皆さんこんにちは。

私は、豊臣秀吉の命を狙ったとされる石川五右衛門を
尊敬しております。ところで・・

天下の大泥棒、石川五右衛門が釜茹での刑に処されるとき、
五右衛門は死ぬまで悲鳴をあげなかったと思っていました。

が、しかし知人から、釜の中が熱くてしたかがないので
自分の子供を下敷きにしたと。最近聞きました。

これは、えらい違いなのですが、どちらが本当ですか?

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A 回答 (1件)

おそらくこちらを読んだのでしょう。



石川五右衛門 (「半生」の項目を参照のこと)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D% …

これだけで3つの説があるのですから。

「どれが正しい」なんてことは言えません。
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この回答へのお礼

こんにちはー

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/22 17:15

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しますよ
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))

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また、農家は現在のように米や野菜を現金に変えてたのでしょうか?物々交換??

年代、不作、大名、反の地主や役人で大きく変わってくるのでしょうがお解りになられる範囲で回答して頂ければ助かります。

Aベストアンサー

No.4です。
補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。
>例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか?
落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・

当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。
まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。
刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。
鋤、鍬、鎌などの農機具の需要と補修の要求は常にありました。
このような技術を持った鍛冶屋は必ず村内にいました。
鉄鍋の補修程度は簡単にこなしました。
包丁などの刃物は物騒な戦国時代ですから常に制作していました。
鉄は貴重な素材ですのでリサイクル使用します。

これらの専門技術を持った人とユーザーである農民との間では、多少現金が必要だったでしょう。
ただし、この専門技術を持った人も野菜など自給できる程度の畑は所有していました。
大事な農具を作ったり直したりする人です、日常的なおすそ分けは当然あったでしょう。

衣料用の繊維は麻と木綿が主体でした。高級品としては生糸もありました。
いずれも村内で生産されていました。
糸を紡いだり布を織るのは女性の重要な家事でした。
布も貴重品ですのでこれもリサイクル使用されていました。
布として形状が残っている限りリサイクルされ続けました。
現在でも各地の民芸品として各種のものが売られています。

日本の山というのは非常に豊かな森林を構成していました。
必要とされる物資はほとんど供給してくれました。
森林の恵みを生かす技術は縄文時代から受け継がれてきていました。
縄文時代、弥生時代と非常に長い間日本人は自然の恵みの中で暮らしていました。
関東平野は今は見る影もありませんが、豊かな雑木林と里山が続く土地でした。
現在は山菜は土産物か地方のお土産品ですが、当時は日常的な食品でした。
保存のための、漬物の類はどこにでもありました。
田畑だけが食糧品を提供していたわけではありません。
川や湖沼も豊かに魚類(動物性たんぱく質)を提供してくれました。
泥鰌、鮒、鯉、、モロコ、鰻、田螺、川エビ、などは子供でもとれる日常食品です。

関西地方以西は豊かな瀬戸内海を控えていますので、海産物に不足することはありませんでした。
利根川以北の河川には秋になると鮭や鱒が遡上してきました。
全国の川に鯔や鮎が遡上してきます。
海も川も今のように汚染されておらず、あらゆる生き物が生息していました。
ちなみに、江戸前というのは、寿司のことではありません。
日本橋川のように江戸城の堀につながる川で取れた鰻のことです。
江戸時代の初期ですら、江戸の街の中で鰻が採れました。

以上のことから、五穀の中でなぜ米だけが租税として徴収されたのかを考えてみてください。

日本列島というのは本当に豊かな島です
しかも戦国時代は現在の十分の一以下の人間しか住んでいなかった時代です。
関ヶ原直後で約1000万人、江戸時代を通じて約3000万人程度と推定されています。
急激に増えるのは明治以降です。

No.4です。
補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。
>例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか?
落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・

当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。
まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。
刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。
鋤、鍬、鎌などの農機具の需要と補修の要求...続きを読む

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仏閣は、石山本願寺ですが、こちらは再建されていません。
石山本願寺攻めの時に同時に焼失した四天王寺が豊臣秀吉によって再建されています。(四天王寺は大阪府大阪市天王寺区四天王寺)


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