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お世話になります。

哲学では法律を、どのように位置づけているのでしょうか?

「法的に罰せられなければ何をしても良い」と考えるのでしょうか?

たとえば、人を侮辱するような行為は、倫理的には悪いことだと思うのですが、
(証拠が無い等の理由で)法的に罰することができないケースが殆どではないかと思います。

このような法律と倫理の矛盾を、哲学ではどのように考えるのでしょうか?
どのような考え方、どのような行為が正しいと考えるのでしょうか?

ご回答にあたりましては、誰の説なのかも教えて頂きたく思います。
私のような素人にも理解できるレベルの参考文献等も、紹介して頂けたら幸いです。

宜しくお願い致します。

A 回答 (12件中1~10件)

>「法的に罰せられなければ何をしても良い」と考えるのでしょうか?


という問題ですが、道徳に「私的」領域と「公的」領域の区分を認めるのか、認めるとして、「私的」部分に法はどのように対応すべきなのか、という問題と理解できます。
「私的」部分を認め、法が介入できるのは「他者を侵害するときのみ」とする考えと、「私的」部分を認めない、または、認めても、社会秩序を維持するためには法は介入できるという考えがあります。
前者の考えの基本は、JSミルの「自由論」に典型的に表れています(最近のものとしては、ハートのLaw,Liberty and Moralityがあります)。後者の考えはデブリン判事が書いています(題名は失念)。
詳しくは、山田卓司「私事と自己決定」(日本評論社)を参照してください。より詳細に知りたければ、刑法総論のテキスト類をお読みになることをお勧めします(何を刑法の対象とすべきなのか、という、「行為無価値」と「結果無価値」の争いです)。

また、問題をもう少し大きく捉えると、他の学問と同様、昔は法学も哲学の一分野(より正確には、哲学から法学が分岐した)のです。
興味がおありならば、長尾龍一「法哲学入門」、三島淑臣「法思想史」あたりをお読みになるとよいかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

まずは、山田卓司「私事と自己決定」を探してみますね。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2008/09/27 19:00

法律→哲学で考えるからわからなくなります。



哲学があり、それを実施するための一手法として法律がある。
この順番で考えれば混乱しません。


シミュレーションしてみればわかる事。

試しに「人を侮辱する事」からそれを禁じる法を自分なりに作成してみます。
まず最初に、どうすれば絶対に抜け道が無いような法律になるか?&現実的に施行できるか?
その法を作った場合、どういう悪用ができるか?
悪用を禁じたらどういう抜け道ができるか?

そういう事をやっていけば、哲学なり法律なりの位置づけが判るんではないかと。



余談。

>このような法律と倫理の矛盾を、哲学ではどのように考えるのでしょうか?
単に不十分なだけで、矛盾はしていません。

おそらく学問と試験問題が完全に同一視されているのではないかと思います。

現実や学問は、世の中にある未整理・未解決の問題に対処するために人間が考えだしたものです。
しかし、それを試験問題のように、既に完全な正解があるものから作り出された物と同じであると勘違いすると本質が見えなくなるんではないかと。

>私のような素人にも
こうやって自分と他者に明確な線を引いたのがポイント。
絶対の正解を知り自分に教える何かが存在し、それは自分とは異質の存在であると考える事自体が落とし穴。

ちょっと経験が違うだけで、みんな同じ研究者であるって発想で考えないと、今回みたいな勘違いが起きるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2008/09/27 19:00

NO2です。

すみません。編集ミスです。
>現実や学問は、世の中にある未整理・未解決の問題に対処するために

「現実や」の部分が余計でした。
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この回答へのお礼

了解致しました。

お礼日時:2008/09/27 19:00

パーリ語の経典に記された仏教を学んでいます。



法律は世俗での決め事。不完全の人格を持ったものが何とか仲良く平安に出来ないかと作ったもの。

倫理・道徳は仏教では論理的に理性的に厳密に語られていますね。
八正道が正しい考え方・行為にいたる道と考えてます。

サンガ出版の「仏法」は仏教の哲学面をまとめた教科書のような本です。オススメします。

スマナサーラ長老の「心の中はどうなってるの?」なども心所が学べて面白いと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まずは教えて頂いた書籍を探してみますね。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2008/09/27 19:00

法律の基本的考え方は、罪刑法定主義といって、原則は、「法で禁止されていない行為は罰せられない」です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E5%88%91% …
法で禁止されていないのに罰せられる、とルールを変えると、かえって都合が悪いと考えられているため。
ただし、これだけではダメなので、道徳(倫理、モラル)で、法律を補い、常識的判断をするということです。

>たとえば、人を侮辱するような行為は、倫理的には悪いことだと思うのですが、
>(証拠が無い等の理由で)法的に罰することができないケースが殆どではないかと思います。

いえ、本当の矛盾は、そういったのと違う形で発生します。
例。以下のHPより。
http://www.nuclear.jp/~madarame/rinri_note.html
科学プラントがうっかり操作ミスで大事故を起こした。
操作ミスはマズイのは自明。
でも、Aさんは、うっかりミスでは事故らないようなシステムが構築できる
と知っていたのに、黙っていた。
(III-1を要約したもの。)

