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私は男なので、男の観点から質問します。
私にとって、「美人」というものが、そうでない人に比べて、圧倒的な存在感を放っています。人間の中身は美人も不美人も優位な差はあるのかないのか分かりません。美人に性格不美人は少ないと感じている程度です。なのでやはり人間的にひきつけられている訳ではないと思うのです。
つまり、かなり純粋に視覚的感覚的評価によって、その存在感が圧倒的に大きい。ほかなんてどうでもいいと思うくらいに私の心の中で突出してしまっています。
こういう、ただ偶然に見目形が美しいというだけで圧倒されてしまうという私の感性、あるいは世の中の価値観というもの、その状況というものは、人間不平等という観点からも軽視できない問題であると思います。
「美人」の問題に対して、どう考えていけばよいのでしょうか?

A 回答 (19件中1~10件)

 個人的視点の社会的有利性,遺伝的な有利性(普遍的無意識の中の生物学的本能に近い部分),見た目による煌びやかさによる普遍的無意識の発露による幸福性(普遍的無意識の生物学的本能ではない認識,感覚,感情,思考などの根源になる太古の昔の感受性),本質との絡み合いによる感受性による1次的もしくは2次的な本質的感受(キャラクターとよばれるもの)


この4つが複合的に絡み合って相手の美しさに飲み込まれるということだろうと思います。
 これに飲み込まれて髄の部分が見えなくなったり美人本人が髄を美人の性格と上手く合わせている為より一層そう見えるということだろうと思います。
一つ一つ紐解いて見ましょう。
 まず社会的有利性というのは流行や優越感などの相互的関係の有利的幸福感という話になりますね
 遺伝的有利性これは先天的な生物学的高次遺伝子を残したいという願望があるために美人に引かれるというものですね、ある種社会有利性の根源ともなっている部分もあると思います。
 そして見た目による煌びやかさにおける普遍的幸福感これはですね太古の昔の認識や感覚や感情というのは何処と無く人間の心の無意識には刻み込まれています。これを普遍的無意識といい誰でも持っている先天的な感受性のことをいいます、これを刺激されると人間はある種すばらしいとか、いけてるとか何かしら感覚的な感情がうまれるのです。昔はそれを芸術やその飾る場所の位置関係などによって満たしてきました、現代はやはり現代でなんとなく表現しようとおもっているだろうと思います。ポスターカラーや夜中のネオンなどにはそのような感覚が生まれる要素は多大にあると思います。ある種光を認識するにも先天的なDNAを必要とするのですからそのコレクションというのは門外不滅だろうと思います。組み立て方はその時代や国柄にもよるだろうと思いますがその組み立て方によって普遍的無意識の幸福感を感じ取って綺麗だと感じることはあると思います。
 そして本質との絡み合いによる感受性による1次的もしくは2次的な本質的感受これは、いわゆるキャラクター性ですね、見た目と本質(本人の本質)の絡みによるある種のキャラクターが受けて側に好印象を与える事により倫理的な判断がおろそかになり幾ら倫理的な判断が出来たとしても「まあいいか」となるのだろうと思います。ただこれが1次的なものであると後々考えが変わるということは十二分にあります。また2次的なものの場合ある程度ぞっこんになるという要素はあるように思います、まあ最近は1次的な感受性が多いのだろうと思いますが

 この変動による認識に対して差別を正当化しているもしくは差別を差別と認識せずに当然かの如く差別をしているのが現代でしょう。この問題にどう取り組めばいいのかというとまず美人さんと感受側に差別の根底的認識をしてもらう他ないように思います。ただこのような悪的な内容が現代増えている事に多少問題があるのではないかと個人的には思っています。いじめにしても依存症にしてもある種悪の正当化、いや悪の昇華といったところでしょうか、あると思いますね。
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この回答へのお礼

