女子の「頭皮」のお悩み解決の選択肢とは?

日本軍のしくみや、その歴史に詳しい方がいらっしゃったら教えて下さい。

私の祖父は神奈川出身で、もうすぐ戦争も終わろうという昭和20年1月の終わりか2月の初めに召集され、「中支」で相手方の爆撃にあい、物資輸送のトラックごと吹き飛ばされてしまったと聞いています。

最近になって「中支」というのは「中シナ」、上海・南京を含めた地区だと知ったのですが、上記の時期に神奈川あたり(横浜?)から中国へ向けて出発した、もしくはそのために編成された隊は第何隊かなど、わかりませんでしょうか?特殊技術があったわけでもないですし、薬局を営んでいた人なので歩兵なんだと思うのですが・・・。
自分でも色々ネットで調べようと試みたのですが、あまりにも多くの隊があって、何をどう調べたら良いのか分かりませんでした;

祖母は現在、少々惚けが入った状態ですので60年以上も昔の事を詳しく話せる状況ではありません。また、終戦後に戦友が2月に祖父が知らせに来てくれたと聞いていますが、隊名が分かるものも残っておらず、もちろん遺骨も帰ってきていません。

伯父がかなり前に遺族会として中国を訪問したそうですが、亡くなった場所も「あの辺り」という程度で詳しくはわからなかったそうです。
でも軍のことなのですから、「何年何月何日に第○○隊が、○○で攻撃を受ける」とかそういう記録ってないのでしょうか?

今更と言っては今更ですが、血縁関係にある者が戦争体験者というのも私の世代で最後なんじゃないかと思うと、祖父の歩んだ道をはっきりと知っておきたいのです。もう、無理な希望でしょうか・・・?

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A 回答 (5件)

>中支那派遣 登 第八六三六部隊



 「登」とは中国華中地区にあった第13軍の兵団文字符です。「八六三六」は部隊の通称番号で正式名は、「自動車第三十八聯隊」です。

 同聯隊は、1942年(昭和17年)に軍令陸甲第49号という軍命により中国広東省広東において臨時編成された部隊です。その後中支へ派遣され第11軍(兵団文字符:呂)隷下の直属兵站部隊として輸送任務に従事しました。そして第13軍隷下に編入され主に蘇州地区において任務中に終戦を迎えました。聯隊長:初代 袖山悦雄中佐 二代 梅津寛少佐

 同聯隊の補充担任は千葉の津田沼でしたから、神奈川から応召していたとすれば前にも書いたように薬剤官の身分であった可能性があります。

 なお同部隊の戦友会により『自動車第三十八聯隊回想録』 西湖会 という書籍が非売品として刊行されています。

 
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この回答へのお礼

yatiyochanさん、連日ありがとうございます。
詳しくご説明頂いて、本当に感謝しています。
生まれてから一度も会ったことのない祖父が、これだけの情報でも、今までよりとても身近に、「生きていた人なんだ」って感じられるような気がしています。

>『自動車第三十八聯隊回想録』
おそらく入手は難しいのでしょうが、こういったものがあるという情報も大変ありがたいです。

2日間にわたっての情報提供、本当にありがとうございました! 

お礼日時:2008/10/07 23:27

靖国神社の遊就館に英霊の名簿があったと思います


もし、見つかれば何らかの手がかりになるかと思います
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この回答へのお礼

opechorseさん、ありがとうございました。
靖国神社にはそんなものがあるんですか。
これまたはじめて知りました;
情報ありがとうございました!

お礼日時:2008/10/07 16:48

 はっきり言って、その程度の情報で、所属部隊を特定することは不可能です。

既回答者の方々が書いておられるように恩給関係の資料によって調べるのが最も確実でしょう。まだ御祖母さまの記憶が確かなうちに少しでも当時の状況を記録されていたら、お爺様のかなり確実な軌跡がつかめた、と思いますが。

> 神奈川県出身で~昭和20年1月の終わりか2月の初めに召集され、「中支」で相手方の爆撃にあい、物資輸送のトラックごと吹き飛ばされてしまったと聞いています。

 もし、本籍地で召集されていたとすれば、溝ノ口の東部第六二部隊に応召されたのかもしれません。

 45年の2月ごろ、支那派遣軍において同月1日付軍令陸甲第18号によって多数の部隊が臨時編成されていますから、その際に召集された可能性があります。このとき中支江西省九江において編成された独立混成第84旅団(至勇)、または江蘇省南京にて編成された第1独立警備隊(矢石)に溝ノ口から補充要員が送られています。

