江戸時代に士・農・工・商・えた・ひにんなどの身分制度が出来ましたが、このえた・ひにんに該当する人たちは、どうやって決定されたのでしょうか?
中学校では「時の権力者が世の混乱を治めるために低い身分の人を作って不満のはけ口にした」などと習った気がします。しかし、この"低い身分"の人たちはどのようにして選ばれたのでしょうか?貧しい農民をこの身分に割り当てたのでしょうか?私の思いつきでは前科のある人やその家族などをこの身分にしたのではないかと思ったのですが、実際はどうなのでしょうか?

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穢多非人とは身分制度の身分のひとつらしいですね。


社会秩序を強化するためにつくられたようですが、江戸時代にいっそう徹底されたようです。

・士・農工商・穢多非人(しのうこうしょうえたひにん)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AB%E3%83%BB%E8%B …

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、身分制度についてですが、士・農・工・商ですが、次にくるのは「非人」「穢多(えた)」の順です。

で、ここで、あなたの質問に答えるとしたら、地方の成立は雑多な部分もありますので、話が長くなります。そこで、江戸および江戸時代についてのみお話をいたします。

確かに、士農工商の序列ではありましたが、実際としては、士・工・商・農、という序列が正しいと思います。

年貢(税金、または、武士の給与)確保のため、武士の次に農民が位置しましたが、士農工商で一番苦労したのは、農民でした。

まず、「非人」について:

元々は「人非人」あるいは「僧侶」の意味でした。つまり、人間界を捨てた「世捨て人」のことを指しました。やがて、賎民(せんみん=貧しい人)を指すようになり、中性では「穢多」と混称されるようになってきました。しかし、江戸時代に入ると両者は「厳密」に区別され、「非人」は良民(平民)のなり下がりとして位置づけられ、良民への復帰の道が開かれていました。
「穢多」と違っているところは、「皮細工等の生産に従わず」卑属な遊芸や物貰いの独占権を持ち、「穢多」よりも上位に位置していました。

「非人」にも2種類あり、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」とに分かれていました。

「野非人」は今日で言われる「路上生活者」。つまり、ホームレスで、主に、農村部で飢饉や病気などにより年貢が納められなくなった者が「人別帳」を離れて江戸へ流入した者たちでした。つまり、「無宿者」と同じ考え方です。江戸でも厳しく取り締まりをし、一定の区域に住まわせたりしましたが、効果はなく、後の、「無宿狩り」などへと発展していきました。

一方、「抱非人」は、例えば、
(1)姉妹伯母姪と密通した者。
(2)男女の心中(相対死)で女が生き残った場合。もしくは、両人とも生き残った場合。
(3)主人と下女の心中で主人が生き残った場合の主人。
(4)15歳未満で無宿の子どもが盗みをした時。
などとなっていますが、
非人小屋頭が江戸の各地にあり、そこの頭の支配を受けていました。この非人組頭の頂点に「弾左衛門」という人物がおり、その支配下に「頭」と呼ばれる者が4~5人いました。最も有名なのは、荒川土手(地名は分かってはいますが、人権に関わることなので、ここでは、あえて、荒川土手とします)に木組みと筵(むとろ)で住まいを造り、痩せた土地を開墾し、非人同士が結婚して子どもが生まれても、その子どもも非人でしかなかったのです。

まあまあ、幅を利かしていたのが「車善七」率いる人たちでした。

非人の生計としては痩せた土地から得るものは少ないので、主に「物乞い」でした。江戸時代、非人以外が「物乞い」をすると、逆に、罪になりました。また、街角の清掃、門付(かどづけ)などの清めに関わる芸能を披露。そして、街角の清掃に付随して紙くずを拾って、それを発展させて「再生紙」造りにも寄与しました。(現代のリサイクルの先駆け?)。さらに、町役の下役として警備や刑死者の埋葬、また、斬首の刑(首切りの刑)などでは、罪人を押さえつけたり、その後の死体処理をしたり、入牢した者が病気に罹った時の看病。少年犯罪者の世話などに従事しました。