分析的なお考え、ひどく納得できます。
無意識は強固に存在しますから。それに抗ってみも無益なことで、むしろ明らかにして自覚していく、その過程でより高い意識性にいたれるはずです。
しかるに、現代の風潮は、その作業性からますますはなれて意気、軽佻浮薄、おっしゃるような差別意識を生んでいる要因に関しても曖昧模糊と資本主義原理により丸め込み同調していくという、堕落以外(ただの堕落ならまだしも反道徳的とさえいえるもの)の何者でもないことが平然と大手をふるっているようです。

「啓蒙」というものは、結局こういう社会では不可能だと感じるところです。

お礼日時:2008/08/24 09:09

 No.14&17です。


 ご説明をいただきありがとうございました。

 問題は 次のようでしょうか。
 ★ (No.17お礼欄)「容姿」への差別感、峻別意識
 ★ (同上)峻別意識が普遍的に存在することで、嫉妬や要らないマイナス感情やさまざまななくてもいいものが生じる気がしています。
 ☆ おそらく 《容姿 もしくは その美 の一元論》ではないでしょうから 《人を その容姿によって 峻別し 差別を持ってあたる。または 嫉妬が持たれる》ことは 《美人》論の問題ではないのではないでしょうか?
 ふつうに 一般に 人の境涯にかかわる問題だと思われます。嫉妬は 感情じたいは ふつうのものだと考えます。差別意識を持つ人は 人格の発展途上にあるということだと考えます。(ホンネとタテマエとを 使い分けるだけでも 人格は 基礎固めになると思います)。

 ちなみに 別の問題に触れておられるようです。
 ★ (No.16お礼欄)私は、マスコミ的な流行的現象と、個人の「本音」の部分での意識は、つねに本質的に乖離しているものだと考えます。
 ☆ さらに 述べてありますが この場合 要は こうなるでしょうか。つまり
 ○ 本来 容姿の美やその感受性は 個人の知覚に任せられている。それと同じように 個人の責任において 自由に表現し ああだこうだと発言してもいいはづだ。それを 社会のあり方としては どうも マスコミならマスコミによって この美意識やその評価が 一定の狭い範囲に押し込められる傾向があり はては その傾向に おまえたちは 追随せよと言わんばかりになっている。こんなばかなことは ないじゃないか。
 ☆ これでしたら 同じ意見です。テレビで 女優やタレントが 美人だと一度言われれば これが 広がり 露出度が大きいと 常識というまでになってしまいます。そうすると 人びとは 一般に これに追随し そのように口に出します。それを聞いたこちらは まづは 合わせなければならないという手間暇が要ります。タテマエで合わせますが その時間は 無駄であるように感じます。美人だという評価は いっさい 趣味の問題だという前提を マスコミは はっきりさせておかなければなりません。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。
おっしゃられるとおり、「美人論」の問題よりももっと幅広い嫉妬ややっかみその他差別意識の一領域です。ただ、その中の有力なものとして存在するような気がします。おっしゃるとおり、それらのものは、書生術的な心理テクニックとも言うべき「本音建前」を発達させ、人間精神に奥深さを与えるという効能があります。
が、大きな代償を社会事態は払っていると思われます。

マスコミ論に関してはその通りうけていただけたので満足しております。結局は商売の領域ですから個人の状況には合わせませんね。

お礼日時:2008/08/24 09:03

 No.14です。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 個人的な問題よりも普遍的な問題定義(* 提起?)をしております。
 美人が私に合うか合わないか、そんなことはしような問題で、この世界中に起こっている容姿による不平等の問題とは本質的に関係ないようですね。
 私もあっとされるが、回答者さんも人類普遍的にほとんどすべての男性が感じている問題です。「美」にね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《あっとされる(* 圧倒される?)美》の持ち主が 《自分に合うかどうか》は 《枝葉末節の問題》であっても かまいませんが そういう《容姿によ〔って感じる美が片寄っているという〕不平等の問題》 これも 枝葉末節の問題なのではないでしょうか?
 ★ かなり純粋に視覚的感覚的評価によって、その存在感が圧倒的に大きい。ほかなんてどうでもいいと思うくらいに私の心の中で突出してしまっています。
 ☆ ということが 《人類普遍的に》起こっていることから どういう《不平等》の問題が起こっているのでしょうか?