 もしかすると、内地から上海を経て同地へ向かう途中に空爆にあったのかもしれません。

> 薬局を営んでいた人なので歩兵なんだと思うのですが・・・。

 ということは、単なる歩兵などではなく、あなたのお爺様は薬剤将校だった可能性があります。もし、薬剤将校であったなら軍司令部の軍医部、師団軍医部、兵站病院、患者輸送部、衛生材料廠などなどに所属されていたかもしれません。当時薬剤師というのは特殊技能者だったのですから。

> 自分でも色々ネットで調べようと試みたのですが~

 これもはっきりいって無理です。ウィキをはじめとして旧陸軍関係の情報はあまりにも貧弱ですから。

> 祖母は現在、少々惚けが入っ隊名が分かるものも残っておらず、もちろん遺骨も帰ってきていません。

 隊名はともかく、通称号たとえば「東部六二部隊」とか「矢石二三一一六部隊」などの番号が判ればもう一度質問してください。通称号さえ分ればかなり詳しく説明が出来ます。

この回答への補足

yatiyochanさん、ありがとうございます。
やはりこの程度の情報だと無謀なようですね;
既回答者さんのご指摘に従って、伯父に恩給手帳、または軍隊手帳の有無とそこに記載されているであろう隊名を確認してもらおうと思っています。

>もしかすると、内地から上海を経て同地へ向かう途中に空爆にあったのかもしれません。
「上海」という言葉もこの話にからんで聞いた記憶があるので、仰るとおり、上海を経由していたのかもしれません。

もし隊名等が分かれば詳細をご説明頂けるかもしれないとのこと、伯父に確認がとれましたら「お礼」欄にその旨書き込みますので、再度ご意見いただければ幸いです。よろしくお願いします。

補足日時:2008/10/07 09:25
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この回答へのお礼

yatiyochanさん、度々申し訳ありません。
母経由で伯父に確認してもらったところ、どうやら恩給手帳や軍隊手帳なるものは手元にないようで(紛失?)、何かそういった事が書いてある紙(それが何なのかは不明です;)から情報をくれました。

記載されていたのは・・・

中支那派遣 登 第八六三六部隊

だそうです。
なお、伯父が遺族会で中国に慰霊墓参に行った当時も、これ以上の情報は何も得られなかったそうです。

(^▽^;)・・・登?なんのこっちゃ?と思うのですが、お分かりになられますでしょうか?

お礼日時:2008/10/07 16:57

祖母が遺族恩給の手帳を持っているはずです。


また戦死公報が届いていて、何処で死んだか書いてあります。
軍隊手帳があれば所属部隊もわかります。
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この回答へのお礼

PENPENMAKKYさん、ありがとうございました。
遺族恩給の手帳ですね。多分伯父が保管していると思います。
戦死公報・・・。必ず来るものなんでしょうか?
祖母の話だと戦友の方が知らせに来てくれたそうなんですが・・・。
もし来ていたとしても、祖父の死後、戦後のどさくさにお店を店員にのっとられ、半ば追い出された感じだったそうなので、そういう書類が祖母の持ち物にあるのかどうか・・・。
でも伯父に確認してみます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/07 09:11

分からないかも 分かりませんが


神奈川県庁の 厚生援護課へ出かけて尋ねて見たら
もしかしたら 課の名前が変わっている可能性も有ります
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この回答へのお礼

himechandesuさん、ありがとうございました。
なるほど、県庁にそういう部署があるのですね。
情報ありがとうございました!

お礼日時:2008/10/07 09:07

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Q持ち物検査について

よく修学旅行で行う持ち物検査ですが学校の場合、「裁量権」とかいう使いものにならない権利があるおかげで、持ち物検査を行っているわけですが、あきらかに「プライバシーを侵害する」持ち物検査は例えばどんなことでしょうか?

