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戦国時代において、原美濃守虎胤など、その国の国主でないのにもかかわらず美濃守を名乗ることができたのはなぜですか? 
(例)羽柴筑前守秀吉など遠い地で、治めてるわけでもないのに、なぜ現地に居るわけでもない武将が名乗れるのですか?

A 回答 (4件)

戦国時代の名乗りは、ほとんどの場合、自称による僭称が多いと思います。


もちろん、朝廷を通して正式に名乗った武将もいますが。。。

○○大膳とか、○○弾正とかetc。。。
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>戦国時代において、原美濃守虎胤など、その国の国主でないのにもかかわらず美濃守を名乗ることができたのはなぜですか? 


(例)羽柴筑前守秀吉など遠い地で、治めてるわけでもないのに、なぜ現地に居るわけでもない武将が名乗れるのですか?

こんにちは。戦国時代の名乗りについて考えるときに、官職及び官職類似の称号について整理しておく必要があると思います。特に、国司と守護の関係について整理をするとご質問に答えることに近づくと思います。長くなりますが、ご容赦下さい。
(1)「武蔵守」などの国司と、「武蔵守護」などの守護は違うと言うことです。文治元年(1185)の守護・地頭の設置以来、鎌倉時代を通じて、一つの国に守護と国司が並立するのが原則でした。ですから、同時期に「武蔵守」と「武蔵守護」がいたことになります。国司は守・介・掾(ジョウ)・目(さかん)の四等官を言いますが、一般的に国守で代表されます。そして、国司の任命は朝廷です。これに対して、守護は幕府が任命(補任-ブニン)します。武士で国守に任命されるのは、関東御分国-将軍に与えられた知行国-を中心に、源氏一門か、有力御家人に限られ、小数でした。
このように国に守護と国司。荘園に地頭と荘園領主の下の荘官が並立する状態を、「二元支配」と言い、鎌倉時代を通じて、守護・地頭が、国司・荘園領主の権限や権益を簒奪する過程でもありました。守護に限ってみれば、守護の権限は本来大犯三カ条と言われる軍事警察権だけでしたが、国ごとの土地台帳である大田文(オオタブミ)の作成に守護が関与するなど権限を拡大しますが、国司が厳然と存在し、縮小傾向にあったとはいえ実効支配をしていたのも事実です。(介以下の在庁官人と呼ばれる層に武士が任じられることも多く、この面からも武家の国司の実権掌握が進みます)
ところが、南北朝の動乱を通じて守護の権限は飛躍的に拡大します。大犯三カ条だけでなく、年貢の半分を軍事費として徴収する半済令、田の所有権を主張するための稲を一方的に刈り取る行為を取り締まるための刈田狼藉取締権、判決の強制執行の使節遵行権、年貢の徴収を守護が請け負う守護請などにより国司は実質権限を失い、名ばかりとなります。守護は国司が政務を執る国衙(コクガ-国の役所)の機能・権限を吸収し、一国単位で地域的支配権を確立し、守護大名(戦国大名ではない)と呼ばれるようになります。
結論を言うと、室町幕府が確立した南北朝の終息期には、「武蔵守」などの国司は名ばかりとなっていました。さらに室町幕府の侍所(長官の所司は山城守護を兼帯)が、検非違使・左右京職などの朝廷の持つ京都の行政権を徐々に接収したように、朝廷の京官についても、有名無実化する官職が増えていったこともありました。(有名無実化する官職が出てくることは、律令制度成立と共に始まっていますが、加速度的に増えたということです)
そのため、有名無実化し、実態がなくなった官職が、乱発される傾向が出てきます。そして官職が権威の象徴であったり、家格や栄誉としての機能を持った。治めるべき実体も無く、任国に行くこともないのに武士が権威・恩賞・箔付けのために国守に任官することが出てきます。

