歴史小説などを読んでると武士の本名の後に藤原某とか付いている藤原って何を意味してるのでしょうか?
例えば
水野十郎左衛門成之藤原某
とか。
奥州藤原氏の血縁とかでしょうか?
ちなみに家の墓にも
藤原範久と最後に付いてます。
昔から気になっていたので誰か詳しい人教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

昔は「姓」(氏姓)と「名字」の区別がありました。

「氏」は先祖を同じくする(とされる)集団の呼称で、「姓」(かばね)は大王(天皇)から授けられた一族の呼称です。「氏」と「姓」は本来別物でした。藤原氏なら、「藤原」が「氏」、「朝臣」が「姓」でした。ただし、中世以降、「かばね」を省略することも多くなり、この場合なら「藤原」のことを「姓」と称するようになりました。この「氏姓」・「姓」は天皇から公認された公称です。

しかし、同じ「氏姓」の者が多いので、区別が必要になり、「名字」が生まれました。「名字」は地名や職掌などに由来するもので、公式のものではありませんでした。例えば、「北条」・「足利」などは名字で、彼らは公文書には、それぞれ「氏姓」である「平」・「源」と記しました。

ご質問の件は、本姓が藤原であることを称しているわけです。ただし、本当に藤原氏の末裔かどうかははっきりしません。かの有名な水野十郎左衛門でも、先祖はあやしいですから。まあ、自称の可能性もあります(徳川の「源」も自称に過ぎませんから)が、近世までは、あやしいにせよ、こうした本姓を名乗ったものなのです。

こうした本姓を名乗ることは明治維新後禁止され、今日の「名字」のみになりました。なお。この歴史的には「名字」であるものが法律では「氏」と表現されているので紛らわしいのですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

分かりやすい説明文ありがとうございます。
徳川があやしいのは色々な本で読みましたが、水野十郎左衛門まであやしいとなると、当時相当数捏造していたと考えて問題無さそうですね。
大変参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/09/01 21:13

補足します。

私は「藤原範久」という方がどの系統の藤原氏か知らないのですが。鎌足に始まり、不比等が継承した藤原氏には、いろいろな系統があります。南家・北家・式家・京家の四家が基本的な系統で、そのうち、北家が隆盛し、様々な家系に分かれます。ご先祖様のことを調べる方法は色々とあります。例えば、家紋は何ですか?

因みに、奥州藤原氏は、北家藤原氏の系統であることを自称していますが、実際には異なるようです。すなわち、「勝手に」藤原氏を名乗っている可能性があるのです。

このように先祖を探るのは難しいのです。因みに、私の父は、我が家が近江源氏佐々木家の末裔であるらしいと言っています。それならば、私は宇多天皇の子孫ということになるのですが、非常にあやしいです。父の説を推定すると、多分次のようなものでしょう。我が名字は近江にあり、その同族に佐々木氏一族といわれる黒田氏がいる。我が家は江戸時代、その黒田家・福岡藩の家臣だった。まあ、この程度の根拠です。ところが、その佐々木氏は宇多源氏を自称していますが、実は違っているらしいので、前提から間違っているわけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

藤原氏の中でも色々あってその中でもいい所を自称して名乗って行くようだと、今現在に残る藤原の系統とはいかにもいい加減なものと分かりますね。
家紋は覚えていませんが、今度確認して調べてみます。
姓が藤原という事は、話のネタとして楽しむ程度にしておきます。
詳細な説明ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/04 20:41

水野氏を調べてみたが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D% …
ここまでは、ある程度明確
で、とんで戦国期末に織田家や徳川家との関連で出てくる水野氏が出てくる。
だもんで、藤原氏を称したり、桓武平氏を称した入りしているらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E% …
このへんの、平安末、つまり源平の争乱あたりまでと、戦国期末を うにゅーーーとつなげちゃうのは徳川といっしょですね。

先月 全集 日本の歴史 8 戦国の活力 という本を読んでいたら、
「出自が明解な大名は、佐竹、伊達、毛利、京極、島津くらいなもんだ」みたいなコトが書いてあった。
考えてみれば、江戸期の武士は尾張・三河の大拡散状態ですから、そんなもんなんでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

水野家は元々しっかりした家柄なのでしょうが年月がたつと子孫も増えてなげやりになるのですかね。よく分からん事になってますね。
成程武士なんてものは平安以降は素性なんてはっきりするわけないですよね。
色々ありがとうございます。

お礼日時:2008/09/01 22:35

この回答への補足

ちなみに同じ藤原でも色々名前があるのは何でしょうかね?
家は藤原でも範久の系統だと言う由緒を付けたかったのですかね?

