光源氏がどうした、こうした。ということだけで源氏物語をみていた高校時代は、単に、貴族の男女の間の出来事に過ぎないということで意味性を認めては居ませんでした。
 古希、もう男女のこともぎらつきが常にはなくなってきてから、自治体主催の高齢者向け講演会での勉強は違う印象を持つことができました。日本人性の一側面かなと、存じてきております。そのことに関連して、お教えとご示唆を賜りたいと存じます。

 1. 当時の色好みとかその活動や行動は、江戸、明治、昭和と進んだ欧米などからの文明汚染以前での、欧米的な肉欲、sexualな性格とは距離がある、倫理や生き方、美学的要素のあるものではなかったかと、思うのですが。いかがなものでしょうか?正鵠を得ていないでしょうか?

 2. 男女のことや色ということでのこういう気持ちは、文明汚染を経ても、私たち日本人には、単なる肉欲、sexualな性格ではないものが続いていると存じますが、つまり、光源氏にすごくsympathyというか一体感がもてるのですが、このことでのご注意と示唆などを頂きたいのですがよろしくお願いします。

  * なお、こういう思いに対して対立させた<欧米的な肉欲、sexualな性格性>ということばも、その内容ももちろん私の側の主観的造成であることは自覚しております。

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A 回答 (2件)

あなたのおっしゃるとおりだと思います。


色好み、好き者、男女の色事、それらを風流な事と呼んでました。
風流というと自然の癒し空間(花鳥風月)を愛でることのみに使われているような感じが今ではしますが、それらもすべて男と女があってのことだったのではないでしょうか。

古来、和歌は相聞歌として発達したわけで、要するにラブレターであります。和歌は美学、美意識を先鋭的に表現したものといえます。芭蕉あたりの俳諧からわび・さびに傾いてしまった館がありますが、風流とは本来、男女の機微に使うものだったのかもしれません。色気とかいう語もセクシーと同義ではありますが、それは今の感覚でしょう。伊勢物語の「初冠」に出てくる「なまめいたる女はらから」は色っぽい姉妹という意味ではなく、初々しい優美な姉妹という意味です。言葉や美的感覚は我々とは随分違うと思います。

西洋の平等主義みたいなものが輸入されて、「吉原」とか恥ずべき文化のようにされていますが、江戸落語などを聞くとたいそうりっぱな文化だったのではないかと思いますけどねぇ。

この回答への補足

 ご両所様 ありがとう御座いました。
 私たちのような、コンクリートと能率、即物なる散文ではなく、和歌による、美の中での思想や哲学の表現に惹かれました。
 しかし、やはり人間の作品、つくり、見せるものですね。
 感動や何か人間のこの地上での目的があり、そのための作品であり、また感動や喜び、勉強などのために紐解くものですね。
 そういう意味ではやはり、人間と地上が主・中心ですので、遊び、てなぐさみの面はあらざるを得ないことですね。
 いまどきの、現代の東西の文学や演劇、ドラマとは格が違っても、それは限界があるのでしょうね。
 これからも民族の心性、文化についていろんな方のお話を伺って生きたいと存じます。
 ありがとう御座いました。

補足日時:2008/07/20 07:44
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この回答へのお礼

 そうですか、吉原も表現すると、遊郭文化といえるものであったわけですか。

 欧米文化を誤解しているかもしれませんが、私に伝わり、理解するかぎりでの、あのザッハリッヒな観念で、私たちの先行文化を、今の言葉だけで理解するのは危険だなと感じております。

 ありがとう御座いました。

お礼日時:2008/07/19 08:58

ご推察、正鵠を得ていると思います。

もっとも、先人にも多く同様の思いを持たれた方も多いようで、様々な研究もなされてはいるようです。

専門的な研究はさておくとして、以下のURLを参考にしてみてください。

  http://osaka.yomiuri.co.jp/kokoro/kj40726a.htm

源氏物語では、「色好み」を「思いくまなき心」だと言っているようです。行き届かないところがないほど相手の気持ちを配慮するという意味のようです。

無理やりにいろいろな思いを閉じ込めようとしてきた反動のようなもので、現在様々な犯罪の多発を招いているのではないかとも感じております。うまくガス抜きができていれば起こらないようなことが、頻発する状況を憂えます。人間関係のあり方が、変にねじ曲がってしまってきているのかな、と思います。

