アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

大東亜戦争について疑問に感じた事があります。

「大東亜戦争は日本人が白人と戦う手本を見せ、戦後アジア各地の植民地は独立し、その戦争理念を達成し本当の意味で勝利したのは日本だ。」と言う見方をする人がいます。
私も概ね同意見です。

しかし疑問に思ったのですが同じ有色人種の中国人とも戦争してましたよね。
厳密には中国共産党と国民党の連合軍と。

八紘一宇の戦争理念と矛盾してると思うのですがどうなんでしょうか?

尚、大東亜戦について否定的な見解を持ってる方のレスは荒れる原因になりそうなのでご遠慮下さい。

私の祖父が中国戦線に行った事もあり自分の中で気持ちの整理が付かないと言うかモヤモヤがあります。

よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

あの戦争のことを現在の常識で考えれば「愚かだった」となってしまいます。

八紘一宇の精神とかアジアの独立とか評価できるものは確かにありましたが、概ね「ただの侵略戦争だった」と思います。
でもそれは織田信長や武田信玄の時代の国盗り物語と同じ発想だったのです。当時の価値観が現在のものとは違っていました。弱肉強食の時代でした。世界全体がそうだったのです。しかし大英帝国はいい加減世界を牛耳って、もう満腹状態であったし、アメリカはもともとが豊かで広い国土でしたから他国を侵略する必要がなかった。それでその二つの国の価値観は日本とは違ったのです。つまり侵略を許さないという方針でした。衝突は歴史の必然だったと思います。誰が悪いというものではありません。時代の流れでした。貴方の祖父、わたしの父もその大きな流れの中にあったというだけです。
    • good
    • 0

明治以降の日本は、自国外で戦闘を行なっており、負けても相手が本土まで来る様な国ではないので、対米開戦まで本当の意味で一か八かの戦争はしていませんでした。


日清・日露に関しては、日本側も相手の首都を制圧できる筈のないものでしたが、両国とも後で体制が崩壊する様な内情であったので、幸運にも「勝った」と言う形で終わらせる事ができました。
その後に仕掛けた戦争については、敗色濃厚な一次大戦のドイツ、国が崩壊した中国とロシア、本国政府が無くなったフランスなどを相手の開戦で、とても手本となる様なものではありませんでした。
仏領等に進駐した後、支配を正当化するために八紘一宇を強調しましたが、実際の現地の人達に対する態度・品格の無さから、その魂胆はすっかり見抜かれた様です。
後の東京裁判でインドの裁判官の意見も、「日本が正しい」のではなく「欧米も正しくない」と言う事で、日本の善政が無かった訳ではありませんが、八紘一宇と言う日本の高い目線での理屈を評価する外国はありません。
    • good
    • 0

「大東亜」戦争の美辞麗句を隠れ蓑にして決定された政策は次の通り。



大東亜政略指導大綱より(1943)
(前略)
六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム  
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応シ努メテ政治ニ参与セシム 
(ハ) ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム  
(二) 前期各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
(後略)

「八紘一宇」も「大東亜共栄」もいわゆる建前で、現在のインドネシアは帝国領土とすることが決定されています。
結果主義からいえば日本から離れれば離れるほどインフレ率の高くなる「大東亜共貧圏」が成立したことが事実ですから失敗は明らかです。

>八紘一宇の戦争理念と矛盾してると思うのですがどうなんでしょうか?

「八紘一宇」が建前で「領土拡張」「重要資源確保」が本音ですから
当然矛盾しますな。建前を本気で信じた人も当然いるでしょうが、国の政策としては建前にすぎなかったと。
ある意味いつの時代でもありうることではあります。
    • good
    • 0

「八紘一宇」、「大東亜共栄圏の建設」 は1941年から始まる対米英蘭仏戦争のプロパガンダですね。


対中戦はそれより前の1937年で、それ用のプロパガンダは「暴支膺懲」です。
「暴虐の限りをつくす支那人に大打撃を与え、二度と戦争が出来ないように 懲らしめよう」というスローガンです。
    • good
    • 0

そもそも「絶対少数派」である特定の意見だけでコーナーを完結しようとするのはルール違反と思いますが、明治以降の日本で起きていた戦争に係わる順番としては


征韓論=>日清戦争=>三国干渉=>日露戦争=>日韓併合=>第一次大戦参戦による中国内ドイツ領侵攻=>満州事変=>三国同盟=>対中戦争=>第二次大戦開始時の蘭仏領侵攻=>対米戦争
であり、敗北が明白な対独・対蘭仏戦以外は、一方の白人同盟者の支援において対白人戦争を開始しています。
自分の判断・力で戦争を仕掛けたのは、対有色人戦争のみです。
第二次大戦については、参考URLにあるものが、事実に近いと思っています。

