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綜合と統覚の関係はどのようになりますか?

A 回答 (2件)

「超越論的演繹論」ですね。


カントの『純粋理性批判』でも一番厄介なですから、どこまでわたしの手に負えるか怪しいのですが、まあがんばって読んでいきましょう。ここらへんはわたしは教わってるわけではないので、読み損ないとか理解が足りない部分とかあると思うので、何か気がつかれたら指摘してください。

統覚に至る流れの道筋はこうです。

現実の全体はふたつの世界から成る。
・物それ自体の世界。
・わたしたちに見える姿の世界。
後者は経験の対象の世界で、空間と時間のなかに現れます。
空間も時間もわたしたちの経験を離れてはあり得ない。
こうした時間と空間をカントは感性の形式と呼びますが、この「形式」は「枠組み」と言い換えていいかと思います。

その枠組みのなかで、わたしたちはまだ加工されていない経験の原材料を、秩序だった統一性のある世界にまとめ、それを実際に経験しています。
その加工プロセスがなければ、原材料は存在することはありません。
カントはこの加工プロセスを「悟性」と呼びます。さらに、原材料を結合し、ひとつのものにかたちづくっていく働きを「綜合」と呼びます。

こういうことを頭に入れて置いて、もうちょっと細かく見ていきましょう。

一般に、わたしたちは何かを知るというプロセスを、ある対象があって、それがどうにかして主観のなかの経験となっていく……みたいに漠然とそう感じています。
ところがカントはそうじゃない、と言う。わたしたちは自分がいまいる場所から始めるしかないのだ、と。主観のなかの経験から始まり、そこからその説明を求めていくのだ、とするのです。

では、この主観のなか、「知る」というプロセスの起点には、いったい何が「ある」のでしょうか。この加工プロセス、結合・統合の働きは、いったい何によってなされているのでしょうか。

それが「統覚」だとカントは言うのです。
それは、論理的に要請されたのでも、フィクションでもなく実在するものだと。
数学的対象や物理学的対象のように、時間・空間の「うち」にあるわけではない。かといって霊魂のような物自体でもない。

----『純粋理性批判』----

(B157)これに反し、表象一般の多様が先験的に総合される場合、したがって統覚の総合的・根源的統一においては、わたくしは自分自身を意識するが、それは、わたくしが自分に現象する仕方でもなく、わたくしが自分自身においてある在り方でもなくて、ただわたくしが存在するということを意識するにすぎない。この表象は思惟の働きであって、直観の働きではない。
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「統覚」というのは、非常に特殊な仕方で実在する「わたくしが存在すること」の意識なのだと言っているのです。

中山さんの『思考の用語辞典』の「意識」の項目は、すっきりしすぎて逆に「そういうもんなのか……」という以上にはわかんないんですが(笑)、こういう脈絡に置くと、なんとなく見えてくるような気がしません?

---(『思考の用語辞典』p.47)---

意識とは意識するという行為だ。同時に、意識する意識だ。ふたつの側面がデカルトみたいに推論で結びつけられるのではなく、おなじものとして統合されたことはないのかな。そう考えると、カントの「純粋統覚」という概念に思いあたる。純粋統覚は、意識することと同時に、実体でもある。カントによって、これが人間の思惟と表象の根元として想定された。純粋統覚では、思惟がそのまま存在で裏うちされている。
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こう考えることができます。
「わたしとは何か」という問いは、ほかの問い(「宇宙とは何か」「デカルトとは誰か」)とは根本的に異なっています。
つまり、「わたしとは何か」とわたしが問うとき、それを問うわたしは実はすでに「わたしとは何か」を知っていて、知っているからこの問いを発している、とも言える。

「量子論とは何か」とか、逆にすでに知っている「歯ブラシとは何か」とか、あるいは多義的で単純には答えられない「歴史とは何か」とか、問いにはさまざまな種類がありますが、「わたしとは何か」という問いは、そういう問いとは確かに位相を異にしている問いです。

つまりこの問いを問う人は、ほんとうにわからなくてそれを問うているのではなく、このわたしの「あり方」を問うものとしてあるんです。では「わたしとは何か」のいったい何を知っているのか。明らかに、それは歯ブラシが何であるかや歴史を問う問いに対する答えと異なる位相で「知って」いる。

だからこそ、デカルトは考えている自分だけは「疑い得ない」とした。
けれど、この前提はどこから来るのでしょう。デカルトは「それ以上疑い得ない」という洞察であると言います(中山さんの「推論」はこのことを指しているのだと思います)。

でも、カントはそういうふうには考えない。もう最初に可能的・必然的な作用である、とこう言っちゃうのです。

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(B132)
「わたくしは考える」という意識が、あらゆるわたくしの表象にともなわなければならない。
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これはどういうことかというと、黒崎さんは『カント『純粋理性批判』入門』のなかで、「これは、私の出来事には、必ず、「私は……と考える」という意識がくっつくということ。英語で考えるともう少し分かりやすいが、私に去来するあらゆる思い、出来事には、I think that....というフレーズが頭につく、ということである」(p.125)と書いていて、へっ、そんなことでいいの? と、わたしはこれを初めて見たときはほんとにぎょっとしました。

----(p.125-6)-----
例で考えてみよう。「ここに砂糖がある」という表象。しかし、これを厳密に考えれば、「『ここに砂糖がある』と私は考えている」と言っていい、いや言わなければならなくなるだろう。……
 例えば、「地球は丸く、太陽の周りを回っていることは、絶対の事実だ!」という主張も、それが〈主張〉であるかぎり、誰かの主張であって、結局、最終的には、必ず「……と私は考える」が伴わざるをえないのである。この最終的・根源的な自己意識をカントは、超越論的統覚と呼び、人間の最終的で最高の統一の役目を与える。
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へっ、役目を与えるってアナタねえ、って一瞬たじろぐ(笑)んですが、確かに統覚というのはこう考えるしかないんです。

