アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で 先端をゆく表現には どんな形式がありますか。どんな思想として捉えられますかというのが 趣旨ですが 社会の流れや世界の動きの中で 作品が どのように位置づけられるのかとしてなど おしえてください。

 芸術至上主義という考え方があります。表現が それ自体として いろんな意味でともかく よいというのであれば それでよいという思想です。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【恋愛至上主義】とは、
 恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。結婚後であったとしても、恋愛の情熱が無くなれば別れることを選び、また他の異性と恋愛に走ることもやむを得ずとする主義である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とヰキぺディアにありましたが(――ちなみに 芸術至上主義は まだ作成されていませんでした――) これに沿って考えるなら 《つくり捨て・使い捨て》の傾向があるとも 邪推されて来ます。
 とは言うものの 現代においては 単に《ロマン主義》的であるとか《幻想的で退廃的》であったり《神秘的》であったりするとかすれば おもしろいとは限らなくなっているのではないでしょうか。複雑であります。
 推測するに 《物理学や生物学の成果を ふんだんに取り入れて そのあと 想像力によって飛躍させるかたち》ではないかと思います。そうだとすると 想像力の用い方が 問題になるでしょうか。
 (このQ&Aで 《ワ゛テック》という小説を勧められて読んだことがあります。これは 神学が取り入れられていました)。
 (同じく ここで 《ナルト》を勧められ その解説を読みました。解説だけで 長かった。よく分からなかったぁ。《エワ゛ンゲリオン》も解説を読んだ記憶がありますが もうよく覚えていません)。

 昨今 資本至上主義とも言うべきマネーゲームが 大きな失敗に陥り
そのような貨幣論理の追求は ひととおりの限界に到ったとも言われます。ひととおり暴れまくったわけです。芸術表現に関しては いかがあい成っているでしょうか。ふと 関心が湧きました。

 上記の芸術分野に関することは すべて 憶測です。したがって その分 具体的な内容にかんしては 話が合わないかとは思いますが よろしくお願いいたします。
 ともかく 今頃ですが 芸術評論も 重要ではないかと思ったので(と言っても そこに首を突っ込もうとは思っていませんが) とりあえず みなさんから おしえを乞いたいと考えました。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

法に触れない復讐」に関するQ&A: 法に触れない、復讐の仕方

A 回答 (40件中1~10件)

★ ヘリコプター俯瞰視のあたりが優れているにもかかわらず、結果を残すことにつながらなかったのは、個人技が特にすぐれていたわけではないという事により、その能力を見方へのパスに必ずしも有効に繋げられなかったということもあるかと思いますが、 司令塔、つまりチームワークの組み立てとこそかかわっていた人なのですから、  よりいっそう 現代サッカーには個人の技術の深みが必要とされている というふうに そこからも考えることができるかとおもいます。



すこしでも興味があるのであればということで、ちょうど今現在の岡田監督の戦略戦術には注目すべきものがあるので、 その辺について話を簡単にのばしておきます。

彼は 「接近」「展開」とあともうひとつ 今度忘れしましたが、3つの軸を掲げていて この二つが本質的には重要なことだと私も思っているからです。

しかし、この「接近」が生きるためには、高度なバランスが必要となります。 合気道における「絶対的バランス」の概念のようなものが理解される必要があったりします。  サッカーでは「身体バランス」と呼んで そのへんのバランスを大事にしていますが、 それのさらなる高緯度化を伴ってこそ、「接近」しても、ボールをコントロールでき、次の「展開」の幅を大きくしてゆけるわけです。

このとき「展開」は チームワークが主となる場面ですし、「接近」はその個人のバランスが主となります。 両場面にもちろん両方の力量が問われますが、主として必要とされる能力はそんな形となります。

くわしくは 知りませんが、こうして本質的に見ると、岡田監督のやろうとしていることは、ポジティブ作戦というふうにも言えます。 つまりおもいっきり前に出れば 隙も生まれるが、その中で活路を見出しつつもまれれば、それが一番の高度な防御の鍛錬にもなる、というあたりでの賭けのような戦術だというふうになるかと思います。

今後 勝ちへの大きな期待という意味ではなく、 その先に何が見えてくるのかという点では おもしろいかと思い筆を伸ばしました。

演劇の世界も 当然 個人技の深みは重要です。 最終的に全体の演出が結果を生むとは言え、たとえば渥美清抜きのトラさんは ありえないわけです。

★ 田中美佐子については、これもたくさんの出演ドラマを見たりしたわけではないので 印象なのですが、 大きな度量とか優しさを感じさせるものがあります。  私なら 悪役も善人の役も幅広く彼女にやらせたいと思うでしょう。  全部かなり深くこなせるかと思います。

そのCMを見ていないのですが、 なんとなく想像できます。 

CMと俳優とウソ ということでは、ある女優はよくCMに出ていた時期がありましたが、 なんと途中から顔だけだしてその商品が「すばらしい」とは言わなくなったのです。  明るい顔だけだしてです。 たぶん嘘は言いたくない、 こころの思ってないことは俳優として大勢の人の前にせりふにしたくない という何かが裏にあったのだと思います。

また黒木瞳だったかと思いますが、あるCMで、彼女も明らかにウソをそれとわかるように演じでいました。 でも それはスポンサーが考えた演出でもあったのです。  その大衆性差へ出ればよかったということなのです。

田中美佐子も その時、そういう演技をしていたのかもしれませんが、 そのへんは想像しかできないわけですが、  

bragelone様の その受け取り方には「すばらしさ」を感じます。 たぶん、そのとおりなのだと思います。

★スタニスラフスキーの「仮定の働き」ということについて 役になりきる ということとの違いについての質問ですが  これはかなり重要な指摘です。

ですが、これは、「表象」についての説明の後に、回答します。

スタニスラフスキー・システムについては 総合的に考える必要があったりします。

今回は 時間の都合でここまでとします。
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この回答へのお礼

 arayata333さん ご説明ありがとうございます。

 今回は ひとえに おもしろい。おもろい。とも言います。

 なんとなくでも 全体観が 分かります。何かが見えた感じです。あるいは その先あるいはその奥が 見えるかに感じるといったところです。
 
 ○ 個と全体
 ☆ 黒木瞳という個 商品という個 会社一丸となっての個。そして他方で その他関係業者や消費者やを含めての全体。これらすべてにおいて 調和がとれれば 表現ということの醍醐味につながるのかも知れません。
 そういう見通しを示してくれた文章でした。全体として そういう感覚を与えてくれる文章でした。

 ★ スタ式
 ☆ とか言って いくらか聞いたことがありましたが 理論もあるのですね。それは 次回にてですね。
 ありがとうございました。
 
 * 短いですが 言い残しは ないのです。次回をたのしみにします。

お礼日時:2008/10/07 16:23

こんばんは、brageloneさん。



●☆ わたしの小さい頃は いんじゃん・いんじゃんちー と言っていました。

へー、そうなんだ。うーん、そういえば“いんじゃん”ってのもこっちでも言ってたよ、ほでもね、ちょこっと変形“いんじゃんでぇー、ホーイ”ってかんじ。“いんじゃん”を二度繰り返しては言わなかったように思う。逆にあいこが続くと“あいこでしょっ、ホイ、ホイ、ホイ”となんかやたらと“ホイ”を連呼してた覚えがある。それとは別に、“いんじゃん”を“じゃんけんぽん”と言うときってあいこが続くとひたすら“あいこでしょっ、あいこでしょっ、あいこでしょっ”と言ってましたね。


機械仕掛けの神ーデウス・エクス・マキナーって、
 ▼ 古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。

演出技法のひとつなんですか?

ふーん、そうなんだ。

なんだかなぁー、

“古代ギリシアの演劇において”なんて格式ばった言葉を目にすると
なんか《堅苦しい》というか、とっつきにくいやー。

“いきなり絶対的な力を持つ神が現れ…”

って場面で思い浮かぶといえば…

【『QNo.167029 あそびましょ~♪』】《ANo.1,ANo.4》この回答へのお礼
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa167029.html
わたしにも姉が一人います。子供の頃、よくケンカをして泣かされました。ケンカといっても子供のケンカ。ケンカのもとは些細もないことがお決まりです。『これかして?』『あかん!お姉ちゃんが使うから』『かしてよ―』『いややんか―』『じゃぁ-こっちのかして?』『あかん、それも使うからあかん』と、延々この問答はエスカレ-として、次にののしりあいが始まります。そこへ見かねた母が登場し姉もわたしも母からがツン!と、怒られます。
【『QNo.300990 だじゃれ』】ANo.8
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa300990.html

この場合の絶対的って神に相当するのが、お母さん(親)。
こまかい《いい・わるい》の前に、ぎゃーこら、ぴぃーこらの騒ぎを収束にかかる。ハードランディング。喧嘩両成敗というのか、ガツンと二人とも怒られる。しゅしゅしゅーん。子どもそれぞれに言い分があるんだけれど、聞いてはもらえないと不完全燃焼。それぞれの内に不満が残ったりもする。
「はやくにんげんになりたぁ-ぃ!」と。


●★ 『器官なき身体』で、半導体デバイスときてアマテラス?
●☆ 『器官なき身体』が どういうふうに出てきたのか 
   関心があります。《死んでいる》からでしょうか。

どういうふうに出てきたのかって? 

