばかりなので、
もう一度勉強しなおしてみたいと思います。
示唆に富むご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/07 14:18

>現代日本に必要な精神のありようを探しています。



いまいち、テーマの立て方がわかりませんが、
「精神のありよう」を「探す」とはどういうことですか?
テーゼとなる項目を判断として整理して列挙するという
意味ですか?

ま、それはそれとして、
現代日本を象徴的に言い表すキーワードは「衰退」でしょう。
だれもが将来の形に不安を持っている。かつての努力によって
築き上げられた繁栄はいまはなく国民は自信をうしなっている。
ここから這い上がらなければならないのにあいも変わらず役人
は国民のカネを食い物にして私腹を肥やすことばかり考えている。

この国は早晩滅びますよ。断言します。こんな役人が我が物顔で
カネをむしりとっている国がありますか?

遠からず日本は中国や韓国にひれ伏して経済援助を請う側に
回ります。私自身は、こんな国はどうなっても別にいいです。
ただ我々若者を利用しようとするとしたらまっぴらです。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおり、国家としての日本は衰退にあると思います。
私自身、愛国者、というわけではないので、「どうなっても別にいい」とは思うものの、おっしゃるとおり、利用されるのだけはいやだなと思います。
だからといって、利用する側にまわりたいわけでもありません。
そんなときに、ただ「国を捨てる」というのではなく、
個人としてどんな思想や哲学が私たちを救いえるのか、ということを
考えたいと思っているんです。

おっしゃっていること、すべて同感いたします。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/07 14:14

市場経済からあぶれたヒトの受け皿や社会保障について共に考える姿勢とか、そういうものを考える思想でしょうね。

日本人は喜びを共感すると共に、悲しみも共感する民族だと聞いたことがありますが、そうではない何か肯定的な世界観を認識する思想。市場経済はなくならないということ前提に、肯定的な世界観を考える教育とは何かーとか、社会構造とは何かーとか。
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