川端の翻訳で有名なサイデンステッカーの「谷中、花と墓地」という本を読んでいたら次の一節がありました

高橋秀子と京マチ子が谷崎潤一郎の弔辞をしたが、高橋は演技過剰気味で京のものは簡素で良い

と、ここで高橋秀子と京マチ子の二つのものが読みたいと思いました

ご存知ないですか?

あと、よろしければ、蛇足で弔辞文が素晴らしいものを他に教えて下さい

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A 回答 (2件)

高橋秀子は高峰秀子のことでは?


それにしても、サイデンステッカーも不親切というか舌足らず。
両人の弔辞についてもうすこし具体的な記述がほしいですね。
直接的な回答にはなりませんが、
弔辞とか追悼文に興味を覚えたのでしたら、
こんな本はいかがでしょうか。
嵐山光三郎 「追悼の達人」
明治、大正、昭和の文士四十九人の死に寄せられた追悼文と弔辞が、
死にまつわるエピソードとともにとり上げられています。
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この回答へのお礼

高峰秀子だと思います。すいません
図書館で読んできましたのでメモ代わりに携帯で打ちましたので

ありがとうございます
いやらしく聞こえない程度の弔文に興味があります!

中公新書で「辞世のことば」というものがありますが
自分にとってはとても退屈でした

嵐山のものを読んでみたいと思います!

お礼日時:2008/07/11 22:10

本人(サイデンステッカー氏)に聞けば…と


思いましたが、昨年亡くなられたのですね。
出版社にお尋ねになるのがベストです。

弔辞文に関しては以下がお薦めです。
開高健編/新潮文庫/友よさらば(弔事大全I)/
神とともに行け(弔事大全II)
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この回答へのお礼

はい、私にとって氏の小津安二郎系の感性にとても共感できましたので興味持ちました☆

みすずが出版社なのでなんとなく聞きづらいのでここで聞いてるんです…;;

開高健編のそのような本があるんですね
ありがとうございます!

お礼日時:2008/07/11 22:15

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Q弔辞について

有名人の葬儀で弔辞を読む場面をTVで見かけますが、

(1)弔辞を読む人は一人だけでしょうか?どういう間柄の人が読むのでしょうか?

(2)一般人の葬儀でもそのような弔辞などを読むのでしょうか?
 私は一般の葬儀で見たことがないような気がするのですが・・。
 一定規模以上の葬儀の場合でしょうか?

(3)よくあの短期間で、うまい弔辞を作れるなと思うのですが、これは何か方法があるのでしょうか?

お教えください。宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

(1)弔辞を読む人は一人だけでしょうか?どういう間柄の人が読むのでしょうか?
  ・・・・一人とは限りません。故人と特に親しかった方ですが、政治家や社葬等ではお偉さんになるようです。

(2)一般人の葬儀でもそのような弔辞などを読むのでしょうか?
 私は一般の葬儀で見たことがないような気がするのですが・・。
 一定規模以上の葬儀の場合でしょうか?
  ・・・・・・・一般の人の葬儀でも、少ないですが弔辞を読みます。葬儀の規模は関係ないようです。

(3)よくあの短期間で、うまい弔辞を作れるなと思うのですが、これは何か方法があるのでしょうか?
  ・・・・・・親しかった人への弔辞は素直な気持ちを表現しますので、不思議なぐらい喋れます。
       もちろん、参考になるようなものもネットで氾濫していますが。
       社葬などの弔辞は一定のパターンがあるようです。

Q谷崎潤一郎を読もうと思っているのですが

谷崎潤一郎を読もうと思っているのですが、どの作品から入ればいいでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

谷崎は短編もいっぱい書いてますね。「痴人の愛」のような長編も良いのですが、
まず短編で味見をしてみるのも良いと思います。「刺青」を始め、色々と有名な
ものがあるのですが、私の一押しは、何と言っても「蘿洞(らどう)先生」と
「続 蘿洞先生」です。(中公文庫「潤一郎ラビリンス<2> マゾヒズム小説集」
に所収されていると思います。私は別のもので読みました)

両作品とも大変に短く、10分もあれば読めてしまう程度の文字量ですが、
侮ってはいけません。谷崎の悪毒の方の感性を濃縮したような作品です。
とにかくグロテスクで貪婪なエロティシズムに満ちている、とんでもない小説です!
私は、読んだ当時、結構ショックを受けましたね。
人によっては気分が悪くなる小説ですので、そういったものに嫌悪感を
感じるられるようでしたら、避けた方が良いです・・