【QNo.4243519現実は、虚構であるのでしょうか】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4243519.html

【東芝、最先端の43nmプロセスを用いたNAND型フラッシュメモリを開発】
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/200 …

【柔らかな光がパーッと差すような効果をPhotoshopで実現する方法】
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/200 …

【DNA同士がテレパシーのような目に見えない力を使っているかもしれないという研究結果】
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/200 …

【バリ島の歴史】
http://www.hcn.zaq.ne.jp/rukisan/BaliHistory.htm

【~不思議さいえんす・高校生物講座~】
http://zettai.todai.in/2006/06/post_19.html

こんなかんじかな。

死んでないって。

【QNo.393289 ハ-ドランディング】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa393289.html

この回答への補足

 お礼欄のあとの補足です。

 ただし 特に反応した事柄がありませんでした。
 ドゥルーズとガタリについて考えようとしましたが あまりにも魅力が薄いです。わたしにとって。

 というわけで お礼欄でのお応えが すべてになります。

 * ☆☆ 浄福の問題(No.31)――これは こちらでも かまいません。表現の問題にもなりますから それは 芸術の主題である恰好です。

補足日時:2008/11/03 08:04
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この回答へのお礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 
 もう さいならとおっしゃっていたのかと思っていました。

 ☆☆ 『器官なき身体』が どういうふうに出てきたのか 
 ☆ まだ 分かりません。
 ★ こんなかんじかな。
 ☆ ってったって どんなかんじやねん? 判じ物では わかる場合と 分からない場合とがありますね。
 ★ 『器官なき身体』
 ☆ は ドゥルーズとガタリの用語でしたね。なぜ それが 出て来ているのかが なぞでした。

 ☆☆ 湯ババの妹の登場は 機械仕掛けの神という手法ではないか?
 ☆ まぁ おだやかになって振り返りますと たしか 千は この妹ババの家に 夜汽車に乗って行きますね? だから思ったことは 妹ババの存在やその助言が問題になるのではなく ただ 遠いところへと 一たん 千が移動するというように 冷却期間を置いたことが デウス・エクス・マキナの手法だったかも知れません。そう考えなおしました。
 だからでしょうか? 見終わったあとに それほど 観衆のあいだに
 ★ 言い分があ〔ったり〕 聞いてはもらえないと〔いう〕不完全燃焼
 ☆ があったりは しなかった。のではないでしょうか? かろうじて 生きた。

 ☆☆ 浄福の問題(No.31)
 ☆ については わたしの新しい質問へ どうぞ。そのものですから。《QNo.4442055: 現在時における〈復活〉について= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4442055.html

 ☆ shift-2007 さんの《 QNo.4427394 :心の傷について =  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4427394.html》に参加すべしだと思いますが? 少々わたしの自慢になっていますが いい主題ではないでしょうか? つまりは 上の問いと同じ問題に帰着するようです。つまり こちらのほうが 参加しやすいと思います。《心》に絞っていますから。

 駆け足でお応えしました。残したところを あらためて考えます。これから《Q:復活》のほうに返事を書きます。その前に ひとこと お礼を述べました。

 魚屋さんがへをこいた。ブリッ。ギョッ。

お礼日時:2008/11/02 09:57

こんばんは、brageloneさん。




●日本人は死んでいると思いますよ。


ANo.38へご意見どうも。(-_-;)uuu… 


ANo.37への《この回答へのお礼》の中で挙げておられた話
*******************************************************************************

 ◆ 《QNo.4289438: はい上がるための動機 》
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4289438.html
 ☆ こちらも 話が進むといいのですが。

*******************************************************************************

読んでいましたよ、↑この質問があがったときから…

ほじゃ、何で顔を出さないのかって?

【QNo.3346636 日本人は 死んでいるのでしょうか】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3346636.html

“義を見てせざるは勇なきなり”ちゃうんか?

そらそやねんけど…

こっちから聞いてええもんかどうか、デリケートなことやし…

お札を貼ってあるかはたまた傍線引いてあるかのように

前置きに《特に若い女性は最も苦手としています。》とある。

それにやね、質問者さんが考えるというところの

《夢》や《復讐》やらが如何なるものか?←(ここ、デリケートな部分)

質問者さんから何ひとつ語られてない。

質問タイトルからして、かなり息苦しいんちゃうかな?

デリケートな部分について何も語ってはれへんし

それが「何か?」を打ち明けられへんことが

質問者さんを息苦しゅうさせてんのんちゃうかな?

押し黙らせてるのは他の誰でもあれへん、質問者さん自身やとしたら…

身体の自己防衛機能が働いているとも考えれんことはない。

質問者さん書いてはるやん

《かなり私は萎縮して生きています。》と。

それでなくても普段から身構えてるところへ

《特に若い女性は最も苦手としています。》と言うてはんのんに

のこのこ顔だしたら、フリーズしてしまうやん、相手が。

あっちへ書きに行ってない理由はそんなとこかな。

【伸張反射】
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/30/inde …
【「神経系-1:末梢神経系・自律神経系」ユニット】
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/physi1/nervous1/ …
【脊髄の構造】
http://bunseiri.hp.infoseek.co.jp/sekizui2.htm
【 認知神経リハビリテーション】
http://www.ctejapan.com/ncr/ncr.html

機械仕掛けの神という創作手法があります。

目覚まし時計のお話ですか? (-_-;)uuu… 

私事ながら今週は月末までびっちり連勤です。

夕べも寝てねぇー(睡眠不足気味じゃ)(/_-)゛゛゛ゴシゴシ

間があいても不信がらず、諸事情おわかりおきください。 m( _ _ )m 
(しめちゃ やぁーよー)

ひとまず理を入れたところでっと、
*******************************************************************************
千と千尋の神隠しでは 湯婆の妹の存在が 千の苦境脱出のための そのような奥の手であったのではないか。こう思います。
 見ている途中では どうも この 後半で初めて登場した妹は なぞだなぁと思っていましたが 見終わってみると なぞではなくなった。何のことはない。それまでの登場人物では 千の問題の解決には 間に合わないから そして 第三者では 唐突すぎるというので 湯婆とのつながりを持たせた人物を 機械仕掛けで出して来た。
 つまり 人間を描くのではなく 話の筋を優先している。
*******************************************************************************

『千と千尋の神隠し』の中に何を隠しました?

『器官なき身体』で、半導体デバイスときてアマテラス?
http://www.kyosemi.co.jp/hayawakari/01_j.html

話の筋からして…ドサクサに紛れて…ちっちゃな声で…

「ババア、ババア」と、…つぶやきませんでした?

えっ? 気のせいだって? 空耳だって? ふーん…(ーー)゜ 

やけに目につくのよねぇ~♪ 湯婆の「婆」の文字が…。

気分転換にお散歩ぷらりぷら~♪

「たんぽぽ み-っけ!」。

アハ、やっぱ気のせいだったみたい-☆ (*^^*)>゛゛゛だはぁ

【散歩道2-たんぽぽ-】
http://gogensanpo.hp.infoseek.co.jp/main2.html




●そして 第三者では 唐突すぎるというので 
湯婆とのつながりを持たせた人物を 機械仕掛けで出して来た。


ほでも気になるのよね、「そして」って言葉が…

【要素モデルの汎用的統合手法の開発】732?http://wenarc.naro.affrc.go.jp/sakukai/kikaika/i …


そうそう甘い話ではなさそう?

たんぽぽときて…

担保と債務不履行と帰責事由ときたれば

◎◎◎◎◎◎◎◎◎ フリテン (-_-;)uuu…  

-自由な空-おえかき-「よぞらのたんけん」
http://www.aero.or.jp/young-art-con/young_art_20 …













『千と千尋の神隠し』
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この回答へのお礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 ★▼ ゆたんぽ:「湯‐湯婆」
 ★▼ じゃんけんぽん:中国語の「両拳‐石+並(石偏に並)」
 ☆ わたしの小さい頃は いんじゃん・いんじゃんちー と言っていました。

 ☆☆ 機械仕掛けの神
 ▲ デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina)~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A6% …
 ▼ 演出技法の一つ
 ▼ 古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。
 ▼ 古代ギリシアの時点においてすでに批判がある。
 アリストテレスの『詩学』においては、デウス・エクス・マキナはよい解決としては評価されていない。アリストテレスは、演劇の物語の筋は必然性のある因果関係に基づいて導き出されるものであるべきとして、無から解決を導くこのような手法を批判している。
 現代においても余り良い評価は得ているとは言えない手法である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 『器官なき身体』で、半導体デバイスときてアマテラス?
 ☆ 『器官なき身体』が どういうふうに出てきたのか 関心があります。《死んでいる》からでしょうか。

お礼日時:2008/10/27 12:27

こんばんは、brageloneさん。




●イスラームが インドを支配したとき 仏教も廃れたわけですから 


《仏教も廃れた》←そうなん??? いつの時代のどこでの話? なぞや。


【WTOドーハ・ラウンド交渉の概要】―(p.6)―
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/wto/pdfs/doha_ …
【南アジア経済問題研究会―2000―】
http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/tyou00 …
【財団法人国際通貨研究所】
http://www.iima.or.jp/
【日本貿易振興機構(ジェトロ)】
https://www.jetro.go.jp/world/asia/
https://www.jetro.go.jp/indexj.html
http://www.voiceofindia.co.jp/content/view/1094/ …
【造形サンプル写真】
http://www.jwri.osaka-u.ac.jp/~mri1/study/3DMW/h …

●止まってしまった世界に 人は 連れて行かれる。

夢の中
【QNo.3903311 もし記憶を参照しなかったら 】
ANo.31,ANo.33
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3903311.html
『不思議の国のアリス』
Alice's Adventures in Wonderland
ルイス・キャロル 著 より(一部抜粋)
http://www.genpaku.org/alice01/alice01j.html

うん、ひとつのことに心が囚われちゃうとそこから抜け出せなくなる。

『義血侠血』泉鏡花著
http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/363_2 …

【QNo.3346636 日本人は 死んでいるのでしょうか】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3346636.html
【QNo.314884 次の言葉の意味を教えて】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa314884.html
【QNo.3385602 ストライキを起こす仏教徒】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3385602.html
【QNo.21802 客観的に見てどうですか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa21802.html
【QNo.195023皆さんクイズ教えてください】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa195023.html
【QNo.389244「千と千尋の神隠し」。どんなところが良かったですか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa389244.html

【東京コピーライターズクラブ】
http://www.tcc.gr.jp/index_main.html


『ウィルコムタイム』
http://jp.youtube.com/watch?v=vs6HhwE9AQc

はなしてもいい はなさなくてもいい
いつもつながっていればそれでいい
はなしてもいい はなさなくてもいい
いつもつながっていればそれでいい

いつでもきみのことかんじていたいんだよ
いつでもきみのこころにふれていたいんだよ

はなしてもいい はなさなくてもいい
いつもつながっていればそれでいい
はなしてもいい はなさなくてもいい
いつもつながっていればそれでいい

いつでもきみのことかんじていたいんだよ
いつでもきみのこころにふれていたいんだよ

そばにいてもいい はなれていてもいい
いつもおもいあってればそれでいい

そばにいてもいい はなれていてもいい
いつもおもいあってればそれでいい

いつでもきみのことかんじていたいんだよ
いつでもきみのこころにふれていたいんだよ


【第26回 ワイヤレスの時代がやってきたものの】
http://www.atmarkit.co.jp/fsys/zunouhoudan/026zu …
【システムズ・エンジニアが日本を救う】 http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/2 …
【失敗とコンサルタントの関係】
http://itpro.nikkeibp.co.jp/NC/members/NC/FUDOU/ …
【システム・コストの節約は一筋縄ではいかない】
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NC/FUDOU/200308 …
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この回答へのお礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 機械仕掛けの神という創作手法があります。
 千と千尋の神隠しでは 湯婆の妹の存在が 千の苦境脱出のための そのような奥の手であったのではないか。こう思います。
 見ている途中では どうも この 後半で初めて登場した妹は なぞだなぁと思っていましたが 見終わってみると なぞではなくなった。何のことはない。それまでの登場人物では 千の問題の解決には 間に合わないから そして 第三者では 唐突すぎるというので 湯婆とのつながりを持たせた人物を 機械仕掛けで出して来た。
 つまり 人間を描くのではなく 話の筋を優先している。