この回答への補足

 音田昌子司会の山折哲雄氏、田中優子教授のお話は日本の心の想起にたいへん役立つものです。
 ありがとう御座いました。今次、私の質問の目的は源氏の男女のことが意外と日本人の物事への対し方の基流となっていることの気付きの確認とその内容化を目的としておりました。
 そんなことで、もし何かお気づきのことがありましたら、ご教示賜りたく存じます。

 ありがとう御座いました。

補足日時:2008/07/19 17:07
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この回答へのお礼

 ありがとう御座います。
 今頃、道学などがはやるわけはないのですが、みもふたもない即物的な実利・能率中心よりも、奥ゆかしいとか、情的なものでの表現と内容はやはり日本人としては、あまり忘却したくないですね。

 【無理やりにいろいろな思いを閉じ込めようとしてきた反動のようなもので、現在様々な犯罪の多発を招いているのではないかとも感じております。】というご指摘は今次の私の関心のことではなかったのですが。
 むしろ今はあまりに、野放図で、そして自己生活や能率が中心になっていますね。
 通れば何でも通してしまう。
 わがまま、無節度になってはいないでしょうか。
 犯罪、残虐、前時代の軌道を外す。そして簒奪、戦争。これはどの時代にも、どこの国にもありましたが、比較的日本文化の基流は、そういうものにしっかりとした批判の基点を与えてくれるし、批判してきてくれたのではないでしょうか。

お礼日時:2008/07/19 17:03

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Q文学研究科 大学院 修士論文のペース

こんどからMC1年になります。
文学・歴史・哲学の大学院の修士論文の2年を通したペース配分について教えてください。
とくに経験者の方。

厳しい倍率でDCに進もうとしているので、かなり優良な論文を書かないといけません。

Aベストアンサー

 こんにちは。私は法学系の修士を修了した者です。分野が違いますが、参考にでもなればと思い書かせていただきます。

 まず、MCの2年間はあっという間に終わります。特に2年目は、理解不足、知識不足、文章の校正(書き直し含む)などでもたもたしていると、論文提出期限に間に合わなくなります。そのため、留年する人もいますのでスムーズにステップアップしようとするには、要領よく研究を進める必要があります。
 ではどうすればよいのかですが、matekiさんは具体的な研究テーマを決めておられるのでしょうか?まずはこれが決まらなければ、話になりません。遅くとも、M1の前期終了時もしくは後期開始後すぐの頃までには、暫定的でも決めている必要があります(大学院によっては研究計画書の提出期限がありますので、その期限日の中間日くらいまでには決めておいた方がよいと思います)。その際、必ず指導教授と何度も相談をして、分野やテーマを絞ってゆくことになると思います。
 指導教授にはDCに進むこともきちんと伝えて、テーマ選択の助言をしてもらわないといい評価には結びつかないと思います。
 
 テーマが決まったら、資料集めと読み込みに入ります。これも一応1,2ヶ月の間に要領よく集めて文献カードにしておきます。かなりの量の資料に目を通すことになると思いますので、これも最初はざっと目を通すぐらいにして、とにかく必要な資料を把握することに努めた方がいいです。
 そして、精読して自分が立てた項目や問題意識が誤っていないかどうかを検討する作業に入ります。最初に考えた問題から変わっていくこともありますので、これを早めに終えておくと、その次の修正が楽です。
 ざっと、読み込みを終えたらもう一度項目立てをやり直します。これが大体M2になってすぐくらいの時期です。それから本格的に論文作成に入ってゆくのですが、少なくとも3,4回は書き直すことになると思います(論文構成や、文章表現の上手でも2回くらい)ので、理想的には夏休み前くらいには初稿(下書き)を書き上げて教授に見てもらいましょう。どういう文章をどのくらいの分量書けばよいのかについては、諸先輩方の論文や他校の論文を参考にされるといいですよ。
 秋口になったら本格的に論文作成に取り組み、2稿目3稿目を書くことになります。同時に資料の再読がありますので、並行してこなします。ただし、外国語文献をこの時期に訳し始めているようだと、下手をすれば間に合わなくなるので特に外国語文献の資料は夏休み中には整理しておくことが必要です。
 こうして、M2の暮れまでにできあがるように計画を組んだ方がよいです。提出期限が年内の場合には当然ですが、年明けの場合でも必ず修正点が出るので前倒しの計画を立てて研究を進めた方がいいです。
 ちなみに私は、年が明けても死ぬほど書いていました。しかも、焦って書いた論文がいいものであるはずがありません。ひどい評価でした。