この回答への補足

全人類的一般的に起こっている「容姿」への差別感、峻別意識が、本質的問題であり、枝葉末節なことは微塵もないと考えます。文章がわかりにくく混乱しましたらすみません。

峻別意識が普遍的に存在することで、嫉妬や要らないマイナス感情やさまざまななくてもいいものが生じる気がしています。

補足日時:2008/08/23 09:12
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美意識というか美的感覚というか、どういう人を「美人」と感じるかは、人それぞれであり、そこに「普遍性」はありません。


まぁ、ある程度の「流行り廃り」はありますけど。

例えば、近現代になってもてはやされるようになった「グラマーな女性(俗な言い方だと、ボン!・キュッ!・ボン!笑)」は、中性では醜い生き物でした。
逆に、今は忌諱されるきらいのあるふくよかな女性は、昔では美しい女性でした。(まぁ、限度はありますけど)
『ミロのビーナス像』や、『ビーナスの誕生』や浮世絵の美人画などの女性を見てください。
現代で実際に目の前にいたら、おそらく多くの人は少し太ってる女性だと感じるはずです。

と、美意識とは所詮観念的な事柄で、主観的なモノなんですよ。
他の方が「趣味」だと言う理由ですね。
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この回答へのお礼

問題点の本質がわかってきました。
私は、マスコミ的な流行的現象と、個人の「本音」の部分での意識は、つねに本質的に乖離しているものだと考えます。おどらされて、追従しているかのような錯覚におちいることはあるかと思いますが、それはあわせなければという半ば脅迫的な思いと紙一重です。
所詮古今のマスコミ現象はそんなものだとして、問題はその「本音」意識は趣味の領域だとして、他の趣味(たとえば鉄道マニアとか盆栽とかスポーツとか)は実にばらけて多様なのに対して、美人の趣味というのは、かなりの収束性を示しているとしか言いようのないことです。そうでなければこんなことが一般的な問題にはなりません。
回答者さんが感じる趣味と私が感じる趣味は、360度の自由度がある中で立った30度とかその辺の範囲で「趣味」といっているような気がします。

お礼日時:2008/08/23 09:12

再度の回答失礼します。



想像が膨らみすぎてすみませんでした、、、といいたいところなのですが、質問の要点がいまひとつ分かりづらいところや、やり取りの拙さを見ると、正直、的外れな想像とも思えないのです。

熟考して書き込みのできる状態で、この程度のコミュニケーションスキルですと、実生活で、女性と上手に会話できると思えないのですが。
まあ、経済力とかそのほかの魅力があれば、別ですけど。

>私はかなりもてます。ここ7、8年くらい連続して何人もの女性と付き合っています。

これって、モテナイ人の書き方ですよ^^本当にもててるなら、他人にどう思われようと平気じゃないですか。
それに、もててる割には、書き込む時間がたくさんあって、お暇そうですね。

さて、ココからが本題ですが、
「不平等が非情」と考えるから、深刻な問題になるのではないですか?
不平等が当たり前なら、美醜はただの「個性」です。思い悩むこともありません。まあ、醜の人のほうが損をすることが多いのは事実ですが。それこそ、本人の努力の問題ではなく、もって生まれたものですから、仕方ないですので、そこからなにをするかではないでしょうか。

自分はその程度じゃない、もっと固執しているんだというのであれば、NO14さんが仰ってるように、「趣味の問題」ですから、

>どう考えていけばよいのでしょうか?