 日本人は死んでいると思いますよ。

お礼日時:2008/10/26 08:47

こんばんは、brageloneさん。




《音いまでこそ音色から音量とすごく幅があるけれど
その昔、遥か昔はいまほどではなかったようだね。》

《楽器自体から出る音量が小さい。》


あゆみ

【失われた高音域を補完――「バンド幅拡張技術」】
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/06 …
【「報道のあり方を考える」】
http://totsuka-yacht.com/hiro3.htm
『Romanticが止まらない』(C-C-B)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4913/index.h …
【離散時間フーリエ変換】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A2%E6%95%A3% …
DTFTの周波数領域の表現は常に周期的関数である。したがって1つの周期に必要な情報が全て含まれるため、DTFTを「有限な」周波数領域への変換であるということもある。

諦めるにはまだはやいこれから

【構文と意味( 1 ) 事態解釈と構文選択】
http://www.sakamoto-lab.hc.uec.ac.jp/lecture/6%5 …
『日本人のアイデンティティー』
http://books.google.co.jp/books?id=OuXJ7KwR6MsC& …
【離散フーリエ変換(DFT)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A2%E6%95%A3% …
【フリーラジカルと活性酸素】
http://www.komorebi.org/kaisetu/freera.html
【活性酸素】 
http://hobab.fc2web.com/sub2-kasseisanso.htm
【幕張メッセ】
http://www.m-messe.co.jp/
【ピッツコン】
http://www.datum.jeol.co.jp/ana-news/ana-43.pdf
http://www.jeol.co.jp/services/analytical/no55/a …
http://www.jeol.co.jp/publication/n_news-ab.htm

*************************************************************************

 ▲ 〔《共時的同一性》としての〕 「他の人格は自分である」という自覚(p.50)
 ☆ という規範を設定すると わたしのような自由野生異端児には 窮屈に感じるのだが どうだろう。それは わがままであって ゆるされないだろうか。

*************************************************************************


“打てば響く” この響き…


「野球は誰のためにするのか?」

「野球は自分の気持ちを伝えるスポーツなんだだからもっと自分が楽しんでいいんだよ」


「お前の野球って、なんなんじゃ!!答えろ、答えろよ原田!!」

「一緒に野球しようぜ」


「野球は誰のもんですか」

「…お前たちのもんだよ」


『バッテリー』
http://www.bt-movie.jp/
『ROOKIES』
http://www.tbs.co.jp/rookies08/



『春に』作詞 谷川 俊太郎 作曲 木下 牧子
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/haruni.htm


『世界史は日本史をどう記してきたか』河合敦著 青春出版社
(p.3) ――― はじめに
私たち日本人は、歴史を「世界史」と「日本史」に分け、別の科目として高校で学んできている。こういうやり方を採用している国は、とても珍しいそうだ。一般には、自国の歴史(国史)を中心にして、これに世界の動きを加えた教科書を用いているところが多いと聞く。いずれにせよ、このように「世界史」と「日本史」を完全に分離して勉強してしまうから、ともすれば、「日本の歴史は世界の動きとはあまり関係なく、独立してその歴史を刻んできたのだ」とする勘違いが生まれてくる。だが、日本史の歴史はいつも世界の歴史と密接にからみあいながら、連動して流れている。そういった意味では、あくまで「日本史」は「世界史」の一部なのである。「世界史」の中に、日本の歴史が存在するというのが、正しい認識といえよう。けれどもそれは、「世界史」が主で「日本史」が従であることを意味しない。常に日本が世界の影響を受けて歩んできたと思うのは、大きな間違いである。日本が逆に発信源となって、世界の歴史に大きな影響を与える例も決して少なくなかったのだ。――――――――――

この回答への補足

  littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回は 総じて お茶をにごすほどのご返答になります。
 ★ 『世界史は日本史をどう記してきたか』
 ☆ 雑談です。たしかフランスでは 歴史を 古代エジプトから書き起こすと思います。ナポレオンが ピラミッドの上から 兵士たちに《四千年の歴史が 諸君を見ている》とか何とかと 号令 いや 訓令(西村真悟=http://totsuka-yacht.com/hiro3.htm)したと言いますから つまり よその国へ入って 植民地にしようが宝物を盗もうが 強いもの勝ちだと――あるいは いわゆるキリスト教によって 自分たちこそが救済に値する人間でありクリスチャンであると思い込んでしまったことにより 当然だと―― 思っているところがあります。
 イスラームが インドを支配したとき 仏教も廃れたわけですから 日本は 十字軍を出してもよかったんですかね。ずっと後になって アジア解放を唱え出しました。こちらは どうだったんでしょう。

 ★ 『春に』作詞 谷川 俊太郎
 ☆ 歌詞に 目くじらを立てます。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 地平線のかなたへと~~ 歩き続けたい        
 そのくせ~~~~ じっとしていたい      
 この草の上で じっとしていたい  
 声にならない 叫びとなって こみ上げる
 この気持ちは 何だろう~~~~  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  たぶん 俳句の世界なのだと思います。情景を切り取って見せればよいというのではないでしょうか。それを つまり情景描写を ある程度長く しかも うまく やられると その一編の詩歌に切り取られて 止まってしまった世界に 人は 連れて行かれる。人よ 少年の頃から 老成せよ というわけです。
 また もし ここで歌われた《この気持ち》が 分かった子供たちは その感情を大事にするようになるでしょうが 同じくそのまま 感情じたいが 何にも増して 大事だという考えになってしまわないとも限らない。たいていは このような感情をつつむ意志(愛)をも芽生えさせているでしょうが そうとも限らない場合も出て来かねない。のではないでしょうか。
 社会に対する意志としては《老成》してしまって あとは ものごとに対して 《純粋感覚》で進めとおしえているかのようです。もちろん 作者は 意図していない。にもかかわらず 子供たちにとっては 《老成した純粋感覚》とは いったい何ぞやとなります。いちばん悪い例を挙げれば 《感覚の好みに応じて 純粋におのれの欲望を追え。ただし ひそかに人知れず おこなえ》とはなりませんか。――その結果 この場におけるように 哲学者になる人びともいるわけですが。

 ★ 野球
 ☆ は 好きだったんですが 相撲と同じように ヤオチョウとやらが 見え隠れします。推測だけを言って 根拠を示さないのは 素人評論の特権。よっぱらいとでも 思ってください。つまり そのプロのすじの人たちが そうなのだ(よっぱらっているのだ)と思いますから。《アマテラス語》――と言っても 純粋培養の概念や理念だけを言うのではなく ひとが用いるそれですから――は 信用できない。
 このように放言する
 ☆☆ 自由野生異端児
 ☆ に あなたや ここでの友らも どこまで つきあっていけるか。アマテラスとスサノヲとを どんでん返ししようというのですから。
 ★ 音楽・音・ピアノの歴史 etc. また ポール・ドゥラロッシュをめぐる絵画論
 ☆ 気の利いたお応えができなくて くしゅん。小言だけは 一人前で くしゅん。あたまを丸めねばなりませんか。
 ★ 【離散時間フーリエ変換】
 ☆ 数式もおわかりになるのですか。

補足日時:2008/10/24 10:53
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この回答へのお礼

 ★ 『日本人のアイデンティティー』
 ☆ 読んだ後 どう思うか なのですが。読むときは それが正しいと信じて――著者以上に 著者の考えに立とうとして――読みますから 説得されますが 果たして そのまま 活用できるかとなると どうなのでしょう。
 集団主義の場合 集団は 目的ではなく手段であるというのですが 実際の社会では この集団が 目的となり その結果 全体主義にならないとも限りません。言いかえると 集団を指導する者が間違った場合 人びと一般は これを指摘し 修正するように為し得るかです。
 とは言うものの わたしも 護送船団方式を提唱していて 企業集団として個別にも そして 社会全体としても 社会保障を張り巡らせつつ進む社会のあり方をよしとするのですが どういうものでしょうか。

 ★ 『Romanticが止まらない』(C-C-B)
 ☆ への評言を失念しました。あと
 ◆ 《QNo.4289438: はい上がるための動機 =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4289438.html
 ☆ こちらも 話が進むといいのですが。

お礼日時:2008/10/24 10:59

こんばんは、brageloneさん。



はいろっかな、どうしよっかな、と、タイミングがなかなかとれない。
どのタイミングで入ればいいのかわかんない。
(うん、ちょうど大縄跳びの中に入れず外で躊躇してるかんじ。)
http://www6.ocn.ne.jp/~tetugaku/oonawa.htm

ANo.35への《この回答へのお礼》に『この質問は まだ当分 開いています。』と、あったからまだなんとか。そか、それなら入ろっとなりもするけど、ANo.32への《この回答へのお礼》では『しばらくして 締めたいと思います。』と、あると、もうええんかと思いもする。マジ、“イライラ棒”かと画面見ながら突っ込みひとつ。当分開けといてください。

ANo.31への《この回答への補足》
●☆ 《浄福は不可死性なくしてはあり得ない》とき 
可死性の生において それの実現を求めても よろしいですか?

ちょこっと、保留。


『もしもピアノが弾けたなら』阿久悠作詞 坂田晃一作曲
http://jp.youtube.com/watch?v=zJOLvValJ64
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/m …
もしもピアノが弾けたなら
思いのすべてを歌にして
きみに伝えることだろう
雨が降る日は雨のよに
風吹く夜には風のように
晴れた朝には晴れやかに
だけど ぼくにはピアノがない
きみに聴かせる腕もない
心はいつでも半開(はんびら)き
伝える言葉が残される
アア アー アア…… 残される

この歌の歌詞とにらめっこ
しばし、ピアノに思いを馳せる
【ピアノ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2% …
【チェンバロ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7% …
http://www.izumihall.co.jp/hall/p_harp_c.html
【クラヴィコード】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9% …
【鍵盤楽器】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%B5%E7%9B%A4% …
【ロマン派音楽】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E% …
【オーケストラ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC% …

音いまでこそ音色から音量とすごく幅があるけれど
その昔、遥か昔はいまほどではなかったようだね。


“もしもピアノが弾けたなら”と歌詞にある「ぼく」は楽器が全く弾けないわけじゃなく、“雨が降る日は雨のよに”の言葉が後におかれていることからすると、いろんな雨の音を表現できない、軽くは弾けたとしても吹きつけ殴りつけるような激しい雨音を表現しようとすれば力強く鍵盤を押さえ連打、難しい。難しいこととは別に、楽器自体から出る音量が小さい。表現したい音が出せない。“心はいつでも半開(はんびら)き伝える言葉が残される アア アー アア…… 残される”響板が半分開いてるってことは中が覗ける、まだ死んだわけじゃない。手を加えれば活かすことはできる。そこから何かを掴み取れ。遺産。うん、歌の歌詞ひとつからピアノ、鍵盤楽器の歩みを辿れる。おもしろいね。