Aベストアンサー

本来「裁量権」は、著しく公共(学校でいうなら校内)における秩序を乱すことが明らかな場合に行使できる権利ですから、現在行使される「裁量権」は本旨からすると違法だと思いますが・・・

義務教育の学校であれば、携帯電話・ゲーム機などですかね。

Q歴史について 幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたのですが兵力で大きく上回る幕府軍のはずの幕府軍の

歴史について
幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたのですが兵力で大きく上回る幕府軍のはずの幕府軍の敗因は何ですか?

Aベストアンサー

錦の御旗が原因です。


一万五千と五千の兵力差だけでなく、政治情勢的にも誰もが徳川慶喜なしの政権はないと考えていた時代です。
大久保利通ですらそう思っていました。

慶應四年一月四日までは。


それが変わったのは、鳥羽伏見の二日目です。
二日目には、「徳川慶喜は政権に絶対戻れない」と皆が思うようになりました。



一日目と二日目の間に何があったのかは、錦の御旗が原因としか考えられません。




>薩長軍を叩き潰せば錦の御旗は旧幕府軍の物にならないんですか?

ならならないです。本物なら。
ただ、その時点では「偽物だ!」として無視させる事も出来たかもしれません。わずか一日の話です。真偽を確かめる術などないので、指揮官の指示を信じるかどうかになります。

しかし、多くの徳川側の兵が信じ込んで、連鎖反応をして雪崩現象が起きて形勢がひっくり返ったのです。

「敗北の原因となった錦の御旗ですが、そもそも幕府側がそれを信じ込んでしまった原因は何ですか?」については、私も詳しくは知りません。

錦の御旗の作戦を事前に知っていた、大久保利通ですらこの作戦がここまでうまくいくとは思っていなかったでしょう。もし勝利の秘策として確信があるなら、初日に「二十年の苦労が土崩に帰した」と日記に記したりはしないはずです。

大久保利通は敗北を覚悟したのです。しかしその翌日は全く逆の情勢になっていました。
(岩倉具視は、ここまで作戦がうまくいくと予想していたかもしれませんが知りません。)

錦の御旗が原因です。


一万五千と五千の兵力差だけでなく、政治情勢的にも誰もが徳川慶喜なしの政権はないと考えていた時代です。
大久保利通ですらそう思っていました。

慶應四年一月四日までは。


それが変わったのは、鳥羽伏見の二日目です。
二日目には、「徳川慶喜は政権に絶対戻れない」と皆が思うようになりました。



一日目と二日目の間に何があったのかは、錦の御旗が原因としか考えられません。




>薩長軍を叩き潰せば錦の御旗は旧幕府軍の物にならないんですか?

ならならないです。本物なら...続きを読む

Q日本陸軍の「歩兵団」の設置理由について

 日本陸軍が師団制を導入してしばらくは、四単位師団の編制が取られていました。すなわち、師団は4つの歩兵連隊を保有し、それを2個連隊づつ旅団にまとめて、2人の旅団長が指揮し、師団長はこの2個旅団を統括指揮するという編制です。
 その後、三単位師団への改編が進み、師団に所属する連隊は3つとなったわけですが、ここでよくわからないのは、旅団の代わりに師団内の3個歩兵連隊を統括指揮する「歩兵団」が設置されていることです。

 師団内に4つの連隊があれば、旅団という結節点を設けて運用するのが師団長の負担軽減の意味もあって効率的かもしれませんが、3つであれば、師団長が直接連隊を指揮してもあまり支障はないのではないでしょうか?
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確かに歩兵団という結節の必要性は疑問です。しかし、聯隊の数が3個であれ4個であれ、この程度なら一人の指揮官(師団長)が十分に運用できる範囲なので、歩兵団と同様に、旅団という結節の必要性も疑問とせざるを得ません。私は、この結節が存在する理由を次のように考えています。

旧陸軍は、その草創期においては、師団ではなく「鎮台」を編制し、これが平時における最大の部隊でした。時代によっても異なりますが、鎮台は6個編制され、各鎮台は2~3個の営所(=聯隊区)を有していました。鎮台は、実力部隊として行動する場合は「旅団」となり(旅団長は鎮台司令官)、監軍部長(東部、中部、西部の3個監軍部が存在)が師団長となって各々2個旅団を指揮する仕組みでしたが、師団は常設の組織ではなく、戦時、臨時に編成されるものでした。

