直江兼続と織田信長の関係について教えてください。

A 回答 (3件)

本能寺の変については、諸説有りどれも的を得ていると思われるがそれほど信長に対しては”思うところ有り”の諸将がいたことは確かであるが、諸説あるなかでもあまり知られていない説が、直江兼続が配下の一団である。

それは手取川の戦いで敗れて残党の信長軍のある一団が上杉が家臣、近江出身の川田長親に預けられ七尾城に軟禁、兼続の命を受けて厚遇される。再教育を受けて京都に戻される。この一団が明智光秀の謀反を助ける、兵団に化けた。という説がある。上野から滝川一益、信濃より森長可と絶体絶命の最中、兼続は至って冷静に京洛の一団に命を
発し、明智光秀一派に加担した。こり結果越後は、壊滅の事なきを得た
兼続の捨て身の作戦である。信長と兼続とは直接的関係は無いものの大きく転換する位置に二人が存在したことは事実である。
(河原信三著 謙信とその一党より)
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織田信長は1582年の本能寺の変で死亡していますが、その時点で直江兼続(1560年生)はまだ22歳、織田家と長年に渡り敵対する上杉景勝の家臣の一人でしかありません。



織田家は北陸・信濃・関東の3方面から上杉家を攻撃しておりました。本能寺の変の当日に越後と越中の境の要衝である上杉方の魚津城が柴田勝家の軍により攻略されました。上杉景勝は魚津城に援軍を送れない危機的状態にあり、本能寺の変がなければ、1582年に上杉家が織田家によって滅ぼされていた可能性が大という状況です。

よって、
「直江兼続と織田信長の関係」

「身分が違いすぎ、かつ敵味方に分かれているため、何の関係もなかったと思われる。両者間に何らかの関係があったと判断できる材料はない」
と答えるしかありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
とても助かります。これから「天地人」を読もうかなと思っていたときに、あまりにも知識がなさすぎて……ホントウにありがとうございました。

お礼日時:2008/08/06 16:38

直江兼続は織田信長死後の秀吉の時代に出世した人で、小姓時代があるので全くとはいえないけど殆ど接点はない筈です。

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Q大河ドラマの主人公直江兼続

上杉謙信が死去する頃以前の直江兼続についての詳しい経緯を記している史料があまり無いと聞いたのですが、それでは今回の大河ドラマの直江兼続の幼少期や若年期のストーリーは全くの空想ということになるのでしょうか。

Aベストアンサー

様々な人の様々なエピソードが後世に伝えられていますが
それをどこまで信じるかということになると
それは話を聞いた人次第ということにになります。

例えば、秀吉の城の普請のエピソードや墨俣一夜城の話なんかも
どこまでが本当でどこからがフィクションなのかは
受け取る人次第なところがありますから

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Q直江兼続の馬名を教えてください。

直江兼続の馬名を教えてください。

直江兼続の愛馬(確か白毛)の名称・呼称をご存知の方がいらっしゃたら教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

黒雲(と名があるので白ではなさそう)
戦場で戦うので一匹(一頭)とは限りませんが。

「匹」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP334JP336&q=%e9%a6%ac%e3%80%80%e4%b8%80%e5%8c%b9
「頭」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP334JP336&q=%e9%a6%ac%e3%80%80%e4%b8%80%e9%a0%ad

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Playtown/2647/kanetugu.html

Q「織田信長の遠眼鏡」と「ガリレイの望遠鏡」

16世紀の織田信長という人は大変な新し物好きで、南蛮人から「遠眼鏡」なるものを献上されて大変に喜んだと聞きます。
http://www.kiyokawa-opt.co.jp/siryou/gl_hist1.htm
http://www.aac.co.jp/hometown/nagasaki/dentoh.html

一方、「望遠鏡」はいつ発明されたかというと、どうも1608年らしいんですね。
http://www.gunma-inpaku.com/museum/dic/00t/teles01-j.html
http://www.mmjp.or.jp/V-OPT/ten/p-67.html

....時代が合いません!!どーゆーことでしょう?
「遠眼鏡」と、「望遠鏡」とは別物なのでしょうか?
どなたか、信長のもらった「遠眼鏡」と、ガリレイの利用した「望遠鏡」の仕様の違いについて教えていただけませんでしょうか?

Aベストアンサー

別物です。同じ年表の1649年にオランダ特使が望遠鏡を献上とあります。

近眼鏡・・近視用のメガネ
遠眼鏡・・遠視用のメガネ
望遠鏡・・とうめがねとも呼ばれた一本の筒にレンズを装着したもの。
双眼鏡・・二本の望遠鏡を一体化し両目でみれるようにしたもの。
顕微鏡・・望遠鏡を改良し微細な物体を拡大して見る装置。

1582年没の織田信長は望遠鏡の存在すら知らなかったということになりますね。

Q豊臣秀吉が直江兼続を引き抜こうとしたが、他にも引き抜きをしていたのですか。

天地人で、豊臣秀吉が直江兼続を直接の家臣にしようと砂金をばらまいたり、刀を振りかざしたシーンがありました。あのシーンはドラマの演出としても、実際、一代の成り上がりで譜代の家臣を持たないので引き抜きはあったのだと思います。