【ポール・ドラロッシュ】
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/D/Delaroche/De …
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2005-08-31-1
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2006-11-22

【人格の復活】
http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/kiyou/ron380 …

この回答への補足

 littlekissさん しばらくぶりです。ご回答をありがとうございます。

 ★●☆ 《浄福は・・・》←ちょこっと、保留
 ☆ は分かりますが――なぜなら 容易に分かれば苦労しない性質の問いですから―― ほかの点では 別です。ほかの事柄にかんしてなら たとえば
 ★ 『もしもピアノが弾けたなら』
 ☆ を出すのは――分かる気がしても―― それは 甘い考えです。あるいは もう行動を諦めた年寄りの考えです。ジュクリョとチュウチョとは 別です。いぢ悪の名人は ラヂカリストです。そういう感慨を持ちました。

 ★ 格
 ☆ とは――原義については ともかく―― 格子に喩えたととれば よいと思います。(以後 断定口調で行きます)。人と人との関係が 縦横に絡み合い さらには 放射線状につながるさまを言うと。
 ただし その根底には ひとりの人間がいるというのも然ることながら この格子関係よりもさらに基底には 四角や放射線状の網の目からも漏れる 人間関係が見出される。( Susanowo 人間語の問題)。
 しかも さらに翻って この地中に這って延びるかのような根茎の持ち主も 一本の木として という意味は 言葉を話す主体として 存在している。関係は 言葉による意思疎通を基軸としている。(孤独としての一人の《わたし》なる存在にしても 言葉によって そのわたしを知りわたしに還ると言ってよい)。
 話す動物であるひとは その話に 格子のごとき格言を持ち得て 格式(決まり・規則・法則)を見出すようになる。
 このような格子関係における格調高き格言として取り決め合ったその内容が 人格である。( Amaterasu 普遍概念語の問題)。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  人格の同一性と言うとき、二つの意味があることに注意しなければならない。一つは同時的世界の中に見いだされる複数の人格の同一性である。もう一つは一個の人格の異なる時間、異なる場所における同一
性である。前者は、共時的同一性、後者は、通時的同一性と呼ぶことができるであろう。
 (雨宮民雄:【人格の復活】p.50)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは まづ《通時的同一性》と言っても 《あやまつは ひとの常》であり おのれの発言について答責性を持つということである。原因究明し わびて おのれをあらためる。人格の《共時的同一性》と言っても 説明責任を果たしつつ新たなコミュニケーションに入るという《通時的同一性》を 例外なく 誰もが持つということに尽きる。そういう格子関係であり 人格関係である。

 ▼ 人格は語としての「私」と一語文としての「私」の複合である。(p.49)
 ▼ 存在という概念の根底にはインド・ヨーロッパ語の「主語(S)─述語(V)」形式がある(p.47)
 ☆ これに 補充をしたい。
 ○ 文は人なり。
 ☆ と言えば S(主格語)-C(同格補語)-V(述格語)である。
 ○ 文は人が述べる。
 ☆ と言えば O(対格語=文ヲ)-S(主格語)-V(述格語)である。ところが 和文では 格活用を表わす ハ が 主題格(T)をも兼ねる。つまり 《文はと言えば(T) 文を(O) 人が(S)  述べる(V)》。つまり 主述関係のS-V-Oの構文のほかに T(文は)-P(人が述べる)というように 主題格(T)‐論述格(P)という構成にもなっている。二つの構文が含まれていて 重層的な構造を成す。
 いづれにしても――つまり 単層構文であっても―― 言述(上の例文など)の背後に 話す主体がいて これは 話者格を成している。
 この話者格は 《語としての「私」と一語文としての「私」の複合》としての《人格》に相当すると言えるだろう。話す動物としての人は 話すことにおいて 《話者格》を成すなら――つまり すでに つねに 成すのであるから―― 人格どうしの関係を 基本的に 構築していると言ってよい。
 その基礎の上に 格子関係ないし格言や格式を普遍的に見出すと唱える人格理論がつくられている。つまり Susanowo人間語の中に 格子関係は宿っており その上に 人格関係という Amaterasu 普遍人格語の骨組が見出されるのである。

補足日時:2008/10/23 11:13
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この回答へのお礼

 ○ 時は金なり。
 ☆ というのは
 ○ Time is money. すなわち S-V-C.の単層構文。
 ☆ であるが 同じ従兄弟どうしの仏文では
 ○ Le temps, c'est de l'argent. すなわち T(主題格),/=断層あり/,S-V-C.というような重層構造
 ☆ を成している。和文・韓国文などは 問答(T-P)関係としてこんにゃく問答をも許容する《非線形》の構造(つまり非構造)の上に 主述(S-V-O)の論理的な線形をこしらえている。漢文は あたかもすべての構造を取り払ったかのような混沌(文法自由)である。英文は 見たように 単一論理先行型である。英文と和文との間に 能格構文がある。(バスク語・コーカサス諸語)。
 つまり英文のごとく S-V-Oの単層構造の文体によって意思疎通を図るならば 世の中は 《線形》の論理で成り立っていると見なし ややもすると 世の中は《大競争時代》(雨宮p.43)に成りがちであるかも知れない。(ちょっと言い過ぎである。一面的な見方であることを免れなかろう)。

 主題(T)と論述(P)という文型は 単純に言って 問いと答えである。打てば響くという問答が――それは あやまればいいのだから―― 通時的同一性としての答責性を支える。共時的同一性のほうは 主題の提示の自由さ 提示された主題の自由な共有 それに対する回答の多様性とその自由な相互受容などを 取り決め合っておけば よいのではないか。
 ▲ 〔《共時的同一性》としての〕 「他の人格は自分である」という自覚(p.50)
 ☆ という規範を設定すると わたしのような自由野生異端児には 窮屈に感じるのだが どうだろう。それは わがままであって ゆるされないだろうか。

お礼日時:2008/10/23 11:33

専門家が こうした井戸端会議に出席する良さとか価値にも、ふと気づきました。



ですので、ときどき覗いてみることにもしました。

その説明から すこし書いてみますが、 これは松下幸之助の晩年の目の輝きがまるで小学生みたいに、純粋な好奇心のような新鮮な感じのものであることに驚いたことがあるのですが、 この時点でそれを思い出し、 「そうか あの頃の目や耳を忘れてはならないな」とあらためて思ったことにもよります。

私の小学生時代はかなり複雑な記憶になってますので(^^)、その時期は思い出せないのですが、 たしかラジオ番組で とても好感の持てるその時代の空気をいっぱい吸った女優(名前を忘れてしまいましたが)が愛犬ぺスの連続ドラマを朗読しているのを聞いたことがあります。  なんとも新鮮で私の心を深く惹きつけた番組でした。   おもしろくておもしろくてしかたなかった  といった感じです。

哲学者の井戸端会議には、全員がというわけにはいかないでしょうが、そうした新鮮な受け手の心が反映されるのでは、とふと感じたからです。

ただ、ここでは、素人でも普段から物事や人生を真剣に考えている方かたとの対話は、むずかしい専門用語で話す専門家の世界とは別な形で 人生の真実に迫る何かが得られるとも思い、その観点から「教え・教わる」場として、専門家からの回答にこだわってきたわけですが、  ウソという観点は、実は演劇の専門家が必ずしもそのすべてを思索しえているのかということにはまさに私の考えからは疑問があったところで、 やはり そのへんもそちらから 大いに気づかされたことがありました。

一番には やはり「ふと、自分も素人だった」ことをどこか忘れてる点への反省でした。 あるいは そのあたりのことです。 そこが神が人間となってしかもだれにでもわかるたとえ話でしか話さなかったというキリストの世界の専門家の感化の世界なのだと思いました。

これは生涯、肝にめいじておきたいところと思います。



ですが、私自身は“どうやらただの専門家ではなく 感性教育の革命家であるのではないだろうか?”という疑問がいよいよ強くなっているところなのです。

NHKの喉自慢の質問にしても、 歌の先生方がこんなに長い間、素人の歌の教育上のそれぞれの長所がずいぶん出てくるその番組に接していて、何でその長所を指導して同じメンバーで、その成長や指導方法の価値をも問いかける番組のビジョンをその立場からテレビ局に訴えないのかな、 と真剣に考えての質問でしたが、    事実歌の世界が これだけ長くその番組の発展に言及してこなかったということは、  まさに歌の文化自体に真剣さが足りないのではとしか思えなかったため、  それで哲学のカテに質問したわけですが、   その観点からの回答は、 まさに感性教育自体がおくれてるようで、 またアカデミックな哲学の歴史自体がどうやら感性教育の必要性についての論議に到達していないようで?  ここでも、はや、「自分がやんなきゃいけないのかな」という気持ちにさせられてしまってます。

たしかに 死に物狂いで人生を考えてきての感性教育の必要性についての自分の中での結論の世界ではあっても、 もちろん普通は自分自身の論理の世界も間違いとか未完成部分とかがたくさんあるはずです。  それを知りたいと思っての質問(かなり演技的文章の形ともなり 事実は複雑な文や対話となっていますが、求めているところは そこだったわけです。)でもあったのですが、   私自身が ほんとうに前衛の地点に来てしまっているのならば、 もう少し考えながら「Q&A」に参加してゆく必要がありそうですし、 それに革命ということならば、このワーキングプアーの忙しい立場にては、 私の文言は仕事とも使命ともなってしまうところ、 がゆえにこそゆとりも必要と言っても  ここは、ここにて撤退したいと思います。



《QNo.3462873 本物からはどうしてオーラが出る? =​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3462873.html​》

をすべて読ませていただきましたが、 まだこの方は質問を締め切っていません。 

オーラという言葉こそ抽象的に使われている言葉ですが、この質問者の感性や疑問こそ、もしかしたら感性教育の可能性の世界と深くかみ合う世界なのかもしれません。  

いまだに閉じられていないことの裏に、その真剣さがあるのであれば、私が参加することで大きな新しい価値が生まれるといいなと思います。

ここでこそ、専門家として回答してみたいと思います。 

オーラについては知らなくても、だからこそ客観的に質問者のその言葉をいっしょに問いただす姿勢をとりやすいということもあるかと思います。

ミコさんやブラさん(すみません、ふだん「様」と使ってるのをいきなり友達ふうにしてしまいましたが、 普段「様」と使ってるのは、 ネットでは文言からその人の裏の人生なんてとくに解らないのだから 神様じゃないんだから、もうできるだけ尊敬の意味を込めた言葉で相手の名前に対応しようとういう気持ちの習慣化したものです。  でも ネットの友という形もここまで対話が進むとあるかと思います。 そんな感じで、たまには新鮮でいいかとも思いましたので)の回答の中の論議も再び その中で復活させたいなという気持ちもあります。

