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私は今までガンダムシリーズを見たことがなかったのですが、ガンダム00を見たのをきっかけにして、この間劇場版のファーストガンダムのビデオを見ました。その中で、よく分からなかったことがあったので、質問させていただきます。

まず、話の途中から出てきたララァというジオンの少女について質問です。
彼女は、突然出てきて突然死んで、アムロとほとんど接触していないのにも関わらず彼のトラウマになってたりして、非常に違和感があったんですが、劇場版でカットされていただけでTV版ではもっとたくさんアムロと交流していたんでしょうか?
また、彼女とアムロの戦闘シーンで、ニュータイプがなんたらと、そこだけ唐突にファンタジーのようになって、話に全くついていけませんでした。
漠然とした質問なんですが、ララァはガンダムというストーリーに必要だったんでしょうか? 彼女がストーリーの中で担っていた役割はなんなんでしょうか?

もう一つは、シャアについてです。私はガンダムを見る前は、シャアの目的は復讐だと思っていて、実際ストーリーの初めはその通りだったんですが、途中から、ガルマ・ザビを殺した時に空しさを感じ、復讐をやめ、ニュータイプの世界を創る、みたいなことを言ってたんですが、結局最後はキシリア・ザビを殺しました。シャアはいったい何がしたかったんでしょうか? 私には目的を見失って暴走してるように見えたんですが、確固とした目的があったんでしょうか?

長々とした文章ですが、以上のことを教えてください。

A 回答 (4件)

>>劇場版でカットされていただけでTV版ではもっとたくさんアムロと交流していたんでしょうか?


いいえ、ララァに関してはTV版と映画版ほとんど登場シーンは同じです。

>>漠然とした質問なんですが、ララァはガンダムというストーリーに必要だったんでしょうか? 彼女がストーリーの中で担っていた役割はなんなんでしょうか?
ストーリー的には全く不要ですが、ニュータイプというオチを決めた所からララァは必要な人物となりました。
アムロの「超」能力がニュータイプという力で、瞬時に共感出来る(相手を理解できる)能力・可能性を秘めているという方向に監督の富野氏が決めた段階でララァという少女が必要になったのでしょう。
ララァとの接触で得た共感する能力がラストの脱出劇に繋がるので、話の流れ的には悪くは無いと思いますが、ガンダムがニュータイプがテーマだと話がそれてしまう結果を招いた事において必要以上の毒があったといえます。
当時においてこのニュータイプという言葉があったから、アムロのとんでもない戦闘能力に説得力を持たせたのは言うまでもありませんが、それ以上のわかりあえるとか宗教的な要素を加味した事への不満は、アニメーションディレクターを勤めた安彦良和氏が色んな対談で語ってます。


>>私には目的を見失って暴走してるように見えたんですが、確固とした目的があったんでしょうか?
シャアの目的がザビ家への復讐だった事は間違いありません。
ただガルマを殺した事で虚しくなったと本人が言っているはずです。
ガルマはザビ家の息子だったというだけで、仕官時代からの友人であり父を殺したザビ家への復讐さえ考えなかったら殺していない人物だったのです。
有名な台詞でギレンの演説中に「坊やだからさ」というシャアの台詞がありますが、これはガルマにあてた言葉であるという意味とシャア自身が子供じみた復讐をした事自身へのあてつけとも取れるのです。
この時シャアはドズル配下でしたがキシリアに拾われます。
劇中では語られていませんが、この頃にララァと対面している事になります。
ザビ家への復讐が虚しくなった今彼が戦う理由はジオン・ダイクンの実子としての世直しに関心が移っていく。
※ジオン・ダイクンは、ニュータイプを提唱したジオン独立の父であり思想家(革命家)です。政治家の息子が政治家を目指すようにシャアも同じ道を歩もうとしたのでしょう。
ララァはそれを導いてくれる母性の象徴としてシャアにとっては必要だった。
シャアはニュータイプのなりそこないで、プレッシャー(敵意)を感じる事はあっても共感・共鳴を感じる事が出来ない存在だと気づいていたから。
その導いてくれるはずのララァも戦いで失い、アムロにも同志になることを拒まれジオンの戦いは終戦を迎えていきます。
落ち延びようとしたキシリアを殺したのは、ジオンというのはシャアの父の名であってザビ家に語らせたくなかったのもあるでしょう。
ドズルの娘ミネバが生きていた事が後になって波乱を生む原因となりますが…。