後年、鎮台制は師団制に移行しましたが、このとき、従来、師団長の指揮を受けるべき部隊であった鎮台(旅団)を、勢力の飛躍的な増大があったわけでもないのに師団に格上げしました。このため、師団と聯隊に挟まれた旅団の位置付けが中途半端となり、師団のなかに、聯隊と並列する形で2個の旅団司令部を編制してつじつまを合わせた(旅団司令部の下に実動部隊なし)のではないでしょうか。
ちなみに、旧制度の鎮台司令官(=旅団長)の階級が大佐又は少将であったのに対し、新制度の師団長(旧鎮台司令官)の階級は旧制度の監軍部長と同等の中将とされました(私は、帝国陸軍の師団長の階級が列国のそれより上位の中将である理由も、この辺りにあると考えています)。
そして、師団が4単位制から3単位制に移行したときも、中間結節たる旅団をそのまま兵団に移行させたのでしょう。このような中間結節は、平素から常設する必要性は乏しいものの、作戦時、主力とは距離的・地形的に離隔した場所でまとまった兵力を運用する場合などには必要なものなので、必ずしも無用の長物とはいえません。もちろん、少将ポストの温存という行政的な理由も無視できなかったでしょう。

なお、師団制移行に伴い、旧制度の監軍部長の戦時職は軍団長に格上げされましたが、軍団長たるべき新たな監軍部長の発令はなく、有名無実の存在であったところ、後年、監軍という制度そのものが廃止されています。

確かに歩兵団という結節の必要性は疑問です。しかし、聯隊の数が3個であれ4個であれ、この程度なら一人の指揮官(師団長)が十分に運用できる範囲なので、歩兵団と同様に、旅団という結節の必要性も疑問とせざるを得ません。私は、この結節が存在する理由を次のように考えています。

旧陸軍は、その草創期においては、師団ではなく「鎮台」を編制し、これが平時における最大の部隊でした。時代によっても異なりますが、鎮台は6個編制され、各鎮台は2~3個の営所(=聯隊区)を有していました。鎮台は、実...続きを読む

Q太平洋戦争の日本軍の疑問

太平洋戦争では、
1)ゼロ戦、隼など戦闘機にパラシュートは付いていますか?
米英独ソなど他国の戦闘機はどうでしたか?※熟練パイロットは特に大事だと思います。

2)日本軍は石油を確保するために南進しましたが、初戦の勝っている間に、
石油をガンガン日本の基地へ運ばなかったのですか?

3)レーダーを日本が開発できなかった要因は何ですか?

Aベストアンサー

 重複する部分もあるかとは思いますが。

1)ゼロ戦、隼など戦闘機にパラシュートは付いていますか?米英独ソなど他国の戦闘機はどうでしたか?※熟練パイロットは特に大事だと思います。
 ⇒この時代の戦闘機には(例外を除いて)パラシュートは「付いていません」。パラシュートは搭乗員の装備のひとつであり、持って乗り込むものです。他国の戦闘機も同様。日本ではパラシュートを使わない者もいたとのこと。

2)日本軍は石油を確保するために南進しましたが、初戦の勝っている間に、石油をガンガン日本の基地へ運ばなかったのですか?
 ⇒当時の日本の総船腹量は約600万トン(アメリカの1/3程度)、うち半数を民需用、半数を軍需用として使っています。ご存知の通り戦域が馬鹿みたいに広かったので、ガンガン運ぶためには船腹量が不足していましたようです。ちなみに昭和18年には一年で170万トン(半分だね)を喪失しています。それから、そもそもロジスティクス自体が軽視されていたことから、効率も相当悪かったとのこと。例えば南方へ兵士を輸送した後、何も積まずに空荷で帰ったこともあったそうです。

3)レーダーを日本が開発できなかった要因は何ですか?
 ⇒開発できなかったわけではないです。大戦末期には潜水艦クラスにもレーダーはいきわたっていましたし、航空機では攻撃機の天山の生産機の約1/3は機上電探装備機だったとのことです。がしかし、いかんせん性能が低かった。性能が低かったのは、レーダーに限らず陸海軍間の対立で資源(学者や技術者も含む)の有効活用ができず、効率的に開発できなかったこと、軍部に電波兵器全般の知識がなく、「電波を発する=敵に位置を暴露する」といった誤解もあり、採用に積極的でなかった(予算も付かない)ことなどがあげられています。まあ、基礎工業力が低かったというのは大前提ですが。
 なお、大戦末期には無線機も含めてかなり高性能なものができていたらしい(戦後の米海軍のテストでは、戦闘機の無線機はあちらのものとほぼ同等の性能だったらしい)です。ただし、今度は量産する力が残っていなかったということです。