素人の新鮮な気持ちにはオーラは感じない世界なのでしょうかね。

自称専門家の筆をそちらのほうに、ここから伸ばしていってみますね(^^)。

よろしければ覗いてみてください。  私も彼の希求するところの集中した心の強さの前にうまく回答できるかどうかの自信とかはありませんが、やってみなければ解らないことですので やってみます。

それに刺激をうければ、また参加してみるのも面白いかもしれないですしね。



おおいに学ばせてもいただきました。 いろいろとありがとうございました。
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この回答へのお礼

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。じっさい いろんな意味で わたしは素人だと思います。いい意味あるいはただただ頑固に感覚を守り訴える悪い意味でも 素人です。
 たとえば
 ★ 素人の新鮮な気持ちにはオーラは感じない世界なのでしょうかね。
 ☆ 感じるのです。感じたのは ほんとうに その作品あるいは人物の実質的な中身であるのかどうか これを すぐさま 吟味しています。感性が 自動的に そうしています。
 つまりは 一たん感じたオーラのようなものを 自然と 素人は 剥がしていると思いますよ。一たんすべてをご破算にして 自分が感じるものを まづ 大事にしょうと思っていますし この点 頑固です。イメージが ロゴスにさえ 先行するのです。
 Susanowo 人間語に かたくなまでに 信頼を寄せています。Amaterasu 普遍人格語には まづ うそを見ます。そのうそが どれだけ みづらかの虚構をとおして 人間 Susanowo の真実を表わそうとしているか これを吟味しています。
 あとは なるほど真実だと納得した場合 その場合でも オーラは 装飾品であると 知っています。知りきっています。そして 負のオーラのあることも じゅうぶん感じています。
 いづれにしても 素人は これらのオーラに対して 従う振りをします。装飾品の問題で その当の人が 人格じたいをうんぬんされたと感じたら それは こちらの負けですから。でも Amaterasu 普遍語は 人格語でもあって その言葉を使いこなすことが 人間であることにとって不可欠であると その種族の人たちは 信じているようです。この《信仰》には 歴史がありますからね。

 この質問は まだ当分 開いています。

お礼日時:2008/10/22 09:31

やっぱり、絵については すこし筆を伸ばします。

 専門家の看板を降ろしたと言っても 今まで書いたことと矛盾したり、今まで書いたことへの責任まで言葉を尽くすことなく終えてしまう回答なのか?と 思われたりしても それはそちらに失礼なだけだと思います。

まず、ピカソについて書きますが。ピカソの絵にまったく迫力を感じないというのではないです。 でもその程度のものが何で 世界一?なのかという漢字ではまったく解らないということなのですが、

ピカソの絵の価値は、空間処理構成の斬新さにある聞いています。 ほかに真似のできない世界をつぎつぎあたらしく生み出した?という点です。

それが評価されているらしいのです。

では、私自身は その絵画における空間処理構成の世界を実際にどのように追求していこうとしていたのか?  

ピカソの場合は文章での説明は、その内容には触れていない?ので、言葉でなんて説明出来ない境地なのかさへ解らないわけですが、  私の場合は単純ではあるので 言葉できちっと説明できるのです。

私のその追求の中でもっとも深い地点でさへ、それは言葉でも説明できるところが、    むむ、  やっぱり%とかでは言えないですが、たとえるならば90%ぐらいはあると言えそうです。

ともかく 説明を聞いてください。

私は その頃 その光と影(実際の空間の)への感動があれば、どんなに細かい線を写し取ろうとしても面倒ではないので あとは時間さへあれば写実的な絵ならば書けるし、それにはその感動も線とタッチの中に現れて被写体の客観的美の世界を その分何か越えた写実絵画の世界が生まれるというふうに、 まず感嘆に考えていました。

その写実絵画論は、ここではともかく、 そのタッチの世界を生かして
空間処理構成の深みを実現できないかと思ったのです。

そして、私は鉛筆でもポールペンでも、まずひび割れた土の細かいひびの模様を紙の上に 想像でですが線の一本一本に 全身全霊で

《その線の上に、 空間が出来るように描いていったのです。 50センチぐらいの空間が遠近方を一切使わずに 人目で感じられるような写真なら可能なものを、ただの模様で描こうとしていたのです。

めちゃくちゃ疲れることがわかりましたし、それなりの空間が浮かんでくるまでには時間がかかりました。

でも私は 一枚の画用紙に それなりのものをとうとう完成し、それをある物理学者のような人に見せましたが、 その人はその空間を理解し驚いてくれました。  私自身には確信はまだ無かったのですけどね(^^)。

「心の修行のために書いてるのですね」と言われました。

たぶん、その頃はもっと不純な気持ちもあったでしょう。 その絵自体は純粋なものに仕上がってはいても、 いっぱつ新しい境地を開いてやろうとかいったばかばかしい心もあったかと思います。

でも彼の言った一言は 私を邪道から救っています。

考えたわけじゃないですが、  その後、単なる空間処理では構成の段階にすぎないということを知り、自分の絵の心の世界がほんとうは、まだまだ登山道の始まりの地点にいるにすぎないという謙虚な心 というより自分の実態を知ることに それは細い糸でですが、はっきりとつながってるような感じですので。

このように 真剣に私は 空間とかその処理とかの世界も奥深い地点で実際に迷い苦しみ創造もして、 その上で考えても来ているのです。

でも、 それでもピカソの絵のどこが 同じ地点の空間の深さを持っているのか 私の能力では解らない世界がそこにある らしい というふうにそんな感じでお手上げだということなんです。

いろいろな才能の面での壁にもぶちあたり、その後もさまざまの挫折とかにもありつつ、 でも絵の心の面、鉛筆とかの硬い道具での絵心の面でならば、 長い長い、 今書いたような言葉でも探れるような絵の表現の世界 その評価の世界について 語れないわけではない、そういう専門性ならありますよ、 ということなんです。

人のことは たしかに、この感性の世界ではそうかんたんに解らないこともあると思っていますが、  でも ハンカチ取ってください、といわれて猫をさしだす人がいたらアルツハイマーか何かであることが私たちの誰にもはっきり解るという言葉の性格が  感性の深みであるならばいっさい当てはまらないということはありえないという考えも私は持っているのです。

いつか すべて通じます。 その過程がわたしにとっての感性の求道の世界です。 

これで すこしですが、つじつまは合ったのではないでしょうか。

取り急ぎ 書いてみました。

この回答への補足

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ピカソの絵の価値は、空間処理構成の斬新さにあると聞いています。 ほかに真似のできない世界をつぎつぎあたらしく生み出した?という点です。
 ☆ キュビスムと言うんでしょうか。今回 ヰキぺディアで確認しようとしたのですが 必ずしもはっきりしません。ともかくポール・セザンヌ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC% …)は その『リンゴとオレンジのある静物』で この果物の描き方として 必ずしも遠近法に忠実ではないかたちを採用したと聞きました。遠くのものも 故意に 大きく描くことによって――つまり うその構成をつうじて―― 存在を 知らせるというようなことだと聞きました。
 ここから 視点・視角を自由に いくつか複数に 設定して そのすべてを 一枚の絵に描くようになったのが キュビスムであり ピカソだと聞きました。つまり 《空間処理構成の斬新さ》ですね。
 ただ 個人的にわたしは そのようなピカソの絵が 楽しくはありません。

 そういう私情をもろに出しながら 絵画論にかかわって 回答をしたものがあります。
 《QNo.3462873 本物からはどうしてオーラが出る? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3462873.html》のNo.24&25&28です。No.28では あなたもご存じの miko-desi さんのご回答(No.26)に刺激を受けて 私見を強引にでも述べています。よろしかったら ごらんください。ピカソ論などが入っています。

 総じて言って arayata333さんは 制作者・演技者の立ち場から議論を展開しておられます。つまり 専門家です。そして ここでの質問は そうであるないにかかわらず 出来あがった作品についての評価が 問題です。制作論も そのための人間形成も 感性教育も どれもこれも 大切ですが ここでは 絞っています。いいか悪いか おもしろいか詰まらないか このような単純な批評が もし哲学思想にかかわって 一定程度 理論的に為し得るのならば いいのだがという趣旨なのです。

 むろん 制作の立ち場を交えていただいても まったく問題ありません。一たんとしてでも出来上がった作品について ああだこうだと 出来るだけ普遍的に 言い合いたいという魂胆です。やはり 井戸端会議ですね。いかがでしょうか。

補足日時:2008/10/21 09:46
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>芸術は ひとによって 見解が さまざまであるという大前提<



>つくづく 人それぞれだと思います。<

これに対する責任ある回答が、私の生きてる間に保障できないと解ってきましたので、 この質問への回答における専門家の立場は、ともあれ という形ですが撤回させていただきます。

舞踊と絵と歌とまなざしには ウソは本来無い、 それぞれの本質部分にはウソは存在しない。という意味の事を書きましたが  実は告白すれば、私にはまだそれを責任持って回答する資格がないかと思います。

舞踊と絵については、いまだに迷いに迷いつつ思索し続けています。

★ 舞踊については     …、  

モダンバレーの歴史が生み出した表現構成の世界は学ぶべきところがあると思っていても、 その構成以前の心の表出表現の世界については、現代の舞踊家全体と何故か対立する考えであることを知ってしまいました。

一人対、あらゆる舞踊の先生 という図式では、何も語れません。 私がどこかで間違ってしまっているとしか思えない気もします。

ともかく、今の今は何も言えません。

★ 絵については、これはもうある意味恥ずかしいです。

自分の中には 鉛筆やペンならば、確実に「これだ」と言える線で 美の世界を表現できる確信はあります。

でもそれを 有無を言わせない作品にするにはあまりにも神経が疲れるため まだ実験しかしたことが無いのです。   人にそれを見せる段階になっていないのです。

この段階では、言葉でも人に 絵の本質にはウソは無いと語れる資格は無いでしょう。

(こういうときは つくづく億万長者になりたい!!!と思ってしまいます。 こ、これ自体を、ほ  本気のことと思わないでください^^)。

(本音の一部ではあるでしょうけど、今の本気はすべて、総合的視野思索から生まれてるものですので…。)

★ でも、歌にはさまざまな分析が正しく語られていると私にも思える世界があります。 ブレスボイストレーニングで言われてることも、声楽家の随筆とか、イタリアの自然な発声法とかも、ドイツ・リートの歌い方の伝統とかも、すべて重みがあり正しさがあり、おもしろい評価基準の価値的で大衆的な世界があります。

日本の 歌謡藝術研究会の歌の評価基準にも、ほとんど賛成できます。 たぶんですが、喉自慢はこの研究会の基準に添う考えとなっているかと思います。言葉の抑揚、母音と強弱の面では、 喉自慢ではその基準ほどにまでは厳密にしていないと思いますが。

ですが、 この歌の世界においても専門家の皆さんの考えとかなり違う考えもいくつもあります。 いつしか 気がついてみたら別な考えになってました。 それは私の方の間違いなのか? それとも音楽産業がビジネス的に肥大してしまったことでそれに巻き込まれた先生方の方が間違ってるのか? 馬鹿な私にはまだ解ってません。

ならば、実際の私自身が歌の教育システムを作りながら それを検証していってみようという考えがあるのです。  だから私は歌にこだわってるわけです。

この時点からは、専門家の責任を云々できない回答も生まれてしまう ということです。

ということなのですが、 ここにて それがゆえ、 専門家としての責任ある回答という立場を 撤回せざるを得なくなってしまったことを ここに「告白」 かつシャウトさせていただきます。

その上での さらなる「告白」だけ付け加え 私の方からの ここでの回答は終了させていただきます。



私もピカソは 解りません。  ゴッホの絵の内の二つが特にすごいことが解ったのは、35歳ぐらいの時で、それ以前はゴッホもさっぱりわからなかった、 さっぱりというより まったくもって解らなかったのですから、 そして解ってみれば まさにどんな解説でも語れない すごい としか言いようの無い世界だったため、   これでは、しかして、ピカソも含め 解らない絵の評価を私が出来るわけが無いという地点となってしまっているわけです。

そして、その意味では、それを 今61歳にて、いまだに克服できていないのです。

これで どうして「いや絵にも客観的な評価基準はある」と人にシャウト(人間の叫びを叫ぶ歌声)できるでしょうか?