の答えとしては、ネイルや鉄道とかと同じように、「美人」という趣味を自分は持っているんだ、で何も悩むことはないと思いますよ。

それでは、失礼しました。
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この回答へのお礼

バカ正直な男に女は弱いものです。
回答者さんのように、偽り慣れたる処世術派は、本当に女性の心を射止めることはないでしょう。

また、後段の本論ですが、至極もっともで、反論の仕様もありません。その超ドライ感覚で持って世の中を渡るのが、心も傷つかず悩まずにすむ1番よい方法です。勉強になりますが、私にはその実践はできません。

お礼日時:2008/08/22 22:01

 ★ ただ偶然に見目形が美しいというだけで圧倒されてしまうという私の感性、あるいは世の中の価値観というもの、


 ☆ このとき 《その美人が わたしに合うかどうか 相手に こちらが合うかどうか》は 判断基準に入って来ないのですか?
 《合う》というのは 生涯の連れ合いとしてという意味です。
 もし そうでなければ すべては 趣味の問題だと思います。
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この回答へのお礼

個人的な問題よりも普遍的な問題定義をしております。
美人が私に合うか合わないか、そんなことはしような問題で、この世界中に起こっている容姿による不平等の問題とは本質的に関係ないようですね。
私もあっとされるが、回答者さんも人類普遍的にほとんどすべての男性が感じている問題です。「美」にね。

お礼日時:2008/08/22 21:58

みんながみんなしたい人とSEXしたいから不平等がおきるんじゃないの?

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自分で言うのもなんですが明晰な頭脳と客観視をそなえた身として言わせていただければ、


私は稀なほど美人です。しかしながら、garcon2000さんにとってはどうでもいいことでしょう。
実際どうでもいいんです。その程度のことなんですよ。そばにいない美人、その目で見られない美人なんて。
狭い世界の美や幸福の約束で満ち足りる、つつましやかで平凡な善きものです。
どうしてもなんとしてもネットで質問に答えた稀なる美人を探し出してみたい、とまでなれば、
なるほど、一考に値する感性と価値観の持ち主と言えるでしょうが。
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この回答へのお礼

そばにいようといまいと、実在するんですから。そのミニチュアな状況で、あるいはそのせいで一人の人間の人生が狂うことがあるという例もあります。この「美貌」にくるって職を辞することになったとか、そういう類が。実際人っていうのはそこらじゅうで会いますから、この発酵作用がいたるところでおこります。涼しい顔をしてますが、男は常に「美」を渇望している(と思われます)

街を歩いたり電車に乗るといつも視線を感じるでしょう?

そういう卑近な問題です。そしてそれゆえにかなり深刻な問題です。

お礼日時:2008/08/22 01:27

何に固執するかは、人それぞれ比重が違って、質問者さんの場合、それが容姿だったというだけではないのですか?特に問題はないと思われますが。



なにか、小難しく書いてますが、要するに、
「自分は、アイドルとか大好き!だけど実際には、アイドル並みのルックスの子はもちろん、普通の容姿の子にも相手にされない。ウワーン!どうしよう!」って、ただそれだけですよね?
実生活で満たされていれば、疑問に思うこともないでしょうし。

>どう考えていけばよいのでしょうか?
どう考えるも何も、好きなら全うするだけじゃないですか?
普通にいると思いますよ?独身で、40歳、50歳になってもアイドルの追っかけしてるようなおじさん。

真面目にお答えすると、
その1.容姿に惹かれる人が多数なのはなぜか
NO.1さんが仰ってるように、そこに遺伝的なバランスのよさを無意識に見出すからです。たくましさではありません。目と目の距離とか歯並びと、筋力の強さに関係があると思います?そうではなくて、いってみれば、素性のよさ、良い遺伝子をもらってるということではないでしょうか。