これは、法律では罰しようがない(Aさんが知っていたことを証明するのはAさんの発言だけだが、自白では証拠にならない。だいいち、自白するヒトのほうが稀。)ですが、
倫理的には相当悪いケースです。

>どのような考え方、どのような行為が正しいと考えるのでしょうか?
これは、ほとんどの宗教で共通しています。キリスト教でいう黄金律です。
イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)
孔子:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語 巻第八衛霊公第十五 二十四)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91% …
何が正しいか判断できない場合、黄金律に従うのがたいてい正しわけです。
(常に正しいわけではない。)
もう1つ挙げるなら、
「李下に冠を正さず」(他人からみて怪しい行為をするな。)
※でも、これらは、二律背反(あちらを立てればこちらが立たず)の場合に
 答が出せるとは限らないので、あくまで考え方の道しるべです。

以下、余談。
>人を侮辱するような行為は、(証拠が無い等の理由で)法的に罰することができないケースが殆ど
法的に罰せないケースとは、
1.法的手段に訴えると、自分も更にダメージを受けるので訴えたほうが損をする。
2.法的には侮辱に該当しないのに当人は侮辱だと思い込んでいる。
という場合がほとんどで、証拠が無いという場合はめったに無いのです。
その理由。 なお、侮辱のほかに名誉毀損というのもありますが、ここでは区別する必要性がないため、この2つをまとめて侮辱と呼ぶものとします。
侮辱の定義:公然と(=大勢の前で)行うこと。刑法230-232条。
要するに、1対1で悪口を言われても侮辱に当たらないということ。
また、インターネット等の文章は、個人HPであっても誰でもアクセスできるので「公然」に含みます。
ただし、ハンドル名に対し、「masa2211はどうのこうの...」といっても、
masa2211が誰なのか判明していない状況(当HPにおける現状。管理人は知っているが、利用者は知らない。)においては、
masa2211の社会生活に何の影響も与えないので、侮辱には該当しません。
(一応、これが通説となっています。)

ですので、侮辱罪が成立する場合には、第3者の証言、という形での証拠が残っている場合がほとんどです。

この回答への補足

masa2211様、すみません、こちらの補足欄を使わせてください。


私の興味は、masa2211様から頂いた投稿の余談部分にあります。

つまり、一対一で悪口を言われたり、侮られたりしても不快ですよね?
それは倫理的、道徳的には悪いことですよね?
また、侮辱が公然と行われたとしても、第三者の証言が取れるとは限りませんよね?

「不快(倫理的に悪いこと)だけど、法的に罰することができないのだから、その行為に問題はない」と考えるのか?
「そもそも法的に罰することができない行為に、不快感を抱く方が悪い」と考えるのか?
(そうなると、倫理よりも法律を上位に位置づけることになりますよね?)

この辺りについて、哲学ではどのように考えるのか、興味があるわけです。

宜しくお願い致します。

補足日時:2008/09/27 18:58
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2008/09/27 19:00

まず「哲学」では、という区切りが不可能であることを理解すべきであると


思います。物理学に相対論と量子論があるように、あるいは経済学に社会主義や
資本主義があるように、さらにはもっと端的に宗教においてキリスト教とイスラム教が
異なるように、哲学とは単一の思想を指す言葉ではなく、人間の思考の歴史そのものです。

そして、もう一点。哲学とは一つ一つの学問の土台となる概念であることも重要です。
異なる哲学が存在すれば、そこには異なる学問が生まれる可能性があります。
これは法の場合、あるいは倫理の場合であっても同じです。
つまり哲学に基づいて作成された法律や倫理を、哲学の側から評価することはできません。
できるとすれば、「法律や倫理が、元となった哲学を正しく体現しているか」の一点のみです。






では、なぜ起源を同じくする法律と倫理との間に乖離が生じていると感じるのか?
これは法の成立の過程が理解への助けとなるでしょう。



哲学の祖であるギリシャ哲学、あるいは古代中国の儒教において
人間は「徳」を修めることでより高次の存在になると解されていました。
この世界においての法は、倫理と法は完全に同一視されます。
原始の法は徳、すなわち倫理の存在を前提としています。
ですがこの理想的な状態であっても、質問主さんの言うようなインターネットでの問題は
法文化されていません。2000年前以上前ですからね。



その後、ヨーリッパにおいての支配がキリスト教に取って代わられると、
ギリシャ哲学の精神はイスラム世界に脱出し、その後独自の法である
イスラム法を形成することとなります。
古代イスラム法の特徴として、自らに戒律を課し倫理に生きる一方で
契約に記載されていない条項に対しては守る必要が無いという発想が生まれます。
契約にはあらゆる可能性が考慮されている必要があります。
これは元々イスラムが成熟した社会、すなわち商人の間に広まった為であると考えられます。
ここに、神との契約である戒律から人の契約である法律の原型が完成したと言えるでしょう。


この成熟した法理論はルネサンス以降ヨーロッパに伝来し、後の政治学・法理論形成
および当然ながらその土台となった近代哲学の形成に大きな影響を与えました。
イスラム法の時点で、質問主さんの解釈のように倫理と法律が切り離された
と考えることもできますが、一方で絶対的な戒律・倫理を体現していることもまた事実です。