さて、同様な引き抜きは他にどんなのがあったんでしょうか。おしえてください。

・徳川家康の石川数正のそうでしょうか。「出奔」というくらいだから引き抜きというより、ケンカわかれしたのを拾ったという印象ですが。
・毛利は、本家輝元のほか、安国寺えけいや毛利秀包、小早川隆景を別家でとりたてていますが、これも直江兼続同様に引き抜きで成功した例ですか。
 逆に引き抜きできなかったほかに例はありますか。
・伊達政宗の片倉小十郎も引き抜こうとしたのですか。

Aベストアンサー

立花宗茂
引き抜きというか独立の大名になりましたね。

島津兄弟
兄の義久が薩摩、弟の義弘が大隅とそれぞれ所領安堵されている。結果として義弘の息子が兄の義久の養子になったので統一されているが、義久に実子がいれば、別家扱いになっていたかもしれません。

津軽為信
分離志向があったものを、太閤公認で別家

真田
ここも、信長死亡をうけてのどさくさで別家というか独立ですね。

Q織田「上総介」信長について

「上総介」は正式に得たものですか、それとも自称ですか。
また、いつ頃から使い出したのでしょうか。
また、上野や常陸ではなく上総としたのには理由があるのでしょうか。

どの点でも結構ですからご存知のところを教えてください。

Aベストアンサー

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する)、根拠は不明です。弾正忠、備後守までの中継ぎということ、本家筋の織田家(守護代)は大和守、伊勢守を通称していること、などから、(1)受領系統の名前が穏当(当時の風潮としても受領名のほうが人気が高かった)、(2)備後、大和、伊勢クラスの国とつりあいをとった(上総、大和、伊勢は上国で守が従五位上、介が正六位下――ただし信長は最初知らずに守を名乗っていたので宗家並みのつもりだったのかもしれない――、備後は大国で守が従五位上)、などの理由によるものではないでしょうか。ちなみに上野、常陸も上国です。

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する...続きを読む

Q直江兼続と大一大万大吉

石田三成さんの旗印「大一大万大吉」ですが、プレステ2の某戦国ゲームの中では、友人の直江兼続からその言葉と意味を教わるシーンがあるそうです。
直江さんの思想の中にも同じような考えがあったのは何かで読んだことありますが、大一大万大吉という言葉を石田さんに教えたという説が実際にあるのでしょうか?

Aベストアンサー

三銃士のシーンですね。個人的にはゲーム中であの場面が一番好きなシーンです。
ご質問の件ですが、おそらく創作だと思います。wikiからの引用で恐縮ですが、“鎌倉時代の武将、「石田次郎為久」(中略)も使用”していたということですので、彼にちなんで使った(あるいは先祖)のではないでしょうか。
徳川家康との対決において、三成と兼続が共同作戦を取ったという話から二人(+真田幸村)の結びつきを強調するために挿入されたイベントではないでしょうか。
もしかしたら、そういう説話が存在するのかもしれませんが、私は聞いた事がないです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90

Q織田信長と徳川家康の関係

この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q直江兼続は恩のある豊臣家を何故滅ぼしたのですか?

関ヶ原の戦いが終わり敗者となった上杉。
その後家康に恭順し恩のある豊臣家を攻撃します。

どうして義の軍団の上杉が豊臣を攻撃したのでしょうか?

Aベストアンサー

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

家康を五大老の筆頭にしたのは、秀吉ですが、上杉に会津120万石を与え、関東東北の要としたのも、秀吉です。豊臣家が、秀吉の政策を継続するなら、秀頼が「上杉の会津(佐渡、出羽)120万石はそのまま」っていえばよかったんです。
天地人でのせりふの「上杉を潰すな」くらいじゃ、全然だめです。

会社の東北支店長だったのに、解任されて、米沢出張所に飛ばされ、一生出世なしって待遇されたら、恨みますよね。首にしなかったから、恩を感じろなんて、めちゃくちゃじゃないですか?

上杉は、京都との交易による関銭が大きな収入源です。アメリカと貿易して関税でもうけるみたいなものです。北の関が原で、出羽に出兵したのは、直江津港に代わる、もらったばっかりの庄内の港を最上から守りたかったからです。

上杉が越後から出たのは、直江津港(当時は今浜)の代わりに佐渡の港と、庄内の港をもらえるからでした。それを、反故にされし、港の無い米沢に押し込められちゃったんですよ。豊臣家を恨みませんか?

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

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Q直江兼続末裔

何してますか

Aベストアンサー

息子が早死にしたので、直江本家は断絶したが、
養子で、弟の娘を養女にし嫁がせた
本田政重は、加賀前田家の家老五万石となり、
直江家はじめ上杉からの浪人を多数召し抱えた。


政重の子孫の、本多正光さんは
石川県の藩老本多蔵品館館長として、
加賀前田藩の資料の保全研究を
されています。


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