 重複する部分もあるかとは思いますが。

1)ゼロ戦、隼など戦闘機にパラシュートは付いていますか?米英独ソなど他国の戦闘機はどうでしたか?※熟練パイロットは特に大事だと思います。
 ⇒この時代の戦闘機には(例外を除いて)パラシュートは「付いていません」。パラシュートは搭乗員の装備のひとつであり、持って乗り込むものです。他国の戦闘機も同様。日本ではパラシュートを使わない者もいたとのこと。

2)日本軍は石油を確保するために南進しましたが、初戦の勝っている間に、石油をガンガン日本の基...続きを読む

Q持ち物検査

高校での抜き打ちの持ち物検査などはなにか侵害とか法律で
引っかかりますか?
プライバシー侵害とか・・・

身体検査ではなくカバン、ロッカーです

まったく問題ないのでしょうか?

男子は男の教員が持ち物を調べる
女子は女の教員が持ち物を調べる

Aベストアンサー

 全然セーフですニャ。全く問題なし。
 要は学校内に学業や校内生活に不要な物を所持させないと言う教育・指導の一環ですニャ。

 理由は色々あるニャ。
 教室で生徒の物がなくなった、凶器となるような刃物を持ち込まれている可能性がある、コンドームを持ち歩いている…

 校則を守っておれば、いついかなる時に持ち物検査があったとしても、平気なはずニャ。

Q太平洋戦争での関東軍について。

太平洋戦争で日本軍がやろうとしたことは欧米列強による植民地支配を許さないこと、
というのが真意だったというのが何冊か読んだ本の中に書いてあり、
同時に満州に攻め入ったのは関東軍というアンチ日本軍だったように書いてあります。

やがて日中戦争が勃発したようですが、
天皇は併合で日本人となった朝鮮人の将軍に勲章を授与したとも書いてあります。
関東軍が天皇の言うことを聞かずに満州へ攻め入ったならば、
天皇は日中戦争を勝利に導いた将軍に勲章を授与したのは何故だったのでしょうか。
また天皇も日本軍も戦争には否定的だったようですが、
ならば日中戦争は何だったのかなと疑問でなりません。

僕は満州事変と日中戦争が関係のない出来事なのにセットで考えて迷っているのかも知れません。

もし詳しい方がいらっしゃれば、
僕の疑問に回答をお願いいたします。

Aベストアンサー

>太平洋戦争で日本軍がやろうとしたことは欧米列強による植民地支配を許さないこと、
>というのが真意だったというのが何冊か読んだ本の中に書いてあり、

それはその通りです。そもそも欧米列強が19世紀にアジア諸国を植民地化していった狙いはアジアを資源・食料・原材料の供給基地として囲い込み、商品の輸出先として囲い込む狙いがあった訳です。産業革命で飛躍的な工業生産力を備えた先進国は、そういった目的で自国の勢力圏として囲い込んでいった訳です。ところが明治維新後にようやく近代化の端緒についた日本が工業化を果たした時には、もう日本が進出できそうな国はどこにも残されていなかった。それは大げさな表現かも知れないが、日本は大幅に出遅れてしまったことだけは確かです。幕末に結んだ不平等条約を日清日露で改定して、ようやく先進国に追いついたといっても条件はかなり違っていました。日本が工業国として成立させる為には、欧米列強に植民地化されたアジア諸国を解放して他の先進国と対等・平等に貿易が成り立つようにする必要があったのです。そしてまさにアジア諸国の解放に成功したことが今日の日本の経済立国・貿易立国の基盤になっています。

日本がアジア諸国を解放したなどというつもりはないし、そんな事実はない。しかし日本が太平洋戦争に打って出たことが、アジア諸国に独立の勇気を与え、独立の機運を作ったことは否定できません。太平洋戦争そのものは日本の敗戦で終わり、国土を灰燼に化してしまった。しかし植民地化されていたアジア諸国を独立させるという目的は果たしたのです。例えば、今、ブルネイの天然ガスの輸出先の半分は日本が占めています。それが火力発電所の燃料になっている。しかしブルネイは太平洋戦争当時はイギリスの植民地でありました。

