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満州帝国とは、清帝国皇帝・溥儀を君主とした日本による
傀儡政権の国家です。
では、日本はこのような国家を建国するにあたって、その土地を
満州に選んだという地理的な理由とはなんでしょうか?

【仮説1】
満州は清皇帝の先祖の土地であり、大陸内の傀儡政権を正当化して
みせるため。
溥儀皇帝を担ぎ上げて中国のどこかの領土を独立させると考える
ならば、そのルーツとなる土地だと名目が立つと考えた。

【仮説2】
ソビエト連邦の南下を防ぐため。
中国から最もソ連に近い満州地域に日本の傀儡政権の国家を築く事により、
満州帝国がソ連による侵攻の防波堤になると考えた。

上記の仮説1・2を私個人が考えてみましたが、どちらが実情に近いでしょうか?

A 回答 (9件)

強いて言うと2の方だろうが。



満州は、日清戦争の時代から、日本にとって特別な土地であり、日露戦争で得た南満州鉄道など、利権がすでにあった。その利権の拡大として、満州地区を占領した結果、正当性を持ってくるためにフギをつれてきた。
ということであり、中国に傀儡政権をつくりたいからといって、任意の土地を探したわけではないかと。

もし、地理的に日本がインドあたりにあって傀儡政権を作るならチベットだろうし、中央アジアに日本があれば、東トルキスタンであったことでしょう。

ソ連はその地理的な条件から、モンゴルに傀儡政権を作っています。

近くて便利なところと言うことになるかと、簡単に言うと。
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どちらの仮説も成立します。


満州は清国時代民族の故地として漢民族の移住を禁止し満州族が多く暮らしていました。
しかし袁世凱の時代に漢民族の人口増加もあり積極的な移住が開始されたのです。
その結果満州には漢民族、朝鮮民族、満州民族の混在するようになりました。

しかしその歴史的経緯から建国するとすれば満州国がもっとも異論の少ない形であり、また帝国とするなら満族である溥儀を皇帝にする必要がありました。

日本は共産主義国家のソビエトに恐怖感を持ち国防上、第一仮想敵国とみなしていました。 そのため満州に特別装備の関東軍を置き軍備を固めていました。
これはソ連の南方進出策の目標に満州が位置しているという地政学上の理由からです。
関東軍の戦略では防御だけでなくシベリア占領も検討されたくらいです。
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 1・2ともに矛盾しません。

それどころか互いに補完関係にあります。1・2を合わせたものが、一般的に言われている定説ですね。
 更に、満州開発による日本の国力増強も理由の一つです。

 ソビエト連邦の南下を防ぐために、中国から最もソ連に近い満州地域に日本の傀儡政権の国家を築く。=満州帝国がソ連による侵攻の防波堤になる。(現実論)

 その現実論をあからさまにしない正当化の論理として、また日本による他民族支配の傀儡政権のよりどころとして、満州族の多いこの地域に、清皇帝=満州族の傀儡政権を溥儀皇帝を担ぎ上げて作った。(建前論)

 どちらが実情に近いかという問題ではなく、中身として1、包み紙として2を使った、ひとつのものです。

 中身だけでも、包み紙だけでも、歴史上の満洲国という存在は説明できません。
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他の回答者の皆さんの仰る様に、双方が重なったものでしょうが、対ソ連と言うのが当時の日本の基本戦略でしょうね。


一旦日露戦争がありましたが、最終決着が着いた訳ではなく、極東と言う位置で気にしなければならない相手はソ連でした。
天皇制という由緒を重んじる国の外交政策では、歴史上の正当性をバックボーンにする事になり、「義経=ジンギスカン説」などの流布も将来への布石であったと言う見方があります。
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強いて言えば仮説2の理由のほうが強いでしょうね。



