基本的な質問ですみません。
信長を知る上で最も重要な史料と言われる「信長公記」は、誰が、何のために書き、本能寺の変の真相についてはどのように記載されているのでしょうか??
また、これが現代語訳されたモノ(素人でも読めるようなもの)も販売されているのでしょうか?

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A 回答 (6件)

>基本的な質問ですみません。


信長を知る上で最も重要な史料と言われる「信長公記」は、誰が、何のために書き、本能寺の変の真相についてはどのように記載されているのでしょうか??
また、これが現代語訳されたモノ(素人でも読めるようなもの)も販売されているのでしょうか?

信長の右筆であった太田牛一が、江戸時代の初めに書いたものです。書いた理由は追憶と顕彰のためではないでしょうか。本能寺の変については、下のURLに原文の資料がありますので。
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki …
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html(一覧)
なお、「信長公記」は、新書版を含め数種類発売されていますので、簡単に手に入れることが出来ます。現代訳もついています。

以上、参考までに。

参考URL:http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2008/08/27 00:35

「信長公記」は第一級の歴史資料ではありません。


政治家の本より少しましという程度です。これは歴史家の
一致した意見。したがって書かれているすべてを信用するの
は考え物です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2008/08/27 00:38

信長公記は確かに貴重な資料で大筋の行動には間違いがないようですが、作者は信長の家臣・書記役なので信長の自伝くらいに捉えた方が良い様ですよ。



信長生前の最後は事実上の天下人でしたが、次の天下人は子飼いの豊臣秀吉でその次は追従同盟者の徳川家康とその一族。
信長以後の彼らは天下人になる過程で先の天下人やその家族を踏み台にしてますが、彼らにとっては信長生前の関係で信長を貶める事は自分を貶める事と同じなので都合の悪い事は表に出しません。
信長・秀吉・家康~徳川家の天下人リレーでかなり自分達の都合の良いようにされているようです。
倒幕後に江戸幕府が明治政府に正史として提出した徳川実紀は、かなり都合よく記述してある事を江戸幕府じたいが認めて申告したと云いますから。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2008/08/27 00:37

加藤廣著の「信長の棺」という小説があります。

松本幸四郎主演(太田牛一役)で
テレビドラマにもなりました。このドラマはフィクションですが、その中では
豊臣秀吉が太田牛一に命じて書かせていますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2008/08/27 00:37

こんにちは。


>>「信長公記」は、誰が、何のために書き、本能寺の変の真相についてはどのように記載されているのでしょうか??

著者は信長の家臣であった太田牛一という人物で、「信長公記」は江戸時代初期に成立しました。当然、信長の家臣でしたから、ある程度、信長を賞賛するように有利に書かれた部分も多いと思います。

太田牛一(おおた ぎゅういち、うしかずとも呼ぶ)大永7(1527)年~慶長18(1613)年3月、は戦国時代の人物。和泉守。牛一が実名か号かどうかは諸説あるが、信定(のぶさだ)、とする説もある。通称は又助(またすけ)。また、実名を資房、信長の右筆(文書の代筆掛り)であったとする説はよく見られるが実際は誤り。牛一の読みは、ぎゅういちと呼ばれているが、晩年に、本人が「ぎゅういち」から「うしかず」に名を改めたという説がある。
尾張国春日井郡山田荘安食村(現名古屋市北区)に生まれる。織田家家臣柴田勝家の下に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。1564年、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では弓をもって大活躍したという。その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治め、本能寺の変の際には近江国の代官を務めていた。変後には丹羽長秀に2000石をもって仕えたが、後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年(1593年)には弓大将として肥前名護屋に在陣。翌3年(1594年)、明使の接待をつとめ、慶長3年(1598年)の醍醐の花見では秀吉の愛妾三の丸殿の警護を務めた。慶長18年(1613年)3月、病死。子孫は孫の宗古が前田利常に仕え、以来加賀藩士として続いた。
文才に優れ、信長・秀吉・秀次・秀頼・家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である『信長公記』が特に有名。晩年は、大阪天満にて隠居生活を送る。

「信長公記」の原文は、こちら・・・。
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html

現代版はこちら・・・。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html

本の購入はこちら・・・。
http://item.rakuten.co.jp/book/816662/
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2008/08/27 00:37

Wikipediaにかなり細かく書いてありました。



参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7% …
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2008/08/27 00:34

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Q織田信長と豊臣秀吉の悪い点と徳川家康の良い点を教えてください!!

織田信長と豊臣秀吉の悪い点と徳川家康の良い点を教えてください!!

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信長の悪いところは過激過ぎたこと、と
部下の心根を理解しようとしなかったこと
です。
だから、暗殺されたのです。

秀吉は、せっかく手にした天下を長続き
させられなかったことです。
そういう体制を創れなかったこと。

家康は、忍耐強いこと、いざというときには
命がけになれることが、良い点です。

関ヶ原では、秀頼はとうとう戦場に来ません
でしたが、家康は身体を張って戦場に乗り込んで
殺されそうになっています。

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

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・豊臣秀吉がババを持って負けたとしたら?
・徳川家康がババを持って負けたとしたら?
どなたかひとりのリアクションでも結構です。

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・織田信長がババを持って負けたとしたら?

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・豊臣秀吉がババを持って負けたとしたら?

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「いやいや参り申した」と素直に負けを認める

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・織田信長がババを持って負けたとしたら?