 大学院でも論文の研究だけでなく、講義などもあろうかと思います。また、外国語が非常に得意であれば問題ないですが、DC入試には外国語のテストもあると思います(資料の読み込みでも必要ですが)ので並行してそれらをこなさなければなりません。文章の練習もしなければならず、やることいっぱいで大変ですが頑張ってください。
 

 こんにちは。私は法学系の修士を修了した者です。分野が違いますが、参考にでもなればと思い書かせていただきます。

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Q平家物語の有名な始まりは「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」ですが源氏物語の始まり又は源氏物語を教

平家物語の有名な始まりは「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」ですが源氏物語の始まり又は源氏物語を教えてください。

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いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに

うんぬんかんぬん

Q修士論文の構成

現在M1で税法を学んでいます。
現時点では修士論文のテーマに関しては指導教官よりOKをもらっただけで、論文構成はこれからです。
これから構成を考えていきたいのですが、どのような構成が一般的なのでしょうか?

1.テーマを選んだ背景、とりまく環境
2.現状の問題点
3.海外での事例
4.日本での展開(2.の問題点を解消)
5.まとめ

具体的には、「海外で導入されているある制度を、日本に導入するにはどういった問題があり、海外の事例を比較した結果、日本にはこういうやり方で導入するべきだ」というような感じで執筆しようと思っているのですが、上記のような構成で問題はないでしょうか?

Aベストアンサー

M1の段階なら、とりあえず上記のような章立てを仮に立てておけばよいのではないでしょうか。
章立ては、実際には選択したテーマ、収集した素材に左右されるところが大きいです。
先行研究や事例をできるだけ多く集めて、テーマを絞り込むことが優先課題だと思います。

私が論文を書くときにお世話になっているのは以下のサイトです。

参考URL:http://hostgk3.biology.tohoku.ac.jp/sakai/ronbun/kyo/korekara/honbun.html

Q源氏物語で光源氏の没年齢

タイトルの通りですが、光源氏の没年齢は何歳でしょうか。
41巻『幻』での年齢は52才となっていますが、
それは出家するときの年齢だと思います。

いろいろ調べましたがわかりません。
わからないというのが正解かもしれませんが、
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
原文テクストは無論、翻訳テクストも見つからないので、記憶を元に、勝手な推測をしてみたく思います。

おそらく、死亡年齢や年代を明示的に記述する文章はないと思います。しかし、色々な状況から、ある程度推測できるのではないかと思います。

「幻」の最後で52歳だとすると、紫上の逝去からかなり経っていることになります。紫上は37歳で亡くなったはずで、源氏は、上より七歳か八歳年長のはずです。女三宮が落飾したのは、紫上の死の前のはずで、この時、すでに薫は生まれています。また匂宮も生まれています。

源氏44歳の時に、薫1歳とすると、「幻」の最後では、薫は9歳になります。宇治編の最初は、話の時間が少し錯綜しているのですが、薫が侍従であって、宮仕えをはじめた頃の話があります。侍従は16か15歳のはずです。すると、「幻」の最後と、宇治編の始まりの時間とで、6年か7年しか経過していないことになります。

冒頭の「匂宮」は、薫が侍従であったときより数年後の話とすると、話の時間が、十年後程度ということで数字が合ってきます。しかし、薫が侍従であった時の話の段階で、すでに源氏や六条院の栄光は、はるかな過去のことで、記憶の向こうのような書かれ方がされていたはずです。

わずか数年前、源氏が薨去し、六条院の人々は悲嘆にくれ、散り散りになってしまったという感じではなく、それはもっとはるかな過去のことのような感じになっています。

本編の物語と宇治編を分けるため、こういう風に作者がしたのかも知れませんが、時間の経過関係は、書かれていなくとも、計算して行くと、矛盾したものがないのが、「源氏物語」です。

宇治編では、光源氏が、ほとんど話題に昇りません。源氏があればこその薫であり匂宮のはずですが、何故か、無視されています。作者が意図的に触れなかったとも云えますが、作品のなかの時間で、源氏が無関係と思えるほどの時間が経過したのではないかともいえるのです。