が、

わたしの中には 大きな胸にぽっかり開いた悲しみのような疑問が すべての画家達に対してあります。 仏教における二乗への批判と同じものなのかはまだはっきりしてませんが、  なんで彼らは 言葉や歌では自らの絵画の深さや楽しさを語ってくれなかったのだろう? なんでその哲学の世界を語ってくれなかったのだろう?     いや、語れなかったのということなのかもしれません。 歌えなかったのかもしれません。


その哲学や、そういう歌の世界は、写真文化とその哲学の世界、神の御業そのものの写しの藝術の哲学の世界との比較の世界以前には、無理だったのかもしれません。   

かもしれません。

むむむ。  信仰とその哲学が先に必要だったのかもしれませんね?

あるロシアの“点描画家”は 昔の人ですが「神の御技を写し取れる画家はいない。我々はその万分の一の世界を追いかけようと努力してるに過ぎないのだ」という意味のことを語っています。  この考えが 画家達の基本の軸にあったならば、 哲学は、 きっと 彼らの手によって感性教育発展に すでにとっくに結びついていたと思う者です。

以上、 これしか書けません でした。  か 書きたくなることなら山ほどあるのに…(ーー)゜ 私も絵文字は下手ですね(笑)。

この回答への補足

 そうですね。一歩わたしが引いて 見てみようとしていたのかも知れません。
 ご回答をありがとうございます。arayata333さんのご見解の一歩前に立ち止まってみたり あるいは何かをきっかけにして 一歩先を(たぶん 横のほうへ)追いまわしてみたりしたのではなかったでしょうか。
 哲学としては 観想を重んじるほうだと思うのですが そのわたしも 感覚派のような一面があって 感じを確かめないと てこでも動かないところもあるようなのです。たぶん いや きっと 応対に苦労なさったのかも知れません。いま思えば どんどん 先へ進んで行っていただけば 何のこともなく よいと思うのですが? 今からでも よいとさえ思うのですが?
 少ない情報の面でと言いますか これについては 体験・経験しているぞという少ない情報の側面で わたしは 頑固な姿勢を見せたようです。一定の自信を持っていますが それらを出したのは むろん たたき台としてです。ですから どんどん 進めて行っていただけば よかったわけです。
 それに 芸術は つくづく それぞれの人によると言っても そこに 専門家がいないわけではないでしょうから。つまり それぞれの分野に それぞれの流儀で 専門家が輩出しているということではないでしょうか。
 (それにしても 歌の評価の基準は わかりませんし 短歌・俳句も なんとも どう評価していいのか わからないものですねぇ。けっこう テレビ番組で 見るのです。何とか 分かるようにならないかと思っているわけです)。

 すべてを端折って言ってみれば たとえば ゴッホ論やピカソ論が 人間と社会の哲学にとって あるいは 現代思想にとって もし意味を持つとしたなら そのような芸術表現の位置づけの仕方を知りたい こういうような趣旨です。
 たとえば 村上春樹を歓迎する思潮は 構造主義=関係主義の影響で 主体なき過程という歴史の捉え方が流行った結果が 反映しているのではないか。社会が 網の目のごとく 関係として 張り巡らされるという構造になっていて たしかにその網のひもの結節点として 人は あると言ってはいても もうその結節点は あってなきが如しと見なされてしまうという情況のように思えます。したがって 悪くいえば ハルキは その情況をおもしろく描いているのではないかというものです。・・・
 とりあえず 思うところを述べました。要するに これこれのアニメは おもしろい・よい・いや わるい等々 そのような批評からでも 何か得たいと思ったのでした。

補足日時:2008/10/20 20:49
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書くペースが遅くなっています。

  間も区切りもついてしまったとおもわれますところ、  

ここで最初の質問にもどってみたいと思います。

>アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で <の部分の、 

「これらの分野」は、ウソのつきやすい表現の世界である。 それは演技や“言葉という記号”によるところが大きいからである。  

というふうに一応はくくれるジャンルでもあると言えそうです。

しかし、この中にも 歌や絵や踊りの純粋な心の部分の世界、ウソのつけない世界からの表現をからめることが出来るので これらの世界のウソの部分をなくしてゆくことも可能。

それでは、歌や絵や踊りの本質である心の世界を真実たらしめるものは何か、 素朴な子供達のような新鮮な世界(天国)を語らしめる芸術の世界にしてゆく道筋はいかに?

というと、それが感性教育に私が期待している部分となるわけです。

もしそこが充実すれば、仏教で芸術を二乗という名で非難しているところのそういう気取った芸術の世界ではなくて、 庶民の魂からの芸術の世界、真の意味での仏界への矛盾なき入り口(菩薩道徳を越えて行く道)の世界としての芸術の世界も見えてくる というのが私のそのへんの考えです。



一気に話を進めていきますが、 おそらく、いわゆる「芸術至上主義」というのは上に書いたような意味あいでの 「芸術を人間における最高の価値と考える思想・思考形態」ということでは無いと思われます。

もっと混沌としたそのビックバン以前のもの(^^)と言えそうです。

私の考えこそ それが仏界の入り口の世界とか言うのですから「芸術至上主義」の権現かもしれないですが、 これは底辺からのものであり、健康への叫びなんです。  死に物狂いのその人なりの愛情の世界とも言えるかもしれません。  えらいとか糞とかを越えた、感じる側のあたりまえの世界です。



ピカソは「絵を描いてほしい いくらでも払うから」と懇願したお金持ちに さらっと二秒で絵を描き200万請求したらしいのですが、 其のお金持ちがいくらなんでも「数秒で200万円だなんて」と講義したところ「2秒ではなく、 40年と2秒だ」とか言ったそうですが、   どんな芸術家でも 多くの人は同じように生涯絵なら絵を追及しています。

お金で買えない宝物を いくつも手に入れているならば一番お金がいらない人たちであるところ、 なんでそれをビジネスにしてしまうのでしょう。

私の言う芸術の世界というのは そんなのとはいっさい関係ない世界です。

ピカソは 天才なのかもしれないですが、無責任です。 というよりもしかしたらですが、 部分的な天才ではあっても 自分が何をしてるかさへ解っていなかったのかもしれませんね。



マネーゲーム自体を否定する必要は、まだ無いかと思います。 資本主義社会は アメリカの失敗からも学ぶでしょうし、これから変化してゆくはずだと思います。 其の可能性はあると思っています。

サブプライムの問題は 金利変動と証券化の問題のようですが、日本はその両方ともむしろ安泰です。  今のところはです。 でも 本当は安く貸し出して後で金利が問題となるシステム事態は アメリカが20%(であるにもかかわらずこれほどのダメージを受けてしまった。)あるところ日本は80%と言われています。  長い将来を見据えるならば日本にはさらなる危機がすでに内包されています。

今のうちに アメリカ以上にすべてを改革しなければならないのは日本であるとも言えそうです。

知恵者達はすでにさまざまな分野で動き始めているでしょう。



ひるがえって、シュールレアリスムですが、 実は私の場合始めてみたその作品はすばらしいものでした。   画面は揺れていてまるでムンクの叫びに似たところはありましたが、そこで表現しようとしていたのは時間の豊かさもたずさへたふるさとの姿を3次元空間にとらわれずに追求しようとしている姿が 其のタッチに明らかに見られる絵の世界だったからです。  

“ほんとうの人間の幸せを単なる顧客のニーズを越えて願う”資本主義の真の事業家(今までは数少ない)の世界と 、そこからの投機の世界が 膨らむならば、 そして芸術がその真の反映であるのならば、シュールレアリスムも含めて表面(表面の形式)がどうであれ、 事業の世界も含め、本物は本物であるかと思います。



恋愛至上主義も 似たようなものと 思います。

ただ、この場合は、恋愛は陥るものとも言いますが、自分の手や足での自立したコントロール下にての 男女の愛情の世界ではないので、 その場其の時その陥った時点での時として見られる奥深さとは裏腹に、 其の危うさもまたかなりのものと言えてしまいます。

体験者、二度ほど、これは参ったといえてしまう なんともすごい恋愛の体験がありますので、体験者と言わせていただきますが、 そこから見ると、これも恋愛至上主義は むしろ未熟である可能性もあり、危ういというより以上に信頼性にかけるとこともあると見る必要性がある思想・思考形態と思います。

あくまで、深い肉感的な愛情の世界は 真の芸術にとって大きな力となる世界であることは言うまでも無いところだとも思っているのですが…。



>単に《ロマン主義》的であるとか《幻想的で退廃的》であったり《神秘的》であったりする< 超現実主義とか他の主義の芸術の世界とかも、>現代においては<多々あったりするのでしょうし、

それはまた 資本主義の退廃の部分や 安易なロマンだったり、無意味な神秘化で人をあおったりするような部分に、それがまた拍車をかけるような文芸評論とか 芸術形式の世界といえてしまう世界だったりするのでしょうが、

いまこそ、私たちは、特に日本人は、間違ったところははっきりと見抜き、 ほんとうに新鮮な 大自然を愛する感性からの落ち着いた哲学をここに開発してゆく必要があるかと思っています。