その2.容姿がよいということは不平等ではないか
そもそも、平等なんて観点は、生物学的に見てありえません。左寄りの人間が勝手に作り上げた幻想です。
容姿に限らず、お金や素敵な両親など、境遇は、人それぞれです。運不運は必ずあります。
美人は美人なりに、ブスはブスなりに、生きるしかないのです。何も問題ではありません。
そもそも不平等という観点が生まれるのは、実社会でうまくいってない不満からきています。
それは同情を禁じえませんが、それを言ってもはじまらないので、もともと生物界は不公平なんだと許容してもらうしかないです。
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この回答へのお礼

想像力たくましいのは結構ですが、妄想が過ぎます。
事実は、私はかなりもてます。ここ7、8年くらい連続して何人もの女性と付き合っています。途切れないんです次から次へと。で、それなりに面食いの私の許容範囲の女性ばかりです。そうでない人は残念ながら願い下げです。満たされようと満たされまいと、なぜこうも世の中の醜い不公平が厳然と存在するんだ、という疑問はまったく消えません。

なので、個人的な問題でもありますが、もっと普遍的にこれはどうなんだということです。

>目と目の距離とか歯並びと、筋力の強さに関係があると思います?そうではなくて、いってみれば、素性のよさ、良い遺伝子をもらってるということではないでしょうか。

これは大変いいお考えですね。なにか整っていると本能的に感じられるのは、生物としてのバランスのよさを感知しているんでしょうね。


>そもそも不平等という観点が生まれるのは、実社会でうまくいってない不満からきています。

こういうことが必ずしも真ではないということです。うまく行っていても、そうでない人の存在に心を痛めることもあります。

しかし人間の一生って言うのは何ぼのものだと思いますよ。それを
>それは同情を禁じえませんが、それを言ってもはじまらないので、も

ともと生物界は不公平なんだと許容してもらうしかないです
と割り切れるというのは、すごく強い姿勢でもありまた非情な要素もあると考えます。

お礼日時:2008/08/22 01:21

>3割の人が美人と投票する人と8割の人が美人と投票する人、おなじ「美人」という言葉でくくっていいのか疑問です。



別に問題ないでしょう。自分が美と見るかどうかだけでしょう?
周りが美と認めなかったら自分も美と思わないってことじゃないですから。一般的な美になにか意味があるのか?
質問者さんが圧倒されるのは質問者さんが美と認めた相手でしょ。皆が美っていった相手じゃないはずです。(一致することはあるでしょうけど)

質問者さんは美ってのは一つの価値基準であってそれが全てじゃないってことを失念してるのかなって思います。

背が高い低い。
頭がいい悪い。
運動が出来るできない。

これらがすべて残酷さや悲劇と思いますか?
例えば背が高い低いを絶対の価値基準にしてる人には残酷であり悲劇かもしれないですね。
これらの人の差を認めることを不平等って言うなら僕の認識がおかしいのでしょう。
美人は美人って認めることが不平等ってことにはなんないでしょう。

それとも美人には優しくするけどそれ以外はどうでもいいから雑に扱ってますってことで困ってるんでしょうか?
そうだとしても美人じゃなくても友達でも好き嫌いで多少区別する以上極端じゃないひいきってのがあること自体普通でしょう。
後は程度の問題じゃないかな。
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この回答へのお礼

今まで生きてきまして、人気のある女性というのは集中してしまうのです。そして、争いの元にもなります。なぜなら、そこに競争が生じるからです。主に「美人不美人」が起因しています。
そういう経験則で話しています。

こういうことは悲劇ではないでしょうか?もちろん普通のことでしょうがね、ただ、根本的には悲劇だと思います。悲劇に慣れてしまっているんですね。

美人に対する心の動きがただならないという男だったら大体経験することに対して問題だと思っているわけです。それは回答者さんもお分かりになることでしょう。

そして、もちろん「程度問題」あるいは以上述べたような意識問題ですね。その範疇に収まって実害がないほどならかまわないともいえます。

お礼日時:2008/08/22 01:12

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