>同時に満州に攻め入ったのは関東軍というアンチ日本軍だったように書いてあります。

それは違います。日露戦争後、ポーツマス条約で日本はロシアから租借地として大連・旅順を、南満州鉄道として東清鉄道の南満州支線を割譲されました。それらを防衛する為の軍が関東軍だったのです。満州事変後に満州国が成立した後は満州国の国防も担いました。役割的には関東軍は、日本軍とは異なりますが、アンチ日本軍だった訳でもないし、ましてや満州に攻め入ったなどという事実はない。軍中央の統制に従わない暴走した関東軍将校のことであれば、「アンチ日本軍」という評は当たってないこともないが、それは個人的にそうだっただけで関東軍が組織的にアンチ日本軍だった訳ではありません。

>ならば日中戦争は何だったのかなと疑問でなりません。

日中戦争を理解する為には、辛亥革命後の中国大陸の歴史を知らなければなりません。ポーツマス条約で大連・旅順、南満州鉄道の利権を獲得した日本は、「辛亥革命後の中国大陸の歴史」に翻弄され続けたといったことなのです。辛亥革命後の中国大陸の歴史を簡単に説明することは不可能ですし、歴史の授業でもほとんどまともな説明もされていません。これは一冊の本でも書ききれないぐらい複雑怪奇な問題なので、ここで回答せよというのは無理難題。ここでいえるのは、日本は血を流して獲得した利権を守ろうとしただけだということだけです。それとは別に蒋介石にも清からロシア、ロシアから日本に渡った利権を回収したいという悲願があった。その激突が日中戦争だったということです。簡単にいえば、それだけです。日本にすれば、蒋介石に文句をいわれる筋合いはなくて、それは満州国から借りているだけだということになるのですが、蒋介石にすれば満州国の独立など認めない。満州も中国の一部だというのが蒋介石の主張なのだから、まるで話が噛み合う余地は無かった訳です。

だから太平洋戦争と日中戦争はそもそも全く別な話なのです。一方は欧米列強から植民地を独立させることが目的で、もう一方は既得権益を死守しようということが目的です。だからまあ、虫が良すぎるというか欲張りすぎというか、身の程知らずに手を広げすぎということもいえる。

このへんで私の回答としては一旦筆を置かせていただきます。

>太平洋戦争で日本軍がやろうとしたことは欧米列強による植民地支配を許さないこと、
>というのが真意だったというのが何冊か読んだ本の中に書いてあり、

それはその通りです。そもそも欧米列強が19世紀にアジア諸国を植民地化していった狙いはアジアを資源・食料・原材料の供給基地として囲い込み、商品の輸出先として囲い込む狙いがあった訳です。産業革命で飛躍的な工業生産力を備えた先進国は、そういった目的で自国の勢力圏として囲い込んでいった訳です。ところが明治維新後にようやく近代化の端緒につ...続きを読む

Q後備歩兵連隊

日露戦争の後備歩兵連隊について調べています。

全部で57流の軍旗が授与され、日露戦争後全て皇居に返納されました。
その後、演習に一部が再親授されて、また返納されました。
その後、陸軍の特設師団を編成する計画になり、、後備連隊旗は用済みとなり、皇居の櫓倉庫に保管されました。
終戦時、皇居の倉庫に保管されていたのは、この後備57流と、再発見されてダブった乃木の2流目の第14連隊旗、再動員されなかった第103連隊旗の計59流。
これらは、終戦時、侍従武官により、こっそり奉焼された。

確定している事は・・・
・後備歩兵連隊は、第1次~第3次に別れて編成された。
・第2次の番号は49~60で、兵役法変更により捻出された後備兵で編成され最初から3コ大隊編成だが、各編成地、補充担任が分らない。
・第1次の野戦軍に配属された、後備歩兵連隊は、編成、補充担任は分かっている。
・しかし、韓国守備軍や、遼東守備軍に配属された独立配備の後備歩兵連隊は、資料が見当たらず、番号すら分らない。
・中には、最初から4コ後備連隊を編成し、3コを後備歩兵第旅団として、大陸に送り、4コ目は独立して要塞守備に配属された師管もある。
・後備第3連隊は、編成されなかったのでは無く、後備歩兵第1旅団に所属しなかったが、横須賀要塞に配属された。
・各師管区は3コ連隊しか編成しなかったのでは無く、4コ目の連隊を第1次か第3次として編成しているらしい。
・旭川師団は、後備歩兵第25連隊を編成している。
・中には、連隊とは名ばかりで1コ大隊の物も存在した。