夕霧は、別腹とはいえ妹の明石が中宮で、その息子が東宮で、更に、三人目の息子である匂宮を、次の東宮に立てようなどと画策しています。ところが、夕霧は、宇治編で、右大臣です。太政大臣には、黒髭がなっていたとしても、黒髭も、すでに逝去しています。父親が太政大臣、しかも准太上天皇、院で、母親は、太政大臣と降嫁内親王のあいだの娘の葵上です。

東宮の伯父であり、次の東宮の伯父にもなり、中宮の兄で、しかも、経歴からも血筋からも、彼に匹敵できる者はいないはずなのです。冷泉院はまだ元気で、夕霧が兄だと知っているのですから、何かおかしいと思えるのです。

つまり、源氏が、もう少し長生きしていれば、息子の夕霧を太政大臣に就ける算段をしていたはずだと思えるのです。晩年の源氏の悲嘆などは、内面的なもので、世間体は作っているのであり、源氏は、権力の絶頂にいたとも云えます。

夕霧が、予言通り、太政大臣になっているならともかく、何時までも右大臣なのは、影響力のある源氏が、その力を発揮する前に亡くなったのだと考えるのが妥当でしょう。夕霧も四十を超えていますから、年齢的に太政大臣は無理とはならないはずです。

これらを考えると、源氏は54歳頃に薨去したと考えるのが妥当なように思えます。源氏は、出家して、仏道の修行も立派に修めて亡くなったとされますから、「幻」の直後、出家し、三年ほど修行に励んで、薨去したと考えると、相応に修行もし、また、薫たちが成人となった時、すでに十年近い過去の人となっていたとも云えるのです。

53歳では、修行が二年で短く、55歳だと、五、六年前の人、ということで、まだ記憶に残っているでしょう。従って、55歳あるいは56歳以降まで生きたとは考えにくいということです。

59歳まで生きていたとすると、薫が侍従の時、まだ存命ということになりますが、そんな風にはとても思えません。すでに、この時、「過去の人」になっています。

(54歳で亡くなっても、「過去の人」というには、最近亡くなった人という時間になるのですが、源氏と紫上の年齢差が九歳か十歳だとすると、源氏52歳で、薫7歳になり、時間が整合して来ます。

あるいは、紫上の亡くなったのが、37歳でなく、39歳とかの場合も、似たことになって整合します。この辺りの年齢関係は、テクストの出来事の順序から表まであるはずですから、確認できるはずです)。

54歳という薨去年齢は、宇治編では、「過去の人」となっているため、源氏は、可能な限り早く死んでいなければならないのと、仏道修行も勤め上げたということのための時間で、3年は必要だという判断から出てきた年齢です。
 

 
原文テクストは無論、翻訳テクストも見つからないので、記憶を元に、勝手な推測をしてみたく思います。

おそらく、死亡年齢や年代を明示的に記述する文章はないと思います。しかし、色々な状況から、ある程度推測できるのではないかと思います。

「幻」の最後で52歳だとすると、紫上の逝去からかなり経っていることになります。紫上は37歳で亡くなったはずで、源氏は、上より七歳か八歳年長のはずです。女三宮が落飾したのは、紫上の死の前のはずで、この時、すでに薫は生まれています。また匂宮も...続きを読む

Q修士論文が不合格だった場合について

私は現在国立大学の修士課程(大学院前期課程)2年生です。
数日前に修士論文を提出したのですが、正直申しまして論文のクオリティーがかなり低く、とても論文は通りそうにありません。
もし修士論文が不合格となってしまった場合はどうなるのでしょうか。
修士課程単位取得退学のといったような形で退学扱いになるのでしょうか?
それとも留年と言う形で大学に残り次年度にて再度修士論文を提出することは可能なのでしょうか?
それとも大学によって異なるのでしょうか?
以前、一度修士論文を提出した場合は2年間は論文が提出できないなどのお話を聞いたことがあります。
修士課程に2年もいるのに全くの無知でお恥ずかしいのですが、もしよろしければ教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

教授が修士論文の提出を許可したのであれば,論文は通ると思います.

留年して次年度に提出は可能です.
クオリティを上げれば,半年後に卒業などもあるかもしれません.
ただ,大学によって異なりますので,ここで相談するより教授に相談しましょう.