補足日時:2008/09/01 20:37
    • good
    • 1
この回答へのお礼

早速にありがとうございます。
姓とは随分昔の事でどんどんあやしくなってるのですね。
とても参考になりました。

お礼日時:2008/09/01 20:35

藤原は「姓」です。


姓をつけるのは、おれは由緒があるぞ!というレベルでしょう、歴史小説で戦国期以降は。
血縁かどうかは不明です。自称なので、だいたいが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B0% …
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q奥州藤原氏と東北地方について

奥州藤原氏のことでお聞きします。
藤原秀衡は源義経を受け入れ、大軍を擁して源頼朝に対抗しようとしましたが、藤原秀衡の死後どうしてあっけなく滅ぼされてしまったのでしょうか。
源義経が自害においこまれ、藤原秀衡が病死したという個人の死が原因だというにはあっけなさすぎるように思えるのですが・・・。
奥州藤原氏の東北地方の支配体制が制度疲労を起こしつつあったにもかかわらず、藤原秀衡という一人のカリスマによって維持されていたのでは?と推測しているのですが、奥州藤原氏の東北支配体制とはどのよなものだったものなのでしょうか。
また奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府に対して東北地方で反乱等は起こったのでしょうか。奥州藤原氏滅亡後の東北地方と鎌倉幕府との関係についても教えてください。

Aベストアンサー

藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていた。これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのか
この当時。少なくとも源氏軍は保元・平治の乱や平氏との戦いをくぐりぬけた実戦部隊、いわば歴戦のツワモノ達でした。これに対して100年の奥州藤原氏三代の太平の中で戦いを忘れて弱体化した、平和を愛する蝦夷達が太刀打ちできるはずがなかったのです。

それともう一つ。
東北武士は当然、鎌倉にできた新政権がどんなものか知っていたでしょう。
鎌倉政権はそれまでの貴族政治に代わる、武士による、武士のための国づくりを目標とした政権だったのです。

それに引きかえ藤原氏は奥州の覇者ではあるが、その実態は律令政治(それまでの貴族政治)とそれほど違いがあるわけではない。

藤原氏は、朝廷から陸奥守鎮守府将軍に任命され、
奥州の王として黙認されているだけではないか・・・。

当主泰衡は父祖に似ず凡庸ということもあって奥州武士達は、政治体制として鎌倉政権の方により魅力を感じたのではないでしょうか

頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置し、奥州土着の武士を配下にした。鎌倉以来の移住地頭と地元武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。
 

藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていた。これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのか
この当時。少なくとも源氏軍は保元・平治の乱や平氏との戦いをくぐりぬけた実戦部隊、いわば歴戦のツワモノ達でした。これに対して100年の奥州藤原氏三代の太平の中で戦いを忘れて弱体化した、平和を愛する蝦夷達が太刀打ちできるはずがなかったのです。

それともう一つ。
東北武士は当然、鎌倉にできた新政権がどんなものか知っていたでしょう。
鎌倉政権はそれまでの貴族政治に代わる、...続きを読む

Q歴史小説などによくある、「○○万石」とはどんな意味でしょう?

最近歴史小説などをよく読むようになりました。
タイトルの通りですが、小説の中に、
【だれそれはどこどこ○○万石~】
という言い方がされているのが、意味がよく分かりません。

多分、多ければその分の権力が大きいというような解釈になるような気がしています。
石高?っていうんですか?税金(米や穀物?)がたくさん入るってことでしょうか?
それだけの税金が入るから権限もそれだけ大きいということ?

Aベストアンサー

石高といって米の生産量など特産品などから付けられる物で武士は気品敵に米を支給されそれを売って金に換えて必要な物を買うという感じになっています。(売り買いをちゃんとしてくれる業者が居ました)
石高が大きいということはそれだけ大きな事業を興せる藩ということになり幕府に対して影響力を与えます。

参考URL:http://bakumatu.727.net/iroha/mame-kome.htm

Q奥州藤原氏の滅亡はなぜ?

なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていましたが、これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのしょうか?
後三年の役より約100年。
戦の仕方を忘れてしまった奥州藤原氏の軍は、保元・平治の乱を戦い抜いた源氏軍の敵ではなかったのでしょうか?
また、奥州藤原氏が滅び去った後の陸奥・出羽はどうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかったかと言われています。
かたや、鎌倉側は24万4千騎と発表してますが、その前の源平での戦ぶりを見ると、実際には数万騎くらいではなかったか?と思います。

それでも奥州の2倍~3倍はありますが、もちろん、この米の収穫時期を狙ったのが頼朝の計算である事は藤原泰衡も承知しています。

倍以上の兵力を少ない人数で迎え撃つためには、山中のゲリラ戦か、一点集中の防御かになると思いますが泰衡は後者を選びます。

それが、阿津賀志に柵を設けての合戦です。
もし、ここでゲリラ戦に挑んでいたら勝てたかも知れませんが、それは、この後の結果を知っているから言える事で、少なくとも、この時点では、どちらをとっても一か八かの賭けのようなものだったと思います。

もちろん、泰衡も、「もし、ここが破られたら・・・」というその先の計画も考えていたでしょう。

それが、ここを破られたら、あっさりと北へ逃げる事です。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』では、この泰衡の行動を、敵に背を向ける臆病者呼ばわりしていますが、それはあくまで鎌倉側の言い分で、おそらくは、泰衡は、時間をかせいでいたのではないか?と思います。

東北の冬は、早いですから、もう少しだけでも時間を稼げば、農期は終わり、あたりに雪が降り始めますから、そうなると、例の奥州17万騎がフルに活用できる上、雪中での戦いにおいて、彼らは鎌倉武士よりはるかに有利です。

しかし、残念ながら、泰衡は、その冬が訪れる前に、信じていた家臣からの騙まし討ちで命を落します。
さすがに、これは計算できません。

いや、逆に頼朝側から見れば、この戦いを冬にまで持ち込まれてしまっては、負ける確立大ですから、それこそ、騙まし討ちであろうが何であろうが、泰衡を討ってしまう事を最優先にした可能性もアリですね。

よって、
>なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
の回答としては、泰衡が家臣に殺されたから・・・と考えます。

雪の季節まで彼が生きていたら、巻き返しがあったかも知れないという期待を込めて・・・以上は、あくまで私見ですが・・・参考にしてみてください。

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかった...続きを読む

Q小説と事実の関係は小説によって異なると思いますが、司馬遼太郎の風の武士

小説と事実の関係は小説によって異なると思いますが、司馬遼太郎の風の武士にあるやすらいの国とか紀伊国屋とか伊賀の忍者などの真実性はどのぐらいでしょうか。

Aベストアンサー

こんくにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>小説と事実の関係は小説によって異なると思いますが、

私も歴史小説を書いていますが、極端に言えば、「虚」が90%。「実」が10%位だと思ってください。
登場人物や、その当時の風俗などは、ある程度「歴史辞典」などで調べて、できるだけ、
「当時はこんな生活をしていたのだろうな~」
と言う趣は取り入れますが、何せ、その当時に生きていたわけではないですし、実際に見たわけでもありませんから・・・。
ある史実があったとしても、作家によっての視点の違いで、全く別の作品ができあがります。
学術書ではないので、要は、作品として「面白い」「嬉しい」「悲しい」、これらの要素をそなえていれば、小説として成り立ちます。

「講釈師 見てきたような嘘をつき」

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Q藤原姓の人の先祖は武士?

藤原姓の人や名字に藤が入る人の先祖は
武士や華族などの身分の高かった人なのでしょうか?

Aベストアンサー

#7さんに補足すれば、藤原貞幹も一般には「藤貞幹(トウ・テイカン)」と名乗っており、本姓は藤原、名は貞幹(サダモト)、字は子冬、通称は叔蔵となり、#7さんご指摘のように「姓(かばね)」を一文字で称するということに当てはまります。
当然、今の近衛さんや九条さんなども姓(かばね)は藤原ですから、私の知人も同様に朝廷に上がるときは水無瀬ではなく「三位中納言藤原朝臣**」ということになり、藤原**と名乗っても間違いとはいえません。
因みに私は先祖代々の庶民(江戸期は村の鍛冶屋)で、系図を辿っても姓がありませんから「近江の国の住人**」ということになります。
現在の苗字は鍛冶屋をやっていたころの屋号だったようです。
こういった姓と苗字の違いが分かっていれば、混同して付けるということは無いと思いますけど、「伝藤原氏子孫」という方もいますから、現在の藤原さんで貴族の藤原氏の血を引いると信じている方を否定することはできません。
ただ、私の友人も大阪島本の水無瀬神宮の系図の端に名前を載せてもらい、遡れば藤原北家隆家まではっきりしていますけど、こういった明確に藤原氏と認められる方で、藤原と名乗る方はいないのではないかと思います。
本来は氏の長者しか名乗れませんから、近衛さんを差し置いて藤原など名乗れないのでは無いでしょうか。