以上が分かっています。

一部は、明治天皇記から、宮中の軍旗授与式の日付、後備歩兵連隊名を調べました。

質問は、
(1)第1次~第3次の後備歩兵連隊の編成状況、編成地、
(どの後備歩兵連隊が編成され、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍に配属されたか?)
あまり知られていない、独立して配属された、後備歩兵連隊について。
(2)そして、第2次後備歩兵連隊の編成地。
教えて下さい。


戦史叢書読みました。
明治天皇記読みました。

防衛研究所行きは、お断り。・

日露戦争の後備歩兵連隊について調べています。

全部で57流の軍旗が授与され、日露戦争後全て皇居に返納されました。
その後、演習に一部が再親授されて、また返納されました。
その後、陸軍の特設師団を編成する計画になり、、後備連隊旗は用済みとなり、皇居の櫓倉庫に保管されました。
終戦時、皇居の倉庫に保管されていたのは、この後備57流と、再発見されてダブった乃木の2流目の第14連隊旗、再動員されなかった第103連隊旗の計59流。
これらは、終戦時、侍従武官により、こっそり奉焼された。

確定してい...続きを読む

Aベストアンサー

 第2次後備歩兵連隊の編成地。(補充担任も同)について

 後備步兵第四十九聯隊:東京

 後備步兵第五十聯隊:弘前

 後備步兵第五十一聯隊:仙台

 後備步兵第五十二聯隊:名古屋

 後備步兵第五十三聯隊:大阪

 後備步兵第五十四聯隊:広島

 後備步兵第五十五聯隊:熊本

 後備步兵第五十六聯隊:弘前

 後備步兵第五十七聯隊:金沢

 後備步兵第五十八聯隊:姫路

 後備步兵第五十九聯隊:丸亀

 後備步兵第六十聯隊:小倉

 後備步兵第六十一聯隊:大阪

 後備步兵第六十二聯隊:仙台


 (1)の質問ですが、歩兵連隊の個々についてわからないことが多く、このほか近衛の後備連隊もあり、連隊番号にかんしても通常の歩兵連隊とは異なる変遷があったようですが、それらを書くのは本欄では無理です。

Q太平洋戦争における日本軍の捕虜について

 第二次世界大戦では、孤立した部隊が降伏し、高級将校が捕虜になった事例がいくつか見られます。(スターリングラードのパウルス独元帥、シンガポールのパーシバル英中将等)
 日本軍は戦陣訓によって、捕虜になる人間は比較的少なかったわけですが、太平洋戦争中に捕虜になった日本軍人での最高位者はだれなのでしょうか。(将官はいたのでしょうか)
 陸海軍それぞれの捕虜の最高位者について、捕虜になった際の階級と事情をご教示ください。

Aベストアンサー

沖縄戦の八原大佐は有名です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8E%9F%E5%8D%9A%E9%80%9A

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持ち物検査ってやっていいんですか?
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拒否できるんですか?
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法的なことを言うと、

公立中学校において、刑法上携帯が許可されていないもの不携帯を強制できる法律はありません。

つまり、校則によって○○持ってくるな、という文章そのものに法的権限は一切ありません。

もちろん、カバンの中等も私的領域なので、強制で調べるには警察ですら令状が要ります。

Q太平洋戦争時代の日本軍について質問です

太平洋戦争時代の日本軍について質問です
尉官(大・中・小)なんですが、
階級を大まかに2つにわけると、尉官(大・中・小)は将校・士官レベルよりは、下士官レベルといわれますか?どちらにはいりますか?おしえてください

Aベストアンサー

>下士官レベルといわれますか?どちらにはいりますか?

尉官は、間違いなく士官です。
准士官(准尉:陸軍、兵曹長:海軍)は、最下級の士官とうよりは、下士官の最上位というのが実態だったようです。


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