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122031737/qid=1048088196/sr=1-51/ref=sr_1_2_51/250-7094664-7095422

谷崎は短編もいっぱい書いてますね。「痴人の愛」のような長編も良いのですが、
まず短編で味見をしてみるのも良いと思います。「刺青」を始め、色々と有名な
ものがあるのですが、私の一押しは、何と言っても「蘿洞(らどう)先生」と
「続 蘿洞先生」です。(中公文庫「潤一郎ラビリンス<2> マゾヒズム小説集」
に所収されていると思います。私は別のもので読みました)

両作品とも大変に短く、10分もあれば読めてしまう程度の文字量ですが、
侮ってはいけません。谷崎の悪毒の方の感性を濃縮したよう...続きを読む

Q弔辞のついて、どなたか教えて下さい!

昨日、夫の父が亡くなり、母からうちの大学一年の長男に孫代表として弔辞を頼まれました。私も夫も身内の葬儀は30~40年ぶりで弔辞と言われてもさっぱり内容の見当がつかず途方に暮れています。故人との思い出や気持ちをと言っても年に二回程度しか会わず大したエピソードもありません。小さい子供ならいざ知らず、大学生が幼稚な事も書けません。どなたか、弔辞の文章例をご存知の方、至急アドバイス願いませんでしょうか?よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

弔辞を頼まれた場合には、断らずに引き受けるのが礼儀とされていますね。
弔事は喪家に保存されますので、丁寧に書くべきですが、文章は文例を参考にするにしても、真心が伝わるようになるべく自分の言葉で書くほうがよいと思います。

弔辞の形式

1.あいさつ
まず、自己紹介をします。
2.呼びかけ
呼びかけたら、ひと呼吸、間をおきます。
3.訃報への驚きと悲しみ
死を知った経緯や、驚きを率直に語ります。
悲しみの表現を控えめにすると、重みのある弔辞になります。
4.生前のエピソード
故人の人柄がしのばれるようなエピソードや功績などをなるべく具体的に紹介します。 (場合によっては創作することも・・・・)
5.別れの言葉
故人に感謝の気持ちを告げ、冥福を祈ります。
別れを呼びかけて結びとします。

弔辞文例はこちら
http://teitotenrei.com/chouji.php

Q谷崎潤一郎。

谷崎潤一郎の 「高血圧症の思い出」
がおさめられている全集を探しています。
何巻か分からないのです。
どうか宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

http://www2u.biglobe.ne.jp/~kinko/tanizaki.htm

上記の中央公論社1981~83年刊30巻では第18刊にあります。
お確かめください。

Q弔辞の夢

占いのほうの質問になってるのかもしれないのですが・・。最近よく弔辞を考えてる夢を見ます。たいていは親や祖父の葬式で弔辞を読まないといけないという夢で、必死こいて弔事を考えている・・という夢です。ちなみに祖父も両親も健康で、弔辞を読むような状況にはまったくありません。不吉というかろくでもない夢なのですがなぜこういう夢を見るのでしょうか?
ちなみに、当たり前ですが親や祖父に死んでほしいとは思っていません。

Aベストアンサー

こんばんは。

ここはあくまでも「教育」のカテゴリであって、あくまでも学問として実証的に心理学を考えていくところです。夢判断をはじめとして、悩み相談などは、他のカテゴリに行くことをお薦めします。

では、学問として心理学から、質問に回答してみることにします。

夢というのは、なぜみるのか、何をどのようにみるのか、などなど、学問的にはまったくわかっていないのが現状です。ですが、仮説として、頭の中に入ってきた情報が、適当に変化したり組み合わさった結果として、ある特定の場面やストーリーのようなものがみられるのだと考えられます。

あなたがどういう生活を送っているのかわかりませんが、「葬儀など人間の死に関わる仕事をしている」「会社や学校で誰かが死んだという話をきき、印象に残っている」「弔辞や、それに限らず特定の定型文章をだす作業をした」など、関係するかなというような断片情報が集まり、頭の中で再構成されることにより、そのような夢をみるのだ、と考えられます。

