万里の長城にはどんな謎があるのですか?

A 回答 (6件)

#5さんへ



玉門関、陽関は漢代長城ですが、これはもっと西まで行っていた可能性があります。
正確にはどこだったか忘れましたが、確か、カシュガル近くだった気がします。
おそらく最も古いといわれる天山南道(西域北道)を守るように延びていたんじゃないでしょうか。

嘉峪関は明代長城の西端の関ですが、長城そのものはここから南に走って黄河に到達しています。
なので、河西回廊は囲まれています。

Google Earthが使えるなら、参考URLにあるプレースマーク集で現存する長城が確認できます。

参考URL:http://google-earth-travel.net/moon/index_50_6.h …
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>万里の長城にはどんな謎があるのですか?



昔から不思議に思っていたのですが、東は黄海に入る形の老龍頭長城で仕切られていますが、西は玉門関または嘉峪関、陽関でおしまいになり、河西回廊を迂回してしまえば廻り込めると思っていたのですが。西域が混乱しなかったわけではなく、費用がかかるのは分かるのですが、なぜ長城をもっと南に伸ばして、チベットを区切るように延長しなかったのか不思議です。西から攻められることを考えなかったのでしょうか。
陽関などは行ったことがありますが、砂漠とはいえ岩砂漠で、通行ができないわけでもないように思うのですが。

回答になっていなくも思いますが、私の思っている長城の不思議です。
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誰も通るはずがない切り立った崖の上にもある(司馬台長城望京楼)

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宇宙から見えるかどうか, よくわかんないらしい.


中国の「里」は日本の「里」よりはるかに短い (500m だって) ので「万里」は正しい>#1.
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ずーっと内陸の方ではいまだに「家を建てるのであそこ(=万里の長城)にあるレンガを使おう」と持ち去られ毎年数十キロが消失しているらし

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 長さが1万里もない。

(あれば地球一周してまんがなw)
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Q万里の長城は役に立ったのですか?

先月中国へ行き、司馬台長城へ行きました。行ったことのある方は分かると思いますが、とても急峻な尾根に続いていますよね。素人目に見てもあの建設用資材をあそこまで運ぶだけでも大変な労力だと思います。それをあんなに長く組み立てるのですから一体いくらの費用がかかったのでしょうか?あのレンガ?は現地で焼いたのでしょうね。そうしないとどこかから完成品を運ぶなんて無理ですよね。しかしその原料となる土はどこででも取れるのでしょうか?いずれにしても費用対効果の面からあの長城は役に立ったのでしょうか?それとも文字通り無用の長物だったのでしょうか?それにしても司馬台付近の地形を考えるとあんなもの作らなくてもそうそう攻めては来られないと思うのは私がものを知らなさ過ぎるからでしょうか。

Aベストアンサー

長城は遊牧騎馬民族の侵入に備えるという目的に対して充分役に立っています。

長城が最初に作られたのは、戦国時代で後に秦の始皇帝が一つの長城にまとめ上げています。その後は、主要部分の補修はなされたようですが、本格的な修築がなされ現在も残っているのは明の時代に作られたものです。

その間の時代で長城があるものの完全ではなく北方の遊牧民族に圧迫されていた時代、一例をあげれば宋の時代には、北方の遼に対して毎年銀10万両、絹20万匹を送るという約束で和平を結んでいます(これを?淵の盟約センエンノメイヤクという)。これを遼と宋の双方が遵守して120年間の平和が保たれたと言いますから合計1200万両の銀が流出したことになります。これに比べれば長城の建築・修復費用なんてたいしたものではないとも考えられます。あ、盟約がなければ被害額はもっと大きなものになったでしょうね。

また、長城の目的は侵入を防ぐとばかり考えられがちですが、もう一つの役割があり、それは退却を妨害するという目的です。遊牧民族側が大軍を催して攻めて来たときは(当然に事前に判りますから)長城を楯にして防ぐというのはイメージしやすいですが、平和な時などに長城の破れなどから密かに小部隊が侵入することは防げません。

彼らが密かに入ってきて密かに出ていくのなら仕方ありませんが、もしこの小部隊が村を襲ったり、争乱を起こしたりすれば当然、討伐軍を出します。この時は、動員できる兵力が違いますから侵入した部隊は逃げるしかありませんが、長城の壁が退路をふさぎますね。壁沿いにどこまでいっても長城は途切れないわけで結局入ってきた小さな穴を目指すしかありません。そーっと入ってきた時は時間をかけて穴をくぐったり出来ますが、追われて逃げていて一刻を争う時にはすみやかに抜けるのは難しいですね。つまり、入ってきた小部隊は全滅の可能性が強いわけです。

つまり、人目を忍んで侵入はできるけれど、それを利用しての悪さはできない。ここに大きな意味があるのです。これも広い意味での長城の防御効果です。

最後に蛇足です。満州族が建国した清が明に代わって中国を支配する様になりますが、勃興してきた清が正面から長城を攻撃しても山海関を破ることは出来ませんでした。清が長城を越せたのは明末の農民反乱などの混乱の中で、李自成が明朝を倒したことがきっかけです。山海関で清の攻撃を防いでいた明将呉三桂は前後から異なる敵に攻められることになり、今まで敵対していた清と協力して李自成を討つ、つまり山海関を開いて清を長城の中に入れる決断をしたわけです。

結局、清は敵失に乗じて長城を越えたようなものであり、それだけ長城の防御力が強かったすなわち役に立っていたことの証明でもあります。

長城は遊牧騎馬民族の侵入に備えるという目的に対して充分役に立っています。

長城が最初に作られたのは、戦国時代で後に秦の始皇帝が一つの長城にまとめ上げています。その後は、主要部分の補修はなされたようですが、本格的な修築がなされ現在も残っているのは明の時代に作られたものです。

その間の時代で長城があるものの完全ではなく北方の遊牧民族に圧迫されていた時代、一例をあげれば宋の時代には、北方の遼に対して毎年銀10万両、絹20万匹を送るという約束で和平を結んでいます(これを?淵の盟...続きを読む


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