(2)武士(鎌倉時代においては御家人)の官位・官職であっても任命は朝廷です。別ではありません。幕府は御家人統制上から、御家人の官位・官職は幕府・将軍の許可を受け、幕府を通して朝廷に推挙し、任命される方式で朝廷からの直接任命を阻止し、御家人が朝廷と結びつくことを防いでいます。そのために政所に専門の官途奉行を置いています。この官途奉行は室町幕府に引き継がれます(室町幕府では評定衆-引付の下部機関)。
義経が従5位下で昇殿し(殿上人になること)、左衛門少尉と検非違使少尉を兼ねた(祖父で源氏の棟梁であった源為義と同じ官位、官職で昇殿をプラス)時。その1年後頼朝の推挙無く多くの御家人が任官し、頼朝の激怒をかっています。吾妻鑑に頼朝が投げ付けた悪口雑言が延々と載っていますが、その時「東国侍の内任官の輩中、本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事(中略) 任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列に廁う。 何ぞ籠居せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。」と命じています。初期の御家人統制の危機であり、任官を通じて御家人が朝廷に一本釣りされ、支配体制が覆る恐れを感じたわけです。御恩と奉公の関係が幕府体制の基本ですが、御恩は所領安堵だけでなく、官位・官職への推挙も御恩であり、このような事件を通じて、御家人の官職は将軍の推挙によるという制度を確立していきます。
この制度がぐらつく時期は南北朝の戦乱期と、戦国時代になります。また、守護大名や戦国大名が、独自に官職を家臣などに私称させることを許可することが起こってきます。


(3)戦国時代の始まりは諸説があって確定されていません。応仁の乱・明応の政変(有力)・北条早雲の伊豆侵攻説などがありますが、おおよそ15世紀末からの100年前後の期間というくくりで考えると、この期間でも官職は幕府・将軍の推挙であるとの原則は生きています。天皇自身が武家の推挙無く官職を与えることに対して拒否をしています。しかし、将軍が京都不在の時期があり(多くは政争・戦乱に敗れて畿内近国に亡命)、この場合に朝廷と直接交渉をすることが知られています。なお、礼金については朝廷関係だけでなく、幕府の官途奉行・将軍などにも贈られています。この時期の官職任官の事情については講談社学術文庫の『戦国大名と天皇』(今谷明著)の「第二章 官位をめぐる相克」をご覧になると分かります。
この中で注目すべきなのは、三河守任官に見られるように、支配の正当性を表す国守や太宰大弐の任官には慎重であったことです。三河守についても、信長の父親の織田信秀、今川義元、徳川家康と変遷しますが、三河国を実行支配した今川義元や徳川家康、多くを支配した織田信秀を任官させています。これに対して左京大夫のように権威や家格を示す官職については比較的簡単に認めています。
秀吉の筑前守ですが、朝廷の任官の有無は後述しますが、これから進攻する予定の国への進攻の正当性をアピ-ルするために信長が称させたものといわれています。


(4)守護大名の権威が確立しはじめた頃から、守護大名の中で独自に、国人層に官職名を許す傾向が出てきます。これを受領名と言い、書かれたものを官途書出とか、官途状とか言います。多くは伊豆守などの国司名。左衛門尉などの武官名などです。これが、例えば「伊豆」のように四等官名を省いた百官名と呼ばれるものや、「左内」・「喜内」のような官職もどきの東百官呼ばれるものなどになって行きます。官途状は戦功の恩賞であったり、家格を表すために元服時に与えられたりします。一種の僭称ですが、ある程度公認された慣習でもありました。しかし、あくまでも私称ですから、外部には「伊豆」のように四等官名を省いて称するのが原則ですが、そのまま名乗ることも多かったようです。中には一字拝領と言って、大名の忌名(イミナ)の一字を同時に下賜することもありました。守護大名はこのようなことも通じて、国人層を被官化していきます。このことは戦国大名にも引き継がれますし、近世大名のうちで、出自を守護大名・戦国大名に持つ毛利、上杉などの大名に引き継がれ、江戸時代末までその例を挙げることができます。
戦国時代には特にこの傾向が強く、戦功の恩賞として官途状が多く遣われています。さらに自立的な戦国大名を中心に官職を僭称・自称する傾向も強くなってきます。
しかし、一円支配を貫徹した戦国大名の家臣が勝手に官職を自称はできなかったと考えられます。家臣の自称は、戦国大名の賞罰権の侵害と考えられたので。
「原美濃守虎胤」については、守護大名家から戦国大名に転化した甲斐の武田家の重臣ですから、主君の武田信虎から一字拝領と、受領名を許されたものと思われます。当然官途状は残っていないでしょうから、本来は美濃守であったか、美濃であったかは分かりませんが、美濃守であった可能性の方が断然高かったと思います。