・・・というような解釈は一応可能なのですが、科学的にはまったく確証がない仮説なので、誰も書かないのでしょう。

「こんな夢をみるのはひょっとしたら家族が死ぬ予言なのでしょうか?」
「私は心の底では親に死んでほしいと願っているのでしょうか?」
「・・・実は最近仲たがいすることが多くなったのは事実なのです・・・」

などという場合は、「人間関係」「占い」「メンタルヘルス」など他のカテゴリで再度質問されると、より適切な回答が得られると思います。

こんばんは。

ここはあくまでも「教育」のカテゴリであって、あくまでも学問として実証的に心理学を考えていくところです。夢判断をはじめとして、悩み相談などは、他のカテゴリに行くことをお薦めします。

では、学問として心理学から、質問に回答してみることにします。

夢というのは、なぜみるのか、何をどのようにみるのか、などなど、学問的にはまったくわかっていないのが現状です。ですが、仮説として、頭の中に入ってきた情報が、適当に変化したり組み合わさった結果として、ある特定の場面やス...続きを読む

Q川端康成著『温泉宿』の一節について

川端康成著『温泉宿』の一節「淵の周りには、銀色の渡鳥の群が溺れるかのように、月光が乱れ立っていた」について質問です。
この文章の意味は、以下のように解釈してよろしいのでしょうか?

ナラの葉によって細く別れた月の光が、流れる川の水面に乱れ射している。
そして、その水面に反射されて銀色に光る月の光が、銀色の渡り鳥の群れが溺れているように見える。
すなわち、流れる川の水面の様子を、銀色の渡り鳥が溺れるさまに例えた文章である。

Aベストアンサー

そこまで、細かく説明する必要は無いですが、そのような解釈で問題は無いでしょう。
原文を普通に書けば、「淵のまわりの水は、激しく波立って、月の光を反射していた」となると思います。
激しく波立つ→銀色の渡鳥の群れがおぼれるかのよう
月の光を反射していた→月光が乱れ立っていた
という文学的な表現にしたと言う事ですね。

Q葬儀の弔辞は故人の孫もするのが一般ですか

葬儀の弔辞は故人の孫もするのが一般ですか。

Aベストアンサー

弔辞とは一線を画しているかと思います。
孫(代表も有り、全員も有り)の場合は「お別れの言葉」として、分けています。
弔辞が終わってから、孫のお別れの言葉が私の周辺地域では普通です。
勿論、孫が居ない仏は孫のお別れの言葉は有りません。
長寿を全うした場合などは四十近い孫がお別れの言葉を述べますが、あくまでも孫です。
年でひ孫の挨拶など、聞いた事はありません。

Q余りにも芸術的な芥川に対する谷崎の反論内容。

具体的に谷崎側の主張内容を教えてください。転載して頂けると助かります。
その谷崎の主張が読める書名やサイト名がありましたら紹介も宜しくお願いします。
そもそも芥川はなぜ批判めいた事を口走ったのでしょう(発端は芥川側ですよね)。精神力の低下により谷崎生意気だと発狂し始めたのでしょうか(それこそ中身のない感じの浅い批判文をさらしてまで)。
しかし方や芥川だけに文学史上極めて貴重な論争ではないかと思うのですが、単なる出来事として周知され肝腎の議論の行方についてどうなったか私は全く知りません(芥川賞は知名度があるのに。矛盾を感じます)。
ちなみに当方は読書家ではありません。でもこの二人の文学論争は近代文学(作家)の本性を伝える重要な資料になると思うのです。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

何をもって「発端」とするか、どこまでさかのぼったら「発端」と言えるのかは解釈によって変わってくるとは思うのですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争は、昭和二年、雑誌『改造』に発表された谷崎潤一郎の「饒舌録」から見ていくのが妥当かと思います(参考:平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史(上巻)』)。

簡単に『饒舌録』が書かれた背景を説明します。

大正末期から昭和初頭にかけての文学の状況は、一方で急激に台頭してきたプロレタリア文学があり、他方にはそれに対抗しようとする新感覚派の提唱があって、それを明治以来の自然主義の系統とそれにつづく白樺派といった「主流」が迎え撃つ、といったものでした。

大正十四年、その「主流派」である久米正雄が『私小説と心境小説』として、自らの小説観を発表します。久米はここで「私はかの私小説なるものを以て、文學の、――と云って余り広汎過ぎるならば、散文藝術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思う」(引用は『現代日本文学論争史』からの孫引き)という主張をおこないます。