参考URL:http://www.iwakuro.com/index.html
    • good
    • 0

人種で考えると、よくわからなくなるような気がします。


日本軍と戦った人数では当然、中国人が圧倒的多数ですし、インド、マレー、フィリピンなどでも、戦った相手は現地人部隊が多数派でした。
フィリピンのバターン半島にたてこもった連合軍は米軍3万に対してフィリピン軍10万でしたし、シンガポール攻略で最大の激戦になったブキテマ高地を頑強に守ったのは華僑の部隊だったわけで。

インドネシアで八紘一宇を実践しようとした司令官、今村均は敵国人に対する態度が軟弱であるとして、大本営と大ゲンカの末、最前線のラバウルへ左遷されました。この事実からすると、八紘一宇の戦争理念は大本営の参謀連中にはなかったようです。ちなみに今村司令官は東京裁判で、軍政司令官としては無罪になりました(求刑は絞首刑)。インドネシアの人の話では、「ジェネラル・イマムラなら小学生でも知っている」とのこと。
    • good
    • 0

正直、昭和初期の日本は、明確なビジョンを持ってそれを目指して何かをしていたとは到底いえないです。

ずっと、行き当たりばったりといった感じです。
例えば、ドイツは、(良いか悪いかは別にして)ヒトラーという明確な司令塔がいて、ヒトラーのビジョンに沿って動いていたわけですが、
日本は、政府・軍・財界が、それぞればらばらに自分たちだけで勝手なビジョンを考えて、それぞれ勝手に行動していたっていうのが実情だと思います。その結果、当時の日本は、欧米だけではなくてアジアの国々から見ても、何を考えているのかよく分からない国、言っていることとやっていることが全く違う国、という風に見えたでしょう。

というわけで、「八紘一宇の戦争理念」というのも、まず理念(ビジョン)を考えて、それに基づいて戦争をしていた、というよりは単に、後付でつけた、としか言えないのでは。
そもそも、公式には日本は中国とは戦争していたわけではありませんし、(たんなる事変)
政府も財界も陸軍も海軍も、基本的なスタンスとしては、一刻も早く「事変」を終わらせたいと思い続けていました。
太平洋戦争(米英との開戦)に関しても、八紘一宇の理念のもとに始めたというよりは、単に海軍の作戦計画や戦略上の都合(今、開戦しない限り勝てる見込みが全くなくなる)に引きずられて、なし崩し的にはじまってしまった、というのが実情ですし。

「八紘一宇」という理念自体は、(少なくとも当時の日本や、いくつかのアジアの国々の人々に)かなり広く受け入れられたというのは事実だと思いますが、
上で書いたように、個々人ではなくて国としては、当時の日本は、まず「八紘一宇」という理念が先にあって、それに沿って行動していたとはとても言えません。
ただ、「八紘一宇」という概念に多くの日本人やアジアの人々に広まって、その結果、戦後に多くの国が独立を果たし、またその独立を多くの日本人が個人として助けたというのは事実だと思います。
    • good
    • 0

日中戦争は1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)、日本が大東亜宣言したのは1941年(昭和16年)です。

中国との戦争が長引いてしまってから、アメリカとの戦争のためにあとから理由づけしたんですよ。
思想自体は間違ってるとは思いませんが人間は間違いを犯すもの。「大東亜共栄圏」を真面目に信じて戦後も東南アジアの独立のために戦った日本兵は帰国しても「逃亡兵」扱いされてしまったんですよ。
    • good
    • 0

八紘一宇の戦争理念


一つの原理の元、皆平等ということですが、その一つの原理が天皇であり、その天皇の元でまず率先して八紘一宇の精神を発露しているのが日本人だから。
というのが、見え見えだったからでしょう。
そんなところに、率先して参加する人は少ない。

現代で言えば、グローバリゼーションって、アングロサクソン原理主義じゃん?と言う人もいます。それで、反グローバリゼーションを掲げる人もいます。
現代のグローバリゼーションよりも、天皇制・日本人優先が見え見えでしたから、同じ有色人種でも賛同しなかったと思います。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!