Q源氏物語、光源氏の誕生日からですきりつぼの家系?を褒めるシーンで 親うち具し (両親がそ

源氏物語、光源氏の誕生日からです

きりつぼの家系?を褒めるシーンで 親うち具し (両親がそろっている) とあるのですがこの時代両親が揃ってることはいいことなのですか?

Aベストアンサー

「なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。」という文が続いていると思います。

大事な儀式が行われる時などには、両親がそろっていないと格式が低いように見られてしまうが、揃っていると、そうした懸念が無い、ということだと思います。

Q修士論文は公開論文ですか?

よろしく、お願いいたします。
タイトルどおりなのですが、大学院の修士論文は公開論文でしょうか?
博士論文は、公開論文と認識しておりますが、修士論文は如何でしょうか?

修士論文に書いた内容を、もう少し、世間に出してみたいと思ったのですが、既に公開論文であれば、当然、他の公開論文集等に出す事は出来ませんので、確認の為にお伺いしてみました。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

通常は、修士論文も博士論文も公開(広義)されたものと見なしますが、あくまで学位論文であり、雑誌への投稿はできます。

投稿論文の場合、未公開(狭義)の内容という規定が普通ですが、学位論文に書いたこと(広義)は、問題にされません。

というより、私の修士論文の場合、投稿原稿を書くように教授に言われましたし、博士論文の場合(論博)、投稿済みのものは良いとして、未投稿の内容は、博士の学位を取得して1年以内に雑誌に投稿する規定になっていました。

また、修士論文を投稿する場合、当然、指導教官に許可を得るべきです。修士だろうと博士だろうと、あくまで指導教官の指導のもとで研究を行なったと見なされます。もし、これを無視して投稿した場合、ばれたら法的なことはともかくとして、研究者としては生きていけないでしょう。必ず了承を取る(おそらく連名になる)ことをお勧めします。

Q源氏物語と平家物語比較

こんばんは。社会人になって古典に目覚めだしたものです。
私は恥ずかしいことに、中学校くらいまで、源氏物語は源平の戦い、
の源側を書き綴ったものと思い込んでいました。作品を知ったら、
拍子抜けしました。一方は小説、一方は軍記、、。

ところで、上記二大作品について中国人にどちらが日本では評価されているか、と聞かれました。私と同じように考えていたそうです。読者層では前者のような気がしますが、
それぞれのジャンルが異なるので、単純比較できません。

そこで、人格形成、という点ではどちらがより影響の度合いが高いか、という観点で比較してみたらどうかと思いました、ちょっと強引な基準設定ですが、、そう仮定すると、「平家」を選んでしまいます。

私もほとんど読んでいませんが、、「平家」に惹かれています。
平家琵琶の演奏を聴くとなおさら没頭しそうです。

Aベストアンサー

基本的にはどちらも修養の書とは言えない性格を持っていると思いますし、NO.2の方がおっしゃるように結論は好みの問題に帰するほかはないとも思われます。また「人格形成」という言葉から、いかに若年層に益するかということがテーマのような印象を受けたりもするのですが、敢てそれらのことを棚上げしてお題目にお答えすれば、私の軍配は平家に上がります。

「平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう」(石母田正『平家物語』)

大きな歴史のうねりの中に活写される人物群像を眺めるだけで謙虚な気持ちになるということもありますが、何よりもまず頻出する「死の語り」が平家を推す最大の理由です。

「常々、彼(司馬遷)は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起らないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っている中(うち)に自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、という風にである。」(中島敦『李陵』)

これと同じことは「死」についても言えると思います。(ちょっと断っておきますが、ここでいう「死」とは、間近に迫まる避けられない死を意識したときの人間の態度や身の処し方のことです。ぽっくり死ぬとか苦しんで死ぬとかいう死に方の意味ではありません)
よく「死に様(ざま)にはその人の生き様が容赦なく現れる」などと言いますよね。確かにガンの闘病記や終末期医療に携わる人たちの本から、死を間近にひかえた患者さんたちのありようを窺うと、なるほどと実感される言葉なのですが、平家を読んでいてもやはり同様の印象を受けることができます。