つまり我々は新しい事実が発覚するたびに、その契約に書き加え
それを完全にしていく必要があるということです。
哲学に反する現象が生じるのは、
単純に倫理や法の整備が成されていない状態であるのです。
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この回答へのお礼

基本的な部分から分かりやすく教えて頂き、ありがとうございました。

法の成立の過程も参考になりました。

お礼日時:2008/09/30 05:41

 実力で平和と継続性を確保することのできる、統治機構が定義を以って制定したとされる、実定的当為規範体系。


 その体系がオーソライズした、執行と解釈により最終の具体的意味内容がきまる。
 日常は国民とされる、個人、団体、そして統治の各機関が一定の了解のもとに遵守するべき当為命題。
 これをその国の法律という。
 
 法哲学がたくさん出ているので、ごらんになるといいと存じます。
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 ANo.7 古典的マルクシズムや現代の毛沢東主義は鉄砲から権力が生まれるというそうですね。


 現行統治機構の組織(行政、兵事など)に連関できない権力は、全部を焼き払ってご破算にするより仕方ないでしょう。
 そしてそうやってできた生活と統治、国家を安定して継続させる実力と、主張する正統・正当性を押し通すこと力が定義した体系とされるものが法律でしょう。
 西郷さんも、勝っあんの手紙を携えて、幕臣・山岡鉄太郎である、総参謀・西郷殿にまかり通るときた、鉄あにぃとの出会いまでは、焼き払うという政策であったことは、むべなるかなであります。
 官僚機構に密着した現実と経緯がない政党が、いかに優れた政策と実力があっても、既存のものをご破算にしなければ、統治はできない。
 進駐軍は、国体護持の要請に直接応えず、天皇陛下と既存の統治階級を介在させて、占領政策実行する。
 このようにして、何が法律かを実定的に実力が、制定という形で定義した(整除劇)統治上の規範体系体系(とされる)が法律であり、一定の論理的真理に基盤をもっているものではない。
 法的安定性を保証(保障ではない)できるものでなければならない。
 というものでありましょう。
 誰の論? もう50年も前に読書したもので、その間自分で租借してきています。
 読んだ本は、ラートブルッフ(グスタフ・フォン)、碧海純一さん、
尾高さん、田中耕太郎(ちょいと批判はしているが)さんなどですが、共通的だと存じますよ。判例はたくさん、無数といえるものでもないが。だから誰の、って応えられない。
 一体何のためにこんなことをお尋ねかな。
 自分の法哲学をお持ちになることが大事でしょう。
 そして現行の法秩序、法内容はこうあるべき。こうきめられるべき。
 と論理をお持ちになっていればいいのではないでしょうか。
 誰のって、血肉にしてしまえば、もうこれはもとは米だったか、何だったかわかりません。
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ご質問の内容の『核』はなんだろうとぼんやり考えています。


おそらく、ここにおける「問い」は、
『自由とは何か』『自由とは何をもって裁かれるべきか』というもののように思うのですが、違いますでしょうか。

多様な人の多様な考えかたから、多様な「思想」を生まれ、積み重ねられてきたのが現在の『哲学』という1学問のジャンルですから、言葉を変えれば『人間』という立場からこの問題をとらえたらどう答えるかという同義だとおもいます。

いろんな人の考えはあると思います。ですが一際異質な「知性」として光を放つ「思想」をまとめた書物を記述します。
スピノザ「エチカ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC% …
それをさらに発展させた
ドゥルーズ「スピノザ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB% …

いろんな考え方見方がありますが、哲学は「スピノザ」か「それ以外」かという人もいるくらい異質なものですので、ここに提示したいと思います。

そこには、「道徳」も「宗教」も「法律」の評価も切り下げられて、新しい「生態の倫理」という概念(道具)が提示されています。

『人を侮辱するような行為はなぜわるいか』
『なにがよくて、なにがわるいのか』
『自由とは何か』
『自由とは何をもって裁かれるべきか』

あなたの「答え」のヒントになればと思います。
読みにくいので、まず興味を持っていただいたら、
ドゥルーズ「スピノザ」をお薦めします。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83 …

参考にしてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

スピノザって凄い人だったんですね。
名前だけは知ってましたが、もっと地味なイメージしかありませんでした。
(スピノザさん、ごめんなさい)

教えて頂いた書籍も読ませて頂きますね。

お礼日時:2008/09/30 05:41

 ANo.8


 齟齬(矛盾?ですか)
 如何なる当為命題も当然ありうることでしょうね。
 国家統治統治という目的と機能のための妥当にして現実的なる、プラクティカルな定義の当為命題。
 いろんな人や論理の夫々の主張する天上の真理とは異なる。
 そんなものではない。背景には警防とピストル、手錠と刑務所・留置所がある。軍備がある。逮捕権・留置権がある。真理ではなく生活と統治が目的である。
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この回答へのお礼

何度もご回答を頂きまして、まことにありがとうございます。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2008/09/30 05:41

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