久米は、芸術が真の意味で別の人生の「創造」だとはどうしても信じられない、そういうのは一時代前の文学青年の誇張的至上感にすぎない、自分にとっての芸術は、たかがその人びとの踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない、というのです。

「私」を「コンデンスし、――融和し、濾過し、集中し、攪拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境を要する」、そうした意味で、真の意味での私小説=心境小説こそが芸術の本道であり、真髄である、と主張したのです。

この発言を受けて、中村武羅夫や徳田秋声や田山花袋、佐藤春夫や宇野浩二などがこの「私小説論争」に加わって、心境小説とは、本格小説とは……と活発に議論されるようになります。ただ、本格小説(あるいは客観小説)、心境小説といっても、それらの意味するところはきわめて曖昧で、曖昧な概念用語を用いての議論でしたから、どうしてもとりとめのないかたちになっていかざるをえませんでした。

そのさなかに(論争に加わるかたちではなく)自然主義の陣営の外から出されたのが、谷崎の『饒舌録』でした。

「いったい私は近頃悪い癖がついて、自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまま材料にしたものや、そうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない」(『改造』1927年2月号:以下引用はすべて『現代日本文学論争史』からの孫引き)

谷崎にとっては、当時論争の焦点であった心境小説と本格小説の優劣など眼中になく、

「…そんな主義でも抱いているように取られそうだが、決してそういう次第ではない」
「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好くようになった」
「此れは或いは良くない趣味だと思うけれども、そうなって来た以上仕方がないから、まあ当分は此の傾向で進んで行こう」

これを見てもあきらかなように、自分の考えを述べたというより、ただ小説についての自分の好悪を吐露したものでしかありませんでした。

それについて、雑誌『新潮』の合評会で芥川龍之介が言及したのです。批評しようとしたものではなく、たまたまそれにふれて、自分の気持ちを述べた、という性質の、文字通りの「言及」です。

その背景には、かつての芥川自身が誰よりも谷崎の言う「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだもの」を書く作家だった、ということがあります。

初期から中期にかけての芥川は、王朝もの、キリシタンもの、開化ものと呼ばれている、技巧を尽くした作品を発表する作家でした。そうして「技巧派」「理知派」という批判を浴びることになったのですが、それに対しては「芸術活動は意識的なものなのだ」と反駁してきたのです。

けれども後期に入ると(といっても芥川の作家活動自体が大変に短いものでしたが)、次第にそうした自分の作風に反発を感じるようになって、作風に変化が生じてくるのです。そうして、たとえば志賀直哉の『焚火』のような小説に、自分には決して書けないがゆえのあこがれを持つようになります。

谷崎の『饒舌録』の主張は、まさにその芥川の思いとは逆の主張だったからこそ、合評会でそれにふれずにはいられなかったのでしょう。それがこのような発言となりました。

「芥川:僕は谷崎氏の作品に就て言をはさみたいが、重大問題なんだが、谷崎君のを読んで何時も此頃通説に感ずるし、僕も昔書いた「藪の中」なんかに就ても感ずるのだが話の筋と云うものが藝術的なものかどうかと云う問題、純藝術的なものかどうかと云うことが、非常に疑問だと思う。」

「芥川:筋が面白いために藝術的の価値が低下すると云うことはない。それは積極的ではない。併し谷崎氏のは往々にして面白いと云う小説と云うものに、其筋の面白さで作者自身も惑わされることがありやしないか。」(「新潮」1927年2月号)

これに対して谷崎は翌月の「改造」でただちに反論します。

「筋の面白さは、云い換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに藝術的価値がないとか云えない。(材料と組み立てとはまた自ら別問題だが、)勿論此ればかりが唯一の価値ではないけれども、凡そ文學に於いては構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説と云う形式が持つ特権を捨ててしまうのである。そうして日本の小説に最も欠けているところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何學的に組み立てる才能、に在ると思う。」(「改造」:1927年3月号)

その谷崎に答えるかたちで、芥川も同じ「改造」に『文藝的な、余りに文藝的な』の連載を始めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html

あれこれと弁解の続く文章ですが、谷崎に対する回答となるのは、以下の点です。

「「話」らしい話のない小説は勿論唯ただ身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙はるかに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。」(「改造」:1927年4月号)