もちろん平家は史書ではなく叙事詩に分類される古典ですから、「作者」が(死を記録するのではなく)死に様を描くことによって人物を色付けているとも言えるでしょう。また作者が此岸や彼岸にうるさい中世の人間であってみれば、そう考えるほうが自然だとも言えそうです。
しかしそれならばなおのこと、侍や悪僧の死に際にみられる人間模様がこの古典の読みどころとして際立ってくるのではないかと思います。
言うまでもなく、作者は死に様にその人物像を集約しようと努めるはず、だからです。

「人間は刻々に死につつあるので、別に、死という特定のものがあるわけではない。刻々の死を終える時があるだけだ。従って、刻々の死を意義あらしめるためには、刻々の生を、最善を尽くして生きねばならない。それを全うした者にのみ、よき“終わり”がめぐまれる」(新潮45・編『生きるための死に方』・野口晴哉という整体の先生の言葉)

もともと生き様が反映されやすい死に様、そして作者(小林秀雄風に言えば「個人を越えた名手」)が健筆にいっそう力を込めたであろう死に際、それが頻出する古典が平家物語である、というのがお題目を念頭に置いた上での私の見方です。
この観点から結論を述べますと、様々な死のあり方(文学的に気取れば「運命のうねり」とでも言いましょうか)を通して、その対極でもあり背中合わせでもある自己の生き様に目を向ける習慣を獲得することが、おしゃるところの「人格形成」に通じるといえば通じるのかなあと考えます。
そのようなわけで平家かなと。


ちなみに私が真っ先に思い浮かべる死に際は「先帝御入水」における平知盛の次の振舞いです。

さる程に、源氏の兵(つわもの)ども、平家の船に乗り移りければ、水手楫取(すゐしゆかんどり・=船頭水夫)ども、或いは射殺され、或いは斬り殺されて、船を直すに及ばず、船底に皆倒れ臥しにけり。新中納言知盛の卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて、「世の中は今はかうと覚え候。見苦しきものどもをば、皆海へ入れて、船の掃除召され候へ」とて、掃いたり、拭(のご)うたり、塵拾ひ、艫舳(ともへ)に走り廻つて、手づから掃除し給ひけり。女房たち、「やや、中納言殿、軍(いくさ)の様はいかにやいかに」と問ひ給へば、「ただ今、珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからと笑はれければ、「何でふただ今の戯(たはぶれ)ぞや」とて、声々に喚(おめ)き叫び給ひけり。【角川文庫版より】

文字通り修羅場なわけですが、このぎりぎりの場面での船内清掃とは妙な行動ではあります。しかし一方で、遺体の清めや死装束・死化粧の施し、あるいはまた、末期ガンを告知された人がするであろう身辺整理、そういったことを想起させる行動ではないでしょうか。
清めた船が「御所の御船」ですから、そんな寓意が込められているのかもしれませんね。
ともかくも、死を、一族の滅亡を目の前にした男が、修羅場でとっさにみせた「死に支度」に武将としての品格を感じさせ、印象的です。

この場面、頼山陽の『日本外史』では漢文らしい簡潔さでこう記されています。

義経、乗輿の在る所を知り、軍を合せて疾(と)く攻む。知盛及ち帝船に赴く。諸嬪迎へて状を問ふ。知盛大に笑つて答へて曰く、「卿(けい)ら当(まさ)に東国男児を睹(み)るべきのみ」と。一船皆哭す。知盛手づから船中を掃除し、尽く汚穢物を棄つ。時子及ち帝を抱(いだ)き、相ひ約するに帯(おび)を以てし、剣璽(けんじ)を挟(さしはさ)み、出でて船首に立つ。帝時に八歳、時子に問うて曰く、「安(いづ)くに之(ゆ)くか」と。時子曰く、「虜(りよ)、矢を御船に集む。故に将(まさ)に他に徙(うつ)らんとするなり」と。遂に与(とも)に倶(とも)に海に投じて死す。【岩波文庫版より】