#7さんに補足すれば、藤原貞幹も一般には「藤貞幹(トウ・テイカン)」と名乗っており、本姓は藤原、名は貞幹(サダモト)、字は子冬、通称は叔蔵となり、#7さんご指摘のように「姓(かばね)」を一文字で称するということに当てはまります。
当然、今の近衛さんや九条さんなども姓(かばね)は藤原ですから、私の知人も同様に朝廷に上がるときは水無瀬ではなく「三位中納言藤原朝臣**」ということになり、藤原**と名乗っても間違いとはいえません。
因みに私は先祖代々の庶民(江戸期は村の鍛冶屋)で、系図を辿...続きを読む

Q藤原氏と奥州藤原氏の関

中臣鎌足の子孫である藤原家と、義経をかくまったので有名な奥州藤原氏(三代目の藤原秀衡など)は、どういった関係なんでしょうか?

Aベストアンサー

奥州藤原氏の前身は、東北の豪族であった清原氏で、
その地盤を引き継いで基礎を固めたのが、藤原(清原)清衡です。

その清衡ですが、もともとは藤原経清の息子で、
父親の死亡後に母親が再婚して清原氏に嫁いだため、
連れ後として清原氏に入った事情があります。

後三年の役で、清原氏の内紛を制した後で、
出自のために清原氏で冷遇されていたこともあり、
元々の姓である藤原を改めて名乗りました。
「藤原」と名前がつくのはこのためです。

そして藤原本家との関係ですね。
一番の祖先である藤原経清ですが、
これは鎌足以来の藤原氏の末裔である秀郷流藤原氏の流れを汲みます。
本家からは相当はなれているので、傍系もいいところですが…。
藤原氏には傍系がたくさんあって、
その中には武家となったものもあり、
秀郷流藤原氏はその中でも比較的名門の部類に入ります。
残念ながら、そこでの経清の位置まではわかりません。

というわけで、名前が示すと通り、
奥州藤原氏と藤原本家には一応の血縁関係があります。

Q歴史小説で歴史が学べるか

最近、歴史を学ぶのには新書か文庫本にすればよいのか、
それとも歴史小説のほうが良いのか、と思うようになりました。
無論、歴史小説のほうが作者の意見・時代の流れ・背景等が事細かく書かれており、
個人的には歴史小説のほうが良い。
ところが、時たま歴史小説では、架空の人物が登場するというので、それは困ります。
面白いことに変わりは無いのですが、騙された感があります。

どうすれば、よいのでしょうか。

Aベストアンサー

歴史書をベースに、フィクションだということを認識した上で歴史小説も読めばいいのではないでしょうか。

歴史に「絶対」と言えることは決して多くないと思います。なので正史と言われるものだって、ツッコみ所はあります。また、同じ歴史的事実であっても、立場や見方の違いで、全然異なるものになることもあります。
まして「謎」とされるものは、基本的な知識の上に、読み手の想像力も必要になると思います。その想像力を養うのには、歴史小説を含むフィクションを読んだり見たりすることが少しは役に立つと思います。

また、歴史の事実を書いた本では、個人に深く着目することはありません。歴史上の人物がどんな人だったかということになると、自分の想像力も含めて、どうしてもフィクションに寄る所が多くなるんですよね。

>時たま歴史小説では、架空の人物が登場するというので、それは困ります。
>面白いことに変わりは無いのですが、騙された感があります。
別に架空の人物だけがフィクションではありません。実在の人物だって、その人の言動などの多くはフィクションですよ。だって、数百年も昔に生きていた人たちが、どんな会話をしたかなんて、ほとんど資料には残っていませんから。
騙されたと思わず、間違い探しをするようなつもりで見ると、違う面白さが出てくると思います。

歴史書をベースに、フィクションだということを認識した上で歴史小説も読めばいいのではないでしょうか。

歴史に「絶対」と言えることは決して多くないと思います。なので正史と言われるものだって、ツッコみ所はあります。また、同じ歴史的事実であっても、立場や見方の違いで、全然異なるものになることもあります。
まして「謎」とされるものは、基本的な知識の上に、読み手の想像力も必要になると思います。その想像力を養うのには、歴史小説を含むフィクションを読んだり見たりすることが少しは役に立つと思...続きを読む

Q奥州藤原氏は東北弁だった?