そして、「非人」は、上記(1)~(4)などの罪で非人になっても、家族や親類縁者が、多少の「銭」を支払うことで、平民に戻れたのです。

そこへいくと、「穢多」は、「非人」よりも、さらに下位に置かれ、町民の住居からは、かけ離れた場所に、一箇所に集めて住まわされました。その条件?としては、「非人」の中でも、さらに「素行」が悪く、「非人の秩序」を乱す者などが対象でした。しかし、支配をしていたのは、やはり、「非人組頭」の弾左衛門でした。

彼らは、例えば、死んだ牛馬を百姓から貰い受け、その肉を食い、皮は皮製品などにしました。この斃牛馬(へいぎゅうば=死んだ牛馬)の取得権は「穢多」の何よりの独占権でした。
その他にも、藁(わら)細工、燈心細工、破魔弓矢(はまゆみや)細工等簡単な手工業的生産に携わりました。

この「穢多」の歴史は、戦国時代に戦国大名から鎧(よろい)や鞍(くら)などの武器としての皮製品調達のために、当時は長史(ちょうし=村のまとめ役)に皮製品の上納を命じたことに始まる、と、されています。その見返りとしては、年貢を安くしてもらったり、とかの恩恵も与えられました。

しかし、江戸時代に入ると、「穢多」は、、「士農工商・非人・穢多」と「非人」より下位に位置づけられ戦国時代と同じような職業に従事し、一生涯「平人(ひらびと、または、ひらんど)=庶民」に戻ることはできませんでした。

こうした「非人」や「穢多」は、収入があってないようなものでしたので、租税を課せられることもなかったので、やがて、その租税免除により、幾らかでも貯えをし、土手などから、平地に土地を持つ者も出始め、大きな意味で「部落」ができました。

そして、明治4(1871)年に制定され、明治5年に編成された、いわゆる、壬申戸籍(じんしんこせき)には、「皇族」「華族」「士族」「卒」「地士」「僧」「旧神官」「尼」「平民」「新平民」「非人」「穢多」などという「階級」が書かれており、当時は、まだまだ、身分制度が色濃く残っており、しかも、誰でもがこの戸籍を閲覧することができました。

しかし、昭和43(1968)年に、差別部落の人を探し出す事件が発覚し、大企業での採用取り消し、部落民との結婚禁止などという事件が発生し、同年、「閲覧」および「公開」を禁止し「永久封印」とされました。

とは言うものの、現在に至っても、「部落名」を聞いたり、そこに代々住んでいたということで、「偏見の目」が向けられ、現在、「部落開放運動」や「同和問題」が今なおクローズアップされているのが現状です。
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この回答へのお礼

たいへん面白く読ませていただきました。
当時の経済構造ですでに出来上がっていた貧困層や犯罪者にえた・ひにんなどの階級を割り当てたのだと。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/26 09:50

> 江戸時代に士・農・工・商・えた・ひにんなどの身分制度が出来ました



学校教育で受ける士農工商ってウソです。江戸時代にそのような制度はございません。
江戸時代に存在したのは
武家…お城勤めをするもの
   上士(家老その他で一般的には100石以上)
   中士(100未満30石以上)
   下士(30石未満)
   郷士(帰農した侍で、有事に兵隊として従軍する)*
   浪人(仕事のない元武家)**
僧家…神社・仏閣で働く人***
農家…名主(村の代表みたいなものでたいがい地主で巨大商社)****
   本百姓(独自の土地を持つ百姓で郷士もここ)*
   水呑百姓(地主から土地を借りて農業している)*****
町家…職人(物作り専門)
   商人(物販や物流を行う)****
   町人(いまで言うサラリーマン又はフリーター)******
以外…えた(人や動物の死体処理や土木事業などに携わる人)
   非人(犯罪者)

*は相互に関係がある
*****と******は武家や名主の下で下働きしてる者もおり、有事の際徴兵される

幕末には農家で軍事組織を編成した農兵が作られた。春日隊、彰義隊、新選組など
幕府陸軍は主に町人から集められた(傭兵)
台場事業その他大型公共事業は主にえたが請け負った

このように江戸時代は相互関与しあっているため、士農工商という身分分けはできません。有名人には農家出身の武家も多いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/26 09:52
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この回答へのお礼