(5)ところが、信長は初期に「上総介」や「尾張守」などを僭称しますが、1573年に足利義昭を追放し、実質的に武家政権のトップとなると朝廷に家臣の任官を推挙しています。「信長公記」の1575年の7月には、自分の任官については拒絶していますが、明智光秀を日向守に任官させたのをはじめ家老3名の任官が記録されています。特に同年1575年の11月に権大納言・右近衛大将に任官し、鎌倉幕府を創設した頼朝の官位に並び、足利義昭が征夷大将軍の官職を持ちながら流浪しているとはいえ、実質的には天下草創と考えられ、武家のトップとして認識されるようになります。11月の後半には菅九郎に「天帝より院宣を蒙り、秋田城介に任ぜられ」とあり、正式任官をさせています。
秀吉の筑前守については、この時期、特に7月に光秀等と共に正式任官したのではないかとの説が昔からあります。正式任官を否定する説も強いのですが、それまでは「羽柴藤吉郎」との記述が多かった(羽柴筑前守の記述も見られます)「信長公記」が、これを境に「羽柴筑前守」になること、小瀬甫庵著「信長記」に7月3日の任官の記述があることなどから、正式任官説があります。
この時期、信長は将軍義昭-武田信玄-朝倉義景-浅井長政-本願寺による第1次包囲網を信玄の病死という幸運をきっかけに切り崩しただけでなく、最大の対立勢力である武田勝頼を長篠の戦で壊滅的な打撃を与え、越前一向一揆を壊滅させるなど、周囲の状況が好転し、翌年の1576年には秀吉に中国への出兵を命じる時期にあたります。全国統一に向け、九州への進攻も視野に入っていたものと考えられ、前記したように明智の日向守任官と惟任(コレトウ)姓改姓や、丹羽長重の惟住(コレズミ)姓改姓などの例もあり、正式任官の有無はともかくとして、秀吉の筑前守は九州進攻の正当性をアピ-ルする手段の一つであったと言われています。

(6)豊臣政権が関白を頂点として公家の官職体系の中に武家政権の序列秩序を求めたために、武家の官職がインフレ-ション状態になり、それまでの官職秩序を大きく混乱ささせます。これに対して家康は官職が家格の基準であることは維持しますが、鎌倉・室町幕府の政策を踏襲し、武家の官職は幕府・将軍の推挙のみに限定します。
禁中並びに公家諸法度の7条に、「武家ノ官位ハ、公家当官ノ外タルベキ事。」とありますが、「武家に与える官職は公家の在官者とは別に扱う。」または、「武家の官位は、公家の官位とは別のものとする 。」と訳されます。ここで言う「別」とは一般に「定員外」の意味とされます。しかし、武家の官職はあくまでも幕府の推挙により、朝廷の任命という原則は維持されます。朝廷と大名などが直接結びつくことを警戒します。これは参勤の途中を含め京都に大名が逗留することを警戒したことにも通じます。幕府の推挙がすんなり通らないこともあったり、勅使下向時の将軍と勅使の位置関係からも、定員外の武家官職と言えども、官職秩序の中に存在していたことになります。
また、旧守護大名・戦国大名家での官途状の発行は維持されますが、前記の百官名や東百官のような一見律令官職のごとき官途になります。


本題に戻って、「その国の国主でないのにもかかわらず美濃守を名乗ることができたのはなぜですか?」とのご質問について、南北朝期に国司などの律令地方官職は統治の実態が失われ、有名無実となったからと考えられます。そのために現地に行くことも、国主でもなく、治めてもおらず、同時に同じ官に就くものが複数いても名乗ることができるようになります。実態が無いので官職が位のように扱われます(京官-中央官職-についてもこの傾向があります)。
また、朝廷の正式の任官ではなく、守護大名や、戦国大名が家臣などに、官途状で恩賞や家格のために、官職名を名乗らせることを認めることが起こります(私称・僭称ですが)。「原美濃守虎胤」の名乗りなどは戦国大名である武田氏による官途であったと考えられます。
これに対して、「羽柴筑前守秀吉」は少し性格が違います。正式の任官をしたのかどうかは別として、統治や進攻の正当性を律令官制の国守に求めようとした動きの例と考えられます。

大変長くなって申し訳ありません。参考までに。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、戦国時代をどのあたりから捉えるかが問題ですが、