こうして芥川は、谷崎の「構造的美観」に対し、「詩的精神」を対置しようとするのですが、その「詩的精神」がどういったものか、芥川自身にもはっきりとつかめていたわけではなかった。ただ、「話」のある小説しか書いてこなかった自分にあきたらなくなって、なんとかして転換していこうとした先に見えていた(あるいは見ようとしていた)かすかな光、という程度のことだったのではないでしょうか。

それに対して、迷うことのない谷崎の回答は容赦ないものでした。(「改造」5月号)

「私には詩的精神云云の意味がよく分からない。」
「私は斯くの如く左顧右眄している君が、果たして己れを鞭うっているのかどうかを疑う。少なくとも私が鞭うたれることは矢張り御免蒙りたい。」

けれどもその谷崎自身

「藝術は一個の生きものである」
「実際人を動かすような立派なものが出て来れば、いいも悪いもあったものではない」
「現在の日本には自然主義時代の悪い影響がまだ残っていて、安価なる告白小説体のものを高級だとか深刻だとか考える癖が作者の側にも読者の側にもあるように思う。此れは矢張り一種の規矩準縛と見ることが出来る。私はその弊風を打破する為めに特に声を大にして「話」のある小説を主張するのである」

というように、それ以上の考えがあったわけではなかったのです。

芥川はこれに対して『再び谷崎潤一郎氏に答ふ』を書きましたが、特にこれといった主張があるわけではない、儀礼の域を出るものではありません。

この論争も、論争によって互いの思想を確固たるものにする、とか、議論を先に推し進めていく、といったものではなく、あるいは何らかの解決や一致点を見るものではありませんでした。単に、両者の作家的資質のちがいを鮮明にするにとどまるものだったのです。

> 文学史上極めて貴重な論争ではないか

と質問者氏は書かれておられますが、果たして「貴重な論争」というものが、少なくとも日本文学史上、あるものかどうか(いや、誰かに怒られるかもしれませんが)。

実際、過去の「論争」の多くは果たして「論争」と呼んで良いものかどうか迷うほどなのですが、ひとつ指摘しておきたいのは、その多くが実作者によるものであって、理論家によるものではなかった、という点です。この点に関しては批評理論とも関連してくるので、ここではふれませんが(そうしてまたその能力もわたしにはありませんが)、少なくとも作家にとって、理論を構築するのが目的ならば、小説など書く必要はありません。

けれども、多くの作家にあっては、創作を書かずエッセイを書く時期というのは、意識的である場合もそうでない場合もありますが、その作家が転換期に入ったことを示すものといえます。過去の自作の再生産に終わらず、新しい方向を模索するとき、作家というのは「文学とは」「小説とは」と考える。そうしてそれが「論争」というかたちで今日まで残っている、と考えるのが妥当ではないのでしょうか。

何をもって「発端」とするか、どこまでさかのぼったら「発端」と言えるのかは解釈によって変わってくるとは思うのですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争は、昭和二年、雑誌『改造』に発表された谷崎潤一郎の「饒舌録」から見ていくのが妥当かと思います(参考:平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史(上巻)』)。

簡単に『饒舌録』が書かれた背景を説明します。

大正末期から昭和初頭にかけての文学の状況は、一方で急激に台頭してきたプロレタリア文学があり、他方にはそれに対抗しようとす...続きを読む

Q寒中見舞いに弔辞切手?

先日、主人の上司から喪中はがきが届きました。こちらとしては、年賀状は出さずに正月松の内が明けた頃に、寒中お見舞いを出そうと思っています。その際にはがきに貼る切手は、弔辞用切手でいいのでしょうか。こちらの不幸ではないので、かえっておかしい、ということはないでしょうか。弔辞用切手はもう用意しています。

Aベストアンサー

弔事用切手は、お悔やみの気持ちを送る際に適した切手です。
年賀欠礼(喪中)はがきによく使われますが、こちらの不幸でなくても、相手に対してお悔やみの気持ちを伝える手紙であれば貼っても構いません。
例えば、質問者さんが上司にお悔やみの手紙を書く場合、封筒に弔事用切手を貼っても差し支えありません。
80円切手があるのは、そのためです。

ただし、寒中見舞いのはがきに貼るのはNGです。
理由は、『寒中お見舞いは弔事ではない』からです。
すでに切手を購入してしまったのであれば、手数料がかかりますが郵便局で普通の切手に交換してもらった方がよろしいと思います。

Q「願はくは花の下にて春死なむ・・・」の「花」は何の花?