起源については統一見解がないのですね。
しかし、やっていた職業によって決められたという感じがしました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/11 09:32

こちらに同じ質問があるのでご参考に。



参考URL:http://okwave.jp/qa212868.html
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この回答へのお礼

馬とかの死体を処理する人などだったのですね。
とても参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/11 09:31

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Qえた・ひにんの序列について。

http://okwave.jp/qa/q4165227.html

上記の質問の回答で「えた」は「ひにん」の中でも素行が悪い者がなると書かれていますが、私が学校で習った内容とまったく違います。えたは革や死に携わる仕事をする人のことであり、ひにんより身分は形式上は上とされたと習いました。関東では牛の死体の処理をえたがひにんにやらせていたところがあるので形上の序列としてえたはひにんより上位にくるのではないでしょうか?そもそもえたはなろうと思ってなるものではなく代々特定の家の者がなるのではないのですか?

Aベストアンサー

穢多は、動物の皮の加工など、臭いの強い仕事に従事。職業の貴賎の問題です。
非人は、心中未遂の生き残りなどで、前科者の隔離に近い位置でしょう。正業に従事できないため、乞食に近いものだったという説もあります。

Q江戸時代地方の町民・農民と武士

江戸では町人が大金を積んで御家人の養子となって武士になる事はあったようですが、地方(諸大名家)でもそういった町民・農民が養子になって武士の家督を相続するといったケースは多かったのでしょうか?

公儀の場合、御家人でも能力次第で(佐々木信濃守顕発など・特殊な幕末は除いても)勘定奉行・遠国奉行など諸太夫の要職に就任できたようですが、諸大名家においても藩主御目見え以下の軽輩が藩の要職に抜擢されたケースは結構あったりしたのでしょうか?
足高の制を採用していた藩はあったのでしょうか?

Aベストアンサー

地方の諸藩でも士分でないものが士分に取り立てられるケースはありました。
士分の家に養子に入るというケースの例はしりませんが、篤農家とか名主で新田開発とか功労があったものに名字帯刀を許し士分の待遇を与えた例は多く存在します。
幕末にはよほどの保守的な藩でない限り人材登用が盛んになり、軽輩が士分から上士に出世することはザラになりました。
能力主義の時代でした。

西 周や橋本左内などは医師の家に生まれましたから士分ではありませんが西は脱藩して蘭学を学び直参になり目付に昇進していますし、橋本は同じく蘭学を学び、士分から書院番に取り立てられています。
長州では20以上の役所に上申書を義務付け提出しなければ処罰し改革を進めました。
薩摩藩では西郷や大久保は最下層の軽輩でしたがそれぞれ中小姓以上の身分に出世しています。

Qロシア農奴と江戸時代の農工商、えたひにん

ロシア農奴と江戸時代の農工商、えたひにん

ドストエフスキー、トルストイを読んでいます。

小説に出てくる農奴解放前後、特に解放前のロシアの一般庶民はずいぶん、悲惨な感じがします。

江戸時代の農工商えたひにんと、農奴解放前後、解放前のロシア庶民の比較異動を教えてください。

特に生活レベルとか、持っていた権利などについて、

できるだけ具体的に、詳しく知りたいです。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

農奴

 移動、職業選択の自由はない。

 一応、個別の家族、住居、耕具の所有は認められる。
 (人間としての人格を完全否定される奴隷ではない。ただし人間としての人格が保障される事は稀)

 簡単に言うと、一定量の農産物を生産する為の、荘園の付属品です。
 (時には土地と共に売買、譲渡の対象となった。)

ロシアだと、1861年にアレクサンドル2世によって農奴解放令が発令

 移動、職業選択の自由が与えられた。
 (富国強兵の為の、人員の確保が出来る様になった。[兵隊や工場従事者の確保が可能に])

 ただし、元農奴が土地所有者であった貴族から土地を購入する事は金額的に出来なかった為、殆どの者は農奴であった時と変らない待遇で生活をする事になります。
 (事実上の農奴の温存。これが変るのは革命を待ちます。)