逆に饒舌な『源平盛衰記』ではこん感じです。

さる程に源氏の兵共、いとど力を得て平家の船に漕ぎ寄せ漕ぎ寄せ、乱れ乗る。遠きをば射、近きをば斬る。竪横散々に攻む。水手(かこ)・かんどり、櫓を捨て、梶を捨て、船を直すに及ばず、射伏せられ、切り伏せられ、船底に倒れ、水の底に入る。中納言は、女院・二殿などの乗り給へる御船に参られたりければ、女房達、「こはいかになり侍りぬるぞ」と宣ひければ、「今はともかくも申すに詞足らず。かねて思ひ儲けし事なり。めずらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめ」とて打笑ひ給ふ。手(てづか)ら自ら船の掃除して、見苦しき者共海に取入れ、「ここ拭(のご)へ。かしこ払へ」など宣ふ。「さほどの事になり侍るなるに、閑(のどか)なる戯言かな」とて、女房達声々をめき叫び給ふ。【新人物往来社】

ついでにハーンの『耳なし芳一』から。

More than seven hundred years ago, at Dan-no-ura, in the Straits of Shimonoseki, was fought the last battle of the long contest between the Heike, or Taira clan, and the Genji, or Minamoto clan. There the Heike perished utterly, with their women and children, and their infant emperor likewise―now remembered as Antoku Tenno.

何か長いんですけど、三人しか回答してなのでご勘弁を。

基本的にはどちらも修養の書とは言えない性格を持っていると思いますし、NO.2の方がおっしゃるように結論は好みの問題に帰するほかはないとも思われます。また「人格形成」という言葉から、いかに若年層に益するかということがテーマのような印象を受けたりもするのですが、敢てそれらのことを棚上げしてお題目にお答えすれば、私の軍配は平家に上がります。

「平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう」(石母田正『平家物語』)

大きな歴史のうねりの中に活写される人物群像を眺めるだ...続きを読む

Q修士論文の変更

大学院に来年4月から通います。(合格済)
その準備のために家で勉強していますが、私のこれまでのバックグラウンドからして研究計画書に従った修士論文を書くことが難しいと判断しています。自分の知識を見極め変更したほうが成果が出ると思います。そこで質問です。
質問
(1)各大学の修士論文(私の専門の分野)を集めることは可能ですか?
(2)研究計画書を変更して修士論文を書くことは出来ますか?
 勿論今から修士論文の準備はします。
※なお、この分野の研究者になる予定ですので修士論文はレベルの高いものが求められます。不安で夜も寝れません。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

#1のように、(1)は各大学の修士論文・博士論文は問い合わせれば入手可能です。(2)も指導教員次第です。きちんと相談して下さい。

ただし、変更の理由はどうかと思いました。試験の際の計画書はできると思って書いたものであるのが前提です。もちろん進捗状況で路線変更することはよくあることではありますが、まだ手をつける前から自分の知識を見極めるのは、指導側からするといい印象を持ち得ません。将来的に研究者を目指すということをふまえると、大丈夫かという不安を残します(目指さないなら何も問題なしです)。それも含めて再度計画を作成し、指導教員と相談することをお薦めします。

Q栄花物語と源氏物語の万葉集について

栄花物語 月の宴には、
昔、高野の女帝の御代、天平勝宝五年には、左大臣橘卿、諸卿大夫等集りて、万葉集を撰ばせたまふ
と孝謙天皇の勅撰とありますが、

源氏物語 梅枝には、
嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻
と嵯峨天皇が撰んだとも読めるようにあります。

このほぼ同時期に書かれた二つの物語の相違はどう解釈されているのでしょうかお教え下さい。

Aベストアンサー

>栄花物語と源氏物語の万葉集について

「栄花物語」の記述については一昔前は妄説の類いとして無視されていたのですが、近年「万葉集」19巻の成立に関して橘諸兄(左大臣橘卿)以下が大伴家持に命じて、19巻のもとになる資料を提出させたのではないかとの説が出ており、再評価されているのが現状です。なお、「万葉集」の詞書に年が書かれている和歌の中の最後の歌は、天平勝宝五年(752)の7年後の天平宝字3年(759)の因幡国庁での大伴家持の歌ということも関連します。
「源氏物語」のほうは、嵯峨天皇が古万葉集から抄出(書き抜き)させ、4巻にまとめたものと考えられています。もともと万葉集の原型の巻数については15巻説から数十巻説まであり、現在の20巻になるまでに紆余曲折があったと考えられ、また、一度に完成したのではないとの説が有力ですが、4巻は少なすぎ、後代の勅撰集が20巻というのも万葉集に倣ったとされていますから、「源氏物語」の文を万葉集の成立を記述したものとは考えられていません。

以上、参考程度に。


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