当時奥州藤原氏は京に負けないような華麗な文化を誇っていたといわれていますが、日常の言葉は現在の東北弁に似たものだったのでしょうか、それとも京都弁のようなものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

私見です。

奥州藤原氏は近年「五代」といわれるようになり、その期間は百年をこえますが、ご質問は最盛期秀衡の時代のことで宜しいのでしょうね。

一般的なイメージよりも、都と奥州との人的交流は活発だったようです。
元々多賀城国府とのやりとりは密だったでしょう。また秀衡の舅は都の貴族ですし、多賀城国府の元官人や、追放刑に処された下級貴族などが平泉に留まり、藤原氏に仕えるようになったりしたこともあったらしいです。
また商人も盛んに行き来しています。新猿楽記という古典は平安末期の各種職業のカタログ的な内容ですが、その中の商人は「北は陸奥から南は貴賀島 (鬼界ケ島)まで」を行動範囲にしています。
また平泉には大きな寺がいくつもあったので、僧侶の交流もあったことでしょう。都ではありませんが、熊野や白山とのつながりも指摘されていますね。

こういう状況であれば、当時の平泉で京言葉を聞く機会はそれなりにあったのではないでしょうか。それならばコミュニケーションのために言葉の上でお互いが歩み寄ることはあったと思います。しかしそれは理念的に言葉を取り入れるのではなく、必要に迫られて・あるいは日常生活上、少しずつ影響を受けたものではないかと感じます。基本的には地元の言葉を使っていたのではないでしょうか。秀衡はおそらく奥さんが京言葉でしょうから、多少バイリンガルかと……

この件について言語的な資料を見つけることは難しいかと思います。ご存知のように、奥州合戦で平泉はほとんど焼けておりますので。行政資料も焼けてしまって困ったという話もありますし。……目下奥州が書いた文字資料はほとんど寺関係のものばかりで、今ひとつ日常を伝えてはくれません。
毛越寺では曲水の宴が開かれたといいますから、和歌の一つも詠まなかったはずはないのですが、今後の発掘に期待をかけるしかないようです。

ちなみに「東北弁」のようなという部分ですが、質問者さまは多分「地元の言葉」という意味を仰りたいのですよね。
というのは、現東北弁と当時の地元の言葉がどれだけ似ていて、また違っているかというのはまた別の問題になるかと思うので。#1の方が仰っていることですね。

では失礼します。

私見です。

奥州藤原氏は近年「五代」といわれるようになり、その期間は百年をこえますが、ご質問は最盛期秀衡の時代のことで宜しいのでしょうね。

一般的なイメージよりも、都と奥州との人的交流は活発だったようです。
元々多賀城国府とのやりとりは密だったでしょう。また秀衡の舅は都の貴族ですし、多賀城国府の元官人や、追放刑に処された下級貴族などが平泉に留まり、藤原氏に仕えるようになったりしたこともあったらしいです。
また商人も盛んに行き来しています。新猿楽記という古典は平安末期の...続きを読む

Q外国の歴史では、武士と言う言葉をみたことがありませ

日本の歴史署には、武士と言う言葉が使われています。
Wikiには、
<武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本分とするとされた、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。>
となっています。
ところで、外国の歴史では、武士と言う言葉をみたことがありません。
なぜ、見ないのか、が不思議です。私は、苦し紛れに次のようなことを考えつきましたが、どうなのでしょうか?
1、武士は日本固有の存在で、外国には武士に相当する人がいなかった。
2、外国にも武士に相当する人は、日本と同様に、存在していたが、武士と言わずに、他の言葉で表現し、それを日本語で武士とは翻訳しない。
などを考えていますが、本当はどうなのでしょうか?

Aベストアンサー

park123さん、2ですね。

ヨーロッパでは中世の騎士階級が武士階級では馬廻りに大体相当するでしょう。ただ、下級武士にあたる徒歩は騎士ではなく、従者なんですかね。足軽はたぶん、兵卒なんですかね。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報