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昨日の「その時、歴史が動いた」を見ていて思ったのですがお市の方が浅井氏に嫁したとき織田、浅井は国境を接していないのですね。直接の敵国である斉藤氏の領土を通過したのでしょうか?道中の安全などはどのように保障されていたのか教えてください。

A 回答 (2件)

 お市の方の輿入れルートは、自分も知らないのですが、東海道は尾張の宮宿(熱田宿)から海路で桑名宿に行き、伊勢国、伊賀国を経由し近江国(大津宿)に入りますから、東海道を使ったのであれば美濃国は通っていない事に成ります。



 それから今気が付いたのですが、お市の方が輿入れしたの1567年で、斎藤龍興が織田信長に稲葉山城を奪われたのも1567年ですから、美濃の完全制圧が出来ていないにしても(西美濃三人衆は内応済み)、護衛をつけた上で近江までお市の方を送るのは問題が無いような気もするのですが…。(双方の正確な日付を認識していないので、絶対大丈夫とはいえませんが…。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B8%82% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
当時の街道がどの程度のものかわかりませんが既に事実上美濃南部が勢力化ならそれほど通行も困難でなかったのかも知れませんね。

お礼日時:2008/10/08 23:05

織田信長の正室は濃姫(斎藤道三の娘で別名で帰蝶ともいう)ですよね。


つまり、政略結婚しているわけですが、実父の道三は嫡男の義龍に討たれ、信長も躊躇していたはずです。
直接、美濃を通過できたかどうかは定かではありませんが、義龍は濃姫とは兄弟(実際は異父兄弟)関係であり、当時は濃姫を通じ色々な美濃国との調略が図れたと思うのが妥当かと思います。

斎藤道三の没後、信長と斎藤義龍との関係は険悪なものとなり、桶狭間の戦いと前後して、信長は義龍との攻防は一進一退の様相を呈した。
しかし永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤家は家臣団内部で分裂が始まり、信長は対斎藤戦で優位に立つ。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強めた。その際、信長は妹・市を輿入れさせた。

永禄9年(1566年)には美濃の多くの諸城を戦いと調略により手に入れ、さらに、西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった時、信長は33才であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称した。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/10/08 23:04

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