カントは自我一般を言っているのではないのです。表象一般に注目して、それがわたしの表象になるにはいかなる条件が必要か、ということを言っているのでもない。つねに問題にしているのは「わたしの表象とはいかなることなのか」を問うている。そうしてその答えは「……とわたしは考える」であると。

-----(B132のつづき)----
けだしそうでなければ、全然考えられることのできないものがわたくしに表象されることとなり、このようなことはまさに、表象が不可能となるか、或いは少なくともわたくしにとって無となるか、を意味するからである。あらゆる思惟に先立って与えられうる表象は直観と呼ばれる。
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ポイントは「わたし」の表象に「わたしは考える」が伴われなければ、「表象が不可能となるか、或いは少なくともわたくしにとって無となるか、を意味する」という点です。

---(B132のつづき)----
わたくしはこれを経験的統覚と区別するために、純粋統覚と名づける。或いはまたこの統覚を、根源的統覚とも名づける。この統覚は、「わたくしは考える」というあらゆる他の表象に伴わざるをえず、かつあらゆる意識において同一である表象を生み出す自覚であり、決してさらに他の統覚からは導き出せないような自覚であるからである。
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そもそもこの「統覚」というのはライプニッツに由来する語なんだそうです。個々の知覚は世界のさまざまな事象に向かう。そうしてこの知覚を知覚するもの、「たったいま音楽を聴いていた」「いまさっきまで空を見ていた」ということについての知覚が「統覚」なのだ、と。そうして統覚といっても、いろいろな段階でのとりまとめがあります。

けれども、その「わたしは考える」は、このようなさまざまな統覚を根っこのところで支える根源的な統覚である。カントはこのことをこう言っています。

-----(B133)-----
 それゆえわたくしが、与えられた多様を一つの意識に結合することができることによってのみ、わたくしがこれらの表象における意識の同一性をみずから表象することができるのであり、換言すれば、統覚の分析的統一は、何らかの総合的統一を前提してのみ可能なのである。
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さまざまな表象群を統一するのは「わたしは考える」という根源的な統覚である。だからこそ、個々の表象を分析的に統一することもできるのである、と。

ここから次のように言われていきます。

-----(B135)----
結合は対象のうちに存するものではなく、また対象から、いわば知覚によって採られ、それによってはじめて悟性のうちへ受け入れられることのできるものではなく、ひとえに悟性の作用である。悟性はそれ自身、先天的に結合し、与えられた表象の多様を統覚の統一の下に包摂する能力にほかならない。そしてこの統覚の原則こそ全人間認識における最高原則である。
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さて、これはこのように続いていきます。
-----(B136)-----

 感性に関して、いやしくも直観が可能なための最高原則は、先験的感性論によれば、直観のあらゆる多様が空間と時間という形式的条件の下に属する、ということであった。同じくあらゆる直観が可能なための、悟性に関する最高原則は、直観のあらゆる多様が統覚の根源的・総合的統一の条件の下に属する、ということである。
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これまで別々に論じられてきた「感性」と「悟性」でしたが、ここで感性の側に属していた「直観」が、超越論的統覚の条件に従うという。

-----(B138)----
意識のなす総合的統一はしたがって、あらゆる認識の客観的条件であり、客観を認識するわたくし自身それが必要であるばかりでなく、わたくしに対して客観となるためには、いかなる直観もこの条件にしたがわなければならない。
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ここで言っているのは、統覚の働きは、単に対象の認識をするばかりではなく、そもそもの認識の対象を成立させるものである、と言っているのです。

さて、統覚の働きをおおざっぱに見ていきましたが、参考になったでしょうか。
わたしが理解できているのはここまでです。
これ以上、補足をくださっても説明ができるかどうかは不明です。

文中に上げた『入門』のほか、中島義道『カントの自我論』も参考にしています。
文中引用した『純粋理性批判』は高峯一愚氏の訳による河出書房新社版です。

この回答への補足

とうとう篠田訳が見当たらないので平凡社の原佑訳を購入しました(笑。
篠田訳よりかなり読みやすいですね。

「しかし結合という概念は、多様なものおよびこの多様なものの綜合という概念のほか、さらにこの多様なものの統一という概念をもおびている。結合は多様なものの綜合的統一の表象ある。それゆえこの統一の表象は、結合からは生ずることができず、むしろ統一の表象が、おのれが多様なものの表象に付け加わることによって、結合という概念をはじめて可能ならしめるのである。」原佑訳

ghostbusterさんの回答も非常に分かりやすくて面白いです。
面白いからまた質問したくなるんですよ。
デカルトの自我とカントの自我が出たので次はフィヒテを考えているのですが。

補足日時:2008/10/07 20:13
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この回答へのお礼

ghostbusterさん、ありがとう御座います。
せっかくの機会ですので「超越論的演繹論」を読んで補足しようと思います(といいつつ岩波文庫版が何処へいったのか見当たらない)。ちょっと時間が掛かると思いますが宜しくお願いいたします。

お礼日時:2008/10/02 16:33

ご質問の趣意があまり分からないのですが、統覚については木下清一郎さんの「心の起源」にかなりきちんと書かれていると思います。

綜合というのは専門用語として一定の定義があるものなのでしょうか。
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この回答へのお礼

すいません、ちょっと質問が難しすぎたみたいですね。

気にしないでください(笑。

お礼日時:2008/09/27 14:22

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