「大陸内の傀儡政権」ということなら、蒋介石の重慶政府に対抗して汪兆銘の南京政府も日本は作っていますから。

>溥儀皇帝を担ぎ上げて中国のどこかの領土を独立させると考える
>ならば、そのルーツとなる土地だと名目が立つと考えた。

これは逆で、満洲を独立させる頭目としてたまたま溥儀がぴったりだったから引っ張り出してきたものだと思います。
「溥儀を担ぎ出す」が前提としてあったわけではないと思います。
前提はやはりソ連に対抗するための満洲独立でしょう。
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石炭が豊富だったからだと聞いたことがあるんですけど。

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妄想や偏見ではなく、歴史学的にお答えしたいと思います。



 ”日本本国を捨てても、満州を手に入れるべし”という東宮鉄男氏が書いた報告書(正確には進言書)の中の言葉がある。1度この報告書は無視されたが、数年後の満州政策はほぼこの報告書が書いたシナリオ通りに展開された。

  つまり、あらゆる公式書物を読んでも、当時の日本政府は何としても、 満州を自分のものにしたいと強く考えていたわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東宮鉄男

 満州を日本の土地として正当化していくためには、何かの口実がほしい
ので、このときたまたま溥儀は皇帝の座から下ろされたため、”しめた”
と日本政府が思ったわけです。
(これに関する経緯は土肥原賢二の書物を読むと良い)

 対ソ連の戦略については、このときはまだ満州の戦略的な意義が
考慮されていなかった。

  ここで勘違いがあってはならないのでは、日本政府は一度とも
ソ連の南下を防ごうと考えたことがない。南下阻止は無理であり、
もし南下したら、食い止めて時間稼ぎをし、その間は和平交渉へ
持ち込むというのが、当時日本政府の政策であった。

 これに関しては市販されている書物に証明となるものはない。
例えば、事実証拠を挙げるとすると、満州境内に対ソ連用の防御
施設は皆無に限る。 (例えば対戦車地雷もなかった。)
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帝政ロシアは極東で南進策を採り、まず南満州に進出し次ぎに朝鮮進出を図りました。

   危機を感じた日本と衝突し日露戦争が起こりました。
帝政ロシアの国内混乱もあり、日本は辛勝し阻止に成功、逆に南満州の利権を得、1910年には朝鮮併合をしてしまいました。
その後ロシアはソ連に変わり、また南進策をとると心配した軍部は朝鮮を維持する為、隣の満州を占領して防御線にしたいと考えました。  (のちのシベリア出兵で撤収を渋り、撤収の最後になった事で見てもわかります。)
併合まで独立国であった朝鮮とは違い、中国国土の一部の東北地区を中国政府の許可なしには占領出来ません。
そこで満州族の多い満州を独立させ、満州族の血を引く廃帝溥儀を立てれば大義名分が通ると思い、満州国建国を策し実行しました。
表面は五族(満州族、漢民族、朝鮮族、蒙古族、日本民族)協和を歌いましたが、実質は日本支配の傀儡国家でした。
人口密度が低く漢民族がすくない土地で、中国側の反発も少ないと思ったのでしょうが、そうはいかず反日運動の高まりから、後の日中戦争につながりました。
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どちらも当たっていると思いますが、もう一つ「理屈付け」として。



そもそも「中華民国」(当時の「中国」の国号)は、清という征服王朝から独立して成立したのです。その領域は、本来の漢民族の居住地域、すなわち万里の長城以南。よって、満州国成立まで、満州を領土として存在している国家は存在しない。いわば無主地であったわけです。よって、どの国のものでもない満州を日本が手に入れても差し支えない。

と書きましたが、当時の関東軍がそこまでの理論を持っていたかどうかは分りません。ただ、「アメリカ合衆国」の成立に比べると、満州国なんて、はるかに「かわいい」出来事ですよ。「アメリカ合衆国」は先住民族の人権など認めていませんからね。一方、「満州国」は、まやかしではありますが、一応「五族協和」をいい、形式的とはいえ日本領とはしなかったのですから。
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