(1)武士が成立し始めた頃は、当然、領土を与えられた地を管轄するものでした。例えば、鎌倉幕府などでは、「佐渡守」と称すると、実際には、鎌倉近辺に住んでいても、守護代を佐渡に遣わして、佐渡で年貢の取立てなどをしました。まだ、この頃は、幕府が所領する地域を管理する「守護」の役目としての「官職名」でした。そして、ある程度は、「朝廷」にお伺いを立ててのものでした。しかし、○○守などは、武家(幕府)が任命できる範囲の「論功行賞」としての意味合いが強い「職名」としてとらえられています。
(2)実際の朝廷の官位とは「別問題」であって、例えば、源の義経が、兄頼朝の許可を受けずに、朝廷の正式な「官位」である「検非遣使少将(判官)」に任命され、それが、そもそもの発端で、後に義経追討にまで発展したことはご存知だと思います。
(3)やがて、(多分、あなたの言われる「戦国時代」は、この頃だと思いますが)、足利幕府の権力が衰え始めると、各地の大名が直接朝廷と交渉をして「官位」をもらうことが多くなりました。これには、朝廷の財政困難を乗り切るために、いわば、「献金」次第で「官位を買う」ようになっていきました。例えば「左京大夫」は、はじめ大大名四家にだけ与えられていましたが、「献金攻勢」で、地方の小大名や豪族たちにも名乗ることができるようになりました。
(4)さらには、勝手に名乗る者も出始めました。有名なところでは、織田信長が元服した時「上総介」を名乗ったのが良い例です。これは、朝廷の許可は受けていませんでしたが、すでに朝廷には、それを止めさせるだけの力が無くなっていたことを表しています。
(5)やがて、特に、信長が活躍していた頃は、朝廷や幕府を無視して、働きの良い者に「○○守」などと名乗らせ、その者の領国などとは関係なく権威の象徴的役割をするようになりました。筑前守もその一例です。また、昔からの朝廷の正式な官位(従一位だとか従三位など)と違い「○○守」「△△介」などは、武家の棟梁が「忠誠心」を煽るための「職名」であって、朝廷への働きかけ=朝廷の政に口を出せる立場ではなかったため、「黙認」をされました。
(6)江戸時代になっても、家康は「武家の補佐は当官の外たるべし」と、武家社会での「○○守」や「△△介」は、全く、朝廷の官位とは違うものだ、名義上のものだけなのだ、と言っています。
(7)従って、美濃守が伊勢の大名であったり、伊勢守が豊前の大名であったりしました。また、播磨守などは7人もいたと言われています。この播磨は、上等に国なので「栄誉」のためだけで「名乗る」ことを許されました。しかし、先にも述べましたが、朝廷の官位とは全く関係がありませんでした。
(8)後に、3000石以上の大名は「○○守」と名乗ることができるようになり、希望の国を上申すれば、たいがいは、希望通りに「○○守」を名乗れるようになった、と言われています。
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この回答へのお礼

返信が大変遅れ、申し訳ありません。この度のご回答、大変感謝します。私は愛知県近辺において、郷土の歴史文化の保存・郷土愛をテーマにした、日本甲冑武者隊という団体において、戦国時代における甲冑を着ての大名行列や寸劇を行っている者です。歴史を深く勉強していくに伴い、疑問が生じ書き込みさせていただきました。
本当に有難うございました。

お礼日時:2008/09/30 22:13

〇〇守・◇◇介などは、天皇が命じた国主や国主補佐の官職名です。

各地に残る国府が、その役所の址です。国府津・国府台などがそうです。

戦国時代には、天皇の権威なんか無視され、勝手に力のある武将が呼称したに過ぎません。
徳川期に入り、これらは、幕府から官許として呼称を許されました。

ですから、安土・桃山時代から、江戸時代初期にかけてのこれらの呼称は、名乗られた方々の勝手です。
もう一つは、主君が名乗りを許可した場合ですが、名乗られたご本人だけとは限りませんでした。
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この回答へのお礼

返信が大変遅れ、大変申し訳ありませんでした。この度はご回答いただきまして、大変有難うございました。私は愛知県において、地元の歴史文化の保存を目的に大名行列・寸劇等の活動する団体、「日本甲冑武者隊」の者です。歴史を深く勉強していくに当たり、疑問が生じこの度掲示板に掲載させていただきました。
大変有難うございました!感謝いたします!

お礼日時:2008/09/30 22:17

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