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哲学者の皆様には失礼でしょうが哲学を学ぶ意味はあるのでしょうか?

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A 回答 (22件中1~10件)

・ある社会で一般的、常識的な世界観や価値観や倫理観に違和感をもつ人は当然「ではどうなのか?」とかんがえます。

これはすでに哲学しているのであろうし、この人にとって哲学することはある意味の必然といえるのではないでしょうか。
・哲学は倫理学がその基礎にあると思います。例えば自己批判をする場合、既存既知の批判方法が不十分であると感じる場合、そのひとはやはり哲学をせざるを得ないと思います。
・上記のような人でなくとも異なる価値観を知ることはある程度意義があるのでは?しらないよりはマシだと思う。少なくとも自分の価値観世界観だけが絶対的だという考えはなくなるのでは。
・技術や経済的な実利に関しても、ある程度哲学をする(学ぶ)意味はあると思います。例えばある狭い分野にだけ特化した専門家や学者だけが科学技術や学問の発展に寄与してきたわけではない。むしろ、その逆で、多くの歴史的発見は背後の思想哲学や他分野の考え方などとの深く結びついている。
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あるといえばあるし、ないといえばない。



「哲学を学ぶ意味」うんぬんより、あなたが意味があると思えばあるし、ないと思えばない。

どちらを選択したとしても、あなたにとって意味はあります。
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No.15です。

少しだけ補足します。

「哲学とは、われわれの言語という手段を介して、われわれの悟性をまどわしているものに挑む戦いである。」(『哲学探究』第109節、ウィトゲンシュタイン、大修館書店、全集8、99ページ)という記述は大変示唆に富むと思います。

惑わしているものを取り除いていく作業に、意味があると思えば、学ぶといいと思いますし、意味がないと思えば、あるいは、面倒くさいと思えば、学ぶ必要はないのでしょう。

そして、惑わしているものが取り除かれたら、それで目的を達しますから、哲学自体に執着せずに、捨てていいと思うのです。そういう意味で「はしご」に過ぎないと書いたわけです。

でも、「はしご」に過ぎない哲学自体、あるいは、哲学の成果に執着してしまうのも、人の愚かさ(惑わされ、翻弄される悟性)を示す例かもしれません。こんなに苦労して手に入れたものを捨て去るなんてとんでもないと思うのでしょう。しかし、哲学は、惑わし除去の小道具に過ぎないというくらいに僕は考えています。「惑わし除去」された後の方が、大事だと思うのですが・・・。惑わされずに見ている状態(正見)を維持することの方が、そこにいたる経過(哲学)を賞賛するよりも大事だと思います。
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 質問者様には 失礼でしょうが 学ぶ意味のある哲学作品に出会っておられないだけではないでしょうか?

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趣味。



自らの苦悩の癒し、治癒。

思索が好きだから。
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別に失礼なことはありません。

哲学がいかなる領域かはご承知ですよね。
学ぶ意味を見いだせない学問領域に学ぶ意味などありません。

経済学は、学ぶ意味があるのでしょうか?
科学は、学ぶ意味があるのでしょうか?
法学は、学ぶ意味があるのでしょうか?

御質問者様にとって学ぶ意味ある学問を学ぶから意味があるのです。
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 ANo.11の補足ですが、意味の有無も、理解もなくてもあるものだし、やっていますね。


 あるから、だ。とか、あってきたから、だ。とか。
 そして意味をそこにつけていったり、意味のあるものにしていったり。
 ANo.11の補足ですからね。これだけでは回答にはならないことは理解しておりますが。
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私には、学ぶ意味がありました。

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哲学って、「はしご」です。


登り切ったら、いらなくなります。
なんだそんなことだったのかと納得したら、目的を達します。

はしごを使わずに、屋上を想像するだけでよい場合は、不要です。
屋上からの景色が見たい人には、必要です。
少しだけ見通しの良い視点を持ちたければ、学ぶといいと思います。

既存の階段で上りたい人は、そこを上ります。
自前のはしごを作って、登りたい人は、そのようにします。
しかし、最終的に、階段でもはしごでも、屋上の景色に変わりはありません。好きな方法でよいと思います。ただし、自前だと満足感がありますが、至難の業でもあります。

気球や飛行船や飛行機までは、要りません。
段々と日常水準からかけ離れますから、そのあたりはお好きにどうぞという感じでしょう。

一段一段の積み重ねが必要なので、一段飛ばしとかの手抜きをすると視点は高いのに、視野が狭くなるように思いますから、気を付けてくださいね。
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古代、人類が物を考えるようになったときから繰り返し出て来る質問ですね。

「哲学を学ぶ意味がある」というのも一つの哲学、「哲学を学ぶ意味がない」と言うのも一つの哲学ですね。犬のように生きると言うのも哲学、犬じゃなくて人間として崇高に生きると言うのも哲学ですね。と言うことは、哲学とは生き様のことなのでしょうね。生き様を磨くも善し、成り行きに任せるも善しということでしょうか。どちらの生き様でも、満足して棺桶に入った方が一杯いるし、念を残しながら棺桶に入った方も一杯いたようですね。

哲学に学なんて余計な形容詞が付くからややこしくなって、哲学者と哲学学者の違いが分からなくなっているのでしょうね。昔から生き様と言う哲学の実践者ではなくて、哲学学をやる方の外国語の翻訳のセンスの無さは、定評がありますね。

私は若い頃イデアの概念の深さに恍惚としたことがありますが、 後になって、イデアが英語でideaだと知った時に、目から鱗が落ちた経験をしたことがあります。なんだ、英語国民がイデアを教わるときは、アイデアを想起するのかって。哲学学者って、ことほど左様にこけおどしの言葉で素人を煙に巻いているようですね。人参素をカロチンと呼んだり、心臓が止まって死ぬことを心不全による死亡と言うと、かっこいいですものね。
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