>江戸時代の農工商えたひにん
 昨今の研究では、江戸時代には士・農・工・商・穢多・非人と言う厳格な身分は存在していなかったのではと言われています。

 御家人株などを購入すれば、農・工・商であっても武士に成れた。坂本竜馬の先祖も、財を蓄えた事で商人から郷士に成っています。

 また、一般農民であっても米以外に町で金に換えられる作物や商品(「工」の役割を担ったり)を生産したりしましたし、大農家ともなれば海運を担ったり大名貸しなどの金融業もやっていました。
 (「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」と呼称された酒田の本間氏など)

>特に生活レベルとか、持っていた権利などについて、
 生活レベルは、ピンキリ(豪農や豪商は、大名並な生活を送っていましたし、水のみ百姓や丁稚奉公などは奴隷の一歩手前)です。

 穢多・非人で有っても相応の財を溜め込んだ者もいるようです。
 (穢多頭の矢野弾左衛門は、殺生や穢れを嫌っていた当時の風潮から皮革の製造加工を独占し、旗本並みの格式と十万石の大名並みの財力を有すると称された。)

 差は、武士には帯刀などの儀礼的特権があり、一般民衆は特に何も無く(才覚が全て)ただ農村と都市部の違いで別れ、抑圧階級(住居や職業に対する制限)として穢多・非人(地域によって差異が有り明確には…。)が居ると言う所でしょうか…。

農奴

 移動、職業選択の自由はない。

 一応、個別の家族、住居、耕具の所有は認められる。
 (人間としての人格を完全否定される奴隷ではない。ただし人間としての人格が保障される事は稀)

 簡単に言うと、一定量の農産物を生産する為の、荘園の付属品です。
 (時には土地と共に売買、譲渡の対象となった。)

ロシアだと、1861年にアレクサンドル2世によって農奴解放令が発令

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Q項羽と劉邦 結局 劉邦の漢が勝ち天下を治めたけど

中国の歴史の 項羽と劉邦が戦った時代

楚が諸侯の不満を買い劉邦の漢にやぶれ天下が
漢の劉邦に移りました。
しかし劉邦はその後疑心暗鬼におそわれたとききました。
そこで聞きたいのですが 
項羽が治めてたときと劉邦が治めてたとき
どっちのほうが仁政だったのでしょうか?

Aベストアンサー

感覚的に回答させていただきます。

前漢だけで約200年も続きました。日本中世以降で1つの政権で200年続いたのは、徳川時代だけです。

後漢を入れると中華史の有史以降最長です。

これだけの長期政権が続いた実績を考えると、仁政(私が思いますに「民をいたわり、いつくしむ」と解釈します。)を敷かないと民からの反乱が頻発し、長期政権を継続出来ないと思います。

この長期政権の礎を築いたのが劉邦です。

仮に劉邦が韓信・鯨布らを粛正しなかったら、国は乱れ、民は疲弊していたでしょう。この観点からも、民にとって「仁政」を敷いたと考えます。

Qフランスの第一身分、第二身分、という言い方はいつから?

 フランス革命を勉強していると、
第一身分、第二身分、第三身分という言い方が出てきます。

これらの呼び方は、
いつごろから使われ始めたのでしょうか。

フランス革命以前から
一般市民の間でも、広く知られた言葉だったのでしょうか。

ご存知でしたらお願いします。

Aベストアンサー

・第一身分、第二身分、第三身分
第一身分、第二身分は元のフランス語ではないかあってもほとんど使われな
かったと思います。フランス語で clerge , noblesse , Tiers-Etat の訳語
は僧侶、貴族、第三身分です。第一者、第二者が使われないのと同じです。
三部会は 1302年ノートルダム寺院に召集されたのが起源ですが、それ以前に
第三身分という言葉が使われていたかはわかりません。


・広く知られた言葉かについて
第一身分、第二身分は却下します。第三身分だけについて。
1789年1月に三部会召集と選挙規則の公示で、選挙に対する言論が盛んになり
多くのパンフレットが刊行されたそうです。特に反響があったのはシエースの
『第三身分とは何か』です。革命開始がいつとするかは人によって違いますが
遅くともこのころには広く知られたようです。


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