今回はすべて おおざっぱかもしれませんが、

わたしの方からは だいたいこんなふうな回答がしたかったところだったのです(^。 なかなか、ここまでたどりつきませんでした(^^)。
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この回答へのお礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回 思ったことは 芸術は ひとによって 見解が さまざまであるという大前提を 忘れてはいけないなということです。
 ☆☆ 思想として
 ☆ という見方も 派生してくるであろうという前提のもとに 考え出した質問でしたが その派生させる仕方も ひとそれぞれであるのかも知れません。

 NHKののど自慢について質問を出しておられましたが すこし考えたことは ひとつの方向性として いくらかの数の 芸術性が高いという成功作品(番組)を とにかく 作りだすことではないか。たぶん その場合にも 基準がいくつかあって 候補に挙げられる作品も いくつか複数になるでしょうが 一度 そういう評価を出しておけば 比較対照して そののちの作品についても 批評を 自由に出し合って その評価の歴史が築かれていくかも知れない。こう思いました。
 ただし 歌番組については どれが 芸術性が高いかは わたしには よく分かりません。――音楽は ワ゛イオリン演奏を ときどき あれば 聞く程度です(《クラシック倶楽部》)。絵画のほうの《日曜美術館》を ひまがあれば 見ていましたが。

 ★ 縁覚が 二乗である
 ☆ ことを思い出しました。むしろ 六道輪廻を超えているという側面を見ていましたが 逆に 炒った豆だとかと言って 芽が出ないとも こきおどしていましたね。――ま そのような規定からは自由に 力を発揮していただきたいものです。

 ★ ピカソ
 ☆ は よく分かりません。楽しい感じがしません。つくづく 人それぞれだと思います。

 ★ 感性
 ☆ は たしかに 理論家であると考えたことがあります。愛は 理論家であるという命題です。愛が ほんとうに愛すべきものを知らないのではない という内容です。理論なき理論家であると。
 いづれにしても ゆたかな感性と情操の世界を 表現していただきたいものです。ね。
 しばらくして 締めたいと思います。

お礼日時:2008/10/17 22:05

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Q曽野綾子先生、敬虔なカトリックです。

曽野綾子先生の主張、違和感覚えませんか★
信者さんの方にコメントいただければです 東京の信者と地方とでは、考え方違うんですかね
私自身は、学生時代にカトリックの受洗を

「70、80にもなって、『年寄りが安心して暮らせる生活を』などというたわけた言っていて、それで通るのが、日本の弱くて強いお年寄りなのである。人生はどこでも、いつでも『安心して暮らせる』ことなど決してないことを、改めて肝に銘ずるべきだろう」

霞が関の中央分離帯は、たいていの場合、雑草だらけ。〈中略)こうした公共の場の清掃に、足腰の立つ生活保護受給者には働いてもらった方がいいだろう。

放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればいいんですよ。何も若者を危険にさらすことはない

以上が曽野綾子先生の主張です
私と同じアパートの独居老人、寂しい、寂しいというので、わたしが毎週日曜日に行く、カトリック教会に行こうと、おすすめしたところ
「カトリック、ああー、あの曽野綾子さんのねー。いやだね。あんた、彼女の言動を調べなさい」と
また「キリスト信者が、広島、長崎に原爆落とした、あれはキリストの裁きだと、人種差別はするし、またイラクで劣化ウラン弾をばらまいて」
「東京のキリスト教会は、金持ちで社会的地位の高い人の行くところ、麻生さん、与謝野さん、山谷えり子さんなどあんたが行ったら白い目でみられるよ」
こんなことを。

曽野綾子先生の主張、違和感覚えませんか★
信者さんの方にコメントいただければです 東京の信者と地方とでは、考え方違うんですかね
私自身は、学生時代にカトリックの受洗を

「70、80にもなって、『年寄りが安心して暮らせる生活を』などというたわけた言っていて、それで通るのが、日本の弱くて強いお年寄りなのである。人生はどこでも、いつでも『安心して暮らせる』ことなど決してないことを、改めて肝に銘ずるべきだろう」

霞が関の中央分離帯は、たいていの場合、雑草だらけ。〈中略)こうした公共の場の...続きを読む

Aベストアンサー

まず一般論として、敬虔なカトリックだから「優しく美しい人道主義者」であるはずがないということを。

十字軍の遠征で異教徒を大量虐殺し悪行の限りを尽くしたのも、宗教裁判で「異端者」を火炙りにしたのも、魔女狩りで無実の人間を大量に殺したのも、すべてキリスト教徒です。
でもこれは、どんな宗教でも自分たちの教えを広めるために、多かれ少なかれやったことです。

さて曽野綾子さんのことですが、彼女が何と言ったか私は知りませんが、質問者さんが書いたようなことを言ったとしたのなら、それは曽野綾子さんが自分自身も老人の側の人間の一人として、逆説的に主張したのではないでしょうか。

老人だから何でも許されるとか、老人だから何もしなくて良いのではなく、老人にしか出来ないことを一生懸命やろうという、曽野さんも含めた老人に対する「応援歌」のようにも感じます。

あと余分なことですが、寂しさを紛らわすために教会に行くのが良いのなら、キリスト教でなくてもイスラム教でも、創価学会でも、幸福の科学でも何でも良いという理屈になります。

Q「芸術的悲劇作家は、また同時に芸術的喜劇作家である」

こんにちは。
ご存知プラトン著『饗宴』での末尾、
ソクラテスがアガトンとアリストファネスに「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という議論を展開し、また二人を納得させていた(とアリストデモスは言った)部分があります。
プラトンの技法によって、もしくは話題外であったため削られてしまいましたね。

そこで質問させていただきます
もし皆さんがソクラテスだったとしたならば、どのような論理展開で以って「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という命題を完成させますか?

よろしくお願いします。
ちなみに私は悲劇喜劇に関しての心得が全くございませんので見当もつきません…。

Aベストアンサー

これは課題ですよね?
課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。

まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注意しておいてください。

図書館へ行って、文学辞典、演劇辞典、百科事典、まあ何でもいいですから、「悲劇」「喜劇」の項を調べてみてください。wikipedia には肝心のところが載ってないから。
いまわたしたちが使っている「悲劇」「喜劇」という言葉と、ギリシャ時代の「悲劇」「喜劇」の意味が、異なっていることがわかるはずです。当然、ここで言われている「悲劇」も、単に主人公がかわいそうな結末を迎える劇ではありません。

ギリシャ悲劇として最も有名なのが、ソフォクレスの『オイディプス王』ですが、これを考えてみると、悲劇がどんなものかよくわかると思います。
偉大な人物である主人公が、運命もしくは神々の力と対抗しようとするが、最終的に破れ、死を迎える。だから「悲劇」なんですね。

それに対して喜劇というのは、偉大な歴史上の人物ではなく、身近な、日常卑近な人びとを扱ったものです。偉大な人びとではない、市井の人びとは、性格的にさまざまな欠陥を持つ。その性格の欠陥ゆえに、さわぎを引き起こし、笑いを誘う。そうして最後は幸福な結末、とくに結婚式で終わってゆくのです。

結婚というのは、新たな生命の誕生の含意があります。
悲劇が人間の死を扱うのに対して、喜劇は人間の誕生を扱うものだった。つまり、人間の存在の発端と終局を共に描いている、といえるわけです。

ここまできたら、『饗宴』の39の「喜劇と悲劇とを作るということが同一人にできる」ことであり、「真に芸術的な悲劇詩人は同時に喜劇詩人でもある」ということの意味もわかってきますね。

ここらへんのことをもっと知りたければ、中村善也の『ギリシア悲劇入門』とか、古い本で手に入りにくいんだけど、図書館に行けばきっとあると思うな、田中美知太郎全集の第18巻に所収されている「プラトン「饗宴」への招待」がとても参考になると思います。

さて、このような悲劇・喜劇の要素は時代を経るにつれ、徐々に混在していき、特にロマン主義の時代になると、悲劇的要素と喜劇的要素は積極的に混淆されていくようになります(たとえばゲーテの『ファウスト』)。それに対して、ギリシャ時代のような、純粋なかたちでの悲劇を描くことはできないか、という問題意識から出てきたのが「絶対悲劇」あるいは「絶対的悲劇」という言葉です。

ジョージ・スタイナーは「絶対的悲劇」(『言葉の意味』所収)で、絶対的悲劇というものは、そもそも成立し得ないことを書いています。

以上、参考まで。

これは課題ですよね?
課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。

まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注...続きを読む

Q曽野綾子さんの本の題名が分かりません

曽野綾子さんが書かれた本で「~の窓」というのがあるらしいのですが、
~の部分が分かりません。ご存知の方がいらっしゃったら是非教えて下さい。

Aベストアンサー

ご質問の本の題名はわかりませんが、下記参考URLに曽野綾子さんの著作データベースがありますので、こちらをご覧になってはいかがでしょうか・・・

参考URL:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/5153/db_cover.html

Q『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの

『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』

 ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。

あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。

私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。

なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。

同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、    なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか?

それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。

現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです)

が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。

建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。  それだけよりよい図面を描けるようになるからです。   が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。  でも 哲学ってそれでいいのですか?

 痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、  なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう?

なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう?

いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、

それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが)

みなさんは、 このへんをどうお考えですか?

実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。

宜しくお願いいたします。

『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』

 ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。

あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。

私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。

なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。

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Aベストアンサー

>社会を変えてゆける企業。
企業は社会を変えています。しかしその方向性は善ではない。鰤ジストンが今の首相を作り出したように、ト与太は、アメリカに、三とおりーは、フランスに別荘地帯を作り上げています。世界有数の「日本企業の富」が国民に行き渡っているかと問えば、答えは簡単に出ます。否です。

もっとわかりやすい例で見ると、航空機部門でしょうか。日本は70年代以降中型航空機を含め製造さえしておりません。現状としては、「わしは、飛行機の扉を作ったことがある」と名乗りを上げた企業が、経験者としてしゃしゃりでてきて、数兆円を受け取っています。こういう幼稚な段階です。

日航関係・航空機開発事業関係をご観察ください。利権の奪い合いです。お金を払うのは誰か?お金をもらうのが誰か?を見てゆく必要があります。

しかし企業側の弁解として、企業は、あくまで私企業であります。法的にも営利目的を持ち、税金を払っています。金を稼ぎすぎたらどうだということは、個人的には、ぜんぜん問題ではない。

ここで、強調するべきこととしては、税金を払いたくないのが、贈与される側であるということなのです。
また、税金の浪費をしているのが誰かということです。

国を破壊したのは誰か?答えは、寄生虫です。誰がビックバンしろと頼んだのか?わたくしでは、ありません。ご注意ください。これはおじじの仲間が関与しています。金融恐慌の只中にあって、W大が、スポーツ経済経営に興味を抱いて、変なアメリカ人を講演者として呼ぶという現象が、なぜ起こるかということを考えるべきなのです。

訂正
誤(光-科学変換)
正(光-化学変換)

>社会を変えてゆける企業。
企業は社会を変えています。しかしその方向性は善ではない。鰤ジストンが今の首相を作り出したように、ト与太は、アメリカに、三とおりーは、フランスに別荘地帯を作り上げています。世界有数の「日本企業の富」が国民に行き渡っているかと問えば、答えは簡単に出ます。否です。

もっとわかりやすい例で見ると、航空機部門でしょうか。日本は70年代以降中型航空機を含め製造さえしておりません。現状としては、「わしは、飛行機の扉を作ったことがある」と名乗りを上げた企業が、...続きを読む

Q曽野綾子さんのコラムについて

産経新聞を取っていたのですが、最近辞めてしまいました。金曜日に曽野綾子さんのコラムが載っていたのを楽しみにしていたのですが、11/5はどういう内容でしたかしってる方いますか?今回のイラクの事件にふれていますか?