どうしようもない裏話をすれば、シャアはガルマを殺して消えるはずだったのですが、シャアの人気が凄かったので出さざる負えなくなっていたというのが現場レベルのお話です。
ただしTVシリーズが打ち切りになったという事も大きく影響していますがこのシャアが出続けた事で、アムロがギレンを倒して戦争が終わるような陳腐なお話なることも無く、ホワイトベースは囮で戦争は別のところで終戦を迎えるという深いお話になったのです。
※いち兵士が戦争を終わらせる事は出来ないというリアリズム。

TVシリーズも見ていないと映画版ではカットしているところもあるし、TV版と映画版でニュアンスを変えているシーンもある(例えばシャアとキシリアがマスクを取って会話するシーンとか)から何度も通して見ていくと見えなかったことが見えてくるからみんな繰り返し見ていく間にハマってしまうのです。
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ニュータイプとは、劇中でも説明が有りましたが、人と人とが感覚で判り合える人達です。


宇宙と言う、其れまで人類が使っていた『視覚』『聴覚』『触覚』等では把握しきれなくなる空間の広がりの中で、人が互いを認識するのに必要な能力…とでも言うのでしょうか。
直接話さなくとも、互いに何を考えているか判る、と言うような事です。

この能力のおかげでララアはアムロと戦いの最中に心を通わせました。互いに互いの心の奥底を感じ取り、惹かれあったのです。
しかしアムロとの実際の交流は余りに少なく短い上に、シャアに対する恋情も抱いていたララアは、アムロと分かり合える喜びを感じつつもシャアの命を守る為に楯となって果てました。
その瞬間、ララアは自分の心のありようや、アムロとの交換、そしてシャアの悲しみをも感じ取り、人の不幸は、『お互いが相手の心を理解できないが故の誤解や疑心暗鬼によって』生まれる物と確信しました。
そう考えれば、死の少し前にシャアが知らずにセイラを討とうとしたのを止めた事も理解する為の複線でしょう。
そうして、人が全てニュータイプへと革新すれば、不幸が無くなる事も理解して、あのような描写に成ったのだと思います。
まあ実際には、ニュータイプにも悪人や勘違い野郎等も居ますのでなかなか難しいでしょうが(笑)。

ですから、テレビ版も、ララアの登場は劇場版程度です。
アムロとの交流には時間は不要で、一瞬にして心を開いて惹かれあう事が出来たという事が重要でした。また、其れは既にシャアと心惹かれあったララアにとっては遅すぎる出会いでもありました。

シャアの行動が一貫していない様に見えるのは、実際に一貫していないからです。
キシリアに語った『復讐の虚しさ』に付いては、シャアの、大人としての世渡りも充分に有ると思いますが、実際にシャアは復讐の虚しさと、ララアとの出会いに拠るニュータイプの理想の間で揺れ動いていたと思います。
元々、父、ジオン・ダイクンはニュータイプ論提唱者であり、理想主義者でしたから、シャアが人類の革新を求めるには素養が有ったと言えるでしょう。
寧ろ、『暴走』していたのはその人類の革新を考える以前の、復讐に燃えていた時期の事だと思います。
シャアも理想主義者である事は作中の描写からも伺えます。しかしその理想は初め、『復讐』と言う妄執で曇り、更にはアムロとの戦いを通しての『確執』で歪み、ララアと失った『喪失』が『拭えない憎しみ』となって捻じ曲げられました。
その後のシャアの行動を見ていると良く判ります。

理想主義者である彼は、復讐よりもニュータイプの革新を求め、しかし歪んだ悲しみを背負う彼は矢張り独りよがりの独善を行う、と言う図式でしょう。
アムロとの最後の戦いである意味吹っ切れた彼は、その後の自分を迷っていたのでしょう。人類の革新を見守るか、それともこのまま流れに任せるか。

アムロに『同士になれ』と言ったのは、その、己の迷いを断ち、理想に向けて行動出来るかどうかの試金石でも有ったのでしょう。
其れも為せない彼は、取り合えず自分が生きて来た理由であった復讐にケジメをつける為に、また、ニュータイプを戦争の道具として利用する者を排除する為にキシリアを倒したのです。
シャア個人の一つのケジメ、と言うことでしょう。

その後の彼は…まあ、其れに付いては続編で語られています。
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この回答へのお礼

皆さん回答ありがとうございました!