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織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。
サイトなどを見ても難しい言葉ばかりでよく分かりません。
簡単に分かりやすく詳しく3人を比較して書いてくださると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問者様の意思を尊重して回答します。あいまいですが、ご了承ください。

☆織田信長
貿易の自由化、楽市楽座は大変な功績です。
能力主義で人材を登用した功績。⇒秀吉の登用。

☆豊臣秀吉
私的には、あまり功績は無いと思います。
基本的に、信長の遺志を引き継いだ人物。
子(後継者)に恵まれなかったのが、短命政権となってしまった。
やはり、家康の存在が大きすぎました。

☆徳川家康
戦国時代を終わらせたという功績。

すべては家康で終息しています。
脱線しますが、家康が「本能寺の変」の主犯格との一説もあります。
家康のブレーンに「天海」という人物がいました。
「天海」=「明智光秀」という説があります。明智光秀は生きていたという説です。

歴史に「たら」「れば」はないですが、織田政権とあるいは豊臣政権が続いていたらどうなっていただろうか?と思うとさらに興味が湧いてきます。

Q信長公記の信頼性について、そして。。。

ええ
私という人って戦国時代については、いつも「信長公記」が最高に良さの史料と思っていました。「戦国時代について、もっとも信頼性ある資料と言われる信長公記によると。。。」って文章ならみんなさん、よく聞くことがあるんでしょう
だが、近頃ショックを受けることがありました。ある方がこれようにおっしゃいましたから。
「信長公記」なんて、あくまでも三次史料ばかり!
ああ 私はこの時、何でも分からない気持になって、バーかとなる気がしました
詳しくは私もちょっとですが、
それが本当なら戦国時代についてもっとも信頼性ある史料ということはなんですか

Aベストアンサー

>もっとも信頼性のある史料

ですからそれを吟味するのが学問というものです。#1さんの挙げておられる当時の手紙にしても、
1.それは真筆か
2.どういう状況の下で書かれたか
3.それを書いた人の立場はどうか
などが、考慮されないとそこに書いてある事がそのまま事実だという事にはならないわけです。
本当に人に見られて困るものは書き残さないかもしれません。ある人物を褒める文書があっても、それが読まれる事を期待した文書だと筆者が本当に褒めているのかそれともそういう態度をとっていただけかはわかりません。
また一般論のような文章があったとして、それが実際にどの程度時代的、地域的な広がりを持っているかは検証の余地があります。
一例を挙げると。網野善彦さんの研究にあるのですが「百姓」ということばがありますが、これが実は必ずしも農民をさしていないことがあります。ところが文書で百姓とあればすべて農民、と解釈すると当然ながらその時代の農業人口や経済力などを見誤る事になります。

史料というのはそのようなものなんです。

なお、質問の文章ですが少々日本語としてはおかしい表現があります。お節介かもしれませんが一応直しておきますね。

ええ(というのは普通この種の文章の中では使わないので削除した方が)
私という人って→私は  良さの→良い  みんなさん→皆さん
あるんでしょう→あるでしょう  だが(このままでも悪くはないが、文体からいうと「ですが」の方が良いでしょう)
これようにおっさいましたから→こうおっしゃったのです
ああ(これも文中では使わないのが普通なので削除)
私は~しました→私はこの時何もわからなくなったような気がしました
ちょっとですが→ちょっとわかりませんが
史料ということはなんですか→史料はなんでしょうか
というように直された方がよろしいかと。

>もっとも信頼性のある史料

ですからそれを吟味するのが学問というものです。#1さんの挙げておられる当時の手紙にしても、
1.それは真筆か
2.どういう状況の下で書かれたか
3.それを書いた人の立場はどうか
などが、考慮されないとそこに書いてある事がそのまま事実だという事にはならないわけです。
本当に人に見られて困るものは書き残さないかもしれません。ある人物を褒める文書があっても、それが読まれる事を期待した文書だと筆者が本当に褒めているのかそれともそういう態度をとっていただけかは...続きを読む

Q織田信長・徳川家康・豊臣秀吉 この3人をまとめてなんと言いますか? 歴史は苦手なもので…この3人はた

織田信長・徳川家康・豊臣秀吉
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Q信長公記

信長公記の桶狭間の戦いの部分を読んでいますが知識に乏しくわからない所があるので教えて下さい。
信長御覧じて、中嶋へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入れ、一騎打ちの道なり。
この深田とは何でしょうか?
深い田?
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どうぞお教え下さい。お願いします。

Aベストアンサー

http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/minpou/minpou2002/minpou2002.3.24/newpage5.htm

こういう感じ。
私の出身地も元々は深田で、祖母は「船に乗って稲刈り」という場所でした。
http://www.kamedagou.jp/kmd/gaiyou.html
http://www.kamedagou.jp/kmd/rekishi.html
こういうところ。

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 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q織田「上総介」信長とは?

連続質問おそれいります。
織田信長は上総介=千葉県の次官
羽柴秀吉は筑前守=福岡県の長官
といった具合に、ほとんどやってもいない役職名がついているのが気になるんですが、
(1)そもそもこの役職名は、上に書いたような解釈で正しいのでしょうか?
(2)こういった役職名は誰に与えられたのでしょうか?
(3)(1)の答えが「正しい」だった場合、実際仕事はしてたんでしょうか?
(4)(3)の答えが「してなかった」だとしたら、役職が有名無実化したのはいつ頃からでしょうか?

Aベストアンサー

まず1についての認識は合っていますね。本来はそのとおりです。
2ですが、これは古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。
ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。
親王任国というのは、もじどおり親王のみが任官される役職です。こういった国では実際には介が統治していたのはNo2の方のとおりです。

しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国ではただの箔となっています。つまり4の回答がこれです。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。

で、織田信長ですが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです

まず1についての認識は合っていますね。本来はそのとおりです。
2ですが、これは古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。
ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単...続きを読む


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