Aベストアンサー

下記ページのものでしょうか。
「透明な歳月の光 133」というコラム名で「対イラク まずアラブ社会に通暁を」というタイトルになっています。
http://www.nippon-foundation.or.jp/org/moyo/2004598/20045981.html

参考URL:http://www.nippon-foundation.or.jp/org/moyo/2004598/20045981.html

Q現代思想 理性・精神の重視と感性・身体の復権について

本に書いてあった対立軸についてよくわかりません。
1 理性・精神を重視→神に代わって人間の理性が世界を支配する(例)迷信・不合理の追放、化学・技術の進歩、民主主義の発展。

2 感性・身体の復権→理性重視の近代精神が現代のの混迷をもたらした(例)科学の暴走への危惧、地球環境の破壊、精神的荒廃、孤独。

1と2が対立しているとのことです。どのような点で対立しているのかいまいちわかりません。わかる方ご教示ください。

Aベストアンサー

 対立しているといえばしているようにも見えますが。

 これに1つのプロセスを補って、3つのレベルで説いてみようと思います。

 前近代-宗教・伝統・共同体的価値が支配的な時代
 近代-理性的・科学的価値が支配的な時代
 後期近代-近代的価値が生んだ腐敗を清算する時代

 いささか単純すぎる図式ではありますが…一応あなたの書物の図式にあてはまるものです。

 近代期(通例はフランス革命以後)は、人権などの近代的価値が生まれ、民主主義という普遍的?政治制度が
発展する一方、同時に産業革命以降に資本主義が都市化と産業化とともに進展してきた時代を指しています。もちろん同時に社会主義や独裁などとの対立が激化していった過程でもありましたね。この時代の価値は、前近代的価値を否定して生まれたものといわれます。ウェーバー流には、「脱魔術化」すなわち伝統的価値や宗教的価値を否定し、人間を合理化していく過程です。

 感性・身体の復権というのがいまいちこれだけのヒントでは理解しかねますが、あげられている例を見ますと、この近代の合理化が実は精神的荒廃を招いてきたということです。とりわけ地球環境の破壊というのは、人間が合理化することの帰結を把握していなかったということです。
 たとえば、日本は高度成長期において、大規模な開発を行いました。結果、生み出したものは公害問題という人間自身に害をもたらすものでした。地球環境問題・核の恐怖、貧困(エイズなども関連)などはグローバルな問題とされ、地球そのもののの存続を危ぶむものとして懸念されはじめたのは、それほど昔ではありません。せいぜい1960年代以降ぐらいではないでしょうか。
 科学の暴走への危惧とは、20世紀前半からの核への恐怖、軍事力の増大、世界戦争の勃発などがおもなものでしょう。これらは明らかに近代になって、ひどくなった現象です。昔にも戦争はありましたが、これほどの動員体制と規模を大きなものは過去に例はありません。戦争の産業化(ギデンズ)は、間違いなく近代の産物です。
 孤独とは難しいですが、実は「孤独」って近代的現象じゃないの?っていう話はあります。それはなぜか。第1に、共同体的関係がたしかに薄れているからです。この手の議論は、実は100年も200年もやっているので怪しいところはあるのですが(笑)、日本でいえば、核家族化や産業化に伴う流動性の高まり(つまり人があちこち移動する)によって、人間は従来の共同体的紐帯(つながり)を失いつつあるのです。
 第2に、先の言葉でいう「脱魔術化」すなわち、宗教的価値・伝統的価値の否定は、人間の心のよりどころを失うこととなりました。現代では、より自分実現が啓蒙され、自己責任が問われるようになりました。それは、システムとしての個人主義の確立と進展です。結果、人は、原子としての「個人」として置かれるようになっているのです(実際は違うのだが)。
 近代の成熟期のなかで、後期近代が出現する。すなわち、近代の負の遺産に対して、とりわけ20世紀後半以降に見直しが進められているということですが、それをこの著者は「感性・身体の復権」として考えているのです。
 感性とはおそらく平和・人権・民主主義などの普遍的な価値が再度問われる時代へ移っているということでしょう。身体は、これだけの情報量ではいいかねます。
 
 補足:ただ今は、近代の反省性(A・ギデンズ)という議論が個人的には説得的だと思います。近代と後期近代に連続性があるか、ないかというのはかつての焦点でした。つまり、近代とポストモダン(後期近代)は違うのかどうか。

 対立しているといえばしているようにも見えますが。

 これに1つのプロセスを補って、3つのレベルで説いてみようと思います。

 前近代-宗教・伝統・共同体的価値が支配的な時代
 近代-理性的・科学的価値が支配的な時代
 後期近代-近代的価値が生んだ腐敗を清算する時代

 いささか単純すぎる図式ではありますが…一応あなたの書物の図式にあてはまるものです。

 近代期(通例はフランス革命以後)は、人権などの近代的価値が生まれ、民主主義という普遍的?政治制度が
発展する一方、同...続きを読む

Q曽野綾子さんの小説の題名を教えてください

昔読んだ、曽野綾子さんの小説だと思うのですが、あれこれ検索してもわかりませんので、教えてください。

主人公が年頃の若い女性。父親が亡くなり、母とふたり暮らし、お見合いの話が舞い込んでくるような内容だったと思います。かすかに覚えているのは、良い人だとばかり思っていた相手の男性が、意外に人の話を聞かない人だったり、どっさりと新鮮な卵をくれたけれど、量が多いので近くの施設にお分けしたことを言うと、少し気分を害したりする態度を見せたりした・・・という場面です。

結末がどうなったかも全然覚えていません。このエピソードの記憶も少し曖昧です。もう一度是非読みたいのです。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「幸福という名の不幸」というタイトルの小説に内容が似ている気がします。
質問にある言葉から検索しただけなので勘違いかもしれませんが…
参考にこちらをご覧ください。
http://www.geocities.jp/akatombo123/dokusyo-kansou.htm#c
http://www.amazon.co.jp/dp/4061313142/

Q聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。

 (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。

 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。

 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。





 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。


 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。

 ▲ (創世記1:1)
 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001

 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
 ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)
 ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)

 ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.

 ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。

 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。

   ○ bara'
 http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV

 (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。

 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。

 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。

 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。

 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。

 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。

 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。

 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~
  
 はじめに ことば(ロゴス)があった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。

 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。

 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。

 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。



 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。

 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

 (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観で...続きを読む

Aベストアンサー

(15)まで。
そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。
絶対というものは、例えば4次元の下には三次元が∞に重ねられるように、様々な表現が可能なのだろうと思う。自由度の問題。それを空と表現するのは、個人的にはよく理解できるし同意もできるが、それが空の本意かどうかについては私は言及できない。つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。

(16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々についての解釈が可能であるという点については同意できます。様々な論争や葛藤が消滅すると思われます。

ただし、この論法であると、神にとっての神というものを想起せざるを得ず、そこには人間の引く補助線や天啓は到達できないという事になります。三次元から五次元には単純思考では飛躍できないようなものです。つまり、神の神を真の絶対とした場合、それは、絶対に知り得ないということになるのではないでしょうか。分かるか分からないかも、分からない、=完全に分からない、ということです。
ここに至って初めて、言葉が光であるというヨハネの言に、近い相が現れると思います。
つまり、想定された神にとっても、言葉(人間の言葉ではない)は神であるということです。

(15)まで。
そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。
絶対というものは、例えば4次元の下には三次元が∞に重ねられるように、様々な表現が可能なのだろうと思う。自由度の問題。それを空と表現するのは、個人的にはよく理解できるし同意もできるが、それが空の本意かどうかについては私は言及できない。つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。

(16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々につ...続きを読む

Q今日、読売新聞読んでいたら時代の証言?のコーナー今は作家の曽野綾子さん

今日、読売新聞読んでいたら時代の証言?のコーナー今は作家の曽野綾子さんなのですが
自分の歴史を語るのですが夫と結婚して子供が産まれてもし自分ひとりになったらどうやって生きようと考えて大型免許もっているが運動神経鈍いから当時、収入が良かったからバキュームカーの運転手になろうと思ったそうです。私は連載がはじまって毎日、読んでいましたが女優さんかと思うくらい美しい若かりし頃の写真、しかし今日の文章には非常に違和感を
覚えました。新婚そうそう可愛い子供が生まれてすぐ一人になったらと深刻に悩むだろうか?
心からバキュームカーの運転手になろうと思っていたのか?もし現実に生活に困ったら本当に
なったのだろうか?あの当時で聖心でたお嬢様に身内がそんなことさせるだろうか?
私はユーモア含めて軽く言っているようにしか感じません。だとしたら職業に貴賎をもち
こんなことが平気で言えてしまう著名な作家がこの程度かと非常にこの国のレベルにまでというと大げさですが落胆を覚えます。意見聞かせてください。

Aベストアンサー

別に「この国のレベルにまで落胆を覚える」必要はありません。この国にももっと誠実で有能な作家はいっぱいいます。
要するに「曾野綾子」ってのは、その程度の作家なのです。落胆するなら「曾野綾子」にだけ落胆して下さい。
私に言わせれば、もともとこの作家が「著名」というほどもてはやされるのが不思議です。書いていることはかなり支離滅裂。
この作家がもてはやされる(もたはやされた)のは、結局、思想が「ガチガチ保守(ていうか右翼)」で自民党などの権力者と波長が合ったというだけのことと思います。

Q国語の現代文の哲学?みたいなやつが苦手です。 小説とかはかなり得意でほとんどあってるんですが哲学は内

国語の現代文の哲学?みたいなやつが苦手です。
小説とかはかなり得意でほとんどあってるんですが哲学は内容が難しく頭に入ってこないので半分もあっていません。なにかコツとかあるんでしょうか?

Aベストアンサー

評論文ですね。内容が難しいのは読み慣れていないからですよ、普段から論理的な本を読む癖をつけることと、読み方の鉄則に従って機械的に処理すればいいと思います。


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