なるほど、アムロはあの一瞬でララァと心を通わせていたわけなんですね。どうも私は、ニュータイプというのを良く理解していなかったんですよね。

シャアの目的についても良くわかりました。私は個人的に復讐に生きるキャラクターが好きなので、シャアが高尚な目的を持っていたことが少し残念でした(笑)

高い評価をよく耳にするので、逆襲のシャアも見てみようと思います。

お礼日時:2008/09/06 21:17

ララァについて


もともと登場人物で富野監督はパターンくずしをするつもりでした。リュウ・ホセイはもともと黒人の設定でしたが、スポンサーの圧力に負けて、実際の映像のキャラになりました。当時は主人公サイドのレギュラーにそのような人物を配することができない情勢でした。
それをあきらめきれずに後半に登場させたのがララァです。
で、それが主人公のライバルと一夜を共にして、その直後の出撃で「ノーマルスーツを着て出撃を…」とシャアにお願いすることになります。
そして戦闘になり、一瞬でアムロと分かり合ってしまったことで、彼女の心が乱れます。肉体関係を取るか、心の結びつきを取るか。その迷いの隙にアムロがゲルググを切りつけようとするまで、彼女はどちらとも選んでいません。シャアをかばってビームサーベルに焼かれる瞬間、彼女が「時が見える」と全てを理解した。
ニュータイプのありよう、というより人のありようをそのまま表現したシーンだと思っていますが?

シャアのこと
ガルマ・ザビを殺した時に空しさを感じたのは事実としても100%の感情ではないでしょう。だって殺そうと一度は思った(思っている?)キシリアの前で本当のことを言うシャアではありません。手の震えが止まりません、というのもうそです。
ザビ家を潰すことはやめていません。潰さなくても連邦が潰してくれることがわかった(だってア・バオア・クーかグラナダか、っていうところまでジオンは追い込まれたのですから)、自分で手を出すのはやめておこうと思っただけです。でも、キシリアが連邦から逃れようとしているので、自分で殺したと考えるのが自然と思うのですが?
で、ザビ家なきあと、どうしようか?というとニュータイプの世界を作ろう、ということです。

フツーのアニメではキャラがしゃべっているセリフは本当の感情から出ているのですが、ガンダムの場合、そのまま受け取ってはキャラの行動が理解できません。フツーのドラマのように、キャラの感情には裏表があり、本当のことを言っているとは限らないし、ナレーションによるキャラの心のうちの説明もありません。それがファーストガンダムが名作とされるゆえんです。
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劇場版は見てないのでどういう構成になっていたか判らないのですが…



ララァはニュータイプの研究(サイコミュ等)が進んでいたジオン側に実験体の少女
として研究機関に居ました。
しかし、戦況の悪化からニュータイプの早期実戦投入の為にシャアがサイド6に引き取りに行きました。
引き取ったシャアがザンジバルに帰る途中、東屋で雨やどりをしたララァと急に
雨に降られた為、慌てて東屋に飛び込んだアムロとが初めて接触します。
(なお、生身の接触はこれが最初で最後だったと思います)
この接触で、元々実戦最中に少しずつ引き出されていたアムロのニュータイプの素質が
一気に引き出される事になります。
#この後リックドム12機+チベ3隻をガンダム1機であっという間にかたづけて
#しまう事で表現されていました。
つまり、ララァはアムロのニュータイプの素質を引き出す役目があったわけです。

シャアについては確かに最初は復讐の為にジオン軍にいましたが、ニュータイプを知った後は
ニュータイプの育成(?と言うか保護というか)に尽力しようと変心しました。
が、最後にアムロと闘った時に感じたキシリアの思考(恐らくは自分だけは逃げ延び様とする心?)
を関知し、「やはりザビ家の人間は許せぬと判った。」とセイラに言ってキシリアを殺しました。
これは復讐と言うよりジオン公国の為にもキシリアは許せない存在と認識したからでしょう。
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