願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

という歌にとても心惹かれるものがあります。
たしか西行法師の作であったと記憶しております。

この歌に出てくる「花」とは何の花なのでしょうか?
今まで何となく桜だと思っていましたが、桜が日本人にとって最も代表的な花となったのは、もっと後の時代ではないでしょうか。西行法師の時代は「花」と言えば梅だったのではないかと思います。

そこで、月齢と旧暦の日付を調べてみたところ、今年は旧暦の2月の満月の日は新暦4月7日(旧暦2月17日、月齢15.36)でした。
となると、「花」はやはり桜なのでしょうか?

もう一つ、質問です。
「花は桜木、人は武士」という言葉が示すように、潔く散る桜を人の死と結びつける思想は、江戸時代の出てきたものと思っていました。しかし、この歌の「花」が桜であるとすれば、西行法師の時代に、すでに、桜を人の死と結びつける思想の源流があったと考えてよいでしょうか?

Aベストアンサー

まず、古文で「花」と出てきたら、奈良時代の一時期を除いて、桜のことと考えてよいと思います。

万葉集でいう「はな」が何を指しているかは、詠まれた数の多さから梅である説、あるいは、当時はまだ貴族社会の一部にしかひろまっていなかったため、桜であるという説など諸説あります。

奈良時代に中国から梅が入ってきた梅は、当時の貴族文化の中では主流になったのですが、外来文化の象徴でもあった梅に対し、古来から生活とともにあり、また民間信仰の対象でもあった桜は、平安時代が進むに連れて、ふたたび主流になっていったようです。
そうして947年には宮中の庭の正面に植えられていた「右近の橘左近の梅」の梅が桜に植え替えられたことなどにもあきらかなように、平安後期以降は、花といえば桜をさすようになります。

ご質問の西行の歌は、1190年のものですから、時期的にも桜であることに間違いはありません。

桜は古来から日本の民間信仰と深く結びついていました。
古事記や日本書紀にも登場する木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、この神は春の女神で豊穣をもたらすとされたのですが、桜の木はこの神の依り代とされました。

桜の開花に農作業が始まる時期を知り、その年の開花に作柄を占った。
こうして桜は農作業と深く結びつきつつ、信仰の対象でもあったのです。
桜の大木の下は一種の聖域となり、豊穣を祈るためのさまざまな儀礼や宴が、年中行事となっていき、今日に至るまで続いています。

一方で、桜に対する見方も時代によって少しずつ変わります。
平安末期には無常観とも結びついていき、さらに時代が下れば、能や歌舞伎での異世界や狂気にも通じていく。
質問者さんが上げられている、仮名手本忠臣蔵の詞は確かに江戸時代のものですが、桜はそれよりはるかに古来から、人々の生活に結びついており、それゆえに、さまざまに解釈されてきた歴史があります。

ここらへんの見方の推移は『ねじ曲げられた桜 ― 美意識と軍国主義 ―』(大貫美恵子 岩波書店)に詳しいので、もし興味がおありでしたら、ご一読ください。

ただ、西行のこの歌は、やはり西行個人の信仰と無関係にとらえることはできないでしょう。

>その如月の望月のころ

とは、釈尊が涅槃に入った(亡くなられた)とされる二月十五日のことです。

「これは死に臨んでの作ではない。死を目前にして西行がこう歌ったのではない。…しかしおそらく六十歳代の半ばごろ、死もいつかはやって来る、もうそれほど遠くはないかもしれぬと思うにいたった老西行が、おのれの死をこういう言葉で表現し、こういう情景の中に見つめ、希求していたことは間違いなく読みとりうるのである」(『西行』高橋英夫 岩波新書)

この本は、西行の生涯だけでなく、さまざまな西行伝説や、西行と芭蕉の関わりなどにもふれられていて、大変おもしろかったです。

以上、なんらかの参考になれば幸いです。

まず、古文で「花」と出てきたら、奈良時代の一時期を除いて、桜のことと考えてよいと思います。

万葉集でいう「はな」が何を指しているかは、詠まれた数の多さから梅である説、あるいは、当時はまだ貴族社会の一部にしかひろまっていなかったため、桜であるという説など諸説あります。

奈良時代に中国から梅が入ってきた梅は、当時の貴族文化の中では主流になったのですが、外来文化の象徴でもあった梅に対し、古来から生活とともにあり、また民間信仰の対象でもあった桜は、平安時代が進むに